第2話 夜間飛行
はぁ?なに言ってんだこの男。まさかヤバイ人間なんじゃないだろうな。
『中学校教師、自宅で刺殺される!!通り魔の犯行か?!』
明日のスポーツ新聞の陳腐な三面記事の見出しをを何となく想像しながらイルカは怪訝な顔をした。
「ちょっと、聞いてんですか?イルカ先生」
固まったまま返事さえ返そうとしないイルカに目の前の男は不満げな声を上げた。聞いてない、っていうか聞きたくない。頭のおかしい人間の言うことなんか聞きたくない。正直怖い。なんだこいつ。
「あ〜、もう。っとに頭堅いなぁ」
ばりばりと頭を掻いて銀髪はめんどくさそうにぼやいている。頭堅いって何だ。堅くない、普通だろ、普通。こんな非常識な話、はいそうですかなんて簡単に聞けるもんか。
「じゃあね、イルカ先生。もし万が一ひょっとしてものすごく低い確率だとして、オレがホントに悪魔だったとしたら、一体どうやったら信じて貰えます?」
自称悪魔はそうイルカに問いかけた。信じるも何も、いないものを信じろという方が無理というものだ。やっぱり頭のおかしい人か。
どうする、どうしたらいいんだ、オレ。いかにもまともそうに見えるのにどこから抜け出してきたのか。ここは一つ話を合わせておいて穏便にお帰り願う方がいいのかも知れない。
イルカはごくごく短い時間でそう結論づけると自称悪魔になるべく優しく問いかけた。
「じゃあ、あなたがホントに悪魔だって言うんでしたらオレの経歴とかも言えるわけですか?」
名前を知られていることと職業を知られていることはすでに承知のことだったが、それ以外のことも知られているのだろうか。どこまでこの男に自らの情報が漏れているのか気になってイルカはそんなことを聞いてみた。
銀の髪を揺らして、男は胡乱気にイルカを見ている。
「……いいですけどね、別に」
そうして深い溜息をつく。
「そんなことでいいんでしたら」
そうして驚くイルカを後目に訥々とその過去を語り出したのだった。
「海野イルカ。二十六歳。市立木の葉第3中学2年1組担任。担当教科は現国。恋人は、募集中、ですね。生徒からの人気はそこそこ。両親は六歳の時他界。交通事故ですか。それ以来車嫌いで免許は持っているものの学校までは自転車で通勤。昼飯は購買部のコロッケパンが密かにお気に入り…」
悪魔と名乗る男は。イルカの何かを見透かすようにじっと視線を合わせたまま訥々と語る。さらりとなんでもないことのように出てきた両親のことと車嫌いの話にイルカはぎくりと身体を強張らせた。
誰にも言ったことないのに。不審がられないように気取られないように免許まで取ったのに、なんでこいつはそんなことまで知ってるんだ。イルカはただ男に漏れている情報がどの程度のものなのか知りたかっただけなのに。
これでは本当にこの男が…。じわりと嫌な汗が滲む。イルカの反応に少しだけ口の端をあげて、笑っているような顔で男は喋り続けた。
「両親が亡くなってからまず父方の叔母夫婦に引き取られるものの、折り合いが悪く馴染めないまま2年を過ごす。その後扱いに困った叔母夫婦の元から母方の伯母夫婦の元に引き取られる。ここでは伯母達もよくしてくれてはいるもののやはり孤独感はぬぐい去れなかった、と。従兄弟達がいたせいですかね。まぁ、なんにせよ疎外感がいつもつきまとってたわけですか。苦労してますね、アンタ」
訳知り顔でつらつらと過去を抉られてイルカは憤るよりも酷くつらい気持ちになった。なぜこんな奴にこんな事を言われなくちゃならないんだろう。どうして。
「あぁもう、何そんな泣きそうな顔してんですか」
呆れたような男の声に本当に泣きそうになった。どうしてこんな酷いことを言われなきゃならないんだ。俯いたイルカに男は困ったように溜息をついた。
「じゃあもう止めますけど、これで信じて貰えました?」
別にアンタのこと苛めたい訳じゃないんですよ。男は困惑の色を隠さない口調で優しくイルカにそう言った。
イルカは俯いたままそれでもふるふると首を振った。そんな話信じられるわけがない、と。 どんなにイルカの過去を並べ立てられてみても、それでこの男が悪魔だなんてばかげた話信じられるわけがない。イルカはふるふると首をふり続けた。その存在すら否定するように。
長い間世話になった伯母達の家を出てからずっと押し殺していた孤独感が、イルカの中をひたひたと満たしていた。優しくされればされるほど募る孤独。従兄弟達だってけしてイルカをぞんざいに扱ったりはしなかったけれど、あの温かい家庭の中で酷く寂しかった。それを気取らせてならないことがつらかった。
必死で笑っていたあの頃。幸せです、満ち足りています、そういう顔で。何よりも自分が何か失敗すれば、死んだ両親のことを悪く言われるのは目に見えていた。だから必死で良い子を演じていたあの頃。
ひたひたと押し寄せては返す波のように古い感情が甦って、イルカは俯いた顔を上げることも出来ずにいた。
「……すいませんでした」
悪ノリが過ぎました。顔を上げて貰えませんかね。溜息と共に吐き出される言葉。けれども顔を上げることは出来ずに、イルカは溢れそうな涙をどうやって止めたらいいのだろうとそんなことを思っていた。俯いたままのイルカに男は盛大な溜息をつきながら唐突に言った。
「こういう力業は、ものすごく疲れるからやりたくなかったんですがね」
しょうがないか。
「あなたのご機嫌を取るためだ。そのくらいのことはしましょう」
男は笑っているみたいだった。それから呟いた男の気配がふとイルカに近づいたのが分かった。触れるほど、近くに。
そうして男はひょいとイルカをいきなり抱き上げた。身長こそイルカよりも高いけれどどこをどう見たってイルカの方が体重はありそうなのに、男は軽々しくイルカを抱え上げる。驚いて声を上げることも忘れたイルカに男はにんまりと嬉しそうに笑っていった。
「アンタに信じさせてあげますよ、少なくともオレが人間じゃないって事をね」
証拠を見せてあげますとそう笑って。
「あとは泣かせちゃったお詫びです」
くすりと漏れた優しげな笑い声。笑われているのに、不思議とささくれ立った心が柔らかく撫でられたような気分になった。突然の行動に驚いているイルカをよそに男はすたすたと窓へ近寄った。イルカを大事そうに抱き上げたまま、がらりとベランダのガラス窓を開ける。
急に肌寒い冬の匂いのする風が吹き込んできて温まった体を撫でた。そうして男はイルカを担いだまま、そのまま。笑ったままベランダの柵に足をかけてその細い桟の上に立つ。
音もなく体重すら感じさせないで、まるで硬い床の上に立っているみたいに揺らぐことなくそこへ立っていた。桟は二人分の体重を受けているはずなのに軋むこともたわむこともなかった。
どこか夢を見ているような気持ちだった。恐怖を感じることすら麻痺してしまっていて吹き抜ける風の冷たさに身を竦めた。男に触れているところだけが妙に温かかくてほんの少し安堵する。
銀の髪が月の光を反射してとてもきれいだったけれど、笑った顔はまるで作り物のように美しく冷たい。触れている体温の高さが嘘みたいに思えた。
「しっかり捕まっていてくださいね」
笑ったまま男はとんと桟を蹴った。ふわりと体が宙を舞う。イルカは男の腕に抱えられたまま男の体と共になにもない空間へと投げ出された。
落ちる!
ぐらりと身体が傾いた瞬間、恐怖に身が竦んだ。笑ったままの男の身体に縋るようにしがみついてイルカは目を閉じて落下の恐怖に身を竦ませる。ものすごい早さで身体がどこかへ向かっていた。
どこかではなく地上へぐんぐんと吸い込まれるように向かっている。浮遊する体は強張っていて、助けを求めるように男の体に抱きついた手の力が強くなる。部屋は4階だから地上に叩きつけられるまでにはもう後ほんの僅かな時間しか残っていないだろう。訪れる衝撃を思って体が震えていた。
怖い、怖い。怖くて堪らなかった。
それでも触れている身体はとても温かくてイルカは頬をぎゅっと押しつけた。凄まじい勢いでイルカの周りを風が通り過ぎていくのに、どうしてか涙が滲むくらい縋った体が温かくて、死ぬときに一人ではなかった自分がそんなに可哀想でないような気にすらなった。今日初めて出会った男に訳も分からず心中を決行されたというのに、なぜだかそんなに悪い気分じゃなかった。
さっきの鬱々とした過去から比べたらこんな死に方でも悪くないような、そんな気分。たった一人で死んでしまうよりはずっといい。
それにしてもずいぶんと長い間地上に着かない。4階という距離は思っている以上に長いのか、それとも単に恐怖故に周囲のものがスローモーションに見えているのか。なんにせよ、割合あっけない人生だった。
そうしてイルカが自らの人生に諦めをつけた頃ようやくイルカを抱き上げていた男が口を開いた。
「イルカ先生。目を開けて?」
イルカを柔らかく抱き上げたまま男は思いの外優しい口調で囁いた。死んだのか?衝撃も、痛みすらなかったけれど。死んだのだろうか。
「死んでないですから、目を開けてください。ね?」
からかうようにその声色に滲んだ笑いが悔しくて、そうしてイルカはおそるおそる目を開けた。男の首に回した手に、ほんの少し力を込めて。 そろりと開けた視界に飛び込んできたのは見渡す限りの、星。視界を埋め尽くす、満天の星。上も下も分からない。まるで宇宙の中に放り出されたみたいに。真っ暗な宇宙の中で彷徨う石にでもなったみたいに。
星が、まとわりつくほどの、星が、きらきらと、輝いていた。
「……!」
美しい世界だった。息をすることも忘れるくらい、綺麗な世界。知らず男の首に回した手に力が入る。そんなことにも気が付かないまま、イルカは目の前の風景に飲まれていた。圧倒的な、美しさ。
「綺麗でしょ?」
イルカをそっと抱え直して、男は笑った。ぽっかりと宇宙に投げ出されたような、自分がものすごく小さな非力なものだと思い知らされているようなそんな気分。
「綺麗、ですね」
吐き出した息は白く白く風にさらわれていく。イルカは不意に我に返った。
「ここ、どこですか?」
ひょっとして本当に天国か何かに来てるのかも知れないと、そんな風にさえ思えて。
「イルカ先生、上を見て」
問いには答えないまま、男はにこにこと笑っていた。言葉通りに男の肩越しに遙か上空を見れば、そこには満月。輝く巨大な月が太陽みたいに輝いていた。
「イルカ先生、あれは地上の灯りですよ。星じゃない。でも綺麗でしょ?」
耳元で囁かれた言葉。笑う柔らかな音。
「ここは、一体…」
呟いたイルカに男はまた笑った。
「気が付きませんか、イルカ先生。オレたちは空を飛んでるんです」
残念ながら宇宙でも天国でもないんですがね。でもこれはこれでなかなかイイでしょ?そう言って楽しそうに笑う。
顔は強張ったまま口を開くことも出来なかったけれど、本当のところ悪くないと思った。すごくいいとそう思っていた。空を飛んでるという驚きとかそういうものは全然なくってそれはただ美しくて、男の正体とかそんなものもどうでもよくなって。ただ冴え渡る空気の中圧倒的な美しさを前にどうすることも考えつかなくて。ふと身体の力を抜いて得体の知れない銀の髪の男にことりと体重を寄せた。
世界はどこまでも美しく自分はどこまでも小さく、確かなものは触れる身体から伝わる温もりだけで。心が何となく弱くなっているのが自分でも分かっていた。身を預けた男は揺らがない。重いだろうに、自分は。それでも揺らがない。
その確かさだけが、この空の中で安心出来るたった一つの拠り所だった。弱さに付け込むような確かさだった。うっとりとどこか違う世界を見るように急に大人しくなったイルカを、男もまた無言で抱きしめていた。何かに付け込むように。
どういう理由でイルカをこんな風に空へと攫ったのかは分からない。けれども、イルカの傷口を広げるだけ広げてそうして逃げられないほどの暖かさと優しさを与えている。それはひどく狡猾なやり方で、イルカを手に入れようとしているに違いなかった。
言葉もなくただ空の上でイルカは諦めたように息を付いた。少なくともこの人は人間ではないらしい。悪魔という響きが持つ邪悪な存在にも思えなかったけれど。それだけは諦めたように理解出来た。夢で片付けてもいいけれど、きっと明日朝起きたらまだこの人は部屋の中に居座っているに違いない。
そのくらいのことは想像が付いたから。だからそれは認めてもいいと思う。人ならざるものを呼び出してしまったらしいと、それは認めてもいいと思った。悪魔かどうかは別としても。
だから聞いたのだ。長い長い沈黙のあとぽつりと小さな声で。耳が痛くなるほどの静寂を破って。
「あなたの名前は、なんと言うんです?」
ほんの、小さな声で。黙っていた男はその頬に笑みを浮かべたままイルカを見下ろした。
「やっと聞いてくれましたね、イルカ先生。オレの名はカカシというんです。以後よろしくお願いします」
とても人懐こそうな顔でカカシは笑っている。そういえばさっきからずっと楽しそうに。カカシと名乗った自称悪魔はイルカの顔を覗き込んだまま、にこにこと笑っていた。
ずいぶん長い間空の上にいたらしい。カカシの体温だけでは防ぎきれなくなってきた寒さが身に染みて、くしゅん、とくしゃみが出た。
ようやくカカシは気が付いたようにイルカを抱え直し、そして再び空を滑り始める。先ほどとは打ってかわってひどくゆっくりと。
「すっかり冷えてしまいましたね」
すいません、気が付かなくて。そんな風に言う。悪魔だというらしいのにどうしてそんな風に優しくするのか、イルカには分からなかった。
ただカカシの肩越しに見えていた月がだんだんと遠のいていくのが少し寂しいような気がして、自分はもう少しこの空の中にいたかったのかも知れないと、そんな風に思った。そうしてふと思い当たる。こんな風に無防備に、誰かに甘えるみたいに身体を預けるのは両親が死んで以来だと。
もう随分と長い間一人でいることに馴れてしまっていて。一人でいることに馴れるしかなくて。寂しいなんて事は思わないように、辛いだなんて事は感じないように、ほんの少しずついろんな事を我慢して我慢して心を殺したまま大人になった。
寂しさや辛さを紛らわす術も覚えて一人が平気なふりだって上手くなったのに。強引に割り込んできた他人の温もりはどうしてかひどく優しくて、心に染みた。
飛び出した窓辺にとんとカカシが降りて窓から部屋の中へ連れて入られる。温かい部屋の中。思った以上に冷え切っていたらしく、ベッドの上に下ろされたとき溜息が漏れた。
緩やかに吐き出されたのは安堵の溜息。
「大丈夫ですか、イルカ先生」
風呂入ります?労るように優しい声で。
「いや、風呂はあとでいいんですけど」
今すぐにでも頷きたかったけれどイルカはそれを押し止めて、自らを見下ろす秀麗な顔の悪魔を見た。
「けど?」
カカシはイルカの頬を温かい手のひらで柔らかく撫でながら首を傾げた。
「契約って、いったい何のことなんでしょうか?」
カカシが最初に口にした『契約』という言葉の持つ意味を図りかねてイルカはそう尋ねた。カカシという人ならざる者を案外とすんなり受け入れ始めている自分に少し驚きながら。
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