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時の辻

     ■□●■





 寝覚めは好い方ではない。いつだってまだ寝足りないと体が主張し、いつまでも深い眠りを得られない脳がそれを叱咤して、毎朝何とか起きているようなものだ。
 それが今朝は違った。
 ここ最近見ていた天井と違う気がしたのだ。しかし、よくよく見てみても染みの形は変わらず、板にぽっかり空いたうろの位置にも変わりがない。それでも酷く懐かしいような気持ちを抱きながらカカシは身を起こした。
 忍の先輩が『ある日を境にして生まれ変わったような気分になることがある』と語っていたことを急に思いだし、今日がそうなのかな、とカカシは小さく首を傾げた。
 いつだって早く大人になりたいと思っていたカカシだが、今日はいつにも増して自分の体が小さく感じる。そのくせ、体には妙な充足感があり、起き抜けだというのに体が飛んでいきそうな程軽い。
 遮光カーテンを開けると春の陽気が差込み、思わずカカシは顔を背けた。
 窓から望める庭には光りを反射するように花が咲き、その光りを穏やかに透かすように若葉が手を広げている。
 ――――そうだ、春だった…。
 清廉な光りにいつもならば考えもしないことを思い、それから何か気恥ずかしくなってカカシは窓から離れた。
 季節などカカシにとってただの事実でしかなく、心を動かすようなものではなかったはず。季節ごとの虫や野生動物に気をつける目安程度でしかなかった筈なのだ。
 やはり、自分は今日生まれ変わったのだろうか。
 そんな愚にもつかないことを思いながらカカシは出掛ける支度をするために階下へと下った。
 台所には女性が立っていた。すぐに下りてきたカカシに気が付き、にっこりと微笑んだ。
「おはよう、カカシさん」
 彼女がそこに居ることを想定していなくて、思わずカカシは階段の一番下のステップに右足をかけたまま硬直してしまった。
「…母さん…」
「なあに、変な顔をして。食事の準備は整っていますよ」
 居ないわけがない。彼女はこれまで一度も社会に出たことのないようなお嬢様なのだ。家に居て、カカシとサクモを待つことが仕事だと言い張っているような女性で、居なくなる筈など無いのに。
 母の居る風景にカカシは思わず胸を抑えて、小さく頷いた。とてもそこが苦しい。もしかして生まれ変わったと言うより、カカシは一日の内で何か変な胸と脳の病気にでも罹ってしまったのかもしれない。
 カカシは素直に食卓へと就き、手を合わせて食事を始めた。母も定位置に座り、一緒に箸を取る。父の分も用意されていたが、ご飯の盛りが少食の母より少ない。陰膳だ。
「…父さんは?」
「…まだ戻られていませんよ。きっとお仕事が長引いているのね」
 そうだった。確か隣国との境界のいざこざで昨夜呼ばれて出ていったことを思い出した。カカシも附いていくと言ったのだが、この母が強く引き留めたのだった。
 そのことを思いだし、急にカカシは食欲を失ってしまった。
 今回の指令は三代目からカカシの随行許可が下りていたし、カカシもサクモと共に行動できる数少ない良い機会だったのだ。しかしそれは息子の身を案じる母の強い抵抗に合い、経験を積ませるためにも一緒にどうかという火影の提案は白紙になった。
 当然カカシはサクモと共に行きたかった。里でも随一と称される父の業を間近で見られるまたとない機会だったのだ。母の反対を押し切ってもカカシは行くつもりで居たのだが、半狂乱のようになった母を見てサクモがカカシを置いていく判断を下したのだった。
 その絶望を思いだし、カカシは砂を噛むような気持ちになり食事途中で箸を置いた。カカシにとって母親は当然大事な存在だが、時折疎ましくもある。
 彼女はカカシが忍であること自体を快く思っていない…というより、反対している。既にカカシが中忍となってから六年目に入ろうかとしているのに。
「…いい加減子離れしてくれませんか…」
「…母親はいつだって子供が一番な生き物よ」
 母は愚かではない。自分が時折制御できなくなると言うことも自覚している。そこが厄介だった。カカシやサクモの妥協により発作のような半狂乱が治まると、大概の場合彼女は己の所行を詫び、許しを請うのだ。それでも「もうしない」「二度とやらない」とは言わない強情さも見せた。
「…オレは忍として木の葉で生きていくつもりなんです。大変だけどこれが天職だと思っている」
「カカシさん。私は、あなたに危険なことをしてもらいたくないの! 出来るだけ安全なところにいて、しっかり勉強し、人のためになる仕事について欲しいの。こんな若い内から忍みたいな危険な仕事をして欲しくない…。そう願うのは母親として当然のことでしょう?」
「…当然なのかもしれませんが、今の世の中には忍も必要なんですよ。その仕事は他の人達に任せてオレだけ安穏と過ごせと言うんですか? オレには親のエゴにしか聞こえません」
 カカシはそう言い捨てると、母が次の句を継ぐ前に席を立ちカカシは二階の自室へと駆け上がった。背中に「カカシさん!」と母の呼ぶ声が聞こえたが振り返ったり立ち止まったりする愚行は犯さない。カカシも母に捕まるような愚鈍ではなかった。
 そのままカカシは自室で着替えを済ませると、母と顔を合わせるのが嫌で階下へと下りることなく、ベランダから外へと飛び出した。
 起き抜けは体が軽いと感じたのに、母と再び不毛な会話をしてしまったために気分が重く、その所為か歩みはいつもより遅く感じた。
 カカシが向かう先は火影屋敷に併設されている受付所だ。そこの待合室が今日の待ち合わせ場所になっている。
 今日の任務はどんなものだろうかと思いながらカカシはアカデミーの正門の前を通り過ぎようとした。
 子供達が異様に多い。カカシと同じくらいかもう少し下の子供達がそれぞれによそ行きの服を着せられて、母親に手を引かれてながら正門をくぐっている。
 桜咲く中、今日がアカデミーの入学式だったのだ。
 表情の硬い子供達の手を引く母親は一様に、眩しげな目で子供達を見、そして子供達は希望に満ちた目でアカデミーの学舎を見つめている。
 カカシは幼い頃から異才を発揮していた。下忍の証を与えられたのは五つの時。その翌年には中忍に昇格した。これまで例のないスピード出世だと火影から言われている。だから正規のルートであるアカデミーなどにも素通り同然だったし、当然同級生などという深い繋がりを持つ者も存在しない。
 もしかしたら、母は、こんな風に平凡に母親としての仕事をしたかったのかもしれない、とカカシはふと思った。
 しかし、既にカカシは里から給料を戴き働いている身分だ。そんな願いを叶えてやることなど出来ない。戻ることなど出来はしない。
 もしそうしたいのなら今すぐにでも母はもう一人子供を作るべきだ。もう一人子供がいれば、その子が例えカカシのような異才であっても少なくとも立ち上がり喋り出すまでは母親を満喫することが出来るのだから。
 カカシはその光景から目を反らし、黙々と前を向いて足を早めた。
 見ていたくない。自分が母に与えられないもの、それでも母が望んでいる普通というものを。
 カカシはうららかな風景も何もかもを否定するような一心不乱さで歩みを進め、やがて受付へと辿り着いた。
 足取りが重いと思っていたのに、約束の十分前にはそこに着くことが出来た。
 余り調子の取れない日だなと思いながらカカシは備え付けのソファに座り、待ち合わせている人間が現れるまで本を読むことにした。手にしたのは待合室に置いてある本の一つで、カカシは最近それにはまっている。もう角も丸まっていたし、小口には手垢がたっぷりと付いたような小汚い本だが、内容は面白い。ほんの十分二十分のことだが、いつも待合室に来るたびにカカシはその本を手に取り、ちょこちょこと読み進めているのだ。
 これまでの話を要約すると、これはここではないどこかの世界を想定した話で、とある公共施設に立てこもったテロリスト集団に職員の一人が対抗するという話だ。今は何故その職員が命を張ってまでその公共施設を守ろうとしているのか、その背景を説明している所だ。最も感情移入を促しやすいシーンである。
「まーたそんな子供らしくない本を読んで」
 そうカカシに声を掛けてきた人物があった。文も途中で顔を上げると、そこには待ち合わせ相手であるミナトが立っていた。時計をちらりと見ると約束の時間より一分ほど早い。
「今日は合格ですね」
 カカシは挨拶もそこそこに立ち上がり、その本を定位置に仕舞いながら言った。
「んもう、カカシは厳しい子だねえ。遅刻をしたって、一分二分構わないじゃない〜」
「オレは構いませんけど、普段からそんな気持ちで生活をしていたら癖になります。いざっていうときに体が反応できませんよ」
「は〜い」
 遅刻してないのに怒られた〜とぼやきながらミナトはカカシを伴って受付へと向かった。
 カカシには今、チームメイトは上忍師であるミナトしか居ない。同じ年齢の切磋琢磨し合う人間さえ居ないのだ。勿論カカシと同レベルもそれ以上の忍も年が離れているのならば存在する。しかし、「年の差がある」というだけで団体行動では対等には扱って貰えない。見下されるか萎縮されるかのどちらかで、『仲間』という関係を築くのは難しい。カカシが下手に出れば済むのかもしれなかったが、実力主義を触れ回る世界でカカシの矜持がそれを許さなかった。
「やっぱり、二人で出来る仕事は少ないねえ…。これなんかどう?」
 ミナトがカカシに差し出した指令書はとある人物の護衛。往復で二日かかってしまう。カカシは首を横に振った。
「残念ながら、今日中に帰れません…」
「ああ、そうか」
 再びミナトは任務指令書を選び始める。今のところ本日中に帰ってこられる任務なら何も言わないという誓約を母に取り付けているのである。一度何も言わずに三日がかりの任務を終えて里に帰ってきたとき、母は一睡もせず、半狂乱でカカシのことを待っており、その後暫く家から出してもらえなかった。それでもどうにか家を出られたのは不眠不休でカカシを見張った母が倒れたからだ。
 もう、あんな壮絶な目には会いたくない。
 ミナトもカカシを里外へと連れだした張本人として母には敵視されている。
「じゃあ、これかな」
 と、ミナトが取りだしたのはアカデミーの敷地内に植えてある木々の剪定だった。
「…え〜…」
 アカデミーという文字を見て、思わずそう呟いてしまっていた。あの健全な景色を見せつけられるのだと思うとカカシの小さな良心でもちくちくと痛い。
「文句言わないの。二人でやれる仕事はそうそうないんだから。別に任務じゃなく、座学でもおれは良いけど?」
 その師匠の言葉にカカシは慌ててかぶりを振った。カカシはまだ幼くまともに学校にも通っていないことから任務に向かない日や、任務のない日は一般教養をミナトに叩き込まれているのだ。勉強は嫌いじゃないが、勉強に費やした時間の分だけ体が鈍るような気がして、カカシは出来るだけ任務の方を選んでいる。
「じゃあ、決定〜」
 二人は任務の正式指令を得ると、クナイを一本だけ携えてアカデミーへと向かった。
 アカデミーではまだ入学式の始まる前のようで、まだアカデミーの正門には母親連れの子供達が登校をしている最中だった。来掛けにカカシが見た一団は早目に来た新入生達だったのだろう。今登校している彼らも別段急いだ様子はない。
「あ〜、そんな季節か。もう四月に入ったんだもんねえ…」
 カカシの歩調に合わせてのんびりと隣を歩いていたミナトが子供達を眩しそうに眺めてぽつりと呟いた。
「…先生も学校へ行ったことあるんですか?」
「ん? 勿論あるよ〜。…すぐに卒業させられちゃったけど…」
 その口振りはまるで卒業したくなかったようだとカカシは思った。忍者アカデミーを卒業する――――それはつまり、忍として社会に出るという意味だ。先生は忍にはなりたくなかったんだろうか。
 カカシも認める大忍がまさかそんなことはないだろう、と自分の考えを否定するように首を左右に小さく振る。しかし、ミナトの視線はまだ眩しく眇められ、満開の桜の向こうにあるアカデミーを捉えているようだった。
「ほうら、早く!」
 背後からそんな甲高い声が聞こえて、思わずカカシは後ろを振り返った。
 そこには一対の親子がアカデミーに向かって走ってきている。声を発したのは子供のようで、胸元のリボンを気にしながら後から附いてくる母親を賢明に急かしている。母親は「大丈夫よう、まだあと五分あるって〜」と言いながらあまり急ぐ様子はない。
 あの程度の緩い母親だったなら自分ももう少し楽だったかもしれない…と思いながら、カカシは見るともなしにその親子の行動を見守っていた。
 ふっと母親を急かしていた子供がこちらを見る。二人を観察していたカカシと、視線がかち合ってしまった。
 その子供は、顔に派手な瑕を持っていた。鼻梁を横切る、目立つ瑕。
 ――――アレ…
 思わずカカシは硬直し、硬直してしまったカカシにその子供も身を固くした。
「あら、ミナト上忍!」
 母親はのんびりと前を歩いているミナトに漸く気が付き偶然の邂逅に、ミナトも喜びの声を上げている。
 カカシはそんな会話の一切が耳に入ってこなかった。
 その、鼻梁に傷のある子供を何処かで見たことがあるような気がした。何処で見たのか思い出せない。そもそもこれからアカデミーに入学するような子供に知り合いなど居ない。
 これまで同僚になったことのある誰かの子供だっただろうか。カカシは自分の記憶をたぐり寄せてみるが、該当するような子供は思い付かない。
 ――――何か、重要なことがあったはず…。
 思考に埋没したカカシが思わず額を抑えると、その子供はびくりと体を震わす。どうしたのだろうと思って顔を上げてみると子供はじっとカカシの額宛を見ていた。
 額宛が怖いのだろうか、と首を傾げると、子供はきっとカカシを睨み付けて、ミナトと話し込もうとしている母親の手を引いた。
「母さん、行こう!」
 別れのあいさつもそこそこになってしまった母親は何度も振り返りながらミナトに頭を下げている。そんな女性の様子をミナトは苦笑しながら見送っていた。
「…知り合いですか?」
「ん? ああ、そうだよ。昔お世話になったひとの奥さん」
 ミナトが誰かのお世話になることなんて考えつかなくて、カカシはミナトがよちよち歩きの頃からの知り合いなのだろうか、と勝手に解釈した。
「あの子は…息子さん…?」
「うん。やっぱり今日入学するんだって」
 いいなあ〜とミナトは呟いていたが、カカシには彼がいいなあと思うものが何なのかよく分からない。ミナトこそ、カカシが欲する全てを持っているというのに。
「…オレには分かりません…」
「きっと大きくなれば分かるよ。カカシにも」
 ミナトはそう言うとへらりと緩い笑みを浮かべて、再びのろのろとアカデミーへと歩き出した。
 その日の仕事は、やはり退屈だった。花見をしながらの剪定はミナトにやる気を起こさせなかったし、やはり「普通の家族」を見せつけられるカカシもいい気分ではなく、内心ふてくされていたからだ。
 昼ご飯の時間になるころ新入生とその父兄は帰っていったが、カカシが鼻に傷のある子供を見かけることはなく、家に帰る頃には胸を騒がせたことなどすっかり忘れ去ってしまっていた。ただ、母の居る家に帰らなければいけない気鬱と、仕事に満足できない欲求不満に身を任せてしまっていた。



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