時の辻
■■◇●■■◇◇
細心の注意を払わねばならない。
カカシはそのことをよく心得ていた。
暗部に身を置くことにしたのは暗殺が得意だからではないし、人殺しが好きだからではない。暗部の仲間だってそうだ。本当に殺しの好きな人間は暗部には居ない。居てはいけない。
暗部に存在するのは「一人殺せば里が助かるなら」もしくは「一人殺せば百人助かるのなら」で殺人も厭わない、心に染みを持った大人が大半だ。宛われる任務もそう言ったものが多い。
今カカシのチームが行っているのもそうした任務の一つだ。大名同士のよしみで木の葉の忍が派遣された戦争を早めに切り上げようと、大名には秘密裏に動いているのである。
地方豪族同士が徒党を組み、勢力拡大に勤しんでいる今回の戦争はこのまま放置すれば長引くだろうと言うのが里の上層部で一致した見解だ。カカシもそうなるだろうと思う。二手に分かれて争っている現状に決着がつけば終わりという空気ではない。手を組んでいる豪族達も一枚岩ではないことも分かっているからだ。
木の葉ではすでに両勢力にもスパイが居ることを確認している。
拮抗しているこの勢力のバランスを崩すため、味方に内通している敵豪族を揺さぶり、完全にこちらに掌握してしまうのが今回の任務だ。
じっと物陰に潜み、その男がやってくるのを待つ。きっと運良くカカシの方を見たとしても、一般人の目には影が深いようにしか見えないだろう。そのくらいに気配を虚無にして、呼吸さえ抑えて時を待つ。
通りの向こうから数人の男が馬を走らせて来るのが分かる。
そして、その「時」はおあつらえ向きに月が翳った瞬間に訪れた。
カカシは通り過ぎるその一瞬、馬上の一人に例の男の顔を見た。そう判断するや否や物陰から飛び出し、殺気を放てば、一般人には感じられなくても、馬たちは敏感にそれを察知し、激しく嘶いて乗り手達を振り落とした。一瞬にしてその場に戦慄が走る。
「くそっ何事だ!」
カカシの狙いの男も例に漏れず馬から振り落とされたらしく、悪態を吐きながら喚いている。
「お静かに」
「……っ!」
刃物を突きつけてその男を黙らせたのは、いつの間にか姿を現していた暗部の仲間だった。カカシも手筈通りに男の仲間を逃がさないよう、包囲するように間合いを取って刃物を手にした。近くに居た従者らしき男がいつの間にか傍にいたカカシの姿に驚き、声にならない悲鳴を上げた。
闇から紡がれた糸で織られたような暗部の黒装束に、白く浮き上がる獣を模した面が余りにも恐ろしかったのだろう。そのまま彼は昏倒してしまったようだ。
「『盟約』により参った…」
その仲間の言葉に男はびくりと体を震わせたようだった。
「ま、まさか…だが、ここは…」
「………」
男が驚くのもムリのないことだった。
まさか彼はここまで木の葉の使者がやってくるとは思いもしていなかったのだろう。
そこはこの男の属する連合軍の敷いた陣のど真ん中…詰まり木の葉の敵陣だったからだ。
「…我々には造作もない…」
言葉静かに暗部が告げれば、男は言葉を失ったようだった。彼なりに色々思考を張り巡らせていることだろうが、見つかる答えが一つしかないことはカカシ達木の葉の暗部が良く知っている。それでも暗部は答えを求めない。ただ静かに待ち、彼が自分で決断したように圧力をかけるのみだった。
男と一緒に取り囲まれた従者達が戸惑い、救いを求めるように主に視線を送る。しかし余裕のない男にはその視線に気付くことはなかった。
そのままどのくらい固まっていただろうか。
「…――――分かった…」
男の出した結論はやはり木の葉の想定通りで、カカシは内心よしと呟いていた。それに慢心せずれっきとした言質を取ると暗部は漸く男達を解放した。
「…あなたの結論はあなたや周囲の近しい人々を守りました…。私どもがそれを保証いたしましょう」
やはり感情を波立たせない静かな声で暗部はそう告げる。そして、それとはうって変わった張りのある声で「くせ者だ!」と叫んだ。
男共はびくりと激しく反応したが、カカシ達はそれを合図に再び闇の中へと姿を眩ました。男達が動揺している間に暗部の声に反応した衛兵達が駆けてくる。狐に摘まれたような顔をして周囲を伺っている男達をカカシは物陰から眺めていた。
もし男が諾意を示さなかったら、男は味方の大名の手で殺されたことにしなければならなかった。手間が省けた。
「山犬よ…」
およそ人の声とは思えない静かに響く声で通り名を呼ばれる。この名を知っているのは暗部の仲間と火影だけだ。
「野鳩か」
カカシにさえ靄にしか感じられないような虚無を纏い仲間が側に立っている。
「男の見張りは私が引き受ける。牙のあるお前は研ぎ、戦に備えよ…」
「梟の指示?」
「そうだ」
言葉少ない野鳩の言葉にカカシは頷いた。梟とはさっき男に刃を突きつけたカカシ達暗部四人一組のリーダーの男だ。カカシは四人一組の中で一番戦闘に向いたタイプだから今後の勝利を確実に早くするためこの場から外されるということだろう。
「今後はお前の裁量に任せる。男と敵の見張りは任せろ」
「分かった。よろしく頼む」
カカシは野鳩にその場を任せて、俄に騒がしくなってきた敵陣を単身後にした。
カカシが向かうのは三里ほど先に構えた自陣の前線だ。木の葉の駐留部隊があり、本格的な戦闘にも備えて暗部も出入りしている。カカシがうろついても目立たないだろう。
忍の足でほんの数分の距離を跳躍すると、すぐにその駐屯地へと辿り着いた。梟たちから救援の報せが来てもすぐに駆けつけることの出来る距離だった。
すぐに近くにいた忍の一人を捕まえた。
「部隊長のテントは何処?」
「…!」
その忍はカカシの黒装束姿と押し殺した声にびくりと身を震わせて目を見開く。カカシが木の葉の暗部だと気付くと緊張を解かないまでも、あっちだと指さして教えてくれた。それに従い奥へと足を進めると、これ見よがしに大きな天幕があり、木の葉の意匠を施した旗が高々と掲げられていた。
暢気なものだ。
溜息を吐きたい気分を抑え込んでカカシは誰に断ることもなく、その天幕に侵入した。
しかし、天幕の中に居る人間もカカシと同様木の葉の上級忍者で、消されもしていないカカシの気配をきちんと察知していたようだ。
中に居た四人は驚きもせずカカシを迎える。
「…見慣れない暗部だな…」
奥にいた一番年かさに見える男がじっとカカシを値踏みする視線を送ってくる。
「……森の番人配下か」
そう聞いたのはその場に居合わせた鳶の面をつけた暗部の男だった。森の番人とは梟のことだ。つまりカカシを山犬だと理解しているらしい。
カカシは小さく頷く。
「番人は今回向こうへ潜っているという話だが…」
「…こちらの助力をしろと言われてきた…」
「…助力…?」
暗部でない忍の一人がカカシの言葉にあからさまな態度で眉を顰める。カカシの若い声に実力を軽視されたのだろう。これまでにしばしば取られてきた態度だからよく分かり、もはや歯牙にもかけることはない。代わって同僚である鳶はカカシの実力を当然知っているだろう。カカシの存在自体さえ訝しく思っている忍を無視して、奥の忍にそっと耳打ちをした。勿論誰にも声は聞こえない。
「…分かった。ならば心強いだろう…」
快く思っていないことを態度で現していた男はそう判断を下した忍に非難の目を向ける。
「隊長! またこんな得体の知れない人間を部隊に組み込むんですか!」
どうやらその男は暗部の存在自体を嫌っているようだ。自分もお綺麗な身では無いだろうにとカカシは内心溜息を吐く。隊長と呼ばれた男はその男の意見を採り入れずに断言した。
「いや、決定だ。この暗部にも今後の作戦に参加してもらおう。何せ君より忍としての経歴も上忍としての経歴も上なのだからな」
「は――――」
男は暫く隊長の言った意味が分からなかったらしい。二三拍して漸く意味を飲み込むと、青い顔をしてカカシを振り返ったようだった。
「当然暗部の規約は把握しているよね?」
「はい」
「じゃあ、駐屯地は一般から少し離れたところに許可しよう。従軍期間は短くなることを願うが、そう上手くいくことばかりではないからね、天幕をそこに張ると良い。資材はすぐに用意させよう。それから今後はこの鳶に従ってくれ」
隊長は暗部の男を指し示した。お互いに小さく頭を下げ合うだけで挨拶としては十分だ。細々とした説明は後からという指示を受けると、彼らはこれからのことを話し合うらしく、最早用事のないカカシはその隊長の天幕を後にした。
「山犬」
天幕を出たカカシに話しかける声があり、振り返ると、そこには猫のような面の暗部が居た。
「鳶配下の山猫だ。よろしく」
面で些かくぐもってはいるもののその声は明らかに女声だ。珍しい。何人かこれまで女性の暗部に会ったこともあるが、それは全て火影の執務室や里の中だけで、戦場で出会ったのは初めてだった。
彼女は右手の手っ甲をカカシに晒す。
「…よろしく…」
挨拶がわりに右腕の白い手っ甲を見せ、それを互いの手っ甲に軽くぶつけ合った。かつっと軽い音がして、それが暗部の握手の代わりだ。
「お前専用の天幕の用意が出来ている。案内するように鳶に言われている」
付いてこいとカカシを促す山猫に従い、カカシは天幕を後にした。案内された場所は隊長の天幕から五分以上歩いた沢の上で、小石の堆積した平地に幾つか天幕が張られている。
「ここが鳶配下八名が駐留しているキャンプだ」
「…二小隊しか配置されなかったのか…」
「仕方あるまい。里としては利益が余り出ないし付き合いという所が大きいのだから。早く仕舞いに出来るように梟配下には期待している」
「うん」
同じ暗部とは言え、自分の配下の話はあまりしない。だから既に梟が豪族の一人を手中に収めていることをカカシは山猫には告げなかった。梟から渡った情報は告げるべき時に鳶より山猫たちへともたらされるだろう。山猫たちもそれをきちんと弁えているから、工作が今どうなっているのかとカカシに聞いたりはしない。
「ここだ…」
山猫が指し示したのは一定の距離を置き立ち並ぶ小さな天幕群の一番端だ。基本的に暗部は仲間にさえ素顔を見せないため、一人一つずつ天幕を与えられるが、隊長格にしろただの構成員にしろ一人で持ち運びが出来るような小さな天幕を一人で使う。カカシに宛われたものも里より支給された天幕だ。勿論異論はない。
「ありがと」
ちらりと覗き込むと中もランプや寝袋など里支給のものが色々詰め込まれているようだ。
「暗部と分からない恰好をすれば下に下りても良いことになっている。食事は下でも食べられるし保存食を食ってもいい。好きにすると良い」
それから山猫は細々とこの駐屯地での決まりを教えてくれた。
今のところ一般人に合わせているため昼間に活動することが多く、夜中に休んでいるサイクルであること。夜でも二人一組で駐屯地の警戒に当たっていること。これからカカシもその警戒に組み込まれること。主立った仕事やこれからの予定などを聞いた。
「…火蓋が落とされるのはじゃあ、梟からの連絡が入ってからだね」
「決定は三代目や大名どもだが、まあそう言うことになるだろう。今日はお前の出番もない」
休んでいろと山猫は言い捨て、自分の持ち場へと立ち去ってしまった。
説明の途中、女でも大丈夫なのかなとカカシはぼんやりと思っていた。しかし淡々と説明する山猫の声は感情が削ぎ落とされていて、女だと分かっているのに女であることを意識させなかった。彼女が戦場立つことを許されている理由がその性格にあるのかもしれない。周囲の男共に自分が女であることを認識させないように心がけているのだ。
いい女がいたものだと思いながら、カカシは解放された身を久しぶりの屋根の下へと潜り込ませた。
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