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「イルカ先生お帰りだってば…」
 明るい子供の声がイルカの耳に飛び込んできた。ナルトだ。顔を上げた先、にこりと笑っているはずの子供は、けれどイルカの後を凝視したまま表情を強張らせていた。
「…!」
 隣にいるサスケの顔もひどく強張っている。二人の視線の先にいるのは、大蛇。
「あ、あの、な。この人、オレの同僚の先生で大蛇先生、っておっしゃるんだ。さっき下で会ったんだけどこの雨で難儀されてるから、その、傘を貸すって…」
 二人の表情にやはり連れてくるのではなかったとイルカは思ったけれど、今更後の祭りだ。とにかくタオルと傘を貸して早めに帰って貰うしかないだろう。
「あの、大蛇先生。すぐタオル取ってきますから、ちょっと待ってていただけますか?」
 そう言いながらイルカは後ろを振り返った。ずぶ濡れでそこに佇んでいるはずの大蛇を。
「タオルはいいわ、海野先生。それよりも上がらせて貰うわよ」
 大蛇はひどく楽しそうに笑っていた。イルカが見たこともないくらい冷たい笑顔を浮かべて。
「…大蛇、先生?」
 見たことがないと思ったけれど、何かが頭を掠めた気がした。この表情をオレは知っている?いつ、どこで、見たのだろう。ふっと過ぎったのは校長と学年主任、そうしてその横に立つ大蛇。あれは最初の顔合わせの時じゃなかっただろうか。
「使い魔まで送り込んでるとは随分と手が込んでるのね。でももう無駄な抵抗も終わり」
 くすくすと嗤う大蛇の表情に記憶がフラッシュバックする。顔合わせの日、イルカは大蛇のことを恐ろしいと思わなかっただろうか。笑った顔の得体の知れなさに恐れを抱いたのに、どうして警戒を解いてしまっていたのだろうか。あの時確かにイルカは大蛇を恐ろしいと思ったのに。どうして。
「…大蛇丸…!」
 呻くように呟いたのは普段滅多に表情を崩さないサスケだった。驚いているだけだったナルトの顔にも明らかな憎悪が浮かんでいる。二人の激しい感情の動きにイルカは驚き、そうして我に返った。二人だけでも守らなくては。慌てて靴を脱ぎ二人を守るように前に立ちはだかった。
「大蛇先生がなにをおっしゃっているのか分かりませんが、今日のところはお引き取り願えませんか?」
 二人に怪我を負わせるわけにはいかない。大蛇相手にどうしてそんなことを思うのかイルカにはさっぱり分からなかったけれど、最早理屈なんかではなかった。目の前で面白そうに嗤う大蛇は学校にいるイルカの同僚の大蛇ではない。それだけは確かだった。
「つれないことを言うのね、海野先生。でももう遅いわ。私はこの部屋へと足を踏み入れてしまった」
 くすくすと大蛇が嗤う。その笑いに立ち竦むイルカを押し退け、サスケとナルトが大蛇の前へと踏み出す。
「イルカ先生には指一本触らせないってばよ!」
 ナルトの言葉にサスケも頷いた。その二人に大蛇はまたしても嗤い声を上げる。
「まぁ、なんて勇ましいんでしょ。美しいわねぇ。でもアンタ達みたいな下級悪魔が私に敵うとでも思ってるの?」
「やってみないと分かんないってばよ!それに、敵わなくってもオレ達はイルカ先生を守る!」
 なんの話をしているのかイルカにはさっぱり分からない。悪魔?下級悪魔ってナルトとサスケが?まさか、あの二人は従兄弟の子供だ。でもどうして二人は必要以上に大蛇を警戒しているのだろう。そうしてころりと態度を変えた大蛇。
「実力もないくせに口だけは達者なのね。そこを退きなさい」
 大蛇の言葉にナルトの身体からざわりとなにかが溢れ出た気がした。目に見えない力のようなもの。
「死んでも退かないってばよ!」
 ざわりとナルトの髪が波打った。一体なにが起こっているのか。見ればサスケの身体からも何か力のようなものが溢れているのが分かった。一体二人はどうしてしまったのだろう。そうしてそれを愉快そうに眺める大蛇。
「じゃあ、死になさい」
 大蛇がそう告げた瞬間ナルトの身体が横の壁へと叩きつけられた。
「ナルト!!」
 ナルトは呻きながらそのまま床へと崩れ落ちた。
「くそっ!」
 イルカがナルトの方へと駆け寄った瞬間、サスケが大蛇の方へと躍り出る。
「サスケ!」
 けれどサスケの身体も強い力に押されるように後へと吹っ飛び床に叩きつけられた。
「サスケっ!!」
 なにが、なにが起こっているのだろうか。一体なにが。恐怖に身体が戦いた。蹲るナルトを庇うように大蛇の前に出てはみたものの、イルカに出来ることなど何一つなかった。
「海野先生、アナタには他にして貰わなくちゃならないことがあるの。だからアナタには何にもしないわ。その使い魔達に死んで貰いたくなかったらそこで大人しくしていらっしゃい」
 ナルトもサスケもぐったりと力なく床に倒れ伏している。指一本動かすことなく二人を打ちのめした大蛇。イルカは大蛇の言葉に身動きが取れなくなった。二人を死なすわけにはいかないのだ。けれどイルカに大蛇を打ち負かすだけの力があるはずもない。
 助けて、と痛切に思った。助けて。無意識に右手で胸の辺りを掴みながらイルカは助けてと願う。助けて。でもどうしたらいいんだろう。どうしたら。それに一体自分は誰に助けを求めているの?
 大蛇は凭れていたドアから身体を離すとそのまま家の中へと上がり込んできた。迷うことなく廊下を抜けリビングの脇にある和室へと向かっていく。ひどい恐怖と混乱でイルカは泣いてしまいそうだった。助けて。どうか助けて。胸に手を当てて思う。どうか、お願いだから。
 身動ぐことも忘れてイルカは大蛇の消えた方をただ見つめていた。どうしてこんな事になったのだろうか。どうして。

 どうして、忘れてしまったの。

 忘れる?一体なにを?イルカには忘れてしまったというその事実さえ分かってはいなかったけれど、圧倒的な喪失はいつまでも失われず胸の中に燻っていた。
 あの人のことを忘れさえしなければ。あの時名を呼んでいれば。次々と浮かぶ思考は、けれど何一つ要領を得ない。イルカには忘れた人などいないのといないというのに。呼ぶべき名前など持っていないというのに。なのに、でも。
「見つけたわ」
 にたりと嗤ったまま大蛇が和室から姿を現した。その姿は女でもなく人間でさえもないように見える。ひどく邪悪で醜悪な生き物。あれは一体。
「見つけたわよ、海野先生。あの子が大事に大事に隠していたものがね。これ、見覚えないかしら?」
 そう言いながら大蛇がすいと手を差し出した。イルカに近付きながら握った手の平をゆっくりと開く。その手の平に乗せられていたのは小さな琥珀色の石だった。
 イルカには全く見覚えがない。けれど石を見た途端心臓がどくりと脈打った。この石はとても大切なものだ。イルカには見覚えなんて全然なかったけれどそれは分かった。ひどく懐かしく温かい気持ちが沸き起こる。
「ここにアナタの魂の半分があるの。これを今からアナタに戻す事にしましょう」
 大蛇がイルカに近付いてくる。イルカはその場から走って逃げ出してしまいたいくらいだったのに縫い止められてしまったかのように身体が動かなかった。なんで、どうして?そう思って口を動かしたのに、イルカの喉からは空気の漏れる音しか聞こえてこなかった。
「声は封じさせて貰ったわよ。魂を戻せば多分記憶が戻るでしょうからね。そこで召喚なんかされたら私の方が危ないもの。ごめんなさいね」
 ひゅーひゅーと喉を鳴らすイルカに大蛇はひどく優しげな口調でそう告げた。声が出ない。また、声が出ない。大事なときなのに。名前を呼ばなくちゃいけないのに。

 でも、だれの?

 大蛇はイルカの目の前までやってくると額の前に石をかざした。底知れぬその瞳にイルカの背中に汗が伝う。どうしよう。このままでは。震えるイルカをただ楽しそうに見つめて大蛇はイルカの聞き取れない言葉を呟き始めた。言葉に抗うようにイルカの目の前で石が震え始める。時折鋭い光を放ちながら石はぶるぶると震え、そうして砕け散った。
 石が砕けたその瞬間、イルカの脳裏に甦ったのは、カカシ。そう、カカシだ。名を呼ばなくてはならないのは、あの優しい悪魔。イルカの唯一無二の存在。どうして忘れたままでいられたのだろう。どうしてその不在に耐えられたのだろう。
「さぁ、仕上げよ」
 大蛇がイルカの額にゆるりと手を当てた。駄目だ、このままではとてもまずいことになる。カカシを呼ばなくては。どうにかして。相変わらず喉から漏れるのは空気の音ばかり。
 でもイルカに出来ることはたった一つきりしかないのだ。カカシを呼ぶことだけ。どうにかしてカカシを。カカシさん助けて。どうか助けて。額に当てられた手からひどく禍々しい力がイルカの中へと入ろうとしている。嫌だ、助けて。

「…ヵ…」

 声が音として口から漏れていたのかどうかさえ分からなかった。



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