第1話 召喚
最近の中学生と来たら、一体何を考えているのだろう。
開いた鞄から覗いた本を見てそれからイルカは大きな溜息をつく。教職に就いてからそれほど長い年月が経っているわけでもないが、それにしたって自分がこんなものを没収する羽目になるとは思ってもみなかった。
『悪魔召喚事典』
真っ黒の革表紙には豪華な金の装飾でそうタイトルが刻まれていた。今日の授業中に生徒から没収したのは、そんなえらく曰くありげないかにも怪しい本だった。
こんなものを没収するくらいならエロ本の方がまだ使い道もあるというのに。イルカは二度目の溜息をついて重たげな本に手を伸ばす。
ずっしりと重たく厚いその本は、皮の表紙が手に吸い付くようで、何だかこれ見よがしに不気味だった。なんだってこんなもん読んでるんだか。皮の表紙をペタペタと叩いてイルカは何度目か分からない溜息を吐き出す。
学校に置いてくるつもりだったのにうっかり鞄から出すのを忘れて持ち帰ってしまった、ある意味エロ本よりもいかがわしい本は、かなり得体が知れなくていやな感じである。
風呂上がりの濡れた髪をわしわしと拭きながらイルカはまた溜息をついた。どう贔屓目に見ても厄介なものを預かったという気がしてならない。
片手で髪を拭き拭きいかにも高そうなその本をぱらぱらと捲る。開いた本からは独特の埃っぽいようなカビくさい臭いがした。割合と専門的な本らしい。こんなものに専門も何もないだろうが中学生が読破出来そうな軽い内容にはとても見えなかった。
前半部分は文字の羅列。文字文字文字、中に記されている文字には全く見覚えのない字まであった。そして後半部分からが実技編、なのだろうか。前半部分よりもだいぶ分かりやすい。
というのもほとんどが何かの図やイラストだったからだ。最初の方に載っているのは訳の分からない図形。いわゆる魔法陣というヤツだろう。それから気味の悪い生き物の図や生け贄と思しき死体の絵。召喚された悪魔の絵やそれを使役する人間の図。
なんだかなぁ。と思う。悪趣味極まりない。これを悪趣味と言わずして何を悪趣味というのか、と思うほどには。なにが楽しくてこんな本を読もうと思ったのか、全く持って理解に苦しむ所だ。近頃の子供は…。
めくれどめくれど本は相も変わらず悪趣味な感じでイルカは飽きもせず溜息をついた。一枚ずつページを捲るのにも飽きていい加減にぱらぱらと紙を捲っていたらふとページが止まった。
本の間にメモのようなものが挟まっているのだ。ページを閉じないよう手で押さえたままメモ紙を摘み上げれば、そこには奇妙な図形が描かれていた。どうもそのページに書いてある魔法陣を写し取ったようである。紙には図形と共に呪文らしい文字までもが書き込まれていた。
「こんな事までしてんのか…。」
重い重い溜息がまた口からこぼれ落ちる。本気でやる気だったのか。やる気というか…。こんなもので悪魔なんか呼び出せるもんか。っていうか悪魔なんかいるもんか。何考えてんだか。
没収した本の持ち主の顔と成績表の内容を思い浮かべて、イルカは重たい溜息をまた吐き出した。この情熱の半分を学校の授業に傾けてくれるとありがたいのだが。
本を閉じて挟み込まれていた紙にもう一度目を落とす。描かれているのはどこかで見たような図形で、そう難しいものではない。そうして本来綺麗な円形であるはずの魔法陣は笑えるくらい歪んでいた。
なんだこりゃ。幼稚、というか稚拙とも言えるその魔法陣を見てイルカは急に可笑しくなった。邪悪なものを読んでる割にはやはりまだ子供だ。所詮この程度か。
せめてコンパスとか定規ぐらい使えよ、とまで思う。適当にも程があるだろう。本に載っていた悪趣味極まりない絵柄を思ってイルカは小さく笑った。
ただの杞憂だったか。昨今こういうものに傾倒して妙な犯罪を犯す子供も少なくはないから、そういう意味でも心配だったのだがこの程度ならまぁ大丈夫だろう。ふと可笑しくなってイルカはつい独り言を呟いた。
「そういや昔そんなアニメがあったなぁ。」
誰も聞いていないのをいいことにどこかバカにしたように笑いながら、イルカは視線を少しだけ彷徨わせる。
「何だっけ、エロイムエッサイムエロイムエッサイム、我は求め訴えたり、出でよ大悪魔なんとかかんとか〜!って叫ぶヤツ。」
あはは。妙に不気味な本に気圧されていただけにイルカは何だかおかしくて声を立てて笑った。思い出してみれば自分も昔はそういうアニメを見ていた頃があったんだから、そう深刻に捉える事でもないのかも知れない。
今も昔も子供というのは未知の世界に憧れるものなのだろう。そんな風に呑気に事を考えていた。笑いながら。月曜日になったらちょっと説教をして返してやろう。そう思いながら。
だからイルカはほんの少し気が付くのが遅れたのだ。自分が手にしているいい加減で稚拙な魔法陣がぼんやりと光を帯びている事に。
違和感は不意に襲ってきた。いつまでもこんなものに構っていないで寝てしまおう。そう思ってメモをテーブルに置こうとしたそのとき、不意に違和感を感じたのだ。うっすらと手にした紙が発光している。
え、と思って紙を見直せばそれは気のせいなどではなく本当に発光し始めていた。紙に描かれた魔法陣が柔らかく光を帯びているのだ。混乱したままイルカは慌てて机の上にそれを放り投げる。
ひ、光ってる?!薄く光を投げかけていた魔法陣はだんだんと強い光を放ち始めていた。軽いパニック状態に陥っているイルカは、徐々に光を増す魔法陣をどうすることも出来ずにただ呆然と立ち竦んでいた。
何が起こってるんだ…。混乱したままどうすることも思いつかないイルカは、強い光を帯び始めた魔法陣をただただ見つめることしかできない。そうして一層光が強まり、辺りにきぃんとひどく耳障りな音が響いてイルカはとっさに耳を塞いだ。
何?!
ざわりと部屋の空気が震えている。ざわりざわりと光を放ちながら密閉された部屋の空気を震わせて、魔法陣の書かれた紙は風もないのに揺れていた。
何が起こっているのか。イルカは身じろぐ事も忘れて目の前の不思議な現象をぼんやりと眺めていた。思考回路はとうに考える事を放棄している。
混乱するイルカになど構うことなく魔法陣は一層強い光を放ち、そうして目の眩むような閃光が辺りを包んだ。鋭い閃光にイルカは咄嗟に目を閉じる。スポットライトを真正面から浴びたかのような強い光が瞼を透かしてイルカに伝わった。
そうして、不意に光が収束しざわついていた室内に耳の痛くなるような静寂降りてくる。しんとした室内の様子にイルカはそろりと瞼を持ち上げた。それからゆっくりと耳を塞いでいた手を下ろす。少しだけ眩んでいた瞳が徐々に辺りの様子を捉え始め、そうしてイルカは室内に見慣れぬものがあるのに気が付いた。
イルカの目の前にはテーブルがある。その上に有り得ないものがある。テーブルの上、つまりはイルカの目の前に人が座っているのだ。
机の上に放り投げた魔法陣の上に。
唖然とするイルカに向かって机の上に胡座をかいて座っている人物はひょいと片手をあげて笑った。
「ど〜も。」
へらりと笑って片手をあげた人物はどこをどう見てもただの不審人物だった。
あれ?
イルカは困惑する頭を抱えたまま呆然と行儀悪く机の上に座る人物を見つめた。
あれ?何が、起こったんだ?一体何が?そしてこれは一体誰だろう?挙げた手を下ろして男もイルカを見ていた。イルカも男を見つめる。
男は見れば見るほど不審だった。見なくてもいきなりこの場にいるだけで思う存分不審なのだけれど、それにしたって男は普通じゃなかった。イルカは不躾とも思わずに穴が空くほど男を見つめてしまう。それほどまでに目の前の男はイルカの目には酷く奇妙に映ったのだ。
透けるように白い肌。伸びすぎた前髪に隠されてしまっている左目。見えている右目は深い藍色。そうして、逆立つような髪の毛は鮮やかな銀の色をしている。少なくとも日本人だけの遺伝子ではこういった外見の人間は生まれないだろう。
この場合日本人とかそうでないとかそんなことは大した問題ではないのだけれど、混乱したイルカの頭ではそんなことには思考が回らなかった。
え〜と。イルカは混乱したままその男に声をかけた。
「あの、すいませんけど。」
取りあえずなにを喋っていいのかなんてさっぱり思いつかなかったのだけれど、気が付いたらイルカは男に話しかけていたのである。
「ハイ?」
男は可愛らしくもないのに小首を傾げイルカの言葉の続きを待っているようだった。イルカは自分がなにを言うつもりなのか分からないまま、けれど勝手に口が動いていた。
「机の上から降りて貰えませんか?」
そう、それは大事なことだ。机の上で胡座をかくだなんて行儀が悪すぎる。
「あ、ハイ。」
銀の髪の男はイルカの言葉に音もなく机から降り立った。何だかずいぶん間抜けな会話が交わされてるなぁ、そんな風に思いながら。
男の心中などイルカには伝わるはずもない。ひとまず男をテーブルから下ろしたイルカは少しずつではあるが思考が戻り始めていた。
とはいえそれは普通の判断が出来る状態ですらない。パニックに陥ったまま、けれどそのことには気付かずにイルカはむくむくと湧き上がる疑念に不躾な視線を浴びせた。
なんだこいつは。音もなく机から降り立った人物にまじまじと視線を注ぎながら、些か頭が冷えてきたと思いこみつつイルカは考えていた。一体なんだこの男。どこから入ってきたんだ?どうにも日本語は通じているようだけれどどう見たって日本人ではない。随分と日本語の旨い外国人だ。
こんな派手な容貌の知り合いなんてイルカにはいるはずもなく、また見覚えなんてものもなかった。忘れたくても忘れようのないその外見。片目こそ隠れてはいるもののかなり恵まれた容姿をしている。どうしてこんな見覚えのない男が自宅のテーブルの上にいきなり座っているのだろうか。
なんと問いただしたらいいものか迷っているイルカに声をかけたのは、他でもない目の前の銀髪の男だった。
「あの、ですね。契約の方に移らせてもらいたいんですけど…。」
外見に全くそぐわない流暢な日本語を操りながら男は思いがけないことを言った。
「契約?」
いったい何の?イルカは困惑する頭で思った。こいつはセールスマンか?無理がある、それは無理だらけだ。こんな恰好のセールスマンなんているもんか。
大体セールスマンってヤツは玄関からやって来るもんだ。突然テーブルの上に座っていたりなどしない。などと思ったけれどそれ以外に適当な理由も見あたらずイルカはさらに混乱した。そうして男はイルカの混乱に拍車をかけるごとくさらりとした口調で言い放った。
「イルカ先生、アンタ自分で呼び出しといて、そりゃないでしょう。」
呼び出しといて?なんだそりゃ。それになんでこいつオレの名前知ってるんだ。わざとらしくつけられた先生という敬称もイルカは気味が悪いと思った。どうして職業まで知ってるんだろうか。
「ていうかあんたなにもんなんです?人の個人情報まで調べてるなんて…。大体呼び出すとか契約とかいったい何の話をしてんですか?」
自分の情報がどこまで知られているのか分からなかったけれど、男に問いかけたイルカの声は常になく固かった。大体誰もアンタなんて呼んでない、そう思ったのが顔に出たのか男は小さく溜息をついた。
「呼んだでしょ、ソレで。」
男が指さしたのは机の上の粗末な紙切れ。子供が描いたイタズラ書き。魔法陣。
「その魔法陣で、オレのこと召喚したでしょ?」
召喚。聞き慣れない言葉を口の中で繰り返してみた。
召喚?何を?っていうか召喚ってどういう時に使うんだっけ?頑張れ、オレ国語教師じゃん。召喚、召喚。ぶつぶつと呟きながらイルカはただ混乱していた。
これではまるで本当に悪魔を召喚したみたいじゃないか。没収した本の中に生徒の落書きの魔法陣が挟まっていた。イルカは笑いながらたわいもないアニメの台詞を口にしたのだ。そうしたら落書きが光って、それから。
それからどうしたっていうんだ。ばかばかしい。悪魔なんているもんか。
落書きが光って。
悪魔召喚事典。黒い皮の厚い本。金の装飾文字。イルカの口にした言葉。
落書きが、魔法陣が光って。
イルカは不意に全ての答えが分かった。夢か。夢だな、こりゃ。まあなんと悪趣味な夢を見ていることか。
「夢じゃないですよ。何現実逃避してんですか。」
イルカの考えを読んだのかそれともそんなに分かりやすい顔をしていたのか。唾棄しようとした混乱を引き戻されてイルカは小さく舌打ちをした。夢じゃないならなんだって言うんだ。
正直何と言っていいものか考えあぐねていたイルカに、目の前の男はいちいち噛んで含んだような言い方で言葉を続けた。
「状況が把握出来てないみたいなんで言いますけど、アンタ悪魔を呼び出したんですよ?」
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