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          * * *



「イルカ先生、おはようございます。急がないとそろそろ職員会議始まりますよ」
 出会い頭に同僚の教師からそう告げられてイルカは慌てて自転車置き場へと向かう。職員会議なんて今日あったっけ?少なくとも定例の職員会議ではない。どうにも覚えがなくてイルカは先を歩いていた同僚の所まで走った。
「先生おはようございます。今日職員会議なんてありましたっけ?」
 鞄を担ぎなおしてイルカは改めて同僚を見る。視線の先、同僚は呆れたような顔でイルカを見返していた。
「昨日の話、全然聞いてませんでしたね、さては」
 昨日の話?なんだっけそれ?
「はぁ、まぁ、お恥ずかしながら…」
 正直に白状しつつイルカは自分の覚束ない記憶を辿ってみた。何だっけな。っていうか、いつ話があったんだろう。うぅん。どんなに考えても思い出せないその話を同僚は呆れつつも教えてくれた。
「ほら、岡崎先生の産休代理の先生ですよ」
 同僚の話にあぁ、と思った。
「え、今日でしたっけ?」
「今日ですよ、イルカ先生呑気だなぁ。一応同じ教科なんだから色々と校長から頼まれるんじゃないですか?」
 はは、とイルカは苦笑いを浮かべる。産休に入った岡崎はイルカとあまり年の違わない若い教師だった。その岡崎からもすでによろしくとの旨を承っている。
 もう一人の国語科の教師はイルカよりも遥かにベテランで、産休代理教師の面倒など押しつけられるに決まってるのだ。その上校長から頼まれたりなんかしたらめんどくさいことこの上ないな、とイルカは心の中で密かに毒づいていた。
「もうそろそろ本気で急がないとやばいですね」
 イルカはあえて返答を避けて同僚を急かす。面倒なことこの上ないがこれもまた仕事。仕方がないと諦めてせめて代わりにやってくる教師がまともな人間であることを祈るばかりだ。
 イルカは急ぎながらふと思う。今日の晩飯はカカシ特製のカレー。アレは旨い。どういう味付けをしてるのか知らないけど、本当に美味しい。
 産休代理がもの凄くイヤなやつだったらカカシに慰めてもらおう。そして昨日から煮込んであるあのカレーを食べよう。いい人だったらお祝いにあのカレーを食べよう。そしてカカシに話すのだ。今日来た産休代理の先生が、結構いい人そうで安心しました。そういって、カレーをお代わりしよう。カカシはきっと笑いながらイルカの話を聞いてくれる。

 そんな些細なことがひどく幸せだと思った、その日のその朝。これから起こることなんて、イルカに予想できたはずがなかった。



 慌てて駆け込んだ職員室。そろそろ他の教師達も席に着き始めていた。イルカと一緒に職員室に入った同僚も席について鞄の中をなにやら探っている様子だった。
 間に合ったことに安堵しながら、イルカもまた今日の授業に必要なプリントや採点の済んだ答案用紙を鞄の中から引っ張り出す。鞄の底に入っているのはカカシの作ってくれたお弁当だった。最近はどういう風の吹き回しか毎日きちんとお弁当が用意されている。朝も大体カカシが作ってくれる。
 まぁ、その分無理をさせられることも多いからそれはそれで有り難いというか、当然というか。ぼんやりと考え事をしながら規則的に手を動かしていたらがちゃりと校長室から続く扉が開けられた。
 顔を上げれば他の教師達も全員もう席に着いている。授業の支度をしていた手を止めイルカもまた校長が扉から出てくるのを見た。そして校長の後ろに続く人物も。校長の陰に隠れるようにしてそこにいたのは、どこか痩せすぎの感のある若い女だった。
 あれが新しい先生。恐らく自分がこれから関わり合わなくてはならないその人物に視線を注いでイルカはほんの小さく溜息を吐いた。多分女だろうとは思っていたけど、どちらかというと男の方が良かったなと思う。
 あまり女性に免疫がないからどうも苦手意識が先に来てしまうのだ。それに見た感じの印象ではその女性はイルカよりも年が上に見えた。岡崎の代理だというだけでなんとなく年下だと思っていた分、その人物の持つ独特の落ち着いた感じにイルカは少々戸惑ってしまう。
 多分年上だろう。いくつ年上なのかは分からないけれど、あんまり上だとやりにくいよなぁ。ぼう、っと考えていたら校長がおもむろに口を開いた。
「えー、皆さん。以前にも話した通り本日付で岡崎先生の産休代理に入ってもらう大蛇先生です。一つ仲良くお願いしますね」
「大蛇です、よろしくお願いします」
 そう言ってその女性は丁寧に頭を下げた。結構ハスキーな声だな、と思う。ハスキーだけれどとても良く通る声だ。あれなら授業中も良く聞こえそうだと思った。それがその人物の、第一印象だった。



 簡単な自己紹介のあと職員会議はあっさり終わり、イルカは予想通り校長に呼ばれた。
「海野先生、ちょっと」
 もう一人の国語科の教師は呼ばれなかった。ということは最初から根回しがしてあったに違いない。ベテランてこれだからとも思うけれど、自分はまだぺーぺーなのだからこのくらいは仕方のないことかも知れないとも思う。
 もう一人、岡崎がクラス担任を務めていた一年生の学年主任も一緒に呼ばれたことだけがイルカにとって僅かながらに救いだった。
「先生には岡崎先生に代わって一年一組の担任も務めてもらいますから、学年のことは佐々木先生に、国語科の事についてはこちらの海野先生に聞いて下さい」
 にこやかな校長の紹介に少々控えめな笑顔を浮かべて大蛇と名乗った女性教師は、よろしくお願いします、と再度頭を下げた。
「よろしくお願いします」
 大蛇にイルカも頭を下げた。隣に立った学年主任も軽く会釈をする。どちらかというと大蛇の面倒を見るのはこの隣の教師になりそうだった。その事に小さく安堵してイルカは大蛇に笑いかけた。
 笑いかけたその先の、絡んだ視線が思いがけず冷たくてイルカは驚く。底冷えするような視線。笑った口元が異様に紅く見えて、イルカはぞくりと背筋が震えたのを感じた。
 なんだろう、オレなんかしたかな。そう思って改めて見た大蛇は先ほどのような笑みはもう浮かべていなかった。朗らかに学年主任の佐々木と担任するクラスの話をしている。
 気のせいかな。そりゃ気のせいに決まっている。疲れてるんだろうかと、イルカはごしごしと頬をさすった。大蛇に抱いた奇妙な違和感のことは気になったけれど、授業の時間も迫っていたし朝はそこで解散となった。



 そして、放課後。職員室の一角に集まったのは、一年生の担任達と国語科の教師二人。それから新しい、教師。簡単な打ち合わせと雑談で取りあえず話は終わり、あとは追々分からない所を皆でフォローしていくということになった。
 大蛇の顔に今朝の違和感は全くなかった。あの、底冷えするような冷たい瞳を覗かすこともなかった。やはり気のせいだったのだろう。どうも何か引っかかるものを感じてはいたが、その正体は全く根拠のないものだった。
 漠然とした不安。カカシを呼ぼうかとも思った。このもやもやした感じはなんだかよくないような気がしたから。胸に手を当てて名を呼ぶだけだ。けれど、そうまでするほどイルカの中には不安の自信がなく、そうしてカカシが今この地上にいないという事実が歯止めをかける。
 呼び出すまでのこともないか。今日帰ったら会えるのだし。その時に話せばいいかと思う。明日からはいつものようにこちらにいるのだろうから、しばらくは姿を消して学校に付いてきてもらってもいい。不安を打ち消すようにイルカは首を軽く振ってその場から立ち上がる。
 仕事を片付けて早く帰ろう。あの部屋へ帰ろう。あの部屋に帰って、カカシの作ったカレーを食べよう。早く。考え出すと胸騒ぎはどんどん酷くなるようだった。足早に立ち去ろうとするイルカの背に声をかけるものがいた。
「海野先生、ちょっといいでしょうか?」
 女性にしてはハスキーなその声。間違いようもなくそれは大蛇の声だった。イルカはぎくりと足を止め恐る恐る振り返る。別に怖い人ではないと思うのに、どうしてこんなにも不安に思うのだろう。
「何ですか?」
 ぎこちなくイルカは大蛇にそう返す。あえて視線は合わせないまま。そして大蛇はこんな風に、イルカに言ったのだった。
「ちょっと教材のことで聞きたいことがあるんですけど国語科の準備室を案内してくれませんか?」
 今日はちょっと、と言おうかと思った。そう、とっさにそんな風に言いそうになった。今日はカカシが近くにいないから駄目だと心の中で何かが警鐘を鳴らす。根拠のない予感ではあったけれどなぜこんなにも胸が騒ぐのかイルカには分からない。
 イルカがもう少し自分の力に自信を持っていれば、この先起こる苦難の日々は回避されたかもしれない。
 けれど。けれどイルカは自分自身の眠れる力のことなど何も信じてはいなかった。それ故に自分自身から発せられた非常に強い警鐘に耳を傾けなかった。
 だからイルカは言わなかったのだ。今日はちょっと都合が悪いんです、とは言わなかった。大蛇からの何気ない頼み事を断ることをしなかった。その代わりこう答えたのだ。
「いいですよ、こちらです」
 にこりといつものように笑みを浮かべて、今日赴任してきたばかりの代理教師を案内すべく彼女の前を歩くことを選んだ。
「有難うございます」
 大蛇も笑った。その顔に張り付いていた笑みをイルカがもしも見たならば、今からでも彼女を案内することを断ったかもしれない。胸に手を当ててカカシの名を呟いたかもしれない。
 けれど、イルカの目にその笑みが映ることはなかった。彼はすでに背を向けて、職員室の扉を開けていたのだから。2階の隅にある小さな準備室に向けてもう歩き出していたから。
 イルカはただ、早く帰りたいと思っていただけだった。一刻も早くこの用事を済ませ、家に帰りたいと思っていた。カカシが待つ、あの部屋に。あの部屋に帰りさえすれば大丈夫。あの暖かで優しい、自分のためだけに用意された居心地のよい部屋に帰りさえすれば大丈夫だから。
 選択肢をこのときすでに間違えていたなんて事がイルカに分かるはずはなかった。そう、イルカは選び間違えた。決して選んではならない選択肢を選んでしまったことに気が付かず、そして。
 そしてカカシもまた、このときはまだ何も気が付かないまま、ざわりとさざめいた胸に些かの違和感を感じているだけだった。



「ここです」
 人気の少ない特別教室の並ぶ一角を横切って、一番奥にある国語科の準備室まで足早に案内する。辺りに響いているのは、校庭からのざわめきとリノリウムの床を踏む心許ないスリッパの音だけだった。ほとんど会話もないまま準備室へと辿り着きイルカは持っていた鍵でその扉を開く。
「鍵は私が保管していますから必要なときは言ってください。もしくは職員室のマスターキーを使ってもいいですけど、その場合は教頭の許可が必要になりますから」
「はい、分かりました」
 淡々と必要事項だけを告げながらイルカは後ろは振り返らなかった。そして大蛇も不必要に何かを喋ることはしなかった。重い扉を横にスライドさせて埃っぽい室内に足を踏み入れる。傾きかけた午後の陽光が窓から柔らかく差し込んでいた。ほんの少しその眩しさに目を細めイルカは大蛇をようやく振り返る。
「何か聞きたいことがありますか?」
 ごちゃごちゃと乱雑に積まれた教材を、さして興味もなさそうに眺めながら大蛇はイルカの言葉に顔を戻した。
「えぇ、取りあえず場所が分かったからまた明日の空き時間にでも詳しく見に来てみますわ」
 そうして、笑う。張り付いたようなその笑みがどうしても恐ろしく思えてイルカは、じゃあ、と言ってその場を立ち去ろうとした。どうしてもこの人と二人きりでいたくない。
 本能的な恐怖に駆られてイルカは無意識のうちに胸に右手を当てていた。吸い込んだ息とともに言葉を吐き出そうとしたその時、イルカよりも一瞬早く大蛇が口を開いた。
「ところで海野先生。個人的にちょっとお伺いしたいことがあるんだけど、いいかしら?」
 否とは言わせぬ口調だった。イルカは胸に手を当てたまま小さく答える。
「はい、何でしょうか?」
 にぃ、と大蛇の口元が弧を描く。相手はただの女性でこれといって怖がる要素があるとは思えないのに、どうしてこんなにも恐ろしいのだろう。嗤う、大蛇。彼女の笑顔はどうしてこんなにも冷え切っているのだろうか。
「イルカ先生、お家で何か飼ってません?」
 あまりにも唐突な質問にイルカは一瞬何を言われているのか分からなくなる。飼っている?何を?頭の中を疑問符で埋めながらイルカは首を振った。
「いいえ。何も飼ってませんけど」
 どうして大蛇がそんなことを聞くのか見当も付かない。ペット禁止のマンションではなかったけれど取り立てて何も飼いたいとは思っていないし。首をかしげたイルカに大蛇は尚も嗤いかける。
「そんなことないでしょ?あの部屋には大きな生き物がいるじゃないの」
 大きな生き物?全然心当たりもなくてイルカは大蛇を見た。確信に満ちたように話すその人を。
「そう、海野先生は飼ってるとは思ってないのね」
 くすりと嗤い声を漏らして大蛇は楽しそうに顔を歪める。恐い。イルカは恐怖に身を竦ませた。
「飼ってるでしょう。銀髪の深紅の瞳を持った…」
 どくんと鼓動が胸を打つ。
「悪魔を」
 ざわりと背筋を何かが通り抜ける。ここから逃げなくてはと思った。口の中が乾いて喉がひり付くような感覚に襲われる。

 逃げなくては、ならない。

 それはイルカの本能が告げた裏切ることの出来ない欲求でもあった。逃げたいと切に願う。けれど扉は大蛇の後ろ、自分の視線上にある。
 逃げなくては、いけないのに。ここへ来てはならなかった。どうしよう。胸に手を当てたままイルカは言葉を紡ぐことも出来ずに立ちつくしていた。早鐘のように心臓が鳴る。胸に当てた手の平はじっとりと汗ばんで、急かすように脈打つ鼓動を確かに感じていた。逃げなくては。
 でも、どうやって?繰り返される思考に苛立ちを覚えながらイルカは大蛇の背後に存在する唯一の出口に意識を集中していた。一刻も早く逃げなくてはならないのに。
 大蛇はその場に張り付いたようにぴくりとも動かずただただ口の端をつり上げて面白そうにイルカを見つめている。逃げなくては。そう、ここから逃げて帰らなくては。あの暖かな部屋に。
 カカシの元に。カカシの、元に、帰るのだ。カカシの。

 カカシ?

 イルカはそうしてようやくふと思い当たる。呼べばいいのだ。ここへ。この場所へ。
『胸に手を当ててオレの名を呼んで』
 カカシはそう言った。あの時柔らかく笑みを浮かべてイルカにそう言ったのだから。どんなに小さな声でもいい。ただその名を呼びさえすればカカシが助けに来てくれる。
 大蛇がそこに立っている以上イルカに逃げ道はなく、そうしてイルカが彼女に対抗する術もない。彼女が何者なのかそれはイルカには分からない。けれど、少なくともよいものではないのだけは分かった。
 こんなに禍々しい、恐ろしい存在があるなんて思いもしなかった。
 イルカは慎重に息を吸う。たった一言でいい。カカシ、とそう呼ぶだけで。カカシが来れば大丈夫だから。守ると言ったから。必ず守ると、そう、言ってくれたから。だから。
 知らず浮いてきた汗を拭うこともしないままイルカは大蛇を正面から見据えた。そうして、口を開く。
「?!」
 けれど、声が出なかった。確かに口はカカシという単語を紡ごうとしたのに、張り付いたようにイルカの喉からは何の音も発せられなかった。イルカはひどい混乱に落とし込まれる。胸に当てた手を痛いくらいに握りしめ声を絞り出そうとするけれど、その願いは結局叶うことはなかった。
「召喚術まで使えるようにしてるなんて用意周到なこと」
 笑いを含んだその声はどこまでも冷たく、ただ恐怖心を煽る。
「少し遅かったわね、イルカ先生。早くカカシを呼び出しておけば良かったのに」
 本当に可笑しそうに大蛇は笑っていた。額からぽたりと汗が一筋落ちたことにさえイルカは気が付かず、縋り付いていた唯一の希望が今潰えたことに呆然と立ちすくむ。
「イルカ先生、残念ね。カカシのことは忘れてもらうわ」
 そう呟いた大蛇の赤い赤い唇がひどく禍々しくてイルカは体が震えるのを止めることも出来なかった。



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