時の辻
式で急に呼び出されたのが七日前の晩で、里に帰るのはその日から一週間ぶりと言うことになる。カカシは逸る気持ちを抑えつつ慎重に足場として使う枝を選びながら夜の森を駆けた。今回はちょっとばかり走らせ過ぎたために、体力が残り少ない。少しでも気を緩めれば木の枝から足を滑らせてしまいそうだ。
既に任務の報告書は任地でしたためて、一足早く忍犬達の足を使って里へと送っているから、カカシは里へと到着し次第、任務完了となる。七日間の出張任務の場合は翌日二日間は無条件で休みを貰えるため、里へと帰着した途端、カカシは自由行動の許可を得ているものと同じだ。
行く場所は当然決まっている。
一週間ぶりのあの人の所だ。
カカシは大門で帰着の手続き――これから里に滞在すること、怪我病気の有無についての自己申告――をすると、迷うことなく歩みを進めた。
大門からはかなり遠いところが任務帰りには不便だけれど、里で生活している分にはアカデミーも火影屋敷もスーパーも近い便利なアパート。
カカシの目指す部屋にはまだ明かりが点いていた。
日付も変わろうかとする時間なのに起きていてくれたらしい。どうやら報告書を持たせた忍犬とほぼ同時に放った忍犬がきちんと連絡を入れてくれていたようだ。
待ってくれていた。
事実はそうではなかったかもしれないけれど、そう思えるような状況になっているだけでも胸の底は温まる。仕事中ならば考えられないほど無様な跫音を立てて、カカシは錆びかかった金属の階段を上がり、その部屋のドアノブを回した。
「ただいま戻りました〜」
鍵はかかってなかったからそのまま扉を引いて敷居をまたげば、緩やかな空気が顔に当たる。生活をしていた湿気と香りを含んだ空気だ。
「あ、カカシ先生! お帰りなさい」
上機嫌を露わにして出迎えてくれたのはイルカだった。駆け寄ってきたイルカをそのまま捕まえて、ぎゅうっと抱きしめる。
久しぶりのイルカの存在に、くらりと頭の芯がぶれる。もしかして喜びや酩酊の他に、チャクラ切れも相まってそうなっていたのかもしれないが、自覚しない振りをした。
「か、かしせんせ…苦し…」
腕の中でイルカが藻掻き、名残惜しい気もしたが、カカシはイルカのことを解放した。
「晩ご飯は食べましたか?」
「イルカ先生は?」
「オレは食べましたよ。でも食べるならカカシ先生の分もちゃんと作ってありますよ」
イルカが用意してくれていた夕食の献立は鯵の塩焼きに夏野菜の温サラダ、ワカメと豆腐のみそ汁と雑穀ご飯。自分一人の時はカップ麺で済ませちゃうような人がカカシの為に作ってくれたことが純粋に嬉しい。
カカシは有り難くちょうだいすることにして、鯵を焼いてもらっている間にシャワーを浴びた。
体を湯で清め温めると眩暈が更に強くなったが、それを精神力で抑え付ける。本当はもうご飯も食べずにゆっくり横になった方がいいのだろうけれど、イルカに心配をかけたくないし、何よりカカシが離れた一週間分のイルカを取り戻したいと思っていたからイルカに疲弊を知られるわけにはいかない。カカシは気を引き締めるために顔を冷水で漱ぎ、風呂を後にした。
それを見計らってくれていたのか、風呂から上がるとほぼ同時に食事の準備が整ったようだ。
「どうぞ、カカシ先生」
その甲斐甲斐しさに毎度のことながら感動を覚える。もしイルカが女だったならあっという間に嫁に行っていて、カカシのような男に付け入る隙は無かったのに違いない。
「ありがとうございます、戴きます」
缶ビールを二人で一本開けながらの食事になった。
旬の鯵は脂が乗っていて美味しかったし、みそ汁もきっちり出汁をとってあり塩味は薄いが物足りないと感じることがなかった。
「一週間何をしていましたか? 忙しかったですか?」
任地での保存食に慣れてしまった体にこの上ないご馳走を詰め込み、至福を味わいながらカカシは何となくイルカに訊ねた。イルカに任務のことを訊ねられても機密上応えられないことが多いため、カカシがイルカの日常を聞くことにしている。
「あ、そう言えば…」
ふと、イルカはカカシの言葉に何かを思いだしたらしく、一旦席を離れると寝室をごそごそと荒らし始めた。
「?」
食事中のカカシは席を立つことが出来ない。そうすればイルカから怒られることは火を見るよりも明らかで、大人しく食事を続けながらイルカが戻ってくるのを待った。幸い食事は美味しいし、待つことも苦ではない。
そうして戻ってきたイルカは、余程嬉しいことがあったのだろう、にこにこと口角を上げたまま、カカシに紙片を差し出した。
「ナルトから手紙が届いたんです…!」
「へえ」
カカシは差し出されたその紙を受け取る。それは絵はがきで宛名面には確かに汚い字でここの住所とイルカの名前、ナルトの署名が入っていた。その裏には谷間を流れる川の風景が描かれていて、「元気にしてる」とだけ書かれてある。
「アイツらしいですね〜」
素っ気ない文面に思わず笑みがこぼれる。勉強らしい勉強がからきし駄目なあの子供は、報告書を書かせても上手くない。まるで要領を得ない内容に、報告書の書き方を教えられているナルト以上に教えているサクラの方が怒髪天を衝きそうになっていた。
「それ、多分ナルトの絵ですよ」
「え――――」
思わず改めてカカシは描かれている風景に目を落とす。確かに印刷などではなく、絵の具を使って描かれている肉筆のはがきだ。下書きの巧さは勿論、色の滲ませ方や構図の取り方までしっかりしている。
カカシは芸術に関してはドが付く素人だが、その絵には和やかな空気のようなものを感じる。
これをあの問題児が書いたのだと思うと、「ほわあ」と妙な感嘆の溜息が漏れるばかりだ。
「アイツ、絵は上手だったんですよね。誰に教えてもらったのか知らないですけど。アカデミーにいる頃には美術だけはみんなに一目置かれていましたから」
「誰にでも、特技って必ず一つはあるんですねえ…」
「…何げに失礼なことを言いますね、カカシ先生。色んな賞を取ってますよ、アイツ。夏休みの緑化運動とか交通安全とか佳作とか入選ばかり。アイツの部屋に行けば多分賞状が転がっていると思いますよ」
「アイツがそんな特技を持っているなんて知りませんでしたよ。オレは忍としてしかアイツのことを見てなかったんだなあ」
余りにも体育会系の乗りの子供だから(それこそあの暑苦しいガイとリーを眩しそうに見ているくらいだ)運動能力の面しか認めていなくて、文化人らしいところは勉強が出来ない時点で高をくくっていたように思う。
「ちょっと見直しましたよ」
「ナルトが帰ってきたらそう言って上げて下さい」
それから話はこのナルトが描いた風景が何処のものか…つまりナルトが今だいたいどこら辺を旅しているのかの話になった。
イルカは相当ナルトからの私信が嬉しかったらしくその絵はがき一枚で色々な話を膨らませている。半ば冗談と分かっている話にカカシも乗じ、夕食兼ささやかな晩酌は楽しく賑やかしく終了した。
歯を磨いてから洗い物をしようと台所に立とうとすると、イルカが率先して代わってくれた。任務帰りのカカシを労ってくれていることがひしひしと伝わってくる。可愛いなあと思って手を泡だらけにしたイルカに抱きつくと「ぎゃーっ」と色気の無い叫び声を上げられてしまった。
「あっちに行っててくださいよ!」
そう叱られてしまった。台所から『あっち』と言われると1DKのイルカの家では寝室以外あり得ず、カカシは思わずにやけてしまった。
「ふふ。じゃあ、ベッドで大人しく待っています」
「――――!」
がしゃんとイルカの手から洗い物が落ちた音が聞こえた。音の様子からすると割れたようではないからカカシは鼻歌をこれ見よがしに謳いながら寝室へと足を向ける。一度だけイルカが抗うように「カカシさん…!」と名を呼んだが無視を決め込むと、再びかちゃかちゃと茶碗を扱う音が聞こえてくる。
カカシはベッドに横たわってその音を聞いていた。
早く終わらないかな。
そう思いながらもその心地よい空気と物音に気持ちが緩んでいく。任務に張りつめた精神が漸く緩むことを自分に許したようだった。ここがカカシのテリトリーだと本能が理解しているのだ。
もう少し起きていなきゃ…そう思うのに、目蓋が重く体の欲する眠気に抗えない。
気が付くと、イルカがカカシの横たわっているベッドに身を滑り込ませようとしていた。はっとしてイルカの腰に腕を回すと、イルカがびくっとしてカカシのことを見下ろした。
「…起こしちゃいましたか…」
「ん…オレ、寝ちゃってたんですね…」
「少しだけですよ…」
カカシの眠気を刺激しないようにか、イルカの語りかける声はいつもより密やかで柔らかい。その声にさえ眠気を誘われるようだ。でも眠りたくない、という気持ちも当然生まれてくる。だって一週間ぶりなのだ。カカシはその気持ちを伝えるようにぎゅうっとイルカの腰に強くしがみついた。
「…カカシ先生…」
その気持ちが伝わったのか、イルカの手がカカシの髪を優しく梳く。
「オレ、明日休みを取っていますから、明日、ゆっくりしましょう…」
そうか。イルカは明日休みなのか。
イルカはカカシから今日帰着の連絡を受けてからすぐに休みの申請をしたのに違いない。木の葉崩し以来アカデミーが休講になっているいう現状も幸いした。もしイルカが担任をしていれば彼の責任感の強さからおいそれと休むことは出来なかっただろう。報告書並の早さで報せを出した自分も誉めて上げたい、とカカシは思った。
「…うん」
それは万感の思いを込めて。
安心できる場所に戻ってすっかりカカシの体は欲望に堕落してしまっている。眠気に抗うことは困難で、それ以上言葉を発することが出来ない。
イルカにその気持ちが伝わったかどうかは分からない。けれど、カカシが意識を失うまでその優しい手はカカシの髪から離れることはなくて、カカシは幸せだと思った。
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