long




第3話 契約1




「あぁ、それね。うーん、そうだなぁ。何から話したらいいんでしょうかね」
 イルカの前に立ったまま、頬に当てていた手を離してカカシはこりこりと頬の辺りを掻いた。
「そんなに複雑な話なんですか?」
 困った顔のカカシを見てイルカは尋ねる。そんなに難しい話なのだろうか。それとも悪魔の契約というだけに、人間の自分では理解しがたいことでもあるのかも知れない。困惑した表情のイルカにカカシは考えに考えて、う〜ん、と唸った。
「いやね、イルカ先生悪魔のこととか全然知らないのにオレのこと呼び出しちゃったんでしょ?」
 だからね。だからなんだというのだろうか。
「予備知識もないまんま、契約の話だけするのもなんだなぁ、と思って」
 騙してるみたいでね、なんか。そういってカカシは困った顔をさらにしかめた。
「どうしましょう、契約はして貰わないとまずいんですけど」
 うんうん唸るばかりのカカシにイルカはそれなら、と思う。
「それなら分かるように最初から説明して貰えませんか」
 悪魔との契約という響きの仰々しさからは考えられないくらいカカシの態度は丁寧だった。イメージだけで想像するなら騙して契約させてもおかしくないと思うのだがカカシはうんうんと真面目に唸っている。
 変な悪魔だとイルカはなんだか可笑しいような気持ちになった。説明を求めたイルカの言葉にカカシはにっこりと笑った。
「そうですね、じゃあ要点だけでも簡単に説明しましょうか」
 言いながらカカシはぽすりとイルカの横に腰を下ろす。よく笑う悪魔だ。ぼんやりとイルカはそんなことを思いながら小さく、はい、と肯く。
 明るい場所で改めて見る悪魔は思った以上に綺麗な顔立ちをしていて、イルカは自分の容姿を思って小さく息を吐いた。悪魔だから比較するのが間違ってるのかもしれないけれど、世の中不公平に出来ているとしみじみ実感するのはこんな時だったりする。
 隣で一人後ろ向きになっているイルカを気にとめないまま、カカシはあのですねと言った。
「なにせ人に何か教えるなんて経験がないもんで」
 そう言いながらカカシはちょっと戸惑ったような表情を浮かべている。よく分からなかったら聞いてくださいね、などとこぼして曖昧な笑みを浮かべるとようやくぽつぽつと話し始めたのだった。
「まずね。どうして契約が必要なのか、という話をしようと思うんですが。基本的に悪魔っていうのはこっち側に出てくることが出来ないようになってるんです。まぁ、いわゆる人間界って所に、ですね。結界みたいなものが二つの世界を阻んでいると思ってくれたらいいです。で、これを無理矢理出てきたとしてもほとんど力が使えない。そうなると悪魔といえども普通の人間と変わらないんです」
 ふうん、と思う。世界にはイルカの知らない色々な法則があるらしい。
「そんなに人間界って魅力的なところなんですか?」
 その法則をどうにかしてでもこちらに出てきたいと思う理由は何なのだろうか。思わず口をついて出たイルカの疑問に、カカシはそうですねと小さく頷いた。
「悪魔ってのはね、ランクがあるんですよ。生まれたときから大悪魔ってのもいるし、徐々に力を蓄えていく悪魔もいる。悪魔の能力を高めるためには人間の欲望が必要なんです。だからみんな人間界に出てきたいと思ってる。出来たら力を持ったままね。欲望を取り込むにも能力が必要ですから、出来る限り本来の能力に近い状態で人間界に来るのが望ましいわけです」
 なるほど、とイルカは小さく頷いた。イルカの表情にカカシは少しだけ口元をゆるめそれから、だからね、と続けた。
「じゃあどうしたら力を持ったまま人間界に来られるかっていうと、その方法はたった一つ。人間に召喚して貰うしかないんです」
 イルカ先生がオレを呼び出したみたいに。一応筋が通っているような気もするが、何せかなり未知の世界の話だ。突拍子なく聞こえるのは仕方がないけれど、案外そんなものなのかも知れないとイルカは思った。
 ひどくすんなりとそう思えたのは男の表情に嘘が見えなかったからだ。得体の知れない男だけれど、語る口調や仕草はどこか必死になって話をする生徒とかぶって見えた。ほだされているのかも知れないけれど。ほんの少しのとんでもない経験のせいでほだされているだけかも知れないけれど。
「でも、だからといって、ただ召喚されただけじゃ本来の半分くらいの力しか使えない。今のオレも本来からすると半分程度の能力しかありません。これを百パーセント使えるようにするために必要になってくるのが人間との契約という訳なんです」
 カカシはそう言って一度言葉を句切った。
「はぁ」
 イルカは言葉を探すように少し口を閉じたカカシをただ眺めることしかできない。世界は広くてイルカの知らないことだらけだと思う。
「人間との契約を果たして初めて悪魔は自分の力が人間界で自由に使えるようになるんです。だから召還された悪魔は人間と契約するんです」
 ここまではイイでしょうか。カカシはそういってほんの少し自信のなさそうな顔をした。その顔が妙に幼く見えてイルカはちょっと笑った。ほんとに受け持ちの生徒と同じ表情をしている。そんなはずはないのにちょっと子供みたいだと思った。
「はい、よく分かります。それから?」
 イルカの言葉に安心したのか、カカシはまた口を開いた。
「契約を果たしたあとは契約期間内は人間界で自由に行動できるんで悪魔はみんな人間に呼び出して貰いたいんと思ってんです。こっちにいられる期間ってのは結構まちまちで契約の大きさとか難しさで決まるんですよ」
 ふうん、と思いながらイルカはひとまずカカシの言葉に頷いていた。取りあえずそれ以上の感想は思い浮かばない。悪魔にも色々と苦労があるのは分かったけれどイルカには関係のない世界の話だ。
「で、人間と契約する方法はというとね。お金で契約するんです。人間からお金を貰って願いを叶える、と。まぁ、そんな感じですか」
 しれっと吐き出された台詞に内容にイルカは思わず声を上げてしまった。
「は?」
 お金?今金と言ったのだろうか、この悪魔は。なんて俗物な発言だろうか。もっとこう危機感溢れるものじゃないのか、普通は。
「お金です、現金小切手なんでもいいですが、金が必要です。相場は一日百万程度。契約によっては一千万くらいが上限ですかね。まぁお金って一番分かりやすい形の人間の欲望の象徴ですから」
 一日百万から一千万?あまりの法外な値段にイルカの頭はよく回らなかった。そんな金一体誰が持ってるっていうんだ。イルカは話の内容にただ唖然とするばかりだった。何も言わないイルカのことをどう思ったのか、カカシは調子よく話を続ける。
「金さえあればね、基本的にはなんでも願いは叶います。恨みを晴らすもよし、権力を握るもよし、人の女を奪うもよし、ありとあらゆる望みは金で買えます」
 金、金とさっきから何だかなぁ。俗物っぽくて何だか嫌だ。こう朧気ながら悪魔に抱いていた邪悪で不気味なイメージががらがらと崩れ去っているような気がするのはどうしてなんだろう。顔をしかめたイルカに気が付かないのか、カカシはそのまま話を続けていた。
「つまり契約して金を払うと人間は悪魔を自由に使役出来るようになるわけです。悪魔はその金、つまりは人の欲で自らの位を高めることが出来る」
 なかなか良く出来たシステムでしょ?滑らかに喋るカカシの口調がどことなく得意そうに聞こえるのは気のせいなんだろうか。そうしてイルカはふと思った。
「あの、ですね。ちょっといいですか?」
 人の欲、とカカシは言うけれど。
「何でしょう?」
 首を傾げたカカシにイルカはおずおずと尋ねた。
「それって、たとえば世界平和とか、そんな大きなものじゃなくても、誰かの病気を治すとか貧しい子供に何か食べ物を与えるとか、そういう前向きな願い事ってダメなんですか?」
 善行をする悪魔、というのも想像しにくいもんだが契約を持って使役するというのならいいことだってやってくれても良さそうなものである。けれどそれは欲望とは無縁の行為である気がした。人の欲望を悪魔は糧とするという。だとしたらそういう願いはやっぱり駄目なんだろうか。
「あ〜、まぁ出来ないこともないですよ。それだって人の欲の形の一つだろうし。ただね、そんな他の人のためになるような願い事する人はあんまり悪魔を呼び出そうとしたりしませんからねぇ…。少なくともオレはそういうの叶えた経験はないです」
 あ、でも、とカカシは続ける。
「でもいつだったか子供の病気を治して欲しいから、って悪魔を呼び出した人間がいたような気がします。呼び出されたのはオレじゃないんで、朧気ながらにしか覚えてませんけど」
 遠い記憶を探るようにカカシは言った。
「その願いは叶ったんですか?」
 イルカの問いかけにカカシはふと息を吐き出した。
「いえ、確か駄目だったんじゃなかったかな」
 そうして事も無げにそう言った。どうして駄目だったのか。
「どうしてですか?なぜその願いは叶わなかったんでしょう?」
 ほんの少し問いつめるような口調になってしまった。少しだけむきになっている自分を感じながらも、イルカはなんでも願いを叶えると言ったカカシの言葉がそれでは嘘なのかと思った。そんなイルカにカカシはほんの少し含んだような顔で笑みを向けた。
「イルカ先生、もし呼び出されたのがオレだったら多分子供の病気は治ってたと思います。けど呼び出されたのは凄く下級の悪魔だった」
 だからね、駄目だった。下位の悪魔にそんな力はないんです。そう言って笑っている。そう言えば気にしたこともなかったけれど、カカシというこの悪魔は一体どれほどの悪魔なのだろうか。自分なら助けられたと豪語するくらいだから多分そんなに位の低い悪魔ではないのだと思う。けれど、だからといって自分が偶然呼び出せちゃうくらいだからそうそう凄い悪魔とも思いがたい。
「イルカ先生。あなたが思ってるほど、悪魔を呼び出すのって簡単じゃないんですよ?」
 イルカの思いを見透かすようにカカシはにんまりと口角を持ち上げた。
「え?」
 どういう事だ?カカシは笑ったまま底の知れない視線をイルカに向けている。含んだような笑みを湛えたまま、そうしておもむろに言った。
「イルカ先生、オレと契約して貰えませんかね」
 カカシの口からこぼれ落ちた言葉。
「え?」
 流れのない唐突なその言葉に、イルカはどこか呆然としたまま問い返していた。
「オレと契約しましょう、イルカ先生」
 表面だけ見ればひどく穏やかに笑っているカカシは、そのくせどこか薄ら寒いような色を瞳に宿している。その視線に、背筋が震えた。ここに来て初めてカカシを心底恐ろしいと思った。この男は人ではない。悪魔なのだと。
「オレを雇ってくださいよ、イルカ先生。さっきも言いましたけど、悪魔を呼び出すっていうのはそんなに簡単な事じゃあないんですから」
 ね。だからね。そう言いながらカカシはイルカにほんの少し近づいた。覗き込むカカシの目に浮かんでいるものの正体が掴めなくて、イルカはほんの少しだけ身を引いた。
「で、でも、オレ金なんか持ってません。ましてやそんな大金なんて。それにそうまでして叶えたい願いもありませんから」
 だから無理です、とイルカは小さく言った。現実問題として一日百万も払えるものか。イルカはただの公務員なのだから。この薄給でどうやってそんな金を捻出しろというのだろうか。あれだけ自分のことを知っていたカカシに、そんな簡単なこと分からないはずはないのに。
「嘘ばっかり」
 カカシはイルカが引いた分だけまた顔を近づけて、その顔に作られたみたいに綺麗な笑みを浮かべてイルカに言った。
「嘘って…!嘘じゃありません!!大体オレにそんな金がないことくらい、アンタ知ってるんじゃないですか?!」
 嘘、といわれたことにかちんと来た。嘘ではない。嘘など吐かない。こんな事で嘘を吐いたって仕方ないじゃないか。そう思うのにこの男は人を嘘吐き呼ばわりして、何だというのだろうか。
「そのことじゃないですよ。金がないのはね、残念ながら知ってます。でもね、そこじゃない。アンタ本当はそうまでして欲しいものがあるくせに、どうしてないなんて言うんです?」
 カカシの深い藍色の瞳がイルカの視線を絡め取る。視線に縫い止められたようにイルカは思わず身を竦めた。
「…え?」
 カカシの言葉がよく理解出来ないままイルカはぼんやりと問い返す。
「そんなにも強く欲しいと思うものがあるくせに」
 イルカ先生の嘘吐き、そう言ってカカシはにんまりと笑っていた。
「欲しいものなんてありません」
 イルカは吐き出すようにそう言った。欲しいものなんてない。だって欲しいものは絶対に手に入らないもの。だからもう、欲しいものなんてないのだ。それはずっと昔に失われて二度と戻らないもの。もう本当にずっと長い間、時間をかけて自分の中で諦めをつけたもの。それ以外に、欲しいものなんてない。だから欲しいものなんてないのに。
「それが、欲しいんじゃないの?イルカ先生」
 思いがけず力の入っていた手がカカシの言葉に緩んだ。
「え?」
 カカシはまだ笑っている。イルカの全てを知り尽くしているかのような顔をして。
「ずっと昔に失ってしまった、諦めてしまったそれは欲しいものじゃないの?それを再び手に入れることを望まないの?」
 だからアンタは嘘吐きなんです。そう言ってカカシは感情の宿らない瞳でイルカを見ていた。ほんの何分か前までのカカシとはうってかわったようなその瞳に、イルカはなぜだか悲しくなった。どうしてだろう。
「望んでもそんなものは手に入りません。それともあなたはそれすら叶える力を持ってると言うんですか?」
 もう手に入らないのだから、もう元には戻らないのだから、それはちゃんと分かっているから。だからこれ以上オレの心を乱さないで。
「もし出来ると言ったらそれを願うんですか?イルカ先生」
 もし出来ると言ったら、もしそれが叶うとしたら、それを願わないなんて事があるだろうか。再び彼らに会うことが叶うとしたら。それは。
「そんなことが、出来るんですか?」
 ほんの少し声が震えてしまったのに気が付かれただろうか。この男の甘言を信じかけている自分に気が付かれたのだろうか。
「出来ますよ。あなたがそれを願うのならば」
 事も無げにカカシは言った。
「オレは契約者だ。アンタの罪深いまでの欲望と引き替えにどんな望みでも叶えますよ。生憎とオレにはその力があるんです」
 出来ますよと、そう言ったのか。どんな望みも叶えると、そう言ったのか。体が震えていた。
絶対に叶わない願いだったのに。泣き縋っても喚いても絶望しても誰もそんな望みを叶えてはくれなかった。だから神様なんて信じてはいないけれど。神様はいない、そんなこと知ってるけれど。
 じゃあでも、今この男が言ったことは一体なんだというのだろうか。あんなに望んで欲したものをようやく諦めたというのに今さら叶うだなんて、そんな話があるだろうか。
 胸に渦巻く色々な感情が整理出来なくて、イルカはただひたすらに混乱していた。そうして、そんな法外な金を払ってまで悪魔と契約してしまう人間の弱さをようやく理解していた。
 金で片が付くんならどんな罪に手を染めたって構いはしない。たかだか金で、それが手に入るんなら自分はどんなことでもやるだろう。魂を売ったって構わない。魂を売ってもいいなんてそんな陳腐な台詞ドラマの中だけだと思ってたけど。そんな簡単に手放せるようなものかと、思っていたけど。けれど。
 そんなことでいいんだったら、と思う。そんな簡単なことするに決まってる。もう一度あの人達に逢えるのならばこの命さえ惜しくないと、金で片が付かないなら命さえ売り渡しても構わないとそう。そう思う人々の心を誰よりも一番、自分が知っている。
「もし、もしも、ですよ。もしもオレの望みを叶えるとしたら、いくら掛かるんですか?」
 震える。声がどうしてだか、とても震えた。そんなことを聞いたってどうなるものでもないと頭のどこかでは思っているのに。それでも聞かずにはいられない自分の弱さに震えるのだろうか。
「その前に、イルカ先生の望みを、ちゃんと声に出して言ってください」
 じゃないと答えられません。悪魔は、そう言って嗤っている。
 震えるな。もうこれ以上相手に弱さを気取られるような無様な真似は晒すな。そう言い聞かせて息を吸った。
「両親を、生き返らせるとしたら、一体どのくらいの報酬を払わなくてはならないんでしょうか?」
 どうかしている。こんな事を聞くなんて本当にどうかしていると思うのに。
「もし本当にイルカ先生の両親を生き返らせるとしたら、一人につき肉体の蘇生が百億、反魂に百億です」
 目の前が暗くなった。そんな、金が。
「安いでしょう?たった四百億で両親が生き返るんだから。金で呼び戻せてしまうんだから」
 安い、のだろう。金で買えてしまうのだから。人の命さえ金で買えてしまうのだから。安いのだろうけれど、所詮無理な話だった。一番欲しいものはどうやったって手に入らないのだ。昔から嫌というほど身に染みていたはずなのに。
 ほんの一瞬でも期待した自分が惨めで、この期に及んでまだほんの少しの希望に縋り付きたい自分が哀れで泣きたくなる。
「ねぇ、イルカ先生、契約しましょうよ。オレと」
「無理です。オレにあなたを雇うような金はありません」
 悲しいのか腹が立っているのか、自分でもよく分からなかった。ただ悪魔だというこの男の顔は見たくなかった。
「知ってます、そんなことは。だからね、あなたの魂を下さい。金の代わりにあなたのその綺麗な綺麗な魂を」
 代価として、差し出してはみませんか?嗤う男の表情はどこまでも美しく、だからこそ息も出来ないくらい、恐ろしかった。



←back | next→