* * *
その日。イルカが大蛇丸と対峙することになる、その日の朝。カカシは呑気にカレーの入った鍋をかき混ぜながら、今日の段取りなんかを考えていたりした。
イルカに告げた通り、今日は魔界に降りなくてはならない。契約書を然るべき場所に保管するために。別に今日でなくてもよかったのだけれど、そろそろ本気でやばくなってきている。
魔界に降りる時期は今でも充分に遅れている。本来なら契約を取り付けてから一月の間にでも行かなくてはならないのに、今の今まで延ばし延ばしにしてしまっていたのだ。
けれどカカシはイルカのことが心配だった。本人は全く気が付いていないけれど、契約した当初はひどい有様だった。秒刻みと言っても過言ではないくらい、多くの悪魔がひっきりなしに現れていた。イルカに気が付かれないようどこに行くにも姿を消して彼の後ろに張り付き、強い結界を施してようやく守ってきた。殺した悪魔の数だって半端ではない。最近になってようやく悪魔たちも形を潜めはじめ、カカシが一日くらい離れても大丈夫だと思えるようになったのである。
そうして、本当にようやくカカシは下に降りる決心が付いた。今なら多分大丈夫。近くを探ってみたけれど危険と思われるほどの存在も確認できなかったし、この分なら今日一日くらいは今の結界で持つだろうとそう思った。念には念を入れてイルカの魂を半分に分けてみたりもしたけれど、これは本当にいざというときのための布石だ。
この布石が功を奏する様な事態にだけは発展して欲しくないというのが本音だった。そんな最悪の事態、考えただけでも恐ろしい。コンロの火を止め、カカシは部屋の結界をもう一度強化した。
分けて封じたイルカの魂は結界の中心に置かれた小さな石の中にある。何気なく石を見つめてカカシはふと思いつく。念のため持っていった方がいいかもしれない。結界の中に鎮座する小さな石を眺めながらカカシは思う。一応、念のため。屈み込んで石を拾うと、カカシはポケットからもう一つ同じ石を取り出した。
「もう半分にするか」
手の中で石をあわせカカシは不遜にもイルカの魂をもう半分に分けた。
「四分の、一だけね」
ごめんね、イルカ先生。くすりと笑って一つの石を元に戻す。そうしてもう一つをポケットの中に。肝要なのは一刻も早く帰ること。一刻も早く、イルカの側に戻ること。ただそれだけ。
「ちゃっちゃと済ませて早く帰ろう」
カカシは口の中で呪文を唱える。フローリングの床の上に一瞬巨大な魔法陣が浮かび上がり、そしてカカシごと消えた。
始まったばかりの一日。この時、自分とイルカが周到に張り巡らされた巨大な罠の中に足を踏み入れたことに、カカシはまだ気が付かずにいた。
「いつものことだけどさ…」
こきこきと肩を鳴らしながらカカシはうんざりと溜息をついた。どうしてこんな紙切れ一枚のことにこんなに時間がかかるのか。
「文句言っても仕方ないんだけどねぇ」
ようやく書類仕事から解放されてカカシは大きく伸びをする。この調子ではイルカよりも早く家に帰れないかもしれない。
「もうこのまま帰っちゃおうかな…」
そう、このまま帰ってしまえば多分イルカよりも早くあの部屋に戻れる。今戻ってぎりぎりくらいだろう。多分今頃向こうはもう放課後くらいの時間帯のはずである。今日のイルカの予定は特にないはずだ。そうなるとイルカの帰りはきっと早い。何か特別なことでもない限り。出来ることならイルカを迎えたい。ならば今すぐ帰る方がいいと思うのだけれど。
けれど。
「何の挨拶もなしに帰るっていうのもね…」
はぁ、と大きく溜息を吐き出す。そう、何の挨拶もなしに帰ればまた後で何を言われるか分かったものではない。本当によほど面倒でどうしようかと悩んだあげく、結局カカシはがりがりと頭をかきむしりながら踵を返した。
「簡単に挨拶をしたらすぐ帰ろう」
顔を見せるだけでもいい。たったそれだけでも後々の印象はずいぶんと違ってくるだろうし。それに、とカカシは思う。最近の状況も把握しておいた方がいいのは確かだ。この先も当分はこちらに戻ってくる予定もないし。
かつかつと硬質な音を響かせてカカシは寒々しい廊下をせわしなく歩く。会えば小言の一つも言われるだろう。それが面倒ではある。面倒というよりも年寄りというのは話が長いから厄介だ。やっぱり帰ろうかな。
後ろ向きになりがちな思考をどうにかねじ伏せてカカシは廊下の突き当たり、重く閉ざされた扉の前に立つ。無遠慮にその扉を押し開いてカカシは部屋の中に滑り込んだ。滑り込んだ部屋の正面、四方の壁をぎっしりと本が埋め尽くしたその狭い空間の中心に置かれた厚く重い机と、そして。机の上の巨大な本をめくっている小柄な老人にカカシは短く声をかける。
「お久しぶりです、親父殿」
「久しいの、カカシ。息災で何より」
くわえたキセルをふかしながら顔を上げた人物に、カカシは気が付かれないよう小さく溜息をついた。
「あ〜、まぁ、じゃそういうことで」
何がどういうことなのか。カカシは目があった人物からそそくさと視線を逸らすとそのまま部屋を出ようと試みる。
「こりゃ、待たんか」
くるりと後ろを向いたカカシの背に、予想通り待ったがかけられた。当たり前である。さもめんどくさそうにカカシは振り返る。
「何の用ですか」
「用も何もお主、魂の契約を結んだというではないか。真か?」
ぷかりと煙を吐き出しながら老人はカカシに問う。問いかけというよりは確認に近い口調だった。
「マコトですよ。契約者が危ないので一刻も早く帰りたいんですが」
呑気な物言いの割にはカカシの口調は焦っているかのように早い。実際カカシは焦っていたのだ。本当はここで世間話ついでに色々と聞いて帰ろうと思っていたのだが、さっきからどうも胸騒ぎがしていけない。
頭の中で静電気が弾けるような感覚がつきまとっている。イルカが何か危険にさらされているような気がしてならないのだ。
イルカとカカシは魂の深いところで繋がっている。だから、少なくともイルカが何か不安に思っているのでなければこんな嫌な感じは受けないはずなのだ。
そう、イルカは今確かに何かを不安に思っている。何かを不安に思っていて、そうしてカカシのことを考えている。おそらく救いを求めるような方向で。この胸騒ぎはイルカから派生しているモノに違いない。だから一刻も早く地上に帰らなくてはならない。
イルカからの強制召喚がないだけそれほど危機的な状況ではないのだろうけれど、地上にいるのとここにいるのでは訳が違う。どこかぴりぴりした様子さえ伺わせるカカシに、机に腰掛けた老人は、一つだけ、と前置きをして話を始めた。
「カカシ、一つだけ知らせておかねばならん事がある」
「……何です?」
「大蛇丸が地上に出ているらしい」
静かに告げたその口調とは裏腹に老人の顔は強張っていた。
「?!」
カカシもその言葉に驚きを隠せない。
「大蛇丸?!何であいつが?」
「さての、召喚も受けずに地上に出るくらいじゃ。よほど面白いモノでも見付けたのじゃろうよ」
言葉をなくしてカカシは佇んでいた。思った以上にまずい事態になっているのかもしれない。知らず額に浮かんだ汗にカカシは息を飲んだ。ごくりと息を飲み込んでカカシは脈打つ心臓に手を当てる。そう、地上でイルカが知らず当てていたのと同じその時、同じ場所に手の平を押し当てていた。
「親父殿、取りあえずオレ帰るわ」
大蛇丸の行動によっては、カカシが魔界から出られなくなる可能性も少なくない。あれが何を考えているのかは知らないが、あの禍々しい生き物の狙いは間違いなくイルカだ。青ざめたカカシを見ながら老人は小さく頷いた。
「後でこちらから使者を送ろう。詳しいことはそれからじゃな」
吐き出された煙が細く部屋の中に漂っていた。カカシは小さく老人に頭を下げるとそのまま口の中で呪文を唱えた。本に埋め尽くされた部屋の床に魔法陣が浮かび上がる。発光しながら浮かび上がった魔法陣はカカシを飲み込むほどに明るく輝き、そして。
そして、そのまま光を失った。
「…え?」
カカシはそのまま床に蹲るように膝をつく。
「……ッ!!」
こめかみが割れるように痛んだ。術を発動させた瞬間、暗闇に落ち込むような浮遊間を感じた。これは、この感じは。
「…間に合わなんだか」
老人の呟きは遙か彼方から聞こえてくるようだった。ひどい耳鳴りと頭痛。
これは。
この、感じは。
「イルカ先生の記憶が、封印された…?」
荒い息を吐き出しながらカカシは崩れ落ちる体を支える術を持たなかった。
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