long




けれど。

「チェックメイトだ、大蛇丸。あんたの負けだよ」

 声と共にイルカは温かい腕の中に抱き込まれていた。背中に感じる体温。腰に回された腕。心臓がどくりと跳ねた。
「…残念だったわ。あとちょっとだったのに」
 額に当てられていたはずの大蛇の手はいつの間に下ろされていた。背中に感じるのは自分のものではない鼓動。なによりも誰よりも大切な。
「オレとやり合うかこのまま魔界に帰るか選びなよ」
 鼓膜を振るわすのはイルカの大好きな低く甘い声だ。イルカをこの世の中で一番安心させる声。
「そうね、今日のところは大人しく帰ることにするわ」
 イルカは振り返ることも出来ず回された腕をそうっと掴んだ。もう膜越しじゃない確かな身体が手に触れる。戻ってきたのだ。取り戻せたのだ。
「今後一切イルカ先生へのちょっかいは許さないよ。この人がいる限りオレはアンタごときには負けない」
「随分な自信だこと。まぁいいわ」
 そう言って大蛇は不意に姿を消した。回されていた腕の強張りが不意に緩む。そうして。
「よく頑張ったね、イルカ先生」
 そろりと頬に当てられた手の平。イルカは堪らず腕の中で向きを変えた。
「カカシさん…!」
 銀の髪、深い藍色の瞳。イルカが誰よりも求めていたその人がようやく帰ってきてくれた。イルカは勝手にこぼれ落ちる涙をそのままにカカシにぶつかるように抱きつき、そうしてその唇に自らの唇を合わせた。
「ん…」
 腰を抱き寄せられ、もう片方の手が背中に回される。イルカもしがみつくようにカカシの背中をきつくかき抱いた。口付けの感触にイルカは酔う。
 あぁ、カカシがここにいるのだ。口を開きカカシの咥内に舌を潜り込ませる。あっという間に絡め取られた舌にイルカの身体は熱くなった。久しぶりの体温、匂い、その圧倒的な存在感に頭がくらくらした。
 ずっと側にいた。ずっと側にいなかった。分かれた魂の記憶と失い続けていた自分の記憶が入り交じって、一体どれが本当のことなのかイルカにはよく分からなくなっていた。けれどそんなことはどうでもいい。
「っふ…、ん…」
 くちゅりと粘ついた水音が口付けの合間に響く。蹂躙される咥内にイルカの下半身は徐々に熱を帯び始めていた。カカシに抱かれたい。どろどろになるまで熔けて混じり合ってしまいたい。カカシの熱くて太いので奥まで突いて欲しい。いやらしく腰をすり寄せれば不意にカカシが唇を離した。唾液がつう、と糸を引いてひどくいやらしい光景だと思う。
「イルカ先生のお誘いは凄い魅力的なんだけど、ちょっと待ってくれる?あの二人の前でおっぱじめる訳にもいかないし、ね?」
 瞳を覗き込まれてイルカはようやく我に返った。イルカのすぐ側にはナルトが、そうしてもう少し離れたところではサスケが昏倒しているというのに今の今までそんなことすっかり失念していた。
 彼らは自分を守るために必死になってくれたというのになんて薄情なんだろうか。青ざめたイルカの頬をカカシは優しく撫でると安心させるように笑った。
「大丈夫。あいつらは見かけよりずっと頑丈だし、今はただ気を失ってるだけですよ」
 カカシの言葉に頷きはしたもののイルカは自分の行動にただただ恥じ入るばかりだ。イルカよりも遙かに小さなその身体で二人は守ろうとしてくれていたのに。
「落ち込まないの。キスしてあげるから元気出して」
 笑うカカシとその言葉にイルカは思わず顔を赤らめた。キスしてあげるからってなんだよ、と思う。キスしてあげるからだなんて、そんな言葉に喜ぶとでも思っているんだろうか。そう思いはしたけれどイルカは近付いてきた唇にうっとりと目を閉じた。しっとりと唇が重なれば、じわりと心に幸福が満ちる。
 口付けを受けながらイルカは圧倒的にカカシが不足しているのだと思った。細胞の一つ一つがカカシに餓えて乾いている。重なった唇からじんわりとカカシがイルカを浸食していく。再びカカシがイルカの中に満ちてくる。あぁいつの間にこんなにも好きになっていたんだろうか。
 名残惜しく唇を離して、まずカカシはすぐ側の壁に叩きつけられ気を失っているナルトのところまで行った。
「ほらナルト、いつまで寝てんの」
 ぺちりと額を叩けば、むくりとナルトが起きあがった。
「って、いててて…!あ、カカシ先生?!何でいるんだってばよ!ていうか大蛇丸!」
 がばりと立ち上がったナルトはきょろきょろと辺りを見回している。カカシはナルトに構うことなく同じようにサスケの頭もぺちりと叩いた。
「サスケも起きなさいよ。大蛇丸なんてとっくに魔界に帰ったよ。足止め頼んであるから当分こっちには来られないでしょ」
 サスケも僅かに呻きながら身を起こした。サスケもきょろりと辺りを見回し、そうしてイルカに視線を向ける。
「…イルカ先生、記憶戻ったのか?」
 サスケの言葉にカカシはその黒い髪をくしゃりとかき回した。
「お前らね、オレの言うことちゃんと聞いてたの?戦うなって言ったでしょうが。大蛇丸が焦ってたせいで殺されずに済んだけど、どうなってたか分かんないよ。お前らはまだまだ成長過程でずっとずっと弱いんだから。将来はどうなるか分からないにしても今はまだ時期尚早。言いつけを守らなかったことは充分反省しなさいね」
 カカシの言葉に二人はじっと黙り込んだ。実力不足は本人達が一番よく分かっているのだろう。俯いた顔に滲んだ悔しさがそれを物語っている。
 自分が口を出すべきではないことは重々承知しながらも、イルカは彼らがどれほど必死で自分を守ろうとしてくれたのかをカカシに告げたいと思った。彼ら二人は…、そう思ったときイルカははたと思い当たった。彼らは人間ではないのだ。
 記憶は相変わらず統制のとりにくい状態でイルカの中に混在している。従兄弟の子供だという二人、そうしてカカシの使い魔だという二人、記憶操作をされたということ。
 よくよく考えれば二人はいつも家にいた。イルカよりも遅く出て早く帰ってくると思いこんでいたからなんの違和感も感じなかったが、友達が出来た様子もなくイルカが二人を買い物に連れて出る以外、休日でもじっと家の中に閉じこもっていたのだ。この年頃の子供にしては不自然すぎる。
 けれどイルカはそれを不自然とも思っていなかった。大蛇丸に記憶を封印されていた上記憶操作を施されたせいかもしれない。記憶を封印されてからというものイルカには正常な判断を下すことさえ出来なくなっていたような気がする。なにもかもが曖昧な世界。カカシの存在しない安定を欠いた世界。
「まぁでもね、良くやってくれたと思うよ。ありがとうな、オレの代わりにイルカ先生を守ってくれて」
 ナルトを呼び寄せ、そうしてカカシは二人の頭を同じようにくしゃくしゃと撫で回した。宥めるようなその行動が気に入らないのか、サスケはひどく不満そうな顔をしている。
「…任務は、失敗だろ?」
 自らの頭をかき回すカカシの手を払いのけてサスケはぼそりとそう言った。
「まぁね」
 頷いたカカシに二人は表情を曇らせた。けれどその二人を見つめるカカシの顔はひどく優しいと思う。
「でも失敗って程の失敗じゃない。成功でもないけど良く健闘した」
 ぽんと二人の頭を叩いてカカシはちらりとイルカの方を見つめた。視線が絡むと勝手に顔が赤くなる。なんだか恥ずかしくてイルカはふいと視線を逸らした。
「取りあえず魔界に帰ってな。近いうちに呼び出しをかけるからその時までは謹慎してなさいね」
「分かったってばよ」
 俯いていたナルトはゆっくりと顔を上げ、そうしてイルカの方へと視線を移した。
「イルカ先生、最後守ってあげられなくてごめんだってばよ」
「…全然役に立てなくて、悪かった」
 ナルトの言葉に続くようにサスケもイルカに視線を向けそうして頭を下げる。二人の行動にイルカは驚き、そうして慌てて首を振った。
「いや、二人とも、オレの方こそ悪かったよ。お前らが必死になってくれてるのにあっさり大蛇先生を家に呼んだりして…。お前らは絶対にこの家に誰も招くなって言ってくれてたのにな」
 今なら分かる。その言葉がどれほど重い意味を持っていたのか。彼らがどれほど必死にイルカの記憶を引き戻そうとしてくれていたのか。
「ごめんな、お前らの努力を全部無駄にしてしまって…」
「先生は悪くないってばよ!」
 イルカの謝罪をナルトは遮った。
「そうだ、悪いのは大蛇丸だ。先生じゃねぇ」
 言葉を繋いだのはサスケ。そうしてカカシが二人の側を離れイルカのすぐ横に立った。優しく抱き寄せられ、カカシに背中をぽんぽんと叩かれる。
「うん、あなたは悪くないよ。大丈夫、もう怖いことは全部去ったから」
 優しく背中を叩かれればじわりと涙が滲んできた。そうようやく怖いことは全部去ったのだ。だってイルカの側にはもうカカシがいるのだから。
「さ、イルカ先生。もうそろそろお別れだよ」
 滲んだ涙を拭われ、そうしてまたカカシに柔らかく背を叩かれる。振り向けば二人の子供は笑みを浮かべてイルカを見ていた。
「じゃあまたな、イルカ先生!あんまり泣いたら駄目なんだってばよ!」
 そう言ってナルトは右手を挙げた。サスケもひょいと頭を下げそうして手を挙げる。
「二人とも、元気で。本当にありがとう」
 全部言い終わるか言い終わらないかのうちに二人の姿はかき消えた。半端に上げかけた手をカカシに握られ、そうしてイルカはその腕にもう一度攫い込まれる。
「…ただいま、イルカ先生」
 抱き締められ、そうして耳元で囁かれた言葉にただでさえ緩んでいたイルカの涙腺は遂に壊れてしまった。
「お、お帰り、なさい…」
 ぼろぼろと涙が零れる。カカシがイルカのところへようやく帰ってきてくれた。腕の中に抱き込まれながら、彼への想いがこれほどまでに深くなっていることにイルカは戦慄いた。
 いつの間にこんなにも依存していたのだろうか。誰に心を開けずに孤独なままに生きていたのはついこの間のことなのに、いつの間にこんな風にカカシを受け入れてしまっていたのか。誰かに依存してしまうことは恐ろしいことだとずっと自分を戒めていたのに。止まらない涙をそのままにカカシにしがみつけば髪を撫でられる。
「永遠を信じてもいいよ。オレは死なないし裏切らない。あんたの望んだ通りの生き物だもの。大丈夫、もう絶対にヘマはしないから」
 カカシの腕の中でイルカは声を上げて泣いた。こんな幸いがあるのだろうか。カカシのことを好きだと自覚したのは記憶を失うたった一日前だった。自覚した途端に奪われた恋心がようやく帰ってきてくれた。
 カカシに抱き締められ、そうして永遠を約束してくれた。もう失わない、あんな愚かなことで。もう二度と本能の発する警告には逆らわないと思った。
 濡れた頬を手の平で拭われ、イルカはベッドへ押し倒される。いつの間に寝室に移動していたのだろうかと思ったけれど、カカシお得意の移動術を気付かぬ間に使われたのだろうことは容易に予想が付いた。降りてきた唇をうっとりと受け止めて、イルカはカカシの収まりの悪い髪の毛をくしゃりと混ぜた。



 呆れるほどに交わって抱き合って、どろどろになって気を失ったのはいつのことだったのか。飛んでいた意識が戻ったときもカカシはまだイルカの中にいてゆっくりと腰を揺すっていた。うっとりと目を細めイルカの中を味わっているカカシにとろりと身体が溶ける。
 カカシにこんな顔をさせているのが自分だということが例えようもなく幸せで、イルカは与えられる快楽にあっさりと身を任せた。体力なんてとっくに限界で、喉は痛いし下半身の感覚はすっかり鈍くなっていたけれどそんなことがどうでも良いと思えるくらい幸せだった。激しすぎない抽迭を受け止めてイルカは幸福と快楽に身を震わせた。
「…気持ちよさそうな顔して…」
 汗ばんだ手の平がイルカの頬を撫でる。それはこっちの台詞だとイルカは思ったけれど声には出さなかった。今口を開けばおそらく漏れ出るのは恥ずかしげもない嬌声ばかりだろう。
 ゆっくりと屈み込んできたカカシを抱き締めて、そうしてぴったりとくっつきあう。緩やかに与えられる快楽はもどかしくて愛しくて、このままずっとこうしていたいとイルカは思った。どこまでも落ちていくような深くて熱い沸騰しそうなあの瞬間もひどく愛おしいけれど、こうやって抱き合っていつまでも快楽に身を任せているのも例えようもなく幸せなことだ。うっとりと目を閉じてカカシに包まれていたイルカはいつしか眠るようにまた気を失っていたのだった。



 目を覚ましたとき辺りはもう夕闇に包まれていた。カカシはイルカを抱き締めたまま隣で眠っていた。イルカが最後に意識を手放したとき辺りは日の光に満ちていたけれど、それがはたして何時だったのかは分からない。どのくらい眠っていたのだろうかと思ったとき、ふとそれよりも大事なことを思い出した。
 今日は、平日だ。普通に仕事がある日だ。今は夕方で…、そうしてイルカは今日一日セックスに耽っていた。どっぷりとつかっていた幸せはあっという間に霧散しイルカは青ざめた。
 む、無断欠勤…!有り得ない、社会人として全く有り得ない…!そうして休んだ理由というのがカカシとセックスしまくって時間もなにも忘れていたからだなんて、教師としても本当に有り得ない。
「連絡はしてあるから大丈夫ですよ」
 青ざめ硬直していたイルカをカカシがぽんぽんと優しく宥める。眠そうなカカシの言葉にイルカはぽかんとした。
 連絡?いつ?あんなに激しく抱き合っていたのにいつそんな余裕があったんだ。イルカは我を忘れてカカシに溺れていたというのに、カカシはイルカの欠勤の連絡をしなくちゃならないという冷静さを失っていなかったのか。
 自分ばかりが熱に溺れていたことを知らされてイルカは恥ずかしくてなんだかむかついていた。なにそれ?連絡をしてくれていたのはこの上なく嬉しいし助かったけれど、でも。でも!
「はいはい、そう怒らないの。あんたが気を失ってるときにちょっと窓開けたらチャイムの音が聞こえたんです。で、そう言えば連絡しとかなきゃまずいかなって思いついて、あんたの声で電話しといたの。いくらオレでもあんたの中に入ってるときにそんなこと思いつくわけないでしょ。気持ちいいので一杯一杯ですよ」
 抱き寄せられて額に口付けまで落とされる。カカシの言い訳が本当かどうかは知らないけれど、イルカはその言葉と降ってきたキスですっかり機嫌が直ってしまった。
 オレは救いようのないあほだ。抱き込まれた腕は温かくて優しくてうっとりと目を閉じた。
「まだ寝るの?ご飯は?」
 カカシの声が聞こえていたけれどもう少しこのぬるま湯に浸かってるみたいな気分を味わいたくて、イルカはその声をわざと無視したのだった。



←back | next→