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第5話 契約3




 くすくすと笑い合う。不思議な穏やかさを孕んだ空気がじんわりとそこには満ちていて、何だかひどく安心している自分がいた。そうしてカカシは一度抱きしめた体を離すと、改めて後ろからイルカを抱えなおした。
「なんですか?」
 わざわざ抱え直された意味がよく分からなくてイルカは後ろを振り向こうと試みる。試みは別段失敗はしなかったけれど、カカシの顔を必要以上に間近で見てもその意味が分かるはずもなかった。カカシの含み笑いにぶつかるだけである。背中を包む確かな体温。
「イルカ先生、ちょっと手、借りますね」
 カカシはイルカの質問には答えないままそう言ってイルカの右手を持ち上げる。何事かと思うまもなく、イルカの右親指にぴりと小さな痛みが走った。カカシがいつの間に切ったのか親指からは血が滲んでいる。
 そしてカカシの左手にこれまたいつの間か握られていた古い羊皮紙に、その親指がぺたりと押された。
 え?
「ハイ、おしまい。契約完了〜」
 え?
「…頷くだけで、良かったんじゃあ…」
 思わず呟いた一言にカカシはふふ、と笑った。
「イルカ先生は頷いただけでしょ?」
 ………………そりゃ、そうかも知れないが。
「というのは、まぁ、半分冗談ですけど」
 笑いながらカカシは続けた。
「別に口約束だけでもいいんですけどね。ちゃんと契約書交わしといた方が、後々色々と便利なんで」
 さっきのは仮契約でこれが本契約みたいなものです、と事も無げに言った。なんというか別にいいんだけど、それはどことなく騙されたような気分でもあった。釈然としないというか。まぁいいんだけど、別に。
「あ〜、でもこれで一安心ですね」
 ぺったりとイルカにへばりついたまま、カカシは笑っていた。この人なんだか、あったかいなぁ。カカシの握っていたはずの契約書とやらは、いつの間にかどこかに消えてしまっていた。そして、イルカの親指の傷も。意外と便利な拾いものをしたのかも知れない。力を抜いてその背中をカカシに預けたまま、イルカは急に見えなくなった未来に小さな溜息をついた。
この何時間かの間に一体どれほどのことが起きたのだろうか。イルカはほとほと疲れ果てていた。背もたれ代わりに寄りかかっているカカシの腕の中で、このまま眠ってしまいたいくらいだ。緊張が緩んだせいか思わず欠伸が漏れた。
「イルカ先生、眠いんですか?」
 眠いというか疲れた。もう、ただただ疲れた。どっときてると言ってもいい。
「何だか凄く疲れました」
 またしても漏れそうになる欠伸をかみ殺してイルカはカカシにそう呟いた。
「もう寝ましょう」
 疲れた、本当に。いろんな事が億劫でもう眠ってしまいたかった。
「でもイルカ先生、こんなに冷え切ってますよ?」
 カカシはイルカの指先をさすりながら言う。確かに自分はあまり血行のいい方ではないから、すぐに末端が冷たくなったりするけど。確かに凄く指先が冷たくなってるけれど。
「こんなに冷えてたら、眠れないんじゃないですか?」
 それは、確かに。
「風呂、入り直しましょうよ」
 労るようなカカシの声。なんだって悪魔のくせにこんなに気が回るんだか。悪魔って本当によく分からないとイルカは思う。今までだって悪魔を理解しようとしたことなんて一度だってないけれど、それにしたってイメージとのギャップが酷くないか?つらつらとくだらないことを考えていたら、悪魔は笑ってイルカを担ぎ上げた。
「疲れてるみたいだから、オレが連れてってあげます」  それはもう親切そうな顔をして。だらんと肩に米俵よろしく担ぎ上げられて、いわゆるお姫様抱っことかやらとどちらがマシなのかはこの際置いておくとして、風呂場へ連れて行かれた。
 暴れる気力も起こらないままイルカは悪魔にいいように扱われている自分にもう一度大きな溜息をついた。





「で、なんでアンタまで一緒に入ってるんです?」
 ほんの少しぬるくなった湯船に熱い湯を足しながら、イルカは洗い場で髪を洗っている悪魔を眺めた。湯船に沈んだ躰は暖まってようやく弛緩している。冷え切っていた手足はまだじんじんとしている。
「え?ダメでしたか?」
 ダメっていうか。ダメって聞かれても、別にダメじゃないけど、それはそういう問題なんだろうか。常識的に考えてこんな狭い個人宅の風呂に男二人で仲良くはいるなんて事は不自然極まりなくないか?
「ダメっていうか、変ですね」
 そう、ダメというよりは何だか奇妙な感じがする。のに。
「ダメじゃないなら大丈夫でしょう」
 悪魔は笑ってそういった。含む意味をくみ取って欲しいと思うのは怠慢なんだろうか。ダメっていうか、あんまり好きこのんで男と風呂なんか入りたくないんだが。ざあざあとシャワーで泡を洗い流す悪魔は別段自分のことなど気にした様子もなく、ごくごく機嫌良さそうだった。なんかなぁ、どうしたもんだか。
 けれども、困ったとか不自然だとか思いながらも全然この男の事を邪魔に思っていない自分もいてそれがなんだか不思議だった。他人の存在なんて鬱陶しいだけだったのに。会ってまだ何時間もたってないこの人間だかどうだかも怪しい男の事を受け入れはじめている自分に、少し慣れ始めているのも確かだった。つらつらと考えに耽っていたのか、洗い終わったカカシが湯船のイルカを覗き込んでいた。
「イルカ先生、ちょっと詰めてくださいよ」
 一緒に入る気か?まさか。
「あ、じゃあオレ出ます」
 浴槽の縁に慌てて手を掛けると、まぁまぁと宥められた。
「もうちょっと暖まった方がいいですよ〜」
 悪魔は笑って、そうしていつの間にかまたしても後ろから抱きしめられるような恰好で湯船の中に沈められていた。これはちょっといただけないかも。
「あの」
「ハイ?」
 何も含むところがないようなカカシの明るい声にどうも気がそがれる。
「この恰好、なんか変じゃないですか?」
 だから少し控えめな質問になってしまう。離せと言えばいいことなんだろうけど、どうにもこの男相手だと調子が崩れてしまう。
「そうですか?考えすぎですよ、イルカ先生」
 そうだろうか。自分の考え過ぎか?いやそれはあるまい。普通男同士でこんな狭い風呂には入らないしこんな恰好で湯船に浸かったりはしない、と思う。それとも悪魔的には普通なんだろうか、こういうの。いい加減疲れていたんだと思う。回らない頭で半分のぼせていたイルカは、そのままカカシの腕の中でいつの間にか眠りこけていたのだった。


 あ〜ぁ。寝ちゃってるし、この人。
 腕の中で半ばぐったりとしたようなイルカを見ながら、カカシはうっそりと笑った。いい。この人間は良い。臆病で全身にトゲを立ててるみたいなのに、なんだろうこの無防備さは。気が付かないうちにオレみたいな、そうイルカが今までであって来た中でも多分一番得体の知れない輩にこんなに無防備に躰を預けてるなんて。こんな面白い人間は見たことがない。
 オレの魂を手に入れることが一体どれほどの意味を持つかなんて、これっぽっちも考えてないだろうに。可哀想に。でももうどこへも逃げられないよ、イルカ先生。それともアンタはあれほどまでに欲していたものを手に入れられて、満足なんだろうかね。
 温かい湯船の中で、暖まったイルカの躰を抱きしめたまま、カカシは笑う。いいね、こんなに楽しいのは久しぶりだ。くつくつと笑いながら、カカシはイルカの躰を抱え上げた。これ以上浸かっていたら本当にイルカがのぼせてしまう。ようやく、気の遠くなるような時を生きてきて、ようやく手に入れたオレのマスターだ。死ぬほど大事にしなくちゃね。
 イルカが起きているのなら嫌がるところを無理矢理タオルでじっくり拭くところだけれど、寝ているのならばそんなめんどくさいことは止めておくか。小さく口の中でカカシはなにやら唱えると、イルカを一瞬のうちに乾かしてしまった。パジャマを着せるのも同じく。
 イルカ先生、アンタは思ったよりもずっと便利な拾いものをしたんですよ。くつくつと堪えきれない笑いをそのままに、それでもイルカを自分の手でベッドまで運びながらカカシは明日からのそれは一方的な楽しい生活を思い描いていた。イルカが冷えてしまわないよう、しっかりと抱きしめながらそうしてカカシもようやく眠りにつこうとしていた。



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