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第4話 契約2




 イルカは知らずごくりと唾を飲み込んでいた。代価として差し出す?オレの魂を?
「もしもオレの魂を差し出したら、オレはどうなるんでしょうか。両親は生き返って、そしてオレは死ぬんでしょうか?」
 結局両親には会えないのか。けれどもそれも悪くはない。両親が再びこの世で幸せに暮らせるのならばオレの命など安いものだ。そう思う。
「死にませんよ、イルカ先生。アンタ自分の命を軽く見過ぎてやしませんか?」
 卑下するわけではないけれど、そんな立派なものだとも思えずイルカはただカカシを見つめた。
「オレ達悪魔はね、底の知れない欲望も好きですけど綺麗なものも大好きなんですよ。特にアンタのように、綺麗な魂が」
 喉から手が出るほど欲しい。そうしてカカシはやれやれと溜息混じりに続けた。
「オレはね、この世の中の全ての金よりもアンタの魂が欲しい。アンタの魂はひどく綺麗で他と比べようもないくらい貴重なんです。アンタの命にはそれほどの価値があるんだ」
 希有な魂の存在。カカシも長らく生きてはいるが、お目に掛かるのはこれが始めてかも知れないと思う。傷つき、打ちのめされ、砕かれてもなお汚れない魂。美しく気高く、そうしてイルカの存在自体がカカシを引きつけて止まない。彼の持つその希少な力。だからこそどうしても、その魂が欲しい。
「あなたが思うほどに、オレの魂に価値があるとは思えませんけれど」
 吐き出した自らの声の弱さにイルカは少しだけ顔を伏せた。今まで生きてきて、こんな風に誰かに求められたことなんてなかった。だからだろうか。カカシの声には何の温度も感じられないのにひどく胸を打った。
「イルカ先生。もしあなたがその魂をオレに差し出すというのならば、オレはあなたに一生仕えることを約束しましょう」
 あなたの従僕になってあげます。永遠にあなたを裏切らない存在になることを誓いましょう、とカカシは続けた。その透き通った声で。さざ波一つ立たなかったイルカの心の真ん中に、ほんの一滴雫を垂らしてどんどんと波紋を広げていく。
「ねぇ、イルカ先生。あなたの魂でオレを買ってくれないかな?」
 オレの命で悪魔を買う?もう何が何だか分からない。金がダメなら命を差し出せとそういうことか?
「イルカ先生。フェアじゃないから、これもちゃんと言っておきます。たとえあなたがオレと契約しても、あなたはご両親を生き返らせることを望みはしないでしょう」
「……どういう事ですか?」
「今あなたの両親の魂は、いわゆる人間界でいう天国で転生の時を待っている状態です」
 分かりますか、とカカシは聞く。分かる、そこまでは。だからといってなぜオレが両親の復活を願わないなんて事になるのか。
「悪魔が反魂の儀式を行うということはその転生の輪を断ち切ることに他なりません。ご両親は…」
 そう言ってカカシはふと言葉を止めた。ひしひしとカカシが悪魔だということを感じるのにどうしてだろう、それでも彼はひどく透明な瞳をしているとそう思った。
「転生の輪を断ち切られたあなたの両親は、甦ったのち再び死した時地獄に堕ちます。そして永遠に転生することもなく地獄を彷徨う亡者と化す」
 それでも、復活を望みますか?落とされた言葉の残酷さにイルカは打ちのめされる。もう胸に渦巻く感情をどこにどう処理していいのか分からなかった。色々な希望と絶望が、この十何年をかけてやっと整理した絶望と希望がこの何時間かで再び一気に押し寄せて来ていて、イルカはこの身の上に起こったことが夢ではないだろうかとそんな風にさえ思っていた。
 夢ならいい。ほんの少し疲れた気分で目覚めるだけだから。けれども、本当は何が起こっているの? あまりにも多くのことがイルカの心をかき乱していて、一体何をどんな風にすれば自分が後悔しないのか全然分からない。カカシがなぜこんな事まで教えてくれるのかさえ分からず、こんな風に混乱に陥れるくらいならいっそ騙してくれたらよかったのにとさえ思う。
 美味しいところだけちらつかせてイルカを騙して、それで契約をしたあとで本当のことを話してくれればよかったのに。泣いても喚いても取り返しがつかないところで、真実を話してくれればよかったのに。そうすればこんな風に悩まなくてもよかったのに。両親に再び会える喜びだけを胸に抱いていられたのに。
 カカシが両親復活の真実を話すことに何の意味があるのか分からなくてイルカは混乱した。彼にとってそれを話すことは何の得にもならないのに。それ以上に契約に不利になるのに。どうせならいっそ、オレを上手く騙してくれればよかったのに。
「イルカ先生、オレはね。それでもアンタに契約して欲しいんだ。真実を知ってなお、あなたの意志でオレを選んで欲しいと思う」
 勝手な言い種。両親が生き返るとしてもそんな条件が付くのならば復活を願うわけにはいかないじゃないか。両親が生き返らないのならば、魂をかけてまでこの悪魔と契約する意味なんてどこにもない。
 だったら一体どうして?どうしてカカシはそれでも契約をしようと言うのだろうか。オレは明確な目的があって悪魔を呼び出したわけではない。欲しいものも極端なものしかなくて、それも叶わないというのに。
 だけどだったら何故カカシは真実を告げたのだろうか。オレの望みなんて一つしかないことを知っていながら、何故?
 長い間どちらにも言葉はなかった。イルカはただ混乱していたしカカシはそれを黙って見ていた。そうして不意に沈黙はカカシによって破られた。
「イルカ先生。あなたのその望みは望むようには叶えられないから、きっとあなたはそれを望まないだろうけれど」
 けれど?カカシの表情からは何一つ読み取ることが出来なくてイルカは小さく眉間に皺を寄せた。
「でもね、イルカ先生」
 抑揚のないしゃべり方、乾いた低めの声。カカシは滑らかにイルカに告げた。
「オレは、アンタ自身も気が付いていない、最後の望みを叶えてあげられる」
 あなたが一番欲しがってるものをあげるよ。まるで歌うようにカカシが告げたその言葉。カカシが何を言っているのか今度こそ本当に理解出来そうになかった。
「何を、一体何を言ってるんですか?あなたは」
 声が震えてることなんて気にしている余裕はなかった。暴かれていく自分の本心がとてつもなく醜く恐ろしいもののような気がして、そんなものを暴き立てようとするカカシがもっと恐ろしかった。この悪魔はオレをどうするつもりなんだろう。優しいふりをして、そのくせオレを追いつめることをやめないこの悪魔は。
 怖い、怖い、怖い。ただ、怖かった。最後の願いって何だ?自分さえ気が付いてない最後の願いって。一体なんだというのだろうか。見ないふりをしてきたどろどろとした自分の欲望が、足下からわき上がってくるようだった。
「あなたの望みを叶えてあげる。だからオレにその魂を頂戴よ」
 望みなんて、願いなんて、そんなものはとうの昔に捨てた。
「何も、何も欲しくはありません!両親が生き返らないのなら、何も欲しいものなんかあるはずがないじゃないか!!」
 気が付けば叫んでいた。悲鳴のような声を上げて叫んでいた。
 こわい、こわい、こわい。
 自分の全てが白日の下に晒されようとしている。その事がこんなにも恐ろしいなんて。自分は一体どんな願いを持っているというのだろうか。この欲深い自分は。
「嘘ばっかり。イルカ先生は嘘ばかりだ。そんなに嘘吐きなのに、アンタはそれでもこんなに綺麗だ」
 カカシは嗤っていた。じりじりとイルカを追いつめながら、嗤っていた。
「ねぇ、綺麗な綺麗なイルカ先生。それでもアンタはオレと契約するんです」
 嗤いながらカカシは言う。自信に満ちた顔で。
「オレはこれ以外にも切り札を持ってるんですよ、イルカ先生。そこまで追いつめたくはないからまだ使いませんけど。ねぇ、オレと契約しましょう」
 カカシにはまだ隠していることがあるというのか。オレの本当の願いとか、切り札とか、一体どれほどオレを追いつめる手札を持っているというのだろう。こんなに汚いオレの魂を手に入れるための手札を。
「アンタ自身も気が付いてないその最後の望みを教えてあげようか?イルカ先生」
 笑っているのにカカシは恐ろしかった。嗤っているから、恐ろしいのか。僅かに震えたイルカにカカシはほんの少し表情を和らげた。
「なんてね。今言ったことに嘘はないけど、どうします?イルカ先生」
 嗤いながら。僅かではあるけれど底冷えするほどの冷たさをその瞳に宿したまま。
「どこまであなたを追いつめれば、オレのものになるのかな?」
 そう言う。ほんのついさっきまで夜空の中で自分を抱き留めていた人物と同じ顔をしてカカシは、嗤っていた。
 何も言えず。何をどう答えても、カカシに何もかも暴かれてしまうようで何も言えずにイルカは黙ったままカカシを見ていた。
「あなたの本当に欲しいものをあげる。だからね、イルカ先生、オレと契約をしましょう」
 欲しいもの欲しいものと何度繰り返されたとしてもそんなものを思いつくはずもなく、さりとてカカシが嘘を付いているとも思えなくてイルカはもう泣いてしまいそうだった。自分がこんな風に追いつめられなくてはならない理由も思いつかず、一方的に暴き立てられる数々の胸の裡に、ただ、行き場をなくした子供みたいに泣いてしまいそうだった。
「ねぇ、イルカ先生」
 カカシが自分を呼ぶ声はそれでもどうしてか、ひどく優しくイルカに響いた。
「あなたは永遠が、欲しいんでしょう?」
 優しく柔らかく、暴き立てる凶暴さと同じだけの暖かさでイルカを混乱させる。
「あなたはね、とてもとても大事なものをある時一度に無くしてしまった。だから失うのが怖いんだ」
 何もかも、どんなものでも失うのを恐れてる。それはとても静かな声でイルカの心に広がった波紋はどこまでも大きな円を描いてゆく。
「だから、誰とも心から付き合えないんじゃないですか?」
 円は小さな波を作って、さざ波が心を揺らす、揺らす。
「その人達が、やがてあなたを置いていくことを知っているから」
 どんな人でもいつかは死んでしまうことを知っているから。失わない保証なんて誰も持っていないから。
「だからあなたは欲しいんだ。永遠に失わない、あなたを裏切らない、何かが」
 気が付いてますか、イルカ先生。自分の胸の裡に巣くうその願望に。そんなもの本気望んでる人なんてどこにもいませんよ、あなたの他には。だってそうでしょう、そんなもの手にはいるはずがないんです。誰もが失うことを知っている。物も人もいつかは失われてしまうことを知っている。だから誰もそんな物は望まないんです。普通はね。でもアンタは違う。手に入らないと知っていてなお、それを心の底から欲している。手に入らないことに絶望しながら、それでもなお諦めてはいない。その頑なな心は美しいよ、イルカ先生。アンタの心はその純粋な欲求でただ満たされていて、とても綺麗だ。他に何も入り込む隙間がないくらい、餓えて餓えて渇望してそれでも諦めないなんて。
 オレがアンタに永遠をあげるよ。だからオレにその美しい魂をちょうだい。そしたらオレは永遠にアンタのものだ。決して失われることはなく、そして絶対にあなたを裏切らないよ。オレ達は契約で永遠に結ばれるんです。それは愛だの恋だのっていうそんな不確かな感情よりももっと強固なものだ。オレは絶対にあなたを裏切ることはないし、そしてあなたもオレから離れることは出来ない。
 契約で雁字搦めにされた魂は永遠に離れることは出来ないんです。アンタが望んでるのは、そういう永遠でしょう?オレの手を取りなよ、イルカ先生。契約って言う言葉がいやならばそれを愛と呼んであげる。あなたがそう望むならオレは永遠にあなたを愛することを誓ってもいい。アンタに一目惚れしたんですよ、イルカ先生。だから結婚を申し込んでるんです。そういうことにしてもいい。ね、オレと契約しましょう?もしね、契約してもいいというんだったら、ハイと肯いてくれさえすればいいんです。ハイと肯くだけでいいんです。どうでしょう、イルカ先生。

 オレと、契約しましょう?

 話し続けるカカシの言葉がわんわんと頭の中を巡っていた。どこか遠くから聞こえてくるような、そのくせ耳元で囁かれているようなそんな錯覚さえ覚えて。
 そして、だからカカシの言葉が一つ残らず心のどこか乾いた場所に染み込んでいくのを感じていた。あぁオレはそんなものを欲しがっていたのかと、他人事のように思いながら。それでもそれがこんな風に簡単に手にはいるのならば、それはなんという誘惑だろうか。頷きさえすれば、手に入るだなんて。手に、入るだなんて。この世にも美しく恐ろしい悪魔が、永遠に手に入るだなんて。そんな誘惑に打ち勝つことが出来る人間がいるというの?
 最早カカシはなんの言葉を発することもなくただ感情の読みとりにくい瞳のまま、じっとイルカを見つめていた。深い森の中の湖みたいな静けさでただイルカだけを見ていた。
 ハイと。ハイ、あなたのものになります、と頷いてしまえば。
「はい」
 そう、声に出して。声に、出して。
 今、声に、出して、いた?
 無意識のうちに声に、出していた?恐る恐るカカシを見れば、カカシは思いがけないような、驚いた顔をしていた。
「あ…」
 あの、と声をかける間もなかった。驚いた顔をしていたカカシの顔が笑みを浮かべたのだ。それはもう心の底から嬉しいといった風の笑み。今日会ってからの短い時間の中で見た、どの笑顔よりも嬉しそうなそんな顔で。満面の笑みをたたえていた。堪えきれないようにふふ、と声を漏らすカカシ。くすくすと笑いながら、そしておもむろに、抱きすくめられる。その長い腕に、暖かな胸の中に抱き込まれる。ビックリしすぎてどうリアクションを取っていいか分からない。耳元で笑いを漏らすカカシに呆然と抱きしめられたまま、イルカは自分が遂にこの男の腕に落ちてしまったことを知った。
 頷いてしまった。どうしてか分からないけれど頷いてしまった。どうしてかなんてそれは考えるまでもないことなのかも知れないけれど。この男が目の前に現れたときから、それは決まっていたことなのかも知れないけれど。それでも心のどこかで非道く安堵している自分もいて。永遠を手に入れた事に、ひどく安堵している自分もいて。けして失われはしない何かを手にしたことにひどく安堵する自分もいて、不意に身体の力が抜けた。耳を擽るカカシの声に、何もかもどうでもいいような気分にさえなっていた。
「よかった〜。イルカ先生ホントはね、内心断られたらどうしようってびくびくしてたんですよ〜」
 絶対諦める気はなかったんですけどね〜。あぁ、でもホントよかった。あんなに不敵な笑みを浮かべていたくせにカカシはそうやって笑いながら、イルカをぎゅうぎゅうと抱きしめていた。
「あ〜、良かった」
 なんだろうこの悪魔は。強気だと思えばこんな弱気なことを言い出したりして。なんだろう、この悪魔は。呑気なカカシの笑い声に、イルカもふと笑みが零れた。



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