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          * * *



 床に崩れ落ちた人物を見ながら大蛇丸は小さく舌打ちする。
「何て結界を施してるのかしら」
 思った以上に強固な結界がイルカを取り巻いている。本当ならばカカシの記憶はイルカから完全に消え去るはずだったのに。不完全に封印されただけにとどまった、イルカの記憶。これでは何かの拍子に思い出さないとも限らない。イルカがカカシを思い出してしまえばそれまでだ。大蛇丸は力無く倒れたイルカを冷たく見下ろしたまま、それでも口の端をゆっくりと吊り上げた。
「まあいいわ。こうでなくては面白くない」
 そう、こうでなくては何の面白味もない。しゃがみ込んでイルカに次の術を施すべく大蛇丸は手をかざした。かざされた手に反応するようにイルカの体がぼんやりと光を放つ。大蛇丸はイルカのその反応に、ほんのわずか驚いたような表情を浮かべた。驚きは歪んだ笑みに変わる。くすくすと笑いながら大蛇丸はかざした手をそのまま降ろした。
「随分と過保護なこと。よっぽど大事にしてるのね、カカシ君」
 イルカの魂が半分抜けている。
「これじゃあ術をかけるのは無理ね。今日のところは見逃してあげましょう」
 抜けた半分を無理にでもイルカの中に戻さなくてはならない。面白くなってきた、と大蛇丸は声に出さずに呟いた。横たわったままのイルカ。地上に戻れなくなっているはずのカカシ。
「この子が思い出すのが先か、私の術が完成するのが先か」
 くすくすと堪えきれない嗤いを漏らして大蛇丸はその場から音もなく姿を消す。意識を失い倒れたイルカの右手は未だその胸に当てられたままだった。





 ひどく寂しい気持ちだった。一体何がそんなに寂しいのか、分からなかったけれど。何かを失ってしまったようなそんな喪失感を胸に抱えていて、それが寂しいのだと思った。失ったものがなんなのか、それは分からなかったけれど。果たして本当に失ってしまったのかそれとも失ってしまったような気がするだけなのか、それさえも、分からなかったけれど。

 けれど。

 こんな風に寂しいのは両親が死んで以来初めてかも知れないと思う。何かを失ったというよりは誰かを失ってしまった、そういう喪失感に似ているとそう思った。すんと心が冷えたような気さえして、そしてイルカはようやく眠りから目を覚ます。
 見慣れない天井、周囲に張り巡らされているカーテン。カーテンの向こうの人の気配。まだぼんやりとする頭を振ってイルカは上半身を起こす。ここはどこだろう。イルカが起きあがったのに気が付いたのか、カーテンの一角がめくられて見知った顔がそこから覗く。
「イルカ先生、目が覚めました?」
 そう声をかけてくれたのは養護教諭だった。
「…オレ、どうしちゃったんでしょうか?」
 見慣れた顔に安堵してイルカはここが保健室だと知る。保健室だとは分かったけれど、どうして自分がここにいるのかは分からない。ここで眠るに至った経緯がさっぱり思い浮かばなくてイルカは取りあえず養護教諭にそう問うた。
「国語科の準備室で倒れたそうですよ。大蛇先生が慌てて職員室に呼びに来たんで、取りあえず男の先生方に手伝ってもらってここに運んでもらったんです」
 大蛇。あぁ、そういえば、とイルカは思う。今日赴任してきたばかりの彼女に準備室の案内を頼まれたのだ。そして、準備室に着いてそこからの記憶がない。ということはそこで倒れたのだろう。ぼんやりと思考を巡らせるイルカに養護教諭は優しく諭す。
「多分貧血じゃないかと思いますけど、イルカ先生何でも根を詰めてやる方だからほどほどにしなくちゃ体が持ちませんよ」
 その言葉にイルカはどうしてか泣きそうな気持ちになった。
『ほら、イルカ先生。そんなに根を詰めてやると体に悪いですよ。大体仕事家に持って帰っちゃ駄目だって』
 ほんの少し怒ったような困ったような口調で誰かにそんな風に言われたことがあったような気がして、なぜだか泣きそうになった。イルカを気遣うようにそんな風に諭してくれる人物なんて今は誰もいないというのに。両親が死んでからずっと一人だったから、そんな風に諭してくれる人なんていないはずなのに。どうしてだろう、そんな風に思うなんて。そんな風に言ってくれる人がいたような気がするなんて。
「イルカ先生大丈夫ですか?」
 黙ってしまったイルカを具合が悪いと思ったのか、養護教諭が労るように声を掛ける。
「あ、いえ、大丈夫です」
 慌てて笑顔を取り繕ってイルカは顔を上げた。
「どうもご迷惑をおかけしました」
「そんなことは気にしなくてもいいですけど、イルカ先生今日はゆっくり休んでくださいね」
 あれこれと注意事項を言い渡す養護教諭をありがたいと思いながらも、イルカは一刻も早く一人になりたかった。何かとても大切なものをなくしたような気がしていて。そんなものあるはずないのにそれを探さなくてはいけないような気がしていて。自分は一体何を無くしてしまったのだろう。無くしたものなんて無いはずなのに。寂しくて寂しくてイルカはどうしてこんなにも心細い気持ちになるのか全然分からなかった。
 お世話になりました、と言って保健室を出る。眠っていた時間は案外短く辺りはまだ夕暮れの光に包まれていた。早く家に帰らなくてはと思う。どうしてか分からないけれど、それでも一刻も早く家に帰りたいと思う。誰も待つ人などいないのにどうしてこんなにも家が恋しいのだろうか。さっきから感じている覚えのない喪失感に関係しているような気がして、イルカは急いで職員玄関に向かう。靴を取り出して、ふと何かを思い出しそうになった。
 雨の日、誰かが待っていた。ぽかりと頭に浮かんだ考えにイルカは苦笑混じりに顔を歪める。そんなはずがないのに。昔観た映画かドラマのシーンにそういうのがあったのかも知れないと思った。記憶というのにはあまりにも曖昧なイメージにイルカは笑う。
 今日の自分は一体どうしたというのだろう。笑いながらイルカはそれでも寂しさにつぶれそうになる胸をどうしていいのか分からなかった。どうしてこんなにも、寂しいのだろう。夕闇の迫る校庭を横切って歩き慣れた家までの道を力無くたどる。寂しいと思った。帰りたいと思っているのに、誰もいないあの部屋に一人帰るのはもの凄く憂鬱で。
 どうしてこんなにも帰りたいと思うのか。なのにどうしてこんなにも寂しいのか。規則的に足を進めれば程なくして真新しいマンションに辿り着く。
 見上げた瞬間ふと胸に灯がともったように暖かい気持ちになった。あの部屋にいれば安全だから。何も危険なことなど無いはずなのにイルカは不意にそんな風に思う。
 何も心配することなどないはずなのに、そう思うのにイルカの足は勝手に急いでいる。半ば駆けるように部屋に辿り着き、鍵を開け乱暴に扉を開く。扉がばたんと音を立てて閉まった。
 これでもう大丈夫。恐いことはもう起こらないから。知らず漏れた安堵の溜息をイルカは訝しく思う。自分は何をこんなにも恐れているのだろう。どうしてこの部屋がそんなにも安全だと思うのだろう。思った以上に自分が緊張していたことにイルカは驚く。何にそんなにも気を遣っていたのだろうかと。
 そうして、とても安心だと思うこの部屋に帰ったというのに、イルカの中の寂寥感はさらに増していた。寂しい。痛む胸を無意識に押さえて、イルカは深い溜息を吐く。吐き出した溜息をそのままに、イルカはぼんやりと玄関に佇んでいた。
 胸が痛くて心細くて。壊れてしまいそうな何かを必至で守るように、玄関の重たい扉にぴったりと背中を預けたまま目を閉じていた。一体どのくらいそうしていたのだろう。少しずつ薄らいでいく寂寥感にイルカはもう一度大きく溜息を吐く。
「何してんだろ、オレ」
 預けていた背中をゆっくりと引きはがしてようやく靴を脱いで台所に向かう。早く日常を取り戻したかった。こんな訳の分からない寂しさに振り回されていたくなかった。自分が一人なのはもうずっと前からのこと。両親が死んだあの時からずっと自分は一人だった。だから、今更何を寂しいと思う必要があるのだろうか。
 ご飯を食べて、風呂に入って、今日は早く休もう。イルカはそう思う。寂しさに潰されてしまわないよう、早く自分の中に日常を取り戻さなくては。誰もいなかったあの頃の、日常を。
 ふいにそう思った自分をまたいぶかしく思う。ずっと一人だったのにどうしてそんな風に思うのだろうか、と。これ以上は考えない方がいいのかも知れない。同じ所を回り続ける自分の思考に疲れ果ててイルカはそう思った。今日はもう、考えるのはよそう。台所に入り冷蔵庫から水を取り出す。
 ふと目に付いたのはコンロの上に置かれた見慣れぬ大鍋。オレ、何か作ってたっけ?作った記憶も鍋を出した記憶さえないそれに、イルカは大きな違和感を覚える。蓋を取ると中にはたっぷりのカレーが作り置きしてあった。
 カレー?
「いつ、作ったんだっけ?」
 それにこんなに沢山一人で食べるつもりだったんだろうか。決定的な何かが欠けているような気がしている。それも、とても大切な何かが。香辛料のいい匂いがあたりに漂っていた。
 イルカは呆然と立ち竦んでカレー鍋を覗き込んだ。鍋の中にカレーがある。いくら眺めてもその事実は変わることはない。そう、鍋の中には暖めれば食べられる状態になったカレーがあって。いくら作った覚えがないとしても、それがここにある以上作ったのはイルカに違いない。
 ようやく諦めがついてイルカはカレーを作ったのが自分であることを認めてみた。しっくりこないし、自分が記憶喪失にでもなったみたいに思えるくらいだったけれどそれでもカレーがここにある以上認めなくては仕方がない。
「せっかくだし、食べよう」
 そう、食べて風呂に入って休むのだ。疲弊した精神を補うように体は休息を求めている。コンロに火をいれてイルカは手を洗う。何かが抜け落ちている。確かに何かが抜け落ちているのだ。自分がこのカレーを作ったことを思い出せない以上何かが足りない。
 でも、何が?ぐるりとカレーをかき混ぜながらイルカは溜息を吐く。思い出せない何か。でもそれが無くてもイルカの記憶には綻びがほとんど無い。
 両親が死んだこと。親戚に引き取られたこと。その親戚から別の親戚にもう一度引き取られたこと。教師になったこと。一人暮らしを始めたこと。宝くじが当たったこと。そして、この部屋に越したこと。なにひとつイルカの記憶には綻びが無く、目下思い出せないのはカレーを作ったことだけだ。
 もう、いいか。湯気を立て始めたカレーを見ながらイルカは思う。齟齬がないなら気にするようなことではないのかも知れない。ゆっくりと思考を閉ざしながらイルカはもう一度深い溜め息を吐く。かき混ぜる手を止めて皿を出すために戸棚を開ける。見慣れた、でも見慣れない食器達。確かにそこにあるのは見慣れた食器なのに、買った覚えが一つもない。
「景品、じゃないよなぁ…」
 明らかに景品とはいえない趣味の良い皿や器。大きな齟齬はないのに明らかに欠落しているイルカの記憶。ぐらりと足下が揺らいだような気がした。イルカは手近にあった深めの皿を取り出して食器棚を急いで閉じる。
「明日、明日考えよう」
 よく考えれば思い出せるかも知れない。今はとても疲れているから。ご飯をよそってカレーをかける。仕掛けた覚えのないご飯がきちんと炊けていることにもイルカは目を瞑る。
 今日はもう、何も考えたくはなかった。妙に広々と感じるリビングの端に置かれたちゃぶ台の前に腰を下ろしてスプーンを握る。本当はもう寝てしまっても良かった。あまりにも疲れていて食欲なんてあるんだか無いんだか分からないくらいだったし。
 けれど。けれどこのカレーだけはどうしても食べたかった。それがいったいどんな理由から発した欲求なのかは分からなかったけれど。どうしても頭をもたげる疑問を振り払って手を動かしてカレーを口に運ぶ。
 とても美味しい、カレーだった。自分が作ったとは到底思えないほど。ゆっくりと咀嚼する。本当にそのカレーは美味しくて、一体何を使ったらこんなに美味しくできるのだろうと思う。自分が作ったはずなのに。それを作ったのは自分のはずなのに。規則的に手を動かしてカレーを食べる。
 ぽたりと何かが台の上に落ちて、イルカは下を見た。またぱたりと何かが落ちる。ぱたぱたと音を立てて台を濡らしていたのはイルカの涙だった。
 イルカは、泣いていた。頬に手を当てると、そこはイルカの流した涙で濡れていた。何故と思う。なぜ自分は泣いているのだろう。けれど泣いていると思ったらもう堪らなかった。
 堪えていた喉から嗚咽が漏れる。カレーを食べなくてはいけないのに。折角作ってくれたカレーなのに。オレの大好物で、これを食べるのを朝出かけるときからとても楽しみにしていたのだから。だから。しゃくり上げながらイルカは勝手に言葉を紡ぎ出す自分の思考を止めるてだてを持たなかった。
 オレは何を考えているのだろう。カレーを、食べなきゃ。けれど涙は止まらずにイルカは泣きながらカレーを食べた。みっともなくて恥ずかしくて、死にたいくらい淋しかった。

 さみしい。

 どうしてこんなに淋しいのに側にいないんだろう。不可思議な自分の思考にイルカは戸惑いを隠せなかったけれど、それでも涙は止まらなかった。



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