火影の部屋から辞したカカシは何も置かれていない隣室へと向かった。重い扉の向こう、部屋の中は文字通り空室だった。むき出しの床、むき出しの壁。何の装飾品も家具も照明すらないその部屋は、けれど強い呪力の気配がする。
そこは術を使うためにある部屋。全てのものを排除し、ただ純粋に術を施すためだけに作られた部屋。気温の低いその部屋に足を踏み入れカカシはゆっくりと扉を閉めた。がちゃんと重い音がして扉が閉まる。そして暗闇に沈んだその部屋の中心まで足を運ぶと、カカシはそこに腰を下ろした。
冷えた床の上にあぐらを組んでカカシはポケットから小さな石を取り出す。石は暗い部屋の中、ぼんやりとした光沢を放っていた。薄い光がカカシの銀の髪を照らし出す。カカシは石を目の高さまでゆったりと持ち上げた。
「イルカ先生…」
呟いてそれからカカシは石を強く握り締め、そして空いている方の手を床にかざした。瞬間、部屋の床一面に巨大な魔法陣が浮かび上がる。青白く発光したそれは、一瞬の後また何事もなかったかのように消えた。
けれど暗闇に閉ざされた部屋の中に、わずかに光が残る。カカシの顔が判別できるほどの弱い光を残して魔法陣は消え去った。そうしてカカシは長い溜め息を吐く。握り締めた手の平を開いて、温かに光るその石を目の前にことりと置いた。
「イルカ、先生」
人差し指でこつりと石を叩いて、カカシはほんの小さな声で呟きを落とす。それは呪文。彼の人の名前。愛おしいただ一つの名前。それが彼を取り戻す長い道程の、最初の呪文。
「イルカ」
石に触れていた手を離してカカシはもう一度呟いた。カカシがイルカの名を唱えたその時、石はさらに光を増した。
「イルカ」
もう一度、呼ぶ。石から漏れる光がだんだんと強くなる。きいん、と金属が擦れ合うような音と共に爆発したような光が部屋を埋め尽くした。強く何もかもを焼き尽くす光にもカカシは目を閉じることなく、ただ光り輝くその石をじっと見つめていた。
そして光はまた石に収束していき、石からするりと人影が現れた。黒い髪、黒い瞳。ゆらりと倒れ込んだ人影を難なく抱き留めて、カカシは抱き込んだ人の耳元でもう一度名を呼んだ。
「イルカ先生」
抱き込まれた人物は、名を呼ばれて覚束ない意識を無理矢理浮上させた。昏い、暗い、冷たい空間。その中でただ一つ、自分を抱きしめる温かいもの。閉じた瞳がゆるりと開いてカカシの瞳を捉えた。濡れたように光る、黒い瞳。
「イルカ先生」
ぼんやりと自分を見上げる人物の頬にカカシはそっと手を当てた。
「……カカシ、さん?」
億劫そうに瞳を閉じて、そうしてイルカはまた目を開けた。眦に堪った水分がその拍子にこめかみを伝って床にぱたりと落ちる。
「大丈夫?」
覗き込む瞳が優しくて、イルカは自分を抱き留めている人の腕をやんわりと掴んだ。
「大丈夫です、けど。何かぼうっとしてて。…ここ、どこですか?」
身を起こそうとして、けれどイルカそれに失敗してカカシの肩に顔を埋めた。身体がいやに重い。カカシの体温を心地よく感じながら、イルカは深く息を吐き出した。酷く体がだるくてカカシがいなければきっと無様に床に倒れ込んでしまうだろう。
「ここは魔界ですよ、イルカ先生」
何でもないことのようにカカシは言った。聞きとがめてイルカはほんの少しきつい口調で問い返した。
「魔界?」
なぜ、自分がそんな所に。湧き上がる疑問を口にする前に、カカシが抱き留めたままのイルカの耳元にそっと囁いた。
「これから全部話します」
そう言ってカカシはいったん言葉を句切った。そうして囁かれた言葉。
「不甲斐なくてゴメンね、イルカ先生。でも絶対あなたを助けるから」
イルカに落とされた言葉はまるで懺悔のように聞こえた。何が起こっているのだろう。イルカには何一つ分かることなど無くて、だからイルカは抱きしめるカカシの背中に手を当ててやんわりとさすった。何もかも一人で背負い込まないでと、そんな風に思いながら。
水分を含んだ瞳を瞬かせてイルカはカカシを見上げている。その瞳に口付けを落とし、そうして涙をぬぐい取ってカカシは小さくまた溜息を吐き出した。
「全部、オレのせいです。オレの読みが甘かった」
カカシの声に深い後悔を感じてイルカは銀の髪に指を絡ませた。ゆったりと髪を梳いて撫でる。イルカの手の平の感触に、カカシはうっとりと目を閉じた。
「何があったんですか?」
次第に力を取り戻してきた身体を起こして、イルカはカカシの腕の中から逃れた。離れていく温もりが淋しい。そう思ったのは片方だけではなかった。
冷たい床にぺったりと座り込んで、イルカはようやく正面からカカシの顔を覗き込んだ。悲しくもないのに眦からはほたりと涙がこぼれる。しぱしぱと瞬きをしたとき、また堅い手の平にそれを拭われた。
「今朝のことを憶えていますか?」
「今朝のこと…?」
涙をこぼしたままイルカはしばし記憶を辿る。今朝。今朝のどのことだろう。困惑した様子のままのイルカにカカシはもう一言付け加えた。
「今朝、あなたの魂を半分に分けたことを憶えていますか?」
イルカは顔を上げてカカシを見つめる。またほろりと涙が落ちた。涙腺はすっかり故障してしまったようで、イルカの意志では涙は止まりそうになかった。
「あぁ、憶えてますよ。すごく気分が悪くなった」
涙を零しながら呟いたイルカにカカシはわずかに頷いた。
「半分に分けた魂の一方はイルカ先生の身体に。オレは残ったもう一方の魂をさらに半分に分けました」
言ったカカシの言葉にイルカは眉を顰めた。
「あんた何勝手に人の魂をすぱすぱ切り分けてるんですか」
咎めるようなその口調にカカシは申し訳なさそうな顔で頭をかいた。
「スイマセン。でも万が一と思って…」
ごにょごにょといい訳をするカカシにイルカは溜め息を吐いて続きを促した。
「で、それがどうしたんですか?」
イルカの声にカカシはそろりと顔を上げる。
「ここに居るイルカ先生はその分けた四分の一です」
「は?」
気の抜けたイルカの返答を別に気にする訳でもなく、カカシはぽつりと言葉を紡ぐ。
「イルカ先生の身体の中に残った方の魂が記憶をなくしています」
「…どういう、事ですか?」
イルカは半ば呆然とカカシを見つめた。ほろほろと眦に溜まった涙が頬を伝う。悲しくも痛くもないのに、どうしてか止まらない涙。ほろほろとただ流れ落ちる涙。イルカの頬を伝う涙を受け止めたのは、乾いたカカシの大きな手の平。涙を拭ってカカシはイルカをそっと抱き寄せた。
「正直な所、正確な状況は分かりません。ただ、オレとイルカ先生の魂は繋がってるからイルカ先生の記憶がなくなった理由が術によるものだって事くらいは分かるんです」
術を掛けられ記憶をなくしたイルカの魂。イルカの身体に宿った、半分だけの魂。
「イルカ先生の記憶を封じたのは大蛇丸という悪魔です。とても、強い。魔界にいたらオレ如きが敵う相手じゃありませんが、あいつが地上にいる限りオレにも勝機がある」
抱き寄せられたカカシの胸はとても温かかった。ほぅ、と息を吐き出してイルカはうっとりと目を閉じる。ほろりとまた、涙がこぼれた。
「絶対に助けますから。必ずあなたの元に辿り着いてみせるから」
堅いカカシの声を聞きながらようやくイルカは自分が泣いている理由が分かった。可哀想な自分。記憶をなくしてしまった自分の半分はいったいどれほど心細いだろう。たった一人、とても大事なモノを忘れてしまったことにさえ気が付かずにどれほど心細いだろう。可哀想に。カカシの背中に腕を回して、イルカはカカシの匂いを胸に吸い込んだ。
止まらない涙。どこかで繋がっているはずの記憶をなくしてしまった自分。きっと泣いている。この人の不在を痛いほどに感じて、きっと泣いている。
この涙は、この止まらない涙は、カカシの存在を感じているからこぼれる涙だ。魂のどこかがきっとカカシの存在を感じて流す安堵の涙だ。だからカカシが側にいることが、こんなにも近くにいることがほんの少し申し訳ないような気分になる。
自分に対してそんなことを思うのもどうかしてるけれど。それとも、こんなわずかな魂だけでも彼の側にいられることを喜ぶべきなのだろうか。自分の全てが彼を失わずに済んだことを、喜ぶべきなのだろうか。
「イルカ先生」
きつく抱きしめていた腕の力を少しだけ緩めて、カカシはイルカを呼んだ。
「なんですか?」
またはらりと涙がこぼれる。
「あなたの協力が必要なんです。本当のところ、オレに出来ることなんてほとんどないんです。全てはあなたにかかってる」
こぼれた涙を拭いながら、カカシは重たい息を吐き出す。自分を責めているのだろう。苦渋に満ちたカカシの声に胸がつきりと痛んだ。カカシが悪い訳ではないのに。
痛みを堪えるようにイルカを見つめるカカシに、ふと顔を近づける。そうして、小さなキスをその唇に落とした。ほんの僅かな時間重なった唇はちゅ、と音を立てて離れた。首を引き寄せるように腕を絡めて、イルカはもう一度その唇に口付けを落とす。離れては、もう一度。軽いキスを繰り返すイルカをカカシはその腕にきつく抱き込んだ。
離れる唇を追って、今度はカカシから口付ける。閉じた唇を舌でなぞり開かせる。薄く誘い込むように開けられた隙間から舌をねじ込んで逃げまどうイルカの舌を絡め取った。くちゅりと粘液のこすれる音がしてイルカの唇から飲み込みきれない唾液が伝うのにそれほど時間はかからなかった。けれど口付けは止まない。快楽にぐずりと溶け出した思考でイルカはカカシの背を弱く叩いた。
ほんの僅かで些細なイルカの抵抗にカカシは名残惜しげに唇を離す。つうと離れた唇から唾液が伝って、イルカはその卑猥な光景に知らず頬を赤らめた。濡れて腫れぼったくなったイルカの唇にカカシは軽くもう一度口付けて、そうしてほんの少しきまりの悪い顔で笑った。
「弱音を吐いてる場合じゃないですね。ゴメンね、イルカ先生。でも元気出たから」
ちゅ、と頬にキスをして、カカシはゆるりと笑う。
「い、いや、あの」
カカシの笑顔と優しい仕草にイルカは顔を赤らめて俯いてしまう。慰めようと思ったのは確かで。そう、酷く張り詰めたカカシの気配が痛々しくて、その事が少し不安でカカシを慰めようと思ったのだ。
だからキスをした。カカシとのキスは自分をいつも安心させるから。だからただそれだけの理由だったのだけれど。熱くなり始めている自分の身体。浅ましい、いやらしい身体。俯いたまま顔を上げられないイルカにカカシは柔らかく笑った。
「続きはまた後でね」
ゆるりと背中を撫でたカカシの手に、イルカはびくりと身を竦ませる。
「あ、後でって…。元に戻ってから?」
勝手に震える指先でカカシの上着を握り締めてイルカはそう聞いた。続きを期待して聞いたのか、それともそうではないのか。もう自分でもよく分からない。
「そこまでは、オレが多分持たないかな」
くつくつと笑うカカシ。恥ずかしさに身の置き所がなくて、仕方なくイルカはカカシにもう一度凭れる。あれほどこぼれ落ちていた涙は、いつの間にか止まっていた。
「さて」
あんまりこうしてても話が進まないねと、カカシはのろのろとイルカから身を離した。行儀悪く胡座をかいたカカシをイルカはぼんやりと見つめる。
「オレは何をしたらいいんでしょうか」
カカシの前にぺったりと座り込んだままイルカは問いかけた。心許ない、という感じがある。自分がきちんと確立されていないような、そんな気が。魂が別れているせいだろうと思った。自分の魂の多くはこことは別の場所にあるからこんなにも心許ないのだろう。それともカカシを忘れてしまった自分の不安が伝わってきているのだろうか。
分からない。分からないけれど、カカシがここにいるのにどうしても根本的な不安を拭えずにいる。その事が、どことなくカカシに申し訳なかった。
「そんな不安そうにしないで。大丈夫だから」
涙の跡がまだ残るイルカのほんのりと赤い頬を撫でてカカシは緩く笑った。触れられているときだけ不安が去る。カカシが触れているときだけ。ようやくイルカも息を吐き出して、やんわりと笑みを浮かべた。
「もう大丈夫です」
笑ってカカシにそう言うと頬を撫でていた手がふいに遠ざかろうとする。イルカは弱い力でその手を押しとどめた。
「大丈夫だけど、オレに触れていてくれませんか?」
カカシの手首を握ったままイルカはそう言った。笑えるのは、この手があるからだ。ここにこうして彼の手が触れているからだ。揺らぐイルカの瞳の中に堪えようのない不安を嗅ぎ取ってカカシはその身を抱き寄せた。くるりとイルカの身体を回して、後ろからイルカを抱き込む。顔は見えなくなってしまうけれど、こうしていた方がきっとイルカも安心なのだろう。そんな風に思って。
「これでイイ?」
イルカの肩にアゴを乗せ、そうして緩く腹の前で腕を交差させる。カカシに小さく拘束されてイルカは安堵の溜息を吐いた。
「ありがとうございます」
ぺったりとカカシに背を預けて、イルカはゆるりと小さく笑みを浮かべた。
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