第6話 悪魔召喚師
朝は誰にも平等にやってくるなんて、当たり前のことなんだけれど。白々と明るい朝の光の中、イルカは身動ぐことも出来ないで深々と溜息をついていた。夢じゃなかったか、やっぱり。夢だと良いな、と心のどこかで思っていた。夢だと良いな。夢だったら。っていうかこんな非常識なことが現実に起こると思うか?いいやそう簡単には起こるまい。じゃあ夢か、そうか。夢だな。夢に違いない。夢だったんだ、良かった。と、こんな風にならないものかとちょっと思っていたんだけれど。
やっぱりそれは甘い期待だったようで、目が覚めるとイルカは何だか知らないけれど悪魔に抱き込まれていた。あったかいのは結構イイんだけど、ちょっとなぁ。がっちりとイルカを抱き枕よろしく抱え込んでいる自称悪魔をちらりと眺める。すやすやとそれはもう安らかに眠っている様子は、どう見ても悪魔には見えないけれど、昨夜の夢のような出来事はこの人物がいる限りは多分現実だったのだ。
空を飛ぶとか、もう色々。勢いに任せてというよりはどうも誘導尋問に引っかかったというか、成りゆき上仕方なくというか、うっかり、というか。そう、うっかり何だか知らないけれど契約まで交わしちゃったりしなかったっけ?交わしちゃったよなぁ。血判まで押されちゃったような記憶が何となく甦る。
あー、もう。がくりと少し項垂れて、イルカは溜息をつく。一体オレの生活どうなっちゃうんだろう。ていうか2人で寝ると流石にこのベッド狭いなー、とか。何で一緒に寝なきゃならないんだか、とか。つーか、この人起きるまでオレこのまんまか?とか色々。昨夜からあまり変わり映えも無くイルカは一人ぐだぐだと考えていた。
契約、しちゃったんだよなぁ。よりによって悪魔なんかと。魂と引き替えに悪魔を手に入れるという契約。それがどういう意味を持つのか正直なところまだよく分からない。永遠を手に入れませんかと悪魔は言ったけれど、永遠を手に入れるってことがどういう事なのかも本当はよく分からない。
ただあの時、悪魔が落とした囁きにひどく心が揺らいだ自分がいたのも確かで、だからつい契約に頷いてしまったのかも知れなくて。あぁ、もう本当にこれからどうなっちゃうんだろう。この悪魔と一緒に暮らす羽目になるのは多分間違いはないだろうけれど。すやすやと無防備な寝顔を晒す悪魔に、イルカは目覚めてから何度目か分からない溜息を漏らした。ひどく厄介なお荷物を背負ってしまったのは確かだと思いながら。そうして。
「オハヨーゴザイマス」
と、頭上から掠れた声が降ってきた。厄介な荷物はイルカがぐだぐだと考え事をしているうちに目を覚ましたらしい。寝ぼけた顔で至近距離から顔を覗かれてイルカは知らず顔を赤らめてしまった。悪魔だか何だか知らないけれどこの人ホントに綺麗な顔してんなぁ。こんな見目麗しい人に覗き込まれたら何だか気恥ずかしくなってしまう。
夜、月光の元で見たカカシも大層綺麗だと思ったが、明るい日差しの中で見るとそれは余計に際だって見えた。男に向かって綺麗も何もないと思うが綺麗なものは綺麗なのだから仕方ない。こんなに整った顔してたら人生変わっただろうなー、などと思うくらいには。
「イルカ先生?」
ぼんやりと眺めていたのが不審だったのかカカシはわずかに顔を近付けた。
「あ、いや。おはようございます。」
慌てて返事をしてから、イルカは無意識に起きあがろうと試みていた。呑気なことにそこで改めてカカシに抱き込まれていることに気が付いてまたしても慌ててしまう。昨日から、もうちょっとホントにどうにかしている。考えるのはカカシがとかカカシにとかカカシはとか。非常識極まりなく無理矢理イルカの日常に潜り込んできたカカシのことばかりだ。
「イルカ先生、そんなに慌てなくても今日お休みでしょ?もっとゆっくり眠っててもイイですよ。」
もっとゆっくり眠ってても?じゃあその手を離せ。
「いーえ、もう起きますから手を離して貰えませんか?」
このままじゃ、二度寝に突入することもままならない。それならいっそ起きてしまった方がマシだ。いささか棘を含んだ言い方でイルカはカカシの腕をぐいぐいと持ち上げた。
「ハイハイ。スイマセンでした。」
眠たげな目をほんのわずか見開いたあと、カカシは含んだように笑った。手を離す途中くしゃりとイルカの髪を撫でたりなんかして。その仕草がどうにもバカにされてるみたいで乱暴に布団を跳ね上げる。折角の休日だというのに、何だってこんなのに付き合わなくちゃならないんだか。ムカムカと急激に下がりつつある機嫌を逆撫でするように間延びした声が後ろからやって来た。
「イルカ先生、あんまり怒ってると血管切れちゃうよ?」
明らかにからかいを含んだ声。ここで怒っては相手の思うツボだと分かっているのに、イルカは血が上った頭のままカカシに怒鳴りつけていた。
「余計なお世話です!」
そうして、これ以上余計な事を言われる前にさっさと洗面所に姿を消したのだった。
「で、イルカ先生。二、三話しておかなくちゃならない大事な話があるんですが。」
ついでだからと作らされた朝食をきれいに平らげたあと悪魔は唐突にそう言った。
「大事な話…?」
「そう、とても大事な話があるんです。」
コーヒーを飲みながら全然大事でもないような口振りで言う。なんだかどうにも聞きたくないような気がする。この男が大事な話と言った時点でどうにも自分にはあまりよろしくない話のような気がしてイルカは無意識に身構えた。どうにか聞かなくてもすまないものだろうかと思ったのに、ついつい水を向けてしまった。
「何ですか?」
だっていくら嫌な感じがするからといって、大事な話なんて聞きたくありませんとは言えない。とても言えない。相手が悪魔だからといってそんな失礼なことは職業上出来ない。たぶん性格上も。
「ん〜。そうですね。」
しかし、大事な話があると言ったその張本人はなぜか話を渋る様子である。なんだそりゃ。自分で話し始めておきながらどういう了見だ一体。
「イルカ先生。話なんて何処でしても同じだと思いませんか?」
「はぁ、まぁ。そうですね。」
いまいちカカシが何が言いたいのかが掴めなくてイルカは困惑を隠せないまま適当に相槌を打つ。
「イルカ先生、お弁当作ってくださいよ。」
中身を飲み干したコーヒーカップをたんと机の上に置いて、カカシは人好きのする顔でにこりと笑った。
「はぁ?!」
さっぱり分からない。話の脈絡ってものはこの男のどこにも存在していないのだろうか。大事な話がどう湾曲したらお弁当になるっていうんだ。
「まー、いいからいいから。こんなに天気もいいんだしピクニックにでも行きましょうよ。」
何が言いたいんだこの悪魔。イルカは怒りたいんだか怒鳴りたいんだか諭したいんだかよく分からないまま、いろんな感情がすっぱり突き抜けてなんだか脱力していた。どうにも昨日からこの男にはさっぱりついていけない。
「話なんて何処でしても一緒なんだから、気持ちのいい場所でのんびり話しましょうよ。」
くしゃりと笑ったカカシの顔が妙に楽しそうでなんだかイルカも笑ってしまった。どうにもこの悪魔、よくない。悪魔のくせに全然悪魔らしい感じがしないし、自分の思いつかないような突拍子のないことを言い出したりして、つい色んなことがどうでも良くなってしまうのだ。
最初に口論になるはずだった彼が悪魔かどうかという問題も、あっけなく空なんか飛ばれたら信じるしかなくってなんだか全てがどうでも良くなってしまう。困った人だと思うくらいだ。感化されてるという自覚があっても自分じゃどうにも出来なくてそうしてこんな風におにぎりなんか握らされる羽目になるのだ。だけれどもそれがたいしていやでもなくて、久々に聞いたピクニックなんて響きにほんの少し胸がわくわくしているような気さえする。
何だかなぁ。願い事を叶えてくれるというんならば今ここで、お弁当はアンタが作って下さい、なんて言ったら作ってくれるんだろうか。だったら最初から作ってくれてるかもしれない。どうだろう、別にめんどくさいわけでもないけどちょっと試してみてもいいだろうか。なんていうか自分だけ働かされていて、計画だけ立てた悪魔はごろごろしてるなんてちょっと理不尽な気がするだけだ。手伝って下さいくらいならいいかも。どうだろう。ぼんやりと考えながら手際よくおにぎりを握り、即席で作ったおかずを重箱に詰めていたイルカはそれでも遠慮がちにカカシに言った。
「あの、なんか手伝ってくれませんか?」
極めて控えめにそう言ったイルカにカカシは笑いながら答える。
「そりゃ構いませんけど、いったい何を手伝えばいいんです?」
笑うカカシ。のそりとイルカに近づきながらその手元を覗き込んで、さも楽しそうに聞いた。
「えっと。」
イルカの手元には完成してしまったお弁当。中身は寸分の空きもなくきちんと綺麗に収まっている。片付けながら作ったから台所が汚れている様子もなく、あとは蓋をして包めば完成なお弁当。
「…えっと。」
無闇に手際の良い自分をこのときばかりは恨みたくなった。無意識に動くこの手が悪いのか。言い淀むイルカにカカシは気が付いたようにそ、れはもう楽しそうに笑った。
「じゃあこれ、蓋をして、風呂敷で包みますね。」
オレはバカか。重い重い溜息を吐いてイルカは弱い返事を返した。
「…じゃあ、お願いします。」
そうして、いちにのさん、で連れてこられたのは燃えるような紅葉が見事な山中だった。いったいどこなのかは見当が付かないけれど、これはすごい。赤く燃え立つ山々は本当に美しく、雄大な自然にイルカはただ圧倒された。
降り注ぐ赤い落ち葉。そうしてそれは地上に降り積もり、敷き詰められた絨毯の様に足下を飾っている。これは、花見に劣らず好きかもしれない。頼りないうす桃色が散りゆく様もひどく胸を打つけれど、燃えさかる炎のように辺りを埋め尽くす赤はもっと圧倒的に視界に迫ってくる。
「きれいですね。」
ここがどこで一体どうやってここまで連れてこられたとか、そういうことなんか全然問題にはならなくて、どこまでも染まる赤の風景に素直な感想がこぼれ落ちた。世界はまだ、こんなにも美しい。そして自分にもまだ、美しいものを美しいと思える心が残っていることにほんの少し安堵していた。人が思う以上に自分にはいろいろなものが欠落しているから。
「イルカ先生、こっち。」
惚けたように景色に目を奪われているイルカを見たカカシは、満足そうに笑って手招きをする。一際見事な紅葉を見せる紅葉の真下にマットを敷いて、カカシはそこにイルカを促した。とてとてとカカシの方に無防備にやってくるイルカが妙に可愛らしいと、思いながら。
紅葉を愛でつつお弁当を平らげたあと、さて、とカカシが切り出した。遂に大事な話とやらの本題にはいるつもりらしい。遂にというか、ようやくというか。まぁ、ともかく話をするためだけにこんなところにまでやってきてしまう酔狂な悪魔の言葉に神妙に耳を傾けた。
「さて、肝心の、話というのはですね。」
思いの外真剣な顔でカカシはイルカを見ていた。そのことに少しの緊張を覚える。
「何でしょうか?」
真面目に聞き返すイルカにカカシも妙に神妙な顔を崩さないまま答えた。
「これからの心構えというか、イルカ先生が無事に天寿を全うするために必要なことというか。ともかくこれからオレが話すことをちゃんと理解していてほしいんです。」
とても真摯な態度でカカシはそういう風に話を始めた。いやが応にも高まる緊張にイルカは軽く息を吐き出す。
「分かりました。」
こくりと頷いたイルカを確認してカカシはゆっくりと話を始めた。
「まずイルカ先生には3つのことを分かってもらわなくちゃなりません。1つめはイルカ先生が稀代の悪魔召喚師であるということ、2つめはその才能故にこれからイルカ先生が悪魔に命を狙われるようになるという事実。そして、3つめ。」
いったん言葉を止めて、カカシはイルカの瞳を覗き込んだ。
「3つめは、オレがどんな行動をとっても最終的にあなたを裏切ることは絶対にないと信じて欲しい、ということです。」
カカシの台詞の意味が半分も理解できなくて、イルカは呆然と目の前の悪魔を見つめた。
「話がよく、分からないんですが。」
またしてもよく分からない話が展開されようとしていた。一体何がどうだって?困惑を隠さないイルカにカカシは静かに一から説明します、とだけ言った。
「最初から詳しくお話しします。まず、あなた自身も知らなかった、あなたの隠された才能についてお話ししましょう。」
隠された才能?平凡で特に突出した才能もないと思っていたオレの隠れた才能?どういうことだ。
「イルカ先生、あなたは千年に一度現れるか現れないかというほどの才能を持った悪魔召喚師です。オレ自身アンタほどの召喚師にお目にかかるのはこれが初めてだ。」
衝撃、というよりははっきりいって昨夜よりも話の内容が理解できなくて、イルカはただ呆然とカカシの顔を見つめることしか出来ない。
呆然とするイルカを、カカシはまぁ仕方がないだろうと思いながら眺めた。今日、今すぐ理解しろというのはどだい無理な話だ。ただ話しておかなくてはならないのは確かなことなのだ。心構えなんてものはそのあとからでも十分付いてくるだろう。どのみち嫌が応でもいずれは理解することになる。
だから今はただ、イルカを混乱させるだけかもしれないけれど、事実を出来るだけ分かりやすく話しておくことだけを考えなくてはならないと思った。
「いいですか、イルカ先生。アンタは非常に稀で非凡な才能の持ち主です。ただ、実生活にはあんまり役に立たないかもしれないし、将来誰かから評価されるということも、まぁ、ないでしょうね。」
至極真面目な様子のまま、カカシはほんの少し難しい顔をして話している。よりにもよってこのオレがもの凄い才能の持ち主だという。まさかとか信じられないとかいう以前の問題である。そんなわけがない。
「今はまだ信じられないのも無理はありません。でもねイルカ先生。昨日も言ったと思いますけど、悪魔を呼び出すっていうのはそんな簡単なことじゃないんですよ。」
でもカカシはとても簡単に出てきたではないか。あんな冗談みたいな魔法陣と呪文だかどうだかわからないような独り言だけで。
「でも、あなたを呼び出すのは、とても簡単だった。」
知らず心の呟きが口をついてこぼれ落ちた。吐息が冬の気配を孕んだ秋の空気に紛れる。視界を埋め尽くす朱色の絨毯。空気はささやかに冷たく、日差しはひどく穏やかだった。イルカの零した囁きに、カカシはふと目を細めて笑う。
「イルカ先生、考えてもみてください。もしあなたがオレを呼びだしたように誰にでも簡単に悪魔が呼び出せたとしたら、今頃この世の中は一体どうなっているんでしょうか。」
ふふ、と楽しそうに笑いながらカカシはイルカを覗き込んだ。昨日からこんな風に何度覗き込まれただろう。こんな風にひどく穏やかな瞳で。
「それは…。」
穏やかなカカシの視線に晒されたまま、イルカはその言葉を反芻する。確かにあんな風に簡単に悪魔が呼び出せてしまうのなら、世の中はもっとひどい混乱に陥っているのではないだろうか。人は誰しも捨て去ることの出来ない欲望を胸のどこかに抱えているはずだから。答えを導き出せないイルカにカカシは柔らかく話を続ける。
「イルカ先生、悪魔を呼び出すのに一番必要なものってなんだか分かります?」
「必要なもの…?」
「そう、一番重要なものって、なんだと思います?」
一番大切な、もの。いちばん。何だろう。
「…分かりません、一体なんですか?」
お金じゃない、多分。お金はきっと呼び出したあとに必要なもの。では、思いの強さ?何かを欲する願いの強さなんだろうか。でもそれでは、自分がどうしてカカシを呼び出せたのか説明が付かない。
確かに自分には果てしなく深い欲望が隠されてはいたけれど、でもそれはカカシ自身によって暴かれた望みだ。呼び出した時点ではそんな望みに気が付いてもいなかった。でも、じゃあ一体、それは何?
「悪魔を呼び出すために必要なものは、たった一つ。」
にまりと笑うカカシ。そうして。
「それはね、イルカ先生。才能です。」
悪魔を呼び出すためにたった一つ必要なもの。それは生まれ持った類い希なる才能だけ。
才能、とカカシは言う。生まれ持った資質のみが、左右するのだと。
「極端な話、もの凄い才能の持ち主ならば、紙に描いた円だけでも悪魔を召喚することが出来るそうです。そしてそういう簡単な召喚陣から呼び出される悪魔ほど、力が強い。」
悪魔を呼ぶのは複雑な図形でもなく舌を噛みそうな呪文でもない。ただ選ばれたものだけが、その手中に全てを収めることが出来るのだ。
「逆を言えば全然才能のない人間は、だからこそ複雑怪奇な魔法陣や呪文で悪魔を呼ぼうとするんです。ある程度研究された魔法陣にはそれ自体に力があることも多々ありますから。」
だけれども、それだけなのだ。力のある魔法陣を描こうとも呼び出す人間に力がなければまるで話にならない。
「でもね。それだけじゃ仮に呼び出せたとしても、ホントに力の弱い下級悪魔しか呼び出せない。」
分かりますか?とカカシは問うた。こくりと頷きながらも、イルカはカカシの話が上手く理解できてはいなかった。理解できないのでは、ない。納得がいかないのだ。心の中でカカシから突きつけられる事実を、本当のこととは思えない自分がいる。
「イルカ先生、ちなみにオレは一体どの程度の悪魔だと思います?」
眉間に皺を寄せたまま話を賢明に聞いているイルカに、カカシはふと笑いながら問いかけた。それはどうなんだろうか。昨日からの自信ありげな発言と今の話を総合するとどうも結構すごい悪魔のような気もするのだが、自分が呼び出したという一点において、イルカはカカシをそう評価することを躊躇っている。
「中の中くらい…?」
無難かどうかさえ微妙な返事をしてイルカは少し俯いた。これはちょっと過小評価しすぎかもしれない、そう思ったから。
「ぶー、ハズレ。」
不服そうな様子を隠すこともなく、カカシはイルカに言った。
「非道いなぁ、イルカ先生。オレの話全然聞いてなかったでしょ?」
いや、聞いていた。ちゃんと聞いてはいたんだけれど。申し訳なさそうにカカシを見てイルカは控えめな訂正を加えた。
「…じゃあ、中の上?」
「ぶぶー、ハズレです。なんか自信喪失しちゃいそうです。」
苦笑いしながらカカシはイルカに告げる。そうして。
「いいですか、イルカ先生。オレはあなたのいうところの上の上です。最上級クラスの悪魔なんですよ、これでも。一応あっちでは大悪魔で通ってるんですけどねぇ。」
カカシは情けないような口振りで大げさに溜息をついた。その言葉にイルカは驚いたように顔を上げる。まさか、そんなの。そうは思うもののカカシの昨日からの話から察するに、自分が稀代の召喚師だとしたらそれは多分間違いではない。
よく分からなかったけれど、自分は確かに、大悪魔、を召喚しようとしたはずだから。言葉の弾みただの戯れ言にすぎなかったけれど、確かに自分はそう言った。出でよ、大悪魔、とそんな風に。
「あなたは確かに類い希な才能を持った召喚師なんです。少なくとも子供だましの魔法陣と戯れ言みたいな呪文で、オレほどの大悪魔を呼び出せちゃうくらいには。」
驚きを隠さないイルカに、カカシはまた感情の読みとりにくい瞳のまま笑った。秋の風が目の前で笑うカカシの銀の髪を微かに揺らす。迫り来る冬の気配を滲ませた、秋の終わりの風が。
納得のいかない話だけれど理解は出来た。人間何か一つくらいは取り柄があるというのだから多分自分の取り柄は、というか才能は悪魔を召喚することだったんだろう。なんて厄介で役に立たない才能なんだか。知らず口を付いた溜息にカカシは面白そうに喉を震わせた。
「アンタホントに面白いね、イルカ先生。」
くつくつと笑いを噛み殺すカカシにイルカは面白くなさそうな視線を向ける。別に面白いなんて言われても全然嬉しくない。頭に来るだけだ。不機嫌を隠そうともしないイルカの表情に、カカシはまた少し笑っていた。
「一応そこまではイイ?」
「はい、一応は。」
この不躾な悪魔を無視してやろうかとも思ったけれど、何となく自分が笑われてる意味が分からないわけではないからイルカは渋々と相槌を打った。
「じゃあ、次の話に行きましょう。」
堪えきれない笑いをそのままに、カカシはようやく話を進め始める。イルカの反応はいちいち素直で可愛くて、どうもいけないとは分かっていてもつい笑ってしまう。そうしてふて腐れて明後日の方を向くイルカも大層可愛かった。
「次って、オレが命を狙われるとか狙われないとかって話でしたっけ?」
一応はきちんと聞いて覚えていてくれたらしい。不真面目なカカシの態度には怒るけれども決して人の話を聞かないなんてことはないイルカ。そういうところが、イイ。そういうイルカを怯えさせるようなことは、なるべくならば言いたくはないのだけれど。
「そうです、その話です。イルカ先生、あなたが悪魔召喚師として目覚めてしまったからにはこの先オレ以外の全ての悪魔から命を狙われることになります。」
あくまでも淡々と事実だけを述べるような口調だった。口調の平坦さとは裏腹にカカシの言葉は真剣で強い。なにかの決意に満ちた様な真摯な声色とでも言ったらいいんだろうか。
「なぜ?どうして突然?オレは生まれつきその才能とかやらがあるんでしょう?今まで狙われた事なんてないですよ?」
カカシの声音の真剣さにイルカは不意に不安になった。今になってどうしてそんなことになるんだろうか。
「才能の発露、と言ったらいいですかね。イルカ先生の召喚師としての才能はもちろん生まれたときからあったものです。でも今まではその才能は眠っている状態だった。」
カカシはじっとイルカを見つめている。深い藍色の瞳に吸い込まれてしまいそうだとイルカは思った。
「一生眠ったままになるかもしれなかったその才能は、偶然にせよオレを召喚したことによって呼び覚まされてしまったわけです。血に眠る才能は発現するまでは関知することが出来ません。けれどイルカ先生は才能が発現し、そうしてオレを呼び出すことに成功してしまった。」
カカシの視線は逸らされることなくただイルカに注がれている。
「発現しなければ狙われることはありません。けれどイルカ先生はもう目覚めてしまった。」
「でも、なんで…。」
才能の発現と悪魔に狙われることと、いったい何の関係があるのか。
「それはね、イルカ先生。召喚師の血で描いた魔法陣を使えば、悪魔は自由にあちらとこちらを行き来出来るからです。」
血で、魔法陣を描く?
「本来あちらとこちらは結界によって遮られていますが、悪魔を召喚する力のある人間の血を使って魔法陣を描けばその結界に穴があく、そうです。」
本当かどうかは分かりません。そうカカシは続けた。
「誰も試したものが居ないので本当かどうかは分からないですが、少なくとも悪魔たちはそう信じている。」
カカシの視線には冗談を言っているような気配はちっともなくて、イルカはますます困惑していた。自分の血を求めて、悪魔たちが命を狙っている?そんなバカな。
「悪魔達は誰しも地上に出たがっている。けれど召喚師の数は本当に少ない。召喚されることなんて滅多にないことなんです。だから。」
「だから、オレは命を狙われるんでしょうか。」
どことなく青ざめたような顔でイルカはカカシを見ていた。
「そうです。だからあなたは悪魔に命を狙われるようになる。今までは誰もあなたという存在に気が付いていなかった。でももうみんなあなたの存在に気が付いてしまった。」
では、自分はどうなってしまう?気が付いたら冷たくなって横たわっているんだろうか。そんなのはゴメンだと思う。思うけれど。思わず縋るような視線を送れば不意にカカシは口元をゆるめて笑った。その笑顔にどうしてか安堵してしまう。
「大丈夫ですよ、イルカ先生。オレが居ますから。」
そう言って安心させるような眼差しのまま、カカシは微笑んでいた。
「大丈夫です、オレがちゃんとあなたのことは守りますから。」
当たり前のことを当たり前に言うような穏やかな口調でカカシはそう言った。
「守るって…。」
そんな簡単に言うけれど全ての悪魔が自分の敵に回るとしたら、幾らカカシがとても凄い悪魔だとしても荷が勝ちすぎるのではないかと思ってしまう。カカシが負けた時点で、自分もアウトだ。それは確実なこと。自分には自分自身を守る力すらないことくらい分かってる。
「守るよ、ちゃんと。絶対に負けないから。あなたがオレの側にいてくれる限り、オレは誰にも負けたりしない。」
笑うカカシの顔は自信に満ちあふれていた。一体何がそんなにカカシに自信を与えているのかは、イルカには全く分からないのだけれど。
でもそれは、信じるに値する笑みだった。
「そうですか。」
自信満々のカカシにイルカもふと気が弛んだように笑った。そうまで言うのなら大丈夫なのだろう。
「そう、だからね、イルカ先生。あなたは自分の力を過小評価しちゃいけない。」
覗き込む、藍色の瞳。最初に見たときもひどく深い色をしていると思ったけれど、こうして近くで見るとまるで吸い込まれそうなくらいだった。
「自分が狙われてることを十分承知して常に油断しないでいて。そうして何かあったらすぐにオレを呼ぶこと。仕事とかそういうときはずっと一緒にはいられないから、何かあったらすぐに呼んで下さい。」
強くオレを求めて下さい。オレを必要として。どんなところにいてもあなたが呼んでくれさえすれば、オレはそこに行くから。だからね。そう、カカシは言った。
まるで熱烈な恋の告白を受けてるみたいだとぼんやり思いながら、イルカはカカシを見ていた。熱に浮かされているみたいな気分だった。
「だからね、イルカ先生。オレのことを信じて疑わないで。あなたの疑心はオレを弱くする。」
それが3つ目の大事なこと。カカシは不意にイルカの手を取った。ひやりと冷たい感触に身を竦ませたイルカに笑いかけると、カカシはイタズラをするような瞳でイルカを見た。
「あなたに魔法をかけてあげます。あなたにしか使えない、とっておきの魔法。」
つかんだ右の手の平を、冷たいカカシの両手が挟み込む。その冷たさに反射的に手を引こうとしたイルカを許さずカカシは聞き取れないほどの小ささで何かを呟いた。
瞬間、静電気でも走ったのかと思うくらいの小さな痛みを覚えてイルカは顔を顰める。何、と口を開きかけたとき、自分の手首から腕にかけてみたこともない文様が走った。どこの文字とも図形とも付かないそれは、一瞬の後に吸い込まれるように消え去ってしまう。何が起こったのかまるで見当も付かないイルカにカカシは笑いかけた。
「魔法をかけました、イルカ先生。これであなたにも魔法が使えますよ。」
楽しそうに笑いながらカカシは言う。
「一体…。」
呆然とイルカは問うた。
「右手を胸に当ててオレの名を呼んで下さい。あなたが呼びさえすればオレはどんな所にいてもあなたの元へ召喚されます。それはオレを呼ぶためのとっておきの魔法です。」
魔法をかけた主は、それは嬉しそうな顔をしていた。
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