* * *
「うそ、あんなに晴れてたのに」
五時間目の授業が終わり残すところあと一時間となった頃、晴れ渡っていた青空に俄に雨雲が掛かり始めた。空を覆った雨雲のせいで辺りはすっかり暗くなり始めている。
「あぁほんとだ。今日は一日いい天気だって言ってたのに」
「降り出しそうですねぇ」
授業から職員室に戻ってきた教師達も窓際に集まっててんでに天気の話をしている。重たく垂れ込めた空の様子からしても降り始めるのは最早時間の問題だった。
「帰る頃にはやんでるといいですけどね」
雨はまだ窓を叩かない。イルカも職員室の窓から空を眺めて早めにやんでくれるといいな、と思った。
結局雨は授業開始から時を置かずして降りだし、そうして授業が終わってしまった今でも降り止むことはなかった。降り止むどころかひどくなっている。置き傘ないんだよなぁ、とイルカは溜息混じりに思っていた。以前持って帰ってしまって以来持ってくるのを忘れているのだ。イルカは無意識に胸に手を当てて小さく溜息を吐いた。
―――あの人がいればこんな心配しなくてもいいのに。ふと沸き上がった思考にイルカは驚いた。あの人って誰のことだ?イルカのために傘を持ってきてくれる人などいた例しがないというのに。でも、いつだったか。
ふと写りの悪いテレビみたいにイルカの脳裏を一瞬何かが掠めた。雨の日、放送室、そして…。そして?なんだろう。いったい何の記憶だ?あまりにも不鮮明で心許ないその記憶にイルカは首を傾げた。今のなんだったんだろう。放送室に誰かがいたような…。
「海野先生お先です」
考え込んでいたイルカの隣から突然声が掛けられた。
「あ、お疲れ様です」
この雨で一部の部活は休みになったらしい。隣席の教師が顧問をしている部活も休みになったのだろう。彼は早々と荷物を纏めて職員室から出て行ってしまった。
あ。今の会話で折角少しだけまとまっていた思考がすっかりどこかへ霧散してしまっていた。もうあの微かな記憶を辿ることは出来ないだろう。そうまでして記憶を辿る必要が一体どこにあるのかイルカにも分からなかったけれど、でもそれはとても大事なことのような気がしていた。
だって、確証はないけれど、放送室にいたのは、あの夢の中の人物のような気がしたから。だから。
思い出したいと思ったのだ。忘れているかどうかさえ分からないのだから思い出すも思い出さないもないかもしれないけれど、それでも。
もし夢のあの人が現実に存在するのならばどうしても会いたいのだ。自分の記憶の中にその糸口があるのならば、思い出してみたいと思った。会って名を呼んで欲しいと思った。あの柔らかな優しいトーンで、いつもみたいに。いつも夢で呼んでくれるみたいに。
「じゃ、お先に。海野も早く帰りなよ」
物思いに耽っていたイルカにまたしても声が掛かった。目の前の席の教師も荷物を纏めてイルカの方へ小さく手を挙げていた。大ベテランでかつてのイルカの担任でもあるその教師はよっこらしょと言いながら荷物を肩に掛けていた。
「はい。お疲れ様でした」
元担任で大先輩の教師を見送ってからイルカもそろそろ帰らないとな、と思った。いつまでもここで物思いに耽っていても仕方がない。ごそごそと机の上を漁り、小テストの答案を引っ張り出す。持って帰って採点をしてもいいけれどこの雨だと濡れてしまう可能性が高い。これだけやったら帰ろうと思いながらイルカは筆箱から赤ペンを取り出した。
夢の中の人のことも大事だけれど仕事も大事だ。今はただでさえ子供達がいるのだから早く帰ってやらなくてはならないのだし。さっさと終わらせて早く帰ろうと思った。雨はまだ降り止む気配すらない。
さくさくと採点を終わらせてイルカがいざ帰る段になっても雨はまだ降り続いていた。心なしか降りがまたひどくなっている気がする。どうしてもというもの以外は取りあえず机の中に仕舞って、持って帰るものはビニールに包んで鞄に入れた。今日は歩いて帰らないとな、と思う。
両親は今日みたいにひどい雨の日に事故にあった。雨で悪くなっていた視界と路面、そうして飛び出してきた自転車。自転車を避けようとして両親は帰らぬ人となった。ましてや今は夕暮れ時で一番視界が悪くなるときだ。イルカは学生の頃から雨の日に自転車には乗らないと心に決めている。明日の朝も歩きになるけれど今のマンションに越してからは大した苦にはならなかった。全力で走って帰れば鞄の中身は無事に済むだろうと思いながら職員室を後にした。
そうして雨の道をばしゃばしゃと走りながら家路を急ぐ。まずは風呂に入ってそれから飯の支度をして。今日の晩ご飯はなにがいいだろう。冷凍庫の中のミンチを使ってハンバーグにでもしてやろうかな。前にハンバーグを作ってやったときナルトもサスケもこっちがビックリするくらい喜んでいた。まぁ、サスケの場合あんまり表には出さないんだけど。仏頂面のサスケの顔が思わず綻んでいたのを思い出してイルカは小さく笑う。
角を曲がりもうあと少しでマンションだというところで、不意に声を掛けられた。
「あら、海野先生」
その声にイルカは思わず足を止める。古びたタバコ屋の軒先の僅かな庇の下に見知った顔があった。
「大蛇先生、どうしたんですか?」
声を掛けられたのに素通りするわけにもいかず、イルカもその軒下に入った。ずっと走っていたせいで息が上がっている。それにしても大蛇とこんなところで会うとは思ってもみなかった。
彼女の家はこっちの方向だっただろうか?職員名簿で一度見たことがあった気がしたけれど、彼女の正確な住所を思い出すことは出来なかった。
「家、こっちの方でしたっけ?」
訊ねれば大蛇はうっすらと口元に笑みを浮かべた。
「えぇ、そうですわ。普段は車なんですけど、今日に限って友人のところから直接送ってもらったから歩いて帰らならくてはならなくなってしまって…。それなのにこの雨でしょう?嫌になってしまいます」
女性にしてはかなりハスキーな声で大蛇はそう言った。
「海野先生はこの近くなんですか?」
続けて訊ねてきた大蛇の声に、ごほんという咳払いが被った。見ればタバコ屋の販売窓から老婆が迷惑そうな顔をしてこちらを見ている。邪魔だと言いたいのだろう。
確かに大蛇とイルカが立っている場所はちょうど入り口の辺りになる。大蛇の質問に上の空で頷き返し、イルカは自分一人でも早くここから出た方が良いかもしれないと思った。雨宿り中の彼女には申し訳ないけれど、イルカの家はここから目と鼻の先だ。さっさと帰った方がいいに決まっている。
「海野先生、図々しいお願いで申し訳ないんですけど少し雨宿りさせていただけませんか?」
大蛇からの突然の提案にイルカは驚いた。
「え?」
「いえね、さっきからどうもあのお婆さんがひどく迷惑そうで…。雨が弱くなるまでで構わないんですけど…」
ちらちらとこちらを見る老婆は確かに迷惑そうにしている。確かにここは居心地が悪いだろう。それにこの辺りで他に雨宿りできそうな場所はない。大蛇のお願いももっともだとイルカは思った。けれど。
「あ…」
イルカは咄嗟に答えを返すことが出来なかった。だって、あの部屋に誰かを入れるだなんて。ナルトとサスケは別だ。あの二人は従兄弟の子供でとても安全だから。だけどそれ以外の人をあの部屋に入れるだなんて。
「駄目ですか?少しの間だけでいいんです。でなければ傘をお借りするだけでもいいんですけど…」
しおらしく言葉を続ける大蛇にイルカは頷かなくてはと思った。だって当たり前のことだ。大蛇は雨に降られて困っている。雨宿りするための軒下は居心地のいい場所ではなく、そうしてイルカのマンションは目と鼻の先なのだ。
普通に考えればいくら店主が迷惑がっていなかったとしても、雨宿りしていきますか、くらいは言ってあげるべきところだろう。でも、けれど。
「あ、あの…」
けれど、けれど。嫌だと思った。どうしてもあの部屋にこの人を上げることが嫌だと思ったのだ。
『だからね、イルカ先生。オレがいない間、絶対この部屋に誰も招いたりしないで下さいね』
不意に脳裏に甦った声。誰かは分からないけれど、これは夢の声の人だとイルカは思った。このごろ頻繁に夢に出てくる人。イルカをもっとも安心させる声。
大蛇を家に上げるのは普通のことだと思う。ここで彼女の頼みを断るなんてとても非常識でひどいことだ。彼女は雨に困っているのだから。けれど、けれど。
けれどこの声の持ち主が誰も招くなと言ったのだ。誰も招いたりしないで、と。夢の中で言われたのかそれともそうでないのかは分からなかったけれど、イルカの本能が夢の声に従うよう求めていた。
「海野先生?」
困ったように押し黙ったイルカに大蛇は不安そうな声を出した。こんな時普通は快く引き受けるものだ。彼女は職場の同僚で、そして困っている。この雨で気温は下がっているし、このまま外に立っていれば風邪を引いてしまうだろう。タオルくらいは貸してあげるべきだとそう思う。家はすぐそこなのだし、どうぞと一言言えばいいだけの話だ。けれど、でも。
「あ、そ、そうですね」
でも、でも―――――。
「でも、あの、子供が。えっと、その、従兄弟の子供を預かってて…、その」
大蛇を雨宿りさせてあげなくてはと思うのに、イルカの口からはそれを断るような台詞が零れていた。
「あぁ、でしたら傘を貸していただけませんか?」
イルカの返答に残念そうにするわけでもなく大蛇はそう続けた。大蛇の言葉にイルカは知らず安堵の溜息を漏らしていた。そのくらいだったら別に構わない。家に上げるわけでなし。
「そのくらいだったらお安いご用です。うちすぐそこだから取ってきますね」
大蛇の言葉にほっと息を吐き出したイルカは未だ勢いの衰えない雨の中へ飛び出そうとした。そのイルカの手を大蛇は不意に掴んだ。
「あの、海野先生。ここで待つのも気詰まりなので、一緒に行ってもよろしいですか?」
いやだ、と言いそうになった。どうしてそんなことを思ったのか、それは分からなかったけれど。
「あ、はい、どう、ぞ」
掴まれたところからぞくぞくと悪寒が走る。イルカは思わずその手を振り解いてしまいそうになった。自らのあまりともいえるその思考をイルカは嫌悪した。
彼女がなにをしたというのだ。雨に濡れて困っているだけなのに。自分はその人からの雨宿りの申し出を断っただけでなく、傘を取りに来ると言っているそのことさえも断ろうとしていた。掴まれた腕を咄嗟に振り払うことをしなくて良かったと心底思う。そんなことをしたら大蛇にあまりにも失礼だ。
けれど、心のどこかがひどくざわついているのも確かだった。彼女から速く逃げ出したいとばかり思っている。なぜなのか、その理由は分からなかったけれど。
「じゃあ行きましょう」
大蛇に促されイルカは雨の中へと足を踏み出した。頭の中に警鐘が響く。そうして思い出すのはあの声。
『絶対この部屋に誰も招いたりしないで下さいね』
絶対、そう約束したのにまたあの人を裏切るのか。あの時も選び間違えたのに。不意に脳裏を過ぎった自らの思考にイルカは戸惑った。
あの人って、誰だ?あの時って?一体自分はなにを選び間違えたというのだろう。その間違いは所々欠けている記憶に関係があるのだろうか。
分からない。なにもかも分からないままだった。先導するように走りながら、もう目の前に見えてきたマンションを見つめる。
胸がどきどきしていた。いいのだろうか。大蛇をここへ連れてきても良かったのだろうか。不安で軋む胸をどうすることも出来ないままイルカは大蛇と共にエントランスへと駆け込んだ。
「あの、ここで待ってて貰えますか?すぐにとって来ますから…」
ぽたぽたと滴る雨粒をハンドタオルで拭っている大蛇にイルカはそう声を掛けた。イルカの言葉に大蛇は驚いたような表情を浮かべた。
「いえそんな。申し訳ないですわ。一緒に取りに上がりますから」
大蛇の言葉にイルカの心はひどく動揺していた。堪らなく嫌なのだ。彼女を部屋へ案内することが。どうしてそんな風に思うのか。
「あ、そう、ですか…」
嫌だ。本当に嫌だ。彼女をあの部屋へ近づけたくない。けれど。エントランスの端に設置されているオートロックのパネルを操作しながらイルカは力なく項垂れた。
断るのもおかしな話だと思ったからだ。びっしょりと濡れた大蛇をここで待たせて温かいものの一つも出さずに返すだなんてひどすぎる。
けれど約束はどうなる?誰も招いたりしないと約束したのに。その約束はどうなってしまうのだろう。正面の自動ドアが重たい音を立てて両側へと開いていく。
「どうぞ」
大蛇を中へと案内しながらイルカは小さく息を吐いた。約束は夢の中の人としたものだ。夢で会う人物がどんな人なのかさえ知らないというのに、そんな約束のために大蛇を無下には出来なかった。
でも、と思う。駄目だと思う側からでもと思うのだ。でもその約束はなによりも優先させるべきものだったんじゃないのか。なによりも誰よりも、他のなにを差し置いてでも守るべき約束だったんじゃないのか、そんな気がしてならない。
ぽたぽたと滴が垂れてイルカの足下に小さな水たまりを作っていた。横に立つ大蛇の足下にも水が垂れている。さして待つことなくエレベーターが下りてきて二人はそろってそれに乗り込んだ。
いいのだろうか。約束を破ってしまうことになる。大蛇を部屋に上げてしまうことになるのだ。不安で胸がどきどきしていた。大蛇を部屋に上げてはいけない気がする。誰も招くなと言われたのに。それに、大蛇だけは信用してはならないんじゃないかと―――。
ちん、と軽い電子音がして目の前の扉が開いた。
「海野先生、降りないんですか?」
開かれた扉の向こうを凝視しているイルカに大蛇が不思議そうに話しかけてきた。
「あ、降ります」
のろのろと足を動かしエレベーターから降りる。いいのだろうか。頭の中でがんがんと警鐘が鳴っていた。約束を破ってはいけない。この約束だけは絶対に。守れなかった約束のせいであの人は、今頃とても―――。
「海野先生?」
低い掠れた大蛇の声がイルカの鼓膜を震わせる。
「す、すいません、なんかぼーっとしちゃって」
ここで待っていてくださいと、そう言った方が良いのではないだろうか。彼女を部屋へ入れてはならない気がする。
「部屋はどちら?」
それなのにイルカの身体は大蛇の声に従うかのようにのろのろと勝手に動き始めていた。駄目だ、約束を破っては駄目なのに。水滴を垂らしながらイルカはのろのろと部屋の前までやって来ていた。約束を破ってしまう。あの人との大事な約束を。
「ここです、どうぞ」
それなのにそれなのにそれなのに。
イルカは鞄から鍵を取り出し、そうして鍵穴へと差し込みながらその言葉を口にしてしまっていた。
どうぞ。
それは相手を部屋へと招き入れる言葉。絶対に言ってはならなかった一言。
イルカがそのことを理解できるはずはなかったけれど、なによりも堅固なはずの結界が今崩れ去った。イルカはそのことにすら気が付くことはなかったけれど、圧倒的な不安が胸に押し寄せてくる。今からでもこの女をここから立ち去らせるべきなのではないだろうかという不安。
「お邪魔しますわ」
扉を開け玄関へと入り込んだイルカの後に大蛇が続く。そうして背後でばたんという音がした。扉が閉ざされてしまったことがイルカの不安をさらにかき立てる。どうしてこんなにも不安なのだろうか。
どうして。
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