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第7話 それから




 オレを信じて疑わないで。守るから。あなただけを、守るから。こうして出会ったのは運命だから。だから、オレだけは、信じていて。



 ぼんやりと右手を眺めながらイルカは小さな溜息を漏らした。カカシの囁きが耳の奥で繰り返し繰り返し響いている。昨日カカシに連れられていった深い秋の山中で告げられた言葉達。まるで熱烈な告白のようなその強い言葉にイルカは自分の感情をどうしたらいいのか分からないまま、そうして何の気なしに右手を見てしまう。カカシのひやりとした手の平の感触がまだそこに残っているようで、そう思うとほんの少し鼓動が早くなる。
 カカシが魔法をかけたという、右手。魔法をかけました、とカカシは言った。あなたにしか使えない、とっておきの魔法を。いつどこにいても、オレを呼び出せるとっておきの魔法。いつでもあなたの側にいますよ。どんな時だって。
 笑いながら告げるカカシは最後にそっとイルカの手を持ち上げた。まるで中世の騎士が誓いを立てるみたいにイルカの指に唇を押し当てて。この無骨で骨張った指に、まるで忠誠を誓う騎士のように、その薄い唇を押し当てて。

「イルカ先生?右手どうかしました?」

 同僚の不思議そうな呼びかけにはっと意識が戻る。いつの間にか不自然なくらいぼんやりと右手を眺めていたらしい。あわてて笑顔を取り繕うと、イルカはよく分からない言い訳を返す。
「あ、いや。ちょっと最近寒いから荒れてきてるなー、と思って。」
 そう、確かにカカシが口付けたこの手は連日の学校業務に耐えきれなかったのか、白くかさかさと荒れていた。
「あぁ、そうですね。結構この時期荒れますよね。」
何の疑問も抱かなかったらしい同僚は、良いハンドクリームありますよなどと呑気に世間話を始める。カカシの手は確かに驚くくらい冷たかったけれど、自分のようにかさかさと荒れてはいなかった。荒れた自分の手。その荒れた手にカカシが触れて、口付けたのだと思うと妙に恥じ入りたいような気分になった。
 こんな手に、触れたのだ。カカシは生き物としてとても美しい外見をしている。すらりと長い手足や月光を吸い込んだような銀の髪。深い藍色の瞳。薄い唇や眠たげなその瞳。全てが整いすぎたパーツで構成されているような、カカシ。
 悪魔だというカカシ。悪魔だというのに、自分を守ると言うカカシ。魂を捧げた相手。そう自分はあの悪魔にこの魂を捧げたのだ。永遠を手にするために。浅ましい自分は、絶対に失われない何かを欲して。
 笑いかける同僚に適当に相づちを打ちながら、イルカは自分の欲深さにほんの一瞬昏い笑みを浮かべた。それでも、手に入れたのだ。全てを差し出して手に入れたのだ。あの綺麗な生き物を。カカシは自分の命が美しいと言ったけれど、きっと多分カカシの方が綺麗だ。綺麗で美しい悪魔。何も変わらない自分の右手をもう一度眺めて、イルカはひっそりと笑った。



 右手右手右手。今日一日右手ばかりが気になって、気がついたら放課後になっていた。やり残した仕事が碌に手に付かないからといって帰るわけにもいかず、小テストの添削をしながらイルカはまたしても右手に気をとられてしまう。赤のサインペンを握った自分のごつごつした手。あんな風に大切に触られるとは思ってもみなかった。
 どうにも自分がおかしいのはちゃんと分かっている。昨日からいくらカカシが特異な存在だとしても意識しすぎている。そんなこと、分かっている。優しい瞳で見つめたすぐあとで不意に底の知れない笑みを浮かべたりするあの男の事を意識しすぎてるなんて事は、分かってる。
 けれども、あんな風に自分が誰かの特別だということを意識させられたのはカカシが初めてで、だからこんなにもカカシのことが気になるのだろう。あんな風に明け透けに何もかもさらけ出すような告白めいた言葉で、カカシは自分を拘束してしまったのだ。
 自分の心の、どこかを。
「イルカ先生、まだ帰らないんですか?」
 まだしてもずいぶんと長い間右手に捕らわれていたらしい。見回せば職員室に残っている人数はもうずいぶんと少なくなっていて、横に立った同僚もすっかり帰り支度を整えていた。
「え、あ、もうちょっと整理したら帰りますよ。」
 慌てて取り繕うように手元の小テストに視線を落とす。あと半分くらい残っているそれを片付けなくてはどちらにしろ帰れない。
「雨降ってますけど、それだけで終わるんだったら送っていきましょうか?イルカ先生自転車でしょう?」
 同僚の声に驚いて窓を見れば結構な勢いで雨が降っていた。昼過ぎまでは快晴と言っていいくらいの空模様だったのにいつの間にこんなに。
「結構降ってますね…。」
 思わず呟いた言葉に同僚が、そうでしょうと合いの手を入れる。これは送っていってもらった方がいいかもしれない。ずぶ濡れになるだけならまだいいけれど、これでは持って帰る書類や本まで濡れてしまいそうだ。そうなるとまずい。お願いします。そう頼もうと思ったとき、ふと目に付いたのは、右手。


 いつでも呼んで下さいね。どんな小さな事でもいいから。オレを必要だと思ったそのときに。


 こういうのも、ありなんだろうか。こういう凄くくだらない用事でも。というか、ホントに呼べば来るんだろうか。ふと疑問がわき起こった。
 本当なら、車に乗るのは極力避けたいから、もしカカシが迎えに来てくれるのならその方がいいかもしれない。ほんの一瞬迷ったあと、イルカはとても残念そうに同僚にぺこりと頭を下げた。
「すいません、でもこれだけじゃないんですよ。まだちょっと時間もかかりそうだし。」
 本当に凄く残念だけれど、という顔でイルカは同僚に謝った。折角声を掛けてくれたのにと思う気持ちがあるのも確かだった。
「そうですか?じゃあイルカ先生もあんまり遅くならないうちに帰って下さいね。」
 じゃあお先に。同僚はあっさりとそう言って職員室から出ていってしまう。
 残っているのはあと3人。ざくっと添削の残りをすませて、イルカは職員室の隣にある放送室へと気が付かれないように忍び込んだ。ここなら防音も完璧だしうっかりカカシを呼び出しても話を聞かれるということもあるまい。
 こんな事で呼び出したら、カカシは呆れるだろうか。でも試してみたかった。一度湧き上がった好奇心を止める努力すらしないでイルカは右手を胸に当てた。
 本当に、来るんだろうか。平凡で何の取り柄もない自分。その自分が魔法を使えるかもしれないという軽い興奮と興味を押さえきれないまま、イルカは小さく息を吸い込んだ。胸に当てた手の平から、少し早くなった自分の鼓動が伝わってくる。

 右手を胸に当てて、オレの名を呼ぶだけでいいから。

 名を、呼ぶだけで。だからイルカは小さな声で息を吐き出すように囁いた。誰にも聞こえないくらい小さな声で、その名を。
 とくりと小さく鼓動が跳ねたのが分かった。名前を呼ぶその瞬間に。
「カカシ、さん?」
 問いかけるような頼りない口調で、それでもイルカはその名を呼んだ。脈打つ心臓の上に置かれた手の平がいつもより熱いような気がした。
「呼びましたか、イルカ先生?」
 そうして何の心の準備も整わないうちに背後から抱きしめられていた。腰に手を回して肩に頭を乗せたまま、カカシは眠たげにそう呟く。
「……………………!!」
 音に変換されなかったけれど、確かにイルカは叫び声をあげるほど驚いた。今までとは全く違う早さでがんがんと早鐘のように脈打つ心臓に、カカシはゆるりと手を当てる。
「すっごいどきどきしてますね。驚きました?」
 カカシの柔らかな銀の髪が頬を撫でた。吐息のような笑い声が耳をくすぐる。驚きましたじゃない、驚いたに決まってるじゃないか。まだ二の句が継げないイルカをカカシはおかしそうに眺めていた。
「で、イルカ先生、一体何の用ですか?」
 耳元で囁かれる笑いを含んだカカシの声。心臓に当てられたままの手の平。もう片方の手は腰に回されたままで、イルカはカカシに抱き込まれている事実にようやく行き当たった。行き当たってしまえば、もの凄い羞恥を感じる。何だってこの悪魔はこういう過度のスキンシップを好むのか理解に苦しむ。
 一度深呼吸をしてから、そうしてイルカはやんわりとカカシの拘束を振りほどいた。振り向いて眠たげに細められた瞳に行き当たって、そして不意に自分が彼を呼びだした理由を思い出した。そう言えばカカシの出現があんまりに突然でイルカの遙かに理解を超えていたから忘れていたけれど、自分がカカシを呼び出した理由は。
 それは…。ちょっと困ったように眉を顰めてから、イルカはカカシに申し訳なさそうに告げた。
「あの、雨が降っていたから…。」
「雨?」
「そう、雨が降っていたから、傘を持ってきてもらおうかと思って、その…。」
 ごにょごにょと口篭もるイルカにカカシは笑う。
「イルカ先生、今日の仕事はもう終わりですか?」
 笑うカカシの顔が本当に楽しそうでイルカは困惑してしまう。そんなことで呼ばないで下さいと、そう言われると思っていたのに。どうしてこの人はこんなにも楽しそうに笑っているのか。申し訳ないと思っていたから、不愉快そうな顔をされるよりはずいぶんとましだとは思うけれど。
 単なる好奇心で呼んだ部分もないとはいえないから、めんどくさそうにあしらわれたらいやだとは思っていたけれど、でも。まさかこんな嬉しそうな顔をされるとも思っていなくて困惑してしまう。
「そうですね、もう帰ろうかと思ってましたけど。」
 でも何でそんなこと聞かれるんだろう。目の前でにこにこと相好を崩すカカシにどうしていいか分からないままイルカはそう答えた。笑ったままのカカシ。
「玄関のところで待ってますから、荷物取ってきて下さいよ。一緒に帰りましょう。」
 にこにこと含む所なんて何にもないような顔で笑う。そんな嬉しそうなカカシには悪いけれど、でも。一緒に帰るなんてそんな目立つことは出来たら避けたいような気がする。避けたいような、気が。
「ほら早く、イルカ先生。一緒に行ってもいいけどそれって不自然じゃないですか。だからオレ先に玄関のとこに行ってますから、ね?」
 困惑した表情をあらわにしたイルカをどう受け取ったのか、カカシは本当に楽しそうにくしゃりと笑いかける。いやそうじゃなくて。玄関まで一緒に行くとか職員室まで付いてきてほしいとか全然思ってなくて。その、出来たら傘だけおいて帰ってくれたらいいのに。
「…一緒に、行きましょうか?」
 全く意志の疎通の出来ないカカシは、このままでは本気でこの調子で職員室にまで付いて来かねない。しかもそれは多分純粋な好意で。無下にも出来ないけれど、そんなのは困る。非常に困る。
 部外者が構内にいるだけでも問題なのに、それが自分の知り合いっぽいとかとても目立つ容姿をしているとかそれだけでとても困るのだ。職員室には少ないとはいえどまだ人が残っている。慌ててイルカは荷物取ってきますとだけいって放送室を出た。


 慌てふためくイルカもなんだか可愛いな、とカカシは押さえきれない笑い声を殺しながら思う。あの人の学習機能というのはとても性能が低いらしい。昨日山中まで瞬間移動したのを一体どう思ってるんだろう。
 傘だなんて、そんな可愛い頼み事のためならホントに労力なんて全然惜しくない。相合い傘はさすがに無理があるだろうからそこまでの高望みはしないけれど、この酷い雨の中二人でとぼとぼ歩いて帰るのも悪くない。なんて可愛い人なんだろう。くつくつと笑いながらカカシはどこからか傘を取り出して、放送室からかき消えたのだった。





 そうして、カカシの提案通り二人でとぼとぼと帰り道を歩く。舗装されたアスファルトの地面を流れる雨をぼんやりと眺めていたイルカは、つと隣を歩いている悪魔に視線を滑らせた。視線に気が付いたのか不意にこちらを向いたカカシと目が合う。
「どうかしましたか?」
 柔らかな表情でそう問うカカシ。別に用なんてないのだけれど。
「いえ、別に、晩飯どうしようかな、と思って。」
 当たり障りのない話題で適当に誤魔化してはみたものの、カカシを眺めてしまった本人にもその理由は分からなかった。カカシといると、どうしてか視線がそちらに吸い寄せられてしまう。引力みたいに気が付いたらふと見つめてしまっている。
 どうしてだろうか。確かに綺麗な顔をしているとは思うけれど、でもそれだけが理由ではないような気がして、そうしてまたカカシに視線を向けてしまう。
「買い物して帰ります?」
 もうすぐ差し掛かる四つ角を右に曲がればスーパーへ、左に曲がればアパートへ。その事を知っていたのか単なる世間話の相槌の一環か分からないけれど、実に絶妙なタイミングでカカシはそう言った。
 土曜日に買い出しにいったばかりだから特に買い足すものはないはずで、冷蔵庫の中を探れば多分適当に何か作れるだろうと思った。こんな雨の日に買い物をして帰るのもなんだか億劫でイルカは、いいです、とだけ返事をした。
 差し掛かった角を左に曲がる。ここからしばらく国道沿いの広い道路を歩いて、それからもう一度曲がればイルカのアパートまではすぐだった。カカシは道を知ってるのだろうか。というよりも、カカシは一体どこまで自分のことを知っているのだろうか。
 この人は今日一日、一体何をしてたんだろう。不意に湧き起こった疑問の数々。その中で一番無難と思われる話題をイルカはカカシに振ってみた。
「カカシさん、あなた今日一日何してたんですか?」
 ばらばらと頭上で賑やかしく雨粒が傘を叩いている。沈黙が気にならないほど親しい相手な訳でもなくだからといって一昨日会ったばかりの人というには親密で、自分はカカシのことを、悪魔だという以外何も知らないことに気が付いた。
「今日ですか?」
 擦れ違う人たちも足早に雨の下を通り抜けていく。カカシの傘越しに見えたパステルカラーの残像は一瞬足を止めてカカシを振り返っていた。ひどく人目を引く容貌なのだと改めて思う。人間離れしているというか。まぁ、人間ではないのだけれど。イルカの質問にカカシは一瞬気まずそうな顔をして、そうして答えた。
「今日はですね、ずっとイルカ先生について回ってました。」
 は?
「はい?」
 今、なんと言ったのか。オレにずっと付いて回ってたって。
 え?
「ばれないように姿を消してはいたんです。だってね、どうせ暇だし側にいた方がなんかあったときすぐに対処出来るし。学校っていうものにも興味があったし。」
 言い訳のようにカカシはイルカに呟いて、そしてにんまりと、笑った。
「だからね、イルカ先生が同僚の先生の好意を断ってまでオレを呼んでくれて、ホントに嬉しかったんです。」
 見てたのか見てたのか見てたのか。あの時もずっとそこにいたのか。
「たとえ興味本位だったとしてもね。」
 カカシの顔に浮かんだ笑顔がとてもいやな感じでイルカは歩調を早めてしまう。傘の上から聞こえる雨音がやけに耳に付いた。
「すいません、イルカ先生。待ってくださいよ。」
 あんまり申し訳なさそうには聞こえない声でカカシはイルカの後ろを歩きながら言った。別に、別にこっそり付いてこなくてもいいじゃないか。気を抜いた自分が実は見られてるなんて知らなくて、なにか失態を犯していないか不安で。別にいいんだけど、でも。
 それにもっとイルカが気に入らないのは別のことだった。立ち止まってくるりとわざわざ後ろを向いてカカシに言う。
「気になってたんですけど、人の心の中、勝手に読むのやめてくれませんか?!」
 そう、ずっと気になっていた。便利だと思ったときもあったけれど、勝手に心中を覗かれてると思うと面白くない。面白くないし、落ち着かない。いつだって明け透けに自分のことを知られているなんてそんなのは、耐えられない。むかむかとカカシを睨み付けるとカカシは何ともいえない顔で視線を逸らした。ハイとも、イイエともとれない顔のままで。
「聞いてるんですか?!」
 痺れを切らして問いただしたイルカにカカシはふと呟いた。
「あ、宝くじ。」
「はぁ?!宝くじ?」
 全く話を聞く気もないのか唐突に呟いたカカシに、イルカは面食らってつい問い返してしまった。その視線を追えば立ち並ぶ店の一角に宝くじ売り場がある。そういえばつい何日か前に年末ジャンボが発売されたばかりではなかったか。
「イルカ先生、買わないんですか?宝くじ。」
 うっかり気が付かないうちに、自分で自分の中の憤りの原因から目を逸らしてしまったイルカはその言葉にう〜ん、と唸る。
「いや、そのうち多分買いますけどね。」
 当たりっこないとは分かっているものの、つい毎回少しではあるが買ってしまう。
「まだ買ってないんですか?だったら今買いましょうよ。」
 とてもいいことを思いついたようにカカシは嬉しそうに言った。いずれは買うつもりだったから別にいいんだけれど、一体何なんだ、この人。カカシの行動はどうも脈略とかそう言うものが欠けているように思えてならない。
 カカシの頭の中ではとても筋の通った確固たる理由と道筋があるのかもしれないけれど、ただの人間である自分にそれを察することは無理そうだった。なんだか考えるのも疲れてきて、イルカはついいいですよと言ってしまう。
「いいですよ、買って帰りましょうか。」
 そう答えたイルカに気をよくしたのか、カカシはイルカを促して売り場の方へ歩き出す。
「イルカ先生、当たってほしい?」
 何気なくカカシはイルカに聞いた。
「そりゃ、当たるもんなら当たってみたいですけどね。」
 無理なことは分かっていても人間夢を見ていたいものだ。ある日突然大金持ちだなんて、そんな夢宝くじくらいじゃないと思いつかない。だからついつい買ってしまうのだ。
3億とは言わないけれど百万くらいは当たらないかな、と。
「やっぱり一等が当たってほしい?」
「そりゃまぁ、ね。」
 思うだけならタダだからイルカは気軽にそう相槌をうった。宝くじを買うイルカを興味深そうに眺めているカカシ。手に入れた夢のかけらを大事に鞄に仕舞ってイルカは家の方向へと再び足を向けた。
「当たるといいですねぇ。」
 何の含みもないようにカカシはそう言う。少なくともイルカにはそれは世間話の一環でしかなくカカシにとってもそうだと思いこんでしまった。ただ並んで歩きながら、ふと最初の怒りをすり替えられてしまったことが何となく面白くなかった。





 有り合わせで作った夕食を食べたあと、イルカはほんの少し今後のことを思って不安に陥った。これからずっとカカシと二人で暮らすとなれば自分の今の給料だけでは心許ない。悪魔は人間から報酬を受け取って望みを叶えると言っていたから、カカシが金を持っている可能性は期待出来そうにないし。
 だいいち二人で暮らすにしては、この部屋は狭すぎる。いずれ近いうちに引っ越さなくてはならないだろう。これでは便利なものを拾ったのか厄介なものを拾ったのか判断に苦しむところだ。一勝一敗というか。
 台所で楽しそうに汚れ物を洗っている悪魔の後ろ姿に溜息が漏れる。けれど、反面この状況を喜んでいる自分がいるのも確かだった。誰かとこうして何の気兼ねもなくご飯を食べたのなんていつ以来だろう。
 伯母の家ではあえて意識してはいなかったけれど、いつもどこか緊張していた。片意地を張っていたわけではないけれど、無意識のうちにみっともないところは見せられないと思っていたのだと思う。もっと素直に甘えれば良かったのだ。伯母夫婦は親切だった。突然不幸に見舞われたイルカにとても気を遣ってくれた。そしてイルカも迷惑をかけまいと必死に気を遣っていた。
 それが、多分彼らと自分の間に越えられない溝を掘ってしまったのだと、思う。今ならもう少し上手く立ち回れたのに。考えてもどうしようもないことだと分かっているから、イルカは意識して思考を止めた。
 そして鼻歌交じりで洗剤を洗い流している男の背中に視線を合わせる。この男は両親が死んで以来血の繋がった親戚でさえ成し得なかった幸福な夕食というものをいとも簡単にイルカに与えた。箸の使い方が分からないとイルカを困らせ、熱い味噌汁にいきなり口を付け火傷したと文句を言いながら。それでもそれは、とても幸福な風景だった。本当にカカシはイルカの望む形の永遠とやらを与えてくれるのかもしれない。不意にそんなことを思った。
 出会ってまだ三日。それなのに戸惑うくらいにイルカを穏やかな気分にさせているなんて。イルカが必死で張っていた壁なんか、まるで最初からなかったみたいな顔をして。
 それにしても引っ越し、どうしたもんだろう。年内は無理としても来年のうちには引っ越しを済ませたい。自分がこうして誰かのために引っ越しを考えたりするなんて、とても不思議な気分だった。カカシが本当に自分を裏切らないなんて保証はどこにもなくて、永遠に失われないだなんて嘘だと思う。
 だけれども、自分はこの男をどこかで信じている。不思議なことだけれど男はイルカの何かをあっさりと突き崩してそこにいた。この男が、悪魔だからかもしれない。人間ではないという存在。だから信じてみてもいいと思ってるのかもしれない。
 もう少し広い部屋に引っ越して、半分くらい常識の欠落しているカカシにいろいろ教えながら仲良く暮らしてみるのも悪くないだろう。お腹はいっぱいで片付けはしなくて良くて、風呂の仕度も済んでいて。
 イルカは食卓に頬杖を付いたままうとうとと眠りに誘われていた。新しい部屋で寛いでいる自分やカカシを夢見心地で想像しながら。
「イルカ先生、こんな所で眠ったら風邪引きますよ。お風呂入りましょう?」
 片付けが完了したのかカカシがいつの間にか側にやってきてイルカを覗き込んでいた。そう、風呂に入らなくては。明日も仕事で早く寝るに越したことはない。だから。うつらうつらと漂う意識を引き戻そうと、イルカは重たい頭を持ち上げようとしていた。ここで眠ってしまいたいのは山々だけれど。風呂に入ってベッドに入ってしまうのが一番いいのは分かってる。
 睡魔と勝ち目の薄い格闘をしているイルカを、カカシはひょいと抱き上げた。イルカが不審に思う間もなかった。あっという間に抱き上げられて風呂場に連れて行かれる。これはひょっとしなくても昨日一昨日と同じパターンか。
 どうやら日本人という人種は風呂に大人数で入ると信じているらしいカカシは、イルカが幾ら言っても一緒に風呂に入ろうとする。一昨日は担ぎ上げられて風呂に連れ込まれ、昨日は先にどうぞと言っておいてあとから乱入された。今日は遂に抱き上げられてしまったか。
 カカシがイルカを女のように扱うのは今に始まったことではないから、もうどうでもいいような気もするけれど、こうもいとも簡単に抱き上げられたのではなんだか自分の男としての威厳というかプライドはどこに置いたらいいんだろう。
 もういいか。眠いし。運んでくれるというのなら運んでもらっても。別に気にしなければいいだけのことだ。相手はなんといっても人間じゃないのだし。悪魔なんだし。
 脱衣所で降ろされてのそのそと服を脱いで一緒に風呂にはいる。湯船に浸かる。今度引っ越しする場所は風呂の広い所じゃないとダメかもしれない。こんな狭い風呂に男二人はちょっと厳しいから。今度、引っ越す先は。
 忍び寄ってきた眠気に抗うことなく、イルカは後ろから自分を抱きしめているカカシにコトリと頭を預けたのだった。



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