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時の辻

「すぐに返事を寄越せとは言わぬ。考えてみてくれ」
 火影はそうカカシに言い捨てると執務に戻ってしまった。暗部への推薦状はカカシの手には残らなかった。何せ暗部だ。そう言った書類の全ても暗いところで管理され、日の目を見ることはない。
 カカシはぼんやりとしたまま火影屋敷を出て、歩きながら自分が暗部の仕事に携わることについて考えてみた。
 暗部は言うなれば裏方だ。表舞台で華やかに活動しているような忍とは違い、裏にまわり表舞台の忍の活躍する土台作りや、火影の私兵となり里の為にならないことは全て消去していくという血と泥にまみれた仕事だ。その腥さから国外だけではない里の中でさえ恐れられる存在で、選ばれるのは一握の優秀な忍だけとされている。
 カカシのこころが健全だったならば、暗部への推薦状を貰えたことは優秀だと認められた証として嬉しい気持ちもあっただろう。
 しかし、今は――――
 気が付けばカカシは里郊外の慰霊碑まで来ていた。無意識に死んでしまった人々に会いたいと思ったのかもしれない。
 後悔ばかりが湧き出て、力の足りない自分を責め立てる。上忍とは名ばかり、一人前の忍どころか子供扱いをされて大人の庇護下に引き込まれた。それは唯一うちはの統治下から外れた写輪眼を守る為だったのかもしれない。
 何も出来なかったのはそうした大人達の所為ではないと言うことをカカシは自分で理解している。動けなかったのだ、そこが安全だと知っているから。自分一人が動いても戦況が変わることはないと怖じ気づいてしまったから。
「…オレは何処へ行ったらいいんですか…」
 カカシは慰霊碑の許へとしゃがみ込み、その黒い肌を撫でる。御影石の冷たさが屍人を思わせて、胸に詰まるものがあった。
 みんな傍から居なくなってしまった。母の死を皮切りに、それからまるでドミノ崩しでもするかのように次々とカカシの大事なものが斃れて、そのままずぶずぶと土の中へ戻っていってしまう。
 カカシが大事に思った人間は全て堕ちていく定めなのだろうか。
 もしも、そうだったとして、どうすればカカシのこの運命を断ち切れるのだろうか。
 カカシ以外のみんなはどうやって生きているのだろうか。
「……!」
 悲しみに暮れる精神の中でも、誰かが近づいてきたことをカカシは敏感に察知した。背後、里の方向からだ。
 悲しみに抱かれるための場所で誰かに会うのは気まずいに違いないし、何よりも、カカシが今は誰にも会いたくはなかった。カカシは重い体を引きずって何とか木陰に隠れる。そこで人が去るまで時間をつぶしても良い。これからのことを考えるのに、時間はいくらあっても足りないのだ。
 そして、そこに現れたのはあの少年だった。
 黒髪を頭のてっぺんで括った顔を横切る傷を持った少年だ。
 ――――あ。
 胸がずきりと痛んだ。何故だか分からないが、肋骨が勝手に内臓を締め付けるような感覚が襲った。
 確か、一番最初に見たのは春だった。桜が咲いていて、母親と先生が一緒で――――アカデミーの入学式だったのだ。あれから数年経つけれど、あの時も自分はこんな感覚に襲われたはずだった。それを急に思い出した。
 どうしてこのことを忘れていたのだろう。
 少年は俯きがちに、当然カカシの気配になど気付いた様子もなく、粛々と慰霊碑の前に進み出る。手にしていた花を手向けて、それからしゃがんだまま静かに手を合わせた。
 暫くそのままじっと蹲っていた少年だったが、次第にその肩が揺れはじめ、カカシにも泣いている様子が分かってしまった。
 少年は暫く涙を堪えようとしていたのだが、零れてしまった涙が呼び水となって止まらなくなり、蹲るどころか、地べたに突っ伏して泣き始めた。その悲痛な声に、カカシは傍に駆け寄りたくなった。放っておいてはいけない、と自分の中の何かが訴えている。しかし、あの悲しみを邪魔したくはなかったし、出ていって何と声を掛けて良いのかも分からず、その場で状況を見つめ続けることしかできない。
 カカシは絶望の淵に居たはずなのに、その少年の出現でいつの間にかその事実さえ忘れていることに気付かずにいた。ただ、その少年の動向を文字通り草葉の陰から見つめることしかできない。
 少年はいつまで経っても落ち着きを見せず、洟をすすりながら御影石に縋り付く。まるでその冷たい無機物を母だと思い込んでいる子供のようだとカカシは思った。
「…かあちゃん…」
 カカシの思ったことがそのままその少年に伝わってしまったかのような呟きが漏れ、思わずカカシは体を硬直させてしまった。
 すぐに少年の唇からは「父ちゃん」という呻きも漏れる。
 あの朗らかでのんびりとした彼の母は、もうこの世には居ないようだ。まだ少年の悲しみが色褪せていないことから、きっと彼女は九尾の災厄で失われたのだろう。そして、母だけではなく、彼は父も。
 そう思えば、最早居ても立っても居られず、カカシは故意に音をたてて立ち上がった。当然、その少年はぎょっとして顔を上げる。涙と洟だらけでみっともないと形容されるに相応しい表情だったが、カカシが感じたのはそれをしてもあまりあるもっと大きな何かで、不思議と醜いとは思わなかった。
「…あのおばさんが死んじゃったの…」
 少年はぎょっとしてカカシを見る。そして写輪眼を庇うように斜めにかけられたカカシの額宛を見て、ぐいぐいと目を擦って一歩退いた。子供のくせに片目がなく、それでも額宛を得ているカカシの異様に咄嗟に気が付いたのだろう。
「……」
 どうやら少年の方はカカシのことを覚えていないようだった。カカシはつい昨日のことのようにアカデミーの入学式のことを思い出せるのに。少年に何かを期待しているわけでもないだろうに、落胆してしまった。
「…あんたの母さんには昔お世話になったの」
 昨日のことのように思い出せるからつい、ミナトが言った言葉をそのままその少年に告げていた。
「え」
 少年は吃驚したように団栗眼を開いて硬直したかと思うと、そのままぼろぼろと涙を零し始めた。
「かあちゃんのこと知ってるの…?」
「…少しだけ…」
 嘘ではない。ミナトと、四代目の知り合いだったと言うことは知っている。顔も、思い出せる。この少年とよく似ていて、美人ではないけれど穏やかな顔をしていた。
 少年はカカシが母親の知り合いだと名乗っただけで信用しきってしまったらしく、再びさっきと同じ調子で泣き始めてしまった。それどころか、カカシがそっと背中に手を置いて上げると、更に悲壮な声を上げる。
 姿を見せてしまったものの、どんな声を掛けて良いのか分からず、途方に暮れてしまったような体で、カカシはただその少年の背中をさすりつづけた。

 少年が落ち着いたのはたっぷり一時間も後のことだった。少年はばつが悪そうで、カカシの顔を見ようともせずに口を開いた。
「…あんたも、誰かを参りに来たの…?」
 泣きわめいたために張りはなかったが、その声には生彩が残されていて、ぶっきらぼうな口振りが少年の照れをありありとカカシに伝えていた。
 恐らくカカシと同じか少し下くらいの歳だろう。カカシだったら死んでも同年代の少年に泣いているところを見られたくない。同じ忍の道を行くこの少年もそう思っていてもおかしくはない。
「…うん」
 泣く声が聞こえたから、と強がっても良かった。しかし、何となくカカシはそうしなかった。みっともないところを共有すればこの少年にもっと近づけるかもしれないと言う浅ましい計算も働いた。
 少年はカカシの顔を漸くちらりと見て、それから「そうか」と俯いた。俯いた先の慰霊碑にカカシの失ったものを捜そうとしているのかもしれない。父は、そこには名を刻まれなかった。
「…みんな、ここに納まってしまった…」
「………」
 少年は再びカカシを見上げる。今度はカカシの言葉の真意を図るような視線だった。カカシが泣きはらした少年の目を見ても、その視線は逸らされはしない。
 ――――何処かで、見たことがあるような気がした。
 あの春のアカデミーではなく、もっと遠い――――それこそ生まれ変わる前から知っているような…。
 そして、不意にカカシの口を衝いて出た言葉があった。
「――――また、覆すことが出来なかった…」
「え」
 不意にカカシの口から漏れた言葉に、少年は首を傾げる。カカシも自分で言っておきながら、意味が分からない。
 またとはどういうことだろうか。覆すとはどういう意味だ。
「くつがえす…?」
 少年もよく分からずにカカシの言葉を反芻している。
 意味はカカシにも分からない。けれど確かに今自分はそう思った。
 覆す――――それは、こうなる事実を知っていなければ使えない言葉の筈だ。ただ事態を打開するならば「守れなかった」でも良いような気がする。『また』という言葉はむざむざと死なせてしまった父やオビトのことを指しているのだろうか。
 自分で言ったことなのに、意味がよく分からない。何故自分の口からそんな言葉が出たのだろうか。
「…いや、言い間違っちゃった」
 カカシは勤めておどけたようにそう言って「守れなかった」と言い直した。少年は拙いカカシのその言い訳に騙されたらしく「思ってもいないことを口にしちゃうことってあるよね」と呟いた。その表情があまりに暗く自嘲的だったから、もしかして両親との思い出で何か苦いことでも思い出したのかもしれない。カカシはそれを深く追及しないことにした。
「…でも、みんなじゃないだろ…?」
 その暗い表情を振り払うように少年は明るい声をひねり出してカカシを振り仰いだ。
「え?」
「さっき、あんたが言ったじゃないか。みんなここに入っちゃったって。でも、みんなじゃないだろう?」
「………?」
 この少年はカカシの大切なものの全てを知っているのだろうか。その上でまだ残りがあると言っているのだろうかとカカシは首を傾げる。
 すると少年は得意げににっと口角を上げて高らかに言い放った。
「まだ里は生きてるんだからさ。まだまだこれから大切になるものが里の中に残っているんじゃない?」
 だからみんなとは言えないだろ、と赤い目のまま少年は笑った。
「――――」
 胸を衝かれるとは、まさにこのことだ。
 カカシは言葉を接ぐことを忘れ、自分だって絶望の淵に立たされていた少年を見つめる。それこそ、写輪眼が晒されていたなら経絡系が見えそうなほどに。
 自分にはない考え方に附いていけず戸惑っただけかもしれない。しかし、それでもその立ち直ろうとしている前向きな思考に、眼前に立ちこめていた靄が晴れるようだった。
「…そんなこと考えたこともなかった…」
 放り出されたクリアな世界にカカシは取り敢えずぼんやりとして、凄いねと呟いた。
「えーと…名前、何だっけ…?」
「え? オレは…イルカ」
「…イルカ…」
 そしてもう一度その名前を舌に乗せてみる。
「イルカは凄いね」
「…そう?」
「うん…」
 だってそうだ。カカシはイルカが余りにも悲痛な声で泣いていたから哀れになって姿を現したのだ。あそこにはカカシよりももっと可哀想な人間が居る、慰めてあげようと言う上からの目線での気持ちがあった。それなのに、気分を引き揚げられたのはカカシの方だった。
「…イルカは…将来…そうだな、先生みたいな人を導く仕事に就くといいと思うよ」
 ――――イルカ…先生
 咄嗟にカカシの脳裏にはそのフレーズが思い浮かんだ。本当は「先生みたいな」とはカカシの先生…つまりミナトのような…という意味合いで使ったつもりだったが、何故かまだ二度しか会ったことのない少年にその職業がぴったりだと思ったのだ。
「えー? おれが先生〜?」
 イルカはどんなものを想像しているのか、教師という職業に渋い顔をして見せた。
「オレは父ちゃんや母ちゃんみたいな前線で働く忍になりたいんだよな〜。だからちょっと…先生は」
 と言いつつ、先生か…ともう一度呟いたイルカは満更でもない様子だ。
「うん…。道に迷っているとき、導いて上げるような存在になるといいよ」
「…それってなろうと思ってなれるものかなあ…?」
 イルカは至極当然の疑問を口にした。カカシの言っていることが職業の話ではなく、最早人のあり方になっていたのだが、何故かカカシには確信が持てた。
「なれるよ。イルカならきっと」
 そう? と、イルカはやはり納得していない様子で後頭部を掻いた。
「…そろそろオレは行くことにするよ。用を思い出した」
 カカシは一つの決心を胸に秘めて、一歩慰霊碑から離れる。決めてしまったなら急いだ方がいい。ミナトとオビトの名前を目に焼き付けると、カカシは踵を返した。
「あ、待てよ。お前…名前は?」
 イルカが去っていこうとするカカシの背中にそう声を掛ける。
 一度だけカカシは立ち止まり後ろを振り返った。
 そして口を開き、少し躊躇うと、自然と笑みが浮かんだ。
「人に名前を教えられない決まりなの」
 それでもイルカはきょとんとしていて、首を傾げる。カカシは腹を括って高らかに宣言した。

「オレは――――暗部の人間だから」

「え――――」
 イルカの動揺したような声が聞こえたような気がした。しかしもうカカシは振り返らず、吹っ切るように瞬身の術を使って、その場から立ち去った。



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