「さて、じゃあ始めようか。イルカ先生目を凝らして」
後ろからイルカを抱き込んだまま、カカシはそう言葉を発した。いきなりのその言葉にイルカは思わず振り返る。イルカを覗き込むその瞳は柔らかい色を宿していた。
「ほら、前向いて」
促されるままに前に向き直ると、耳元でまたカカシが言った。
「イルカ先生、オレが指さす方向に目を凝らして」
ついとカカシの骨張った人差し指がイルカの真正面に向かって伸ばされる。何もない空間を捉えたカカシの指。その指の指し示す方向に、イルカは言われるがままに目を凝らした。眼前に広がるのは昏い闇。カカシと自分が座っている僅かな空間だけが仄かな青い光に照らされている。光源はどこか分からないけれど、優しい光だとイルカは思った。
「何か見える?」
カカシの示す方向を、じっと目を凝らして見つめる。昏い昏い闇の中。どこまで続いているか分からないほどの闇。その闇の中に、ほんの小さな明かりが見えた。それは本当に僅かな光。カカシに言われて目を凝らさなければ気が付かなかったであろう光。薄い小さな明かりがいったいどれほど遠くにあるかは、イルカには分からなかった。
「光が、見えます。凄く小さいけど」
イルカの言葉にカカシはほうと息を吐き出した。
「光が見えますか。良かった」
ふいに後ろからの拘束が強くなり、イルカは驚いて身を固くする。肩口に甘えるように額を擦りつけて、カカシはふふと笑った。
「どうしたんですか?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられてイルカは訳も分からないまま身を捩った。けれど拘束が強すぎて振り返ることもままならない。
「良かった。これで第一段階は成功です。あなたを分かれた魂に会わせてあげる」
カカシはとても嬉しそうにそう言った。カカシの言うことはよく分からなかったけれど、多分これが自分を助けるための手段の一つなんだろうことは分かった。でもそれ以上のことは本当に分からない。
「ちゃんと説明して下さい」
自分を抱きかかえるカカシの腕をぽかりと叩いてイルカは怒ったようにそう言った。
「すいません、つい嬉しくって」
ふふとカカシは耳元で笑う。触れる吐息がくすぐったくてイルカは身を竦ませた。
「で、どうするつもりなんですか?」
身をすり寄せるカカシをどうにかいなしてイルカはようやくそう問うた。イルカの問いにカカシはそうですね、と言う。
「イルカ先生が見た光の先にイルカ先生の残りの魂があります。あの光を辿っていけばいつかは別れた魂と出会うことが出来る。オレにその光を見ることは今のところ出来ません」
ぼんやりとイルカが光を見た方向に視線を動かしてカカシは呟いた。カカシの視線の先をイルカも辿る。
「オレは別れた魂と出会う必要があるんですね?」
背中を包む温かな体温。分かたれた自分の魂はこの温かさを感じているだろうか。
「ハイ。必ず出会って貰わなくちゃなりません」
ゆったりとイルカを抱き込んだままカカシはきっぱりとした口調でそう言った。口調の強さにイルカはほんの少し驚く。
「なぜですか?」
なぜ、と言う質問はあまり正しくはない、とイルカは思う。いずれは還らなければならない魂なのだから。自分は単体で存在しうるものではない。けれど、なぜ今、そんなにも急いで。
「一つにはオレが地上に出ることが出来ないからです」
「え?」
イルカ思わず驚いたような声を上げた。
「イルカ先生に言ったことを憶えてますか?」
イルカの驚きにカカシはくすりと笑う。憶えていますか。カカシはそう問うた。カカシが、イルカにいった言葉。
「…オレが記憶をなくしたら、地上に出られない?」
カカシは今朝、確かにそう言った。万が一記憶をなくしたら地上に出られなくなるからオレを忘れないでね、そう言った。
「そうです。今現在オレは地上に出ることは出来ません。肉体も精神も。ただイルカ先生はオレのことを完全に忘れた訳じゃない。忘れてるのは肉体に宿る魂だけで、ここにいる四分の一のイルカ先生と部屋に残された四分の一のイルカ先生、合わせて半分はオレのことを憶えてる」
忘れないといったのに。けして忘れないと、あの時は思ったのに。忘れるはずなんてないと。なのにこんなにもたやすく。
「そうですね」
背中に感じる体温がやけに温かく感じる。失えないと思ったものを、こんなにもたやすく失ってしまった。とても小さく息を吐き出したイルカをカカシはもう少し強い力で抱きしめる。慰められているとイルカは思う。いつもいつも、こんな風に。何も気が付かないようにカカシは話を続けた。
「肉体ごと地上に出るのは今の段階では不可能です。ただ」
そう言ってカカシはいったん言葉を飲み込んだ。甘えるように肩に頬を擦り寄せている。
「ただ、精神体だけなら多分出られる。イルカ先生について行けばね」
「え?」
問い返しながらイルカは思う。カカシもまた不安なのかもしれない。大丈夫と言いながら不安なのかもしれない。自分と同じように、ひょっとしたら自分よりももっと。
「イルカ先生が地上の魂に合流する道筋をオレも一緒に辿るんです。そうすればオレは精神体だけですが地上に出られるはずです」
カカシには頼るものがないのだ。自分にはカカシがいるけれど。
「なるほど…。でも地上に出てどうするんです?」
何かできることはないのだろうか。カカシの言葉を聞きながらイルカは痛切に思った。何かを守るにはどうしてこんなにも自分の手は小さいのだろうか。彼を抱きしめることしかできない、この役立たずな手。せめて温もりだけでも彼に返したくてイルカは自分を抱きしめるカカシの腕にそっと手を当てた。触れたカカシの手は自分の手の平よりも少し冷たく感じた。
「夢に…」
触れたイルカの手の平の温かさにカカシはゆるりと目を閉じる。
「え?」
囁きは低く小さかった。
「イルカ先生の夢に介入しようと思います」
今度はもう少しはっきりとした声でカカシはそう言った。
「…夢?」
カカシの言葉をイルカはただ繰り返した。それ以外出来ることは何もなかった。
「今のオレではここにいるイルカ先生を肉体に戻すことは出来ません」
そう言ったカカシの言葉にわずかに滲む責める響き。自分自身の不甲斐なさを責める響き。彼が悪いのではないのに。彼の後悔が少しでも軽くなればいいのに。そう思いながらイルカはカカシの腕をそっと撫でた。
「あなたが地上のイルカ先生の身体に戻ることが出来ればおそらく記憶は戻るでしょうけれど、今のオレにはあなたを肉体に戻す力がない」
慰めるイルカの手の平にカカシは息を吐き出してそう言った。一体どれほどの後悔がこの人を苛んでいるのだろう。ゆるりと身体を擦り寄せれば、抱きしめる腕の力が増した。
「カカシさん…」
名を呼ぶことしかできない自分。彼の側にいることしか出来ない自分。ただ、それだけしか。
「だから、地上のイルカ先生の夢に介入します。夢を通じてイルカ先生とコンタクトを取ります」
足を引っ張ることしかできない。後悔し懺悔するのは自分の方だ。約束を違えたのは自分の方だ。ごめんなさい、口には出せなかったけれどイルカはそんな風に思った。
「そうしたら、思い出してもらえるかも知れない」
最後にぽつりと零れた言葉は、ひどくイルカの胸を打った。
「カカシ、さん…」
もう一度、名を呼ぶ。たった一つ、自分にしかできないこと。
「思い出してもらえさえすれば。オレのことを、思い出してもらえさえすれば」
カカシを思い出すこと。カカシの足手まといにしかならない自分がただ一つ出来ること。しなくてはならないこと。
「カカシさん…」
抱きしめる腕に縋って名を呼んだ。きっとカカシの方が自分よりもずっとずっと不安なのだ。
「カカシさん、大丈夫です」
息を吐き出してイルカはそう言った。
「イルカ先生…?」
なんの根拠もなかったけれど。
「大丈夫、です。きっとちゃんと上手くいくから。大丈夫。オレがあなたを思い出さないなんてことあるはずないんだから」
そう、忘れたままだなんてそんなことありえない。自分がカカシを忘れるだなんてありえないんだから。
「名を呼べば、いいんでしょう?」
抱きしめる温かな腕に縋ったままイルカはやんわりと笑顔を浮かべてそう言った。
「あなたの名を呼びさえすればいいんでしょう?」
いつかあなたがかけてくれた魔法。自分がたった一つおこすことの出来る奇蹟。なんの根拠もないけれど、きっと大丈夫。
「……ハイ…」
熱い塊を吐き出すようにカカシはようやくそう頷いた。
「大丈夫、必ず呼ぶから。そうすれば、助けてくれるんでしょう?」
「ハイ」
かき抱いた身体をカカシはきつくきつく抱きしめる。
「ハイ、必ず」
きつく抱きしめられてイルカはそうっと目を閉じた。カカシの身体が少し震えているのを気付かないふりをして。
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