「愛を確認し合ったあとのエッチって凄く燃えますねぇ」
あれから何度交わったんだろう。浅い呼吸を繰り返すイルカの胸にぴったりと張り付いたままカカシは笑った。何を沸いたことをと思う。なーにが愛を確認し合ったあとだ。
ようやく働き始めた脳と、未だままならない呼吸にいらいらしながらイルカはふいと顔を背けた。恥ずかしくていつか死ぬ。この男と一緒にいたら絶対羞恥心が焼き切れて死んでしまうに違いない。ぶつくさと心の中で文句を言いながら、イルカはごろりと体の向きを変えてカカシを引きはがした。
「イルカ先生、何でそっち向くんですか〜?」
密かに顔を赤くしたイルカの背中にカカシの不満そうな声が降ってくる。何でなんて聞くなよ、とか思うのだけれどイルカの心中の不満はついに口から出ては来なかった。
なんだかんだ言っても、イルカはその時とても幸せだったのだ。心の中で自分に膨大な量の言い訳をしなくてはいけないくらい、幸せだったのだ。そう、とても幸せで。胸が痛くなるくらい幸せで。気怠い体が、幸せの証みたいで、それがとても恥ずかしくて。
こんな幸福を、今まで知らなかった。
「何を泣いてるんですか?」
横たわったイルカの身体にカカシが覆い被さるようにして顔を覗き込んでいた。柔らかいその声や滲む優しさにまた涙がこぼれそうになる。
「泣いてません」
俯せになって顔を隠したイルカは、そんな風にいうことしかできなかった。この気持ちを言葉に表すことなんて、きっと無理だから。
カカシに抱かれている間中幸せで幸せでこのまま死んでもいいと思ったくらいだった。晒した背中に暖かな体温を感じた。カカシは何にも言わなかった。ただ、そこにいただけで。
幸せで嬉しくて暖かくて、後から抱き締めてくれるカカシの存在がひどく愛おしくてイルカは涙をまた零す。カカシがいる限りこの幸せは続くのだと、そう信じて疑わなかった。幸せを疑うことすら思いつかなかった。
けれど。
―――――けれど。
* * *
その朝。甘く暖かい夜が明けた、その朝。空は青く青く晴れ渡り、初夏の風が街を洗っていた。何もかもが祝福されているような、その朝。
いつもよりも機嫌の良いカカシといつもよりも数段口数の少ないイルカは、向かい合って古いちゃぶ台で朝ご飯を食べていた。先に食べ終わったカカシがイルカの髪を結い上げながら、晒された項に口付けを落としたりしていた、その朝。甘やかに密やかに二人の間の空気が狭まっていた、その日の朝。
ひとしきりイタズラを終えたカカシが食後のお茶をイルカに入れているとき、ふと口を開いた。
「そうだ、イルカ先生。オレ今日ちょっと魔界の方へ帰らなくちゃならないんです。晩飯までには帰ってくるようにしますけど」
「はぁ」
差し出された湯飲みに口を付けながらイルカは曖昧な返事を返した。だから何だというのか。
「も〜、危機管理がなってませんねぇ」
自分のお茶を入れながらカカシは不満げに口を尖らせた。
「いいですか、オレがいないってことはそれだけイルカ先生が危険にさらされる可能性が高いってことです」
「はぁ」
けれど、だからどうしろというのだ。カカシが居ようが居なかろうがイルカに出来ることはあまりない。
「だからね、イルカ先生にちょっと術をかけて行こうと思うんですけどいいですか?」
そろそろ出かける時間も迫っている。あんまり手間のかかることは避けて欲しいのだが、とイルカは思った。思ったけれどカカシの言う通りにした方がいいのだろうとも思う。そのくらいは、分かる。
「はぁ、どうぞ」
だから、イルカはなるべく早くそれが済むように素直に返事を返した。
「何かやる気ゼロって感じですけどまぁいいや」
ぶつくさと文句を言いながらカカシはイルカの横に移動してくる。
「ちょっとこっち向いて下さいね」
そうしてカカシと向き合うように体の位置を変えられて、そして。
「よっと」
カカシがイルカの胸に手を当てた。胸に当てられた手が、ほわんと光ってそして、その後訪れたもの凄い衝撃にイルカは思わず後ろに倒れ込んでしまった。ぱたりと倒れたイルカを抱き起こしながらカカシが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫?イルカ先生」
「…あ、あんまり大丈夫じゃないんですけど。一体何したんですか?」
まだふらふらとする頭を抱えてイルカは抱き起こしてくれたカカシにそのままもたれ掛かる。気持ちが悪くて吐きそうだ。カカシの肩口にぐりぐりと頬を擦りつけながら、一向に良くならない気分にイルカは溜息を吐いた。
「ちょっと待って下さいね」
カカシはイルカの項に手を這わせ、聞き取れないくらい低い声で何かを囁いた。
「どうです?」
「あ…」
頭がすうっと冷えて、あの気分の悪さが取れていた。
「もう、大丈夫みたいです。けど、あんた何したんですか?」
カカシにそう問い掛けながらイルカはぼんやりと便利だなぁ、と思う。カカシは時々本当にもの凄く便利ですごく助かると。そんな風に物みたいに思うのは悪いとは思いつつも、こういう時は居て良かったと心底思うのだ。このままだったら学校を休まなくてはならない所だった。
そう、学校を、休まなくては、ならなくなるところだった。
このとき学校を休ませれば良かったと後々カカシはひどく後悔することになるのだけれど、このときは二人のどちらにもそんな出来事が起こるなんて事想像すら付いていなかった。
イルカの問いにカカシはほんの少し真面目な顔で答える。
「イルカ先生の魂を分離させたんです」
「はぁ?!」
あまりにも突拍子のないカカシのセリフにイルカは驚く。いつもいつも、驚く。その事が少し頭に来たりもするのだけれど。今度は何だって?
「いやね、真面目な話、そうした方がいいんで。魂の半分はこの部屋に封印しておきます」
封印?封印って、オレ悪者か?
「あぁ、その、封印っていうか隔離するんです。この部屋には絶対解けない結界が張ってあるんです。だから」
隔離?隔離って、オレ、伝染病かよっていうか。
「だからね、イルカ先生。オレがいない間、絶対この部屋に誰も招いたりしないで下さいね」
思いがけず真面目な声で言ったカカシをイルカは見つめた。誰も招いてはいけない。これは多分、もの凄く大事なことなのだろう。
「はい、分かりました」
誰もこの部屋に、招いてはいけない。イルカは繰り返し思う。招いてはいけないとカカシは言ったけれど、実のところイルカはこの家に誰も招きたくないと思っていたから別に問題はない。カカシとイルカが二人だけで住むこの部屋に。
「イルカ先生、可愛いなぁ」
ふいに顔をほころばせてカカシは言う。するりと抱き込まれた腕の中、そうしてカカシはこう続けた。
「それと、万が一にも交通事故とか階段から落ちたとかで記憶喪失になったりしないでね」
何を言っているのやら、と思う。そんなこと有るはずがない。
「そんなことあり得ませんよ」
だからイルカは笑いながら、そう答えた。
「まぁ確率としてはかなり低いですけど、イルカ先生がオレのこと忘れちゃったらオレこっちに帰って来られなくなるから」
だから、ね。そういうもんなのかとぼんやり思ったイルカの視界にちらりと壁に掛かった時計が映る。
「あぁ!時間が!」
抱き込んだ暖かな腕を思い切り振り払って、イルカは玄関へと急いだ。
「行ってらっしゃい、イルカ先生。気を付けてね」
やれやれと後ろで苦笑いを浮かべるカカシをふと振り返って、イルカは扉を開けた。
「行ってきます!」
ばたりと閉まる扉。思えば朝からラブシーンまがいのことを平気でやっている。こんなことでいいんだろうか。イルカはこの先の生活が何となく不安になってきた。ぐずぐずとカカシにもたれ掛かるような生活でいいんだろうかと。好きですといったカカシの言葉を疑う訳ではないけれど、自分はカカシに出会ってからどんどん我が儘になっている。そのうち愛想尽かされるかも、とか。
そういえばまだ、自分の口できちんとカカシに好きだと告げていないと、その時ふと思った。
ばたんとドアが閉まった。ばたん。
慌てて焦るあの人も可愛いのだけれど、今日のこの雰囲気はもうちょっと楽しみたかった気もする。イルカの態度が急にとろんと柔らかくなっていた。自覚があるとないとではああも違うもんかとほんの少し不思議に思う。人間って、やっぱり面白い。
くすりと笑ってカカシはキッチンへと移動した。キッチンには昨日から煮込んでいるカレーがある。少し火を通して、そうしたら出かけよう。
「晩ご飯までには帰ってくるって約束だしね」
急ぐに越したことはない。どうせだったらちゃんと出迎えたいし。お帰りイルカ先生。玄関まで迎えに出てそう言う。あの人は気が付いているのだろうか。自分がどんな顔をしてその言葉を聞いているのかを。
「可愛いんだよねぇ」
鍋をコンロにかけてカカシは薄く笑った。あんまり意識したことはないけれどこういうのを幸せっていうのかも知れない。もう随分と長い間悪魔をやっているけれどこういう感情は初めてだ。ふんわりとあたたかいきもち。
キッチンにはいい匂いが立ち込めていた。平和な朝、何気ない一日。
幸せがふつりと途切れてしまうことにまだ誰も、気が付いていない。
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