* * *
「っと」
着地の感覚が今一ついつもと違ってサスケは思わず言葉を漏らした。同時に背後でどたりみっともない音がする。
「ってぇ!」
「ナルト何してるのよ」
無様にコンクリートの上にひっくり返った金髪の子供を、サクラは呆れたように見下ろした。サクラだけが別段普段と変わりない顔をしている。バランス感覚の良さは相変わらずだな、とサスケは思った。
ぶつけた頭をさすりながら、ナルトは、サクラちゃんひどいってばよ〜、などと呟いている。力の使い方は今一つだがナルトも普段とさして変わった様子はない。いつどんな場所にいても変わらない精神力の強さ。ひょっとしたら自分が一番緊張しているのかも知れないと内心思いながらサスケはサクラに問うた。
「どこだ、ここは?」
サスケ君、と呟いたサクラの後ろ。身を起こして埃を払うナルトのさらに後ろに広がる無機質な空間。細い廊下のような場所に彼らはいた。サスケの右手にはむき出しのコンクリートの壁が。左手にはサスケの肩ほどの所に手すりがある。手すりの向こうには夜が広がっている。そうして眩いばかりのイルミネーションが黒き闇夜を彩っていた。
「ここはカカシ先生が契約者の人と一緒に住んでるマンションよ」
ぼんやりと景色に引き込まれていた意識がサクラの一言で急に現実に引き戻される。ここには遊びに来た訳ではない。けれど初めてみる地上の美しさに、サスケは心を奪われずにはいなかった。
「わー!スゲェ!見てみろってばよ、サスケ!」
唐突に右腕に触れた熱い手の平。ぐいと引かれてサスケはもう一度イルミネーションに視線を戻した。
「夜空がもう一個あるみたいだってばよ!」
地上の星。誰かがそう言っていたのをふいにサスケは思い出す。
「ななっ!サクラちゃん、スゲェ綺麗だな」
「ほんと、すごい綺麗」
サクラも手摺りから身を乗り出すように、地上を埋め尽くす灯りに見とれている。美しい世界。魔界とは何もかも違う人間の住む世界。これが、地上。闇夜さえも温かい、世界。
「オイ、遊びに来たんじゃないんだぞ」
いつまでも眺めていそうなナルトを小突いてサスケはサクラを促す。
「何をすればいいんだ?」
ちぇ、とナルトが不平を零すのが聞こえた。その事にサスケはどうしてかひどく安堵した。いつもの感じ。そう、いつもの感じが戻ってくる。難しい任務、計り知れない実力の敵、まだ見ぬ人間というもの。カカシの大切なもの。
じっとナルトを見つめて視線に気が付かれる前に瞳を閉ざした。大丈夫だ。ナルトを窘めサクラがよりやりやすい形で仕事を進める。いざとなれば盾になる。それがスタンス。タイミングを計ること、仲間の力を引き出すこと。
息を吐き出して瞼を押し上げサスケは不敵な笑みを浮かべた。大丈夫だ。失敗するはずがない。オレとナルトとサクラならば。サスケの言葉にサクラはほんの少し頬を赤らめて笑った。
「仕事が先よね。いいわ、これからカカシ先生から預かった計画を話すから」
サクラの言葉にサスケは無言で頷いた。彼女の薄い桃色の髪の向こうに、光り輝く夜が透けて見えた。
「カカシ先生から渡されたのは記憶操作の魔法陣なの」
そういってサクラは、コンクリートの壁にぺたりと手をつけた。
「ここに扉があるのが、分かる?」
ほんの少し含んだような笑いを浮かべてサクラは二人を見ている。
「扉?」
思わず問い返したサスケに同調するようにナルトも壁を見ながら喚いた。
「なに言ってんだってばよ、サクラちゃん。扉なんかどこにもないじゃん」
ぺたぺたと壁を触りながらナルトは不審げに目を細める。サスケもサクラの言葉の意味を計りかねて壁を触った。指先に伝わるほんの僅かな術の感触にサスケは思わず壁に付けた手を離してしまった。
「結界か?」
「そうよ。さすがサスケ君」
相変わらずコンクリートに手をつけたままサクラは満足げに笑っている。
「結界?何の話だってばよ」
分からないのはナルト。壁に触ることに飽きたのか、そこから手を離して二人を見た。
「大体扉なんてどこにもないし…」
呟いたナルトにサクラは眦を吊り上げた。
「まだ気が付かないの?扉がないんじゃなくて結界で見えなくなってるのよ!」
ぴしゃりと言い放ってサクラはこつこつと壁を叩いた。
「でもよ、サクラちゃん。オレってばそんな結界見たことないてばよ…」
それでもまだ小さく反論を試みようとしたナルトを無情にもサクラは遮った。
「さすがカカシ先生よね。私もこんなすごい結界を実際に見るのは初めてだわ。これじゃ悪魔どころか人間ですらこの部屋に進入することは不可能ね」
ひどく感心したようなサクラの態度にサスケは小さく溜め息を吐いた。
「カカシの結界と記憶操作の魔法陣にいったい何の関係がある?」
ナルトは全く持って納得のいかないといった表情で壁を凝視している。触っては手を離し叩いては首を傾げる。サスケはそんなナルトにも深い深い溜め息を吐いた。
ナルトでは分かるまい。術の綻びどころか残り香でさえも感じられないほどの完璧な結界。溜息と共にこぼれ落ちたサスケの台詞にサクラは壁から視線を引きはがして言った。
「結界に入る方法はたった一つ。イルカ先生に部屋に入れて貰うしかないの。そのためにイルカ先生の記憶を改竄するのよ」
サクラの強い視線から僅かに目を逸らして、サスケは眼前にそびえる冷たいコンクリートをもう一度見た。
「えっとね。カカシ先生が作った二人の設定はね」
サスケから視線を外すとサクラはごそごそとポケットを漁った。一枚の紙片を取り出してぺらりと開く。そうしてサクラは紙片を見つめたまま固まってしまった。
「おい、サクラ…」
未だ壁と格闘しているナルトの首根っこを掴んでサスケはサクラに言葉の続きを促した。あの男、いったいどんな設定を用意したのやら。
「何すんだってばよ、サスケ!離せっ!」
「うるさいドベ」
きーきーとうるさく喚くナルトをいなしてサスケはもう一度サクラを呼んだ。
「サクラ?」
問いかけるサスケにようやく我に返ったようにサクラは顔を上げた。
「あぁ、ごめんサスケ君。えっとね、二人の設定はね。驚かないでよ」
そうわざわざ前置きをする。サクラの勿体ぶった前置きにさすがのナルトも静かになる。いったいどんな設定をしたのやら。
「イルカ先生の従兄弟の子供。しかも双子だそうよ」
は?サクラの放った言葉の意味を取り損ねてサスケ間抜けな顔をした。実際に問い返したのはナルトである。
「は?何言ってんだってばよ、サクラちゃん。意味わかんねーってばよ」
意味が分からないというよりは無理がないか、それ。サスケはナルトの言葉に心の中で意味のないツッコミを入れていた。
「それは私もそう思うけど、しょうがないでしょ。カカシ先生が組んだ記憶操作の魔法陣はそういう設定になってるんだから。イルカ先生がこの魔法陣に踏み込んだときイルカ先生の記憶はそういう風に改竄されるの。無理があろうとなかろうと関係ないわ。ともかく二人はイルカ先生の従兄弟の子供で双子なの。それでね」
捲し立てるようにサクラは言った。
「それで、二人は両親が仕事で外国へ行っている間、イルカ先生のところでお世話になるってそういう設定らしいわ」
サクラは深々と溜め息を吐く。双子、双子か。これほど容姿が似てないのに双子。それで信じてもらえるのか?ていうか信じないだろう、普通。どことなく頭痛がするようでサスケは頭を押さえた。
「とにかく!そういう設定だから二人ともよろしくね。じゃ、そこどいて」
サクラはそういって乱暴にナルトをその場から動かした。そのナルトに押されるようにサスケも体を動かす。
「何だよサクラちゃん。何すんだってばよ」
サクラから歩幅にして五歩ほど離れた所に立たされて、ナルトは不思議そうに問うた。ついに魔法陣を敷くのだろう。サスケは壁に凭れて興味深げにサクラを見つめた。
「魔法陣を敷くわ。明日の朝イルカ先生が部屋から出てきてこの魔法陣に入れば記憶操作は完了するから、二人は夕方先生が帰ってきて部屋に入る前に話しかけてね」
言いながらサクラはコンクリートの床に両手をかざした。片方の手の平で片方の手を押さえるように重ね合わせ、低く呪文を唱え始める。長い長い詠唱を聞きながらナルトは小さな声でサスケに言った。
「スゲェよな、サクラちゃん」
素直な言葉にサスケも小さく頷く。
「あぁ」
負けてはいられない、とサスケは思った。サクラにも、そしてナルトにも。詠唱が終わりサクラの足元が鋭い光を放ち始める。赤く燃えるような光がサクラの小さな身体を染め上げ、そして辺りに一瞬巨大な魔法陣が浮かび上がった。ぱきんと何かが割れるような音がして、そして再び辺りは静寂に包まれる。
「オッケーよ、これで大丈夫。私はこれから児雷也さんの所へ向かうから二人とも後はよろしくね」
新たな転移魔法陣を描きながらサクラは二人に笑いかけた。
「あぁ」
「任せとけってばよ!」
力強く頷いた二人を確認して、そうしてサクラは闇に溶けた。期待と不安の入り交じった不思議な高揚感を憶えて、サスケは薄い笑みを顔に浮かべていた。
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