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          * * *



「イルカ先生」
 ふと誰かに呼ばれた気がして辺りを見回せば、すぐ隣に誰かが座っているのが分かった。イルカとその人は公園にあるような木のベンチに隣り合わせて腰掛けている。辺りは霧に包まれたように真っ白で、どこかぼんやりと明るかった。
「イルカ先生」
 もう一度、名を呼ばれた。低く滑らかな声はイルカの耳にひどく甘く響いた。
「イルカ先生、少し顔色が悪いですね。ちゃんと眠れてる?」
 男はそんな風に言ってイルカの頬にそろりと手を伸ばしてきた。少し体温の低い硬く乾いた指先がイルカの頬に触れる。触れられた感触にイルカの頬はじわりと熱を帯びた。
「…あ、あの!」
 この人は一体誰なのだろう。イルカの知っている人なのだろうか?こんなにも近くにいるというのに男の顔は霞が掛かったようにそこだけぼんやりとしていて、上手く判別することが出来なかった。触れている手のひらはこんなにもはっきりと目に映っているのに。
 それきり黙ってしまったイルカを気にする様子もなく男はただゆっくりとイルカの頬を撫でている。知っている人のような気がする。どこかで会ったことがある人のような気が。けれど顔が見えない以上イルカにはそれを判別する手段はなかった。せめて顔が見えれば、名前が分かれば。
「あの、あなたは誰なんですか?お名前とか、教えて貰えませんか?オレ、あなたのこと知ってるような気がするんですけど…あなたの顔がよく見えないんです」
 そう告げたイルカに男は頬を撫でる手をふと止めた。
「…顔が見えないんですか?」
 男の不思議そうな声にイルカはこくりと頷く。
「はい、あなたの顔だけまるで霧がかかってるみたいにぼんやりとしていて…、うまく判別できません」
 イルカの言葉に男は小さな声で、そう、と言った。どこか寂しさを滲ませたその声を聞くとイルカの心はずきりと痛んだ。この人にこんな思いをさせているのは自分だという気がして。
「イルカ先生、オレの名前は―――というんです」
 肝心の部分がまるでノイズのひどいラジオのように聞こえなかった。
「え?なんて?」
 イルカが問い返せば男はもう一度同じように答えてくれた。
「オレの名は―――といいます」
 次も同じだった。イルカには名前の部分だけが聞き取れない。
「…聞こえません…」
 どうして―――、どうしてイルカには分からないのだろうか。その人を特定するための手掛かりが全てまるで誰かに阻まれているみたいにはっきりとしなかった。なんで、どうして。俯いたイルカの髪にそっと触れるものがあった。男の硬い手の平がイルカの頭を優しく撫でる。
「大丈夫。無理しないで。あなたは何一つ悪くないから」
 頬を撫でていたのと同じ暖かさで男はイルカの頭を撫でる。優しい手の平の感触はイルカに甘い疼きをもたらした。この手の平を、知っている気がするのに。
「抱き締めてもいい?」
 頭を撫でていた男が不意にイルカにそう問いかけた。男の言葉の内容にイルカはひどく驚いたけれどなんとなく抱き締められても良いと思った。小さく頷けば、そっと抱き寄せられる。
 すっぽりと腕の中へと攫い込まれ、そうしてゆっくりと背中を撫でられた。男の腕の中に包まれれば、その温かさに泣いてしまいそうになった。男の体温が心に染みる。
 ここはなんて安心できるんだろう。ここにいれば不安なことも悲しいことも全て消えてなくなってしまうみたいだと、イルカは思った。男の背中に手を回し、イルカもぎゅうと抱きついた。ぴったりと胸をくっつけているとお互いの鼓動が皮膚越しに伝わって、イルカはうっとりと目を閉じた。
 このままずっとこうしていたい。相手が男だとか見知らぬ人だとかそんなことはどうでも良くなるほどに、この腕の中は心地よい。イルカをなにもかもから守ってくれているみたいな力強い腕だった。うっとりと目を閉じていたイルカの耳に男の声が聞こえてきた。
「あぁ、もう夢が覚めてしまうね」
 え?
「ゆめ…?」
 男の言葉の意味を取り損ねてイルカは思わず問い返す。男はゆっくりと腕の力を抜いてイルカにこくりと頷いた。
「えぇ、これはあなたの夢ですよ。もうすぐあなたの目が覚めるのでしょう。ほら、だんだん薄くなっていく」
 男が言ったとおり、男の身体は顔と同じようにうっすらと霞みはじめていた。もう会えないのだろうか。まだ男の腕の中にいるのに、だんだんと透けていくその身体。
「また会いに来ます。夢の中でしか会えないけど、毎日会いに来るからそんな悲しそうな顔しないで」
 だんだんと消え始めた男は最後にそう言ってイルカの頬を撫でた。その手の感触を最後にすぅ、と男の姿が目の前から消え失せる。あぁ、消えてしまった。イルカはその喪失感に呆然としていた。
 どうしてこんなにも苦しいのか。白く霞んでいた世界があっという間に闇に包まれ、イルカは目を覚ました。
 目に映るのは見慣れた天井。そうしてイルカの眦からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。会えた喜びと離れなくてはいけない悲しみにイルカはぼろぼろと涙を零す。
 また会えると言ってくれたから、きっと大丈夫。そう思うのに、悲しくて堪らない。今ここにあの人がいないから。
 夢の中の人だと分かっていてもイルカはしばらく起きあがれないほどに打ちのめされていた。どうしてそんな風に強い感情が沸き上がるのか分からないまま、イルカはただぼんやりと天井を眺める。
 また夢で、会えると良いな。起きあがる寸前に思ったのは、そんなことだった。



 そうしてその日から、イルカは毎日繰り返し男の夢を見るようになった。名も知らぬ、顔さえも分からない、ひどく懐かしい男の夢を―――。



          * * *



 晩飯のリクエストはカレーだった。最初の日に食べたやつが食べたいと言い出したのはナルトのほう。異論はないらしくサスケも僅かに期待を込めた目でこくりと頷いた。いや別にカレーくらいいつでも作るけど、と思ったけれどそれは口には出さなかった。安上がりな子供達だ。本当ならカレーは一日置いた方が旨いけれど、これでもそこそこは美味しいだろうと思う。
「いただきます」
 全員で手を合わせカレーに口を付ける。まぁまぁ、かな、と思ったけれどイルカは不意に違和感を感じた。カレーってこんな味だっけ?確かに自分のカレーの味だと思うのにイルカはもっと美味しいカレーを食べていたような気がした。なんだろう、この違和感。
「…なぁ、イルカ先生。前食べたカレーこんな味じゃなかったってばよ」
 これはこれで旨いと思うんだけど、と言いながらナルトは小さく首を傾げている。
「確かに味が違う…。全然別の人が作ったカレーみたいだ」
 そう言いながらサスケもなんだか不思議そうな顔をしていた。別の人が作ったみたい。サスケのその言葉がじわりと胸に影を落とす。別の人。なんだろう、何かが引っかかる。
 二人がこの家に来た日、あの日のカレーは確かにひどく美味しかった。だってあのカレーはイルカがずっと楽しみにしていたカレーだったのだ。凄く、楽しみに。
 でもどうして?あのカレーを作ったのはイルカなのに。なにか、忘れていないだろうか。不意に過ぎったのは先日から繰り返し見る夢。見知らぬ男が夢でイルカの名を呼んでいる。
 どうして今そんなことを思い出すのだろう。あれは夢の中の出来事だ。だけど、でも。
「イルカ先生、別にまずいって訳じゃないんだってばよ。これはこれで超旨いと思うってば」
 黙ってしまったイルカをフォローするようにナルトが慌ててそう言った。サスケも頷いている。
「あぁ、そうだな。まぁちょっと味が違うかもしれないけどこれもカレーだし食ってくれ」
 安心させるように笑ってイルカもまたカレーに口を付けた。なにかがおかしい気がする。なにがおかしいのか分からないけれど。これとは味の違うカレー。まるで別人が作ったみたいなカレー。
 カレーを食べながらイルカは不意に甦った記憶に狼狽えた。ナルトとサスケが来る前日、イルカは泣きながらカレーを食べたのだ。なにかが悲しくて苦しくて辛くて寂しくて胸が一杯なのにカレーは食べなくちゃならない気がして、イルカは泣きながらあの日カレーを食べた。あのカレーは特別なカレーだったから。

 だってあれは、あのカレーは―――が作ってくれたカレーだったのに。

 胸に浮かび上がった言葉にイルカはどきりとした。誰が作ってくれたカレーだって?この家にはイルカしかいなかったっていうのに。でも、だけど。
 何かがおかしいと思った。決定的ななにかが綻んでいる。けれどイルカには分からなかった。大事なことを忘れている気がするのにそれを思い出せる気もしなくて、イルカは混乱していた。
 夢を見始めてからなにかがおかしい。忘れてしまっていた違和感を思い出したような気分だ。記憶の綻びも違和感も思い出せば気になることばかりで、どうしてそれを気にせずにいられたのかよく分からない。
 ナルトもサスケもここにいてこの家は賑やかになったのに、突然去来した大きな喪失感にイルカはなんだか途方に暮れていたのだった。



          * * *



 イルカ先生。甘い密やかな呼び声にふと辺りを見回せばすぐ隣に誰かが座っていた。またあの夢だ、とイルカは思う。夢を見ながらこれだけはっきりと夢だと思うのも珍しいと思いながらイルカは声の主の方へと顔を向けた。
「イルカ先生、こんばんは」
 声の主もイルカの方を向いている。声の主の顔は相も変わらず霞が掛かったようにぼんやりとして見えて、イルカにはどんな顔の人なのか分からないままだった。どうしてちゃんと見えないんだろう。
「あなたは誰なんですか?どうしてオレの夢に出てくるんです?」
 いつもと同じ質問。イルカが訊ねるとその人はちょっと困ったように笑ったのが分かった。顔はよく分からないけれど表情はなんとなく分かるなんて変なの、と思ったけれど夢なのだからそう言うのもありなのかとも思った。
「オレの名前は―――です。オレがあなたに会いに来てるのは、あなたにオレのことを――――――欲しいから」
 まただ。また肝心なところが聞こえない。名前も目的も、そこだけノイズが入ったようにイルカの耳には聞き取れなかった。でもこの人の側にいるとひどく安心する。
「…聞こえません」
 その人の顔を見つめたままそう言えば、肩を抱き寄せられた。
「うん、でも大丈夫。側にちゃんといてあげるから」
 肩を抱かれ腕の中へと抱き込まれる。イルカは男で、その人も男なのにそんな風に扱われてもちっとも気持ち悪いとか嫌だとか思わないのが不思議だった。むしろひどく安心する。うっとりと目を閉じてイルカはその人の胸にもたれかかった。とくんとくんと規則正しい鼓動が聞こえてくる。
「いつになったらあなたに会えるんだろう」
 鼓動を聞きながらふとイルカの口からそんな言葉がこぼれ落ちた。夢の中の人に会えるだなんてそんな馬鹿なこと有りはしないと分かっているのに、どうして自分がそんなことを言ってしまったのかイルカには分からなかった。
「大丈夫。もうすぐ帰るから安心して。いつだってずっと側にいるから」
 柔らかく髪を撫でられればそれだけでもう十分だと思った。この人がそう言ってくれるならきっとなにもかもが上手くいくのだ。
「あぁ、もう夢が…」
 逢瀬の時間は短い。もう夢が覚めてしまうのだと思ったらイルカは泣きそうになった。もうこの人と離れなくちゃならないだなんて。そんなひどい話があるんだろうか。
「名前をもう一回呼んで」
 イルカは胸にしがみついたままその人に強請った。名を呼べない代わりに呼んで欲しい。オレを繋ぎ止めて欲しい。
「イルカ先生。大好きだよ」
 オレも、と思ったけれどすでに夢の人の姿は薄くなり始めていた。
「イルカ」
 そう呼ばれたのを最後にふつりと辺りが暗くなる。あぁ、もうすぐ目が覚めてしまうのだ。だんだんと暗くなる世界にそう思いながらイルカは浮上する意識にひどく悲しい気持ちになった。



 そうして引き戻された意識。瞼を開ければ視界に映るのは見慣れた天上。もう一度戻りたいと思ったけれど、二度寝をしても同じ夢が見られないことは分かっていた。
 またあの夢だった。最近毎日あの夢ばかり見ている気がする。見知らぬ男の夢ばかり。夢の中のあの人はひどく優しくて、甘く低い声でイルカのことを呼ぶのだ。
 名を呼ばれるだけで幸せだった。夢の人が紡ぐイルカという言葉はひどく愛しげでそれだけで胸が一杯になる。声のトーンは柔らかくイルカはそれだけで泣いてしまいそうだった。夢の残滓がまだあちこちに残っているみたいでイルカはそれを逃したくないと思った。
 少しでも長くあの人の気配を感じていたい。夢の中でしか会えない愛しい人。あれは一体誰なのだろう。
 イルカが過去に出会った人ではない。そう、少なくとも両親が死んでから大学を卒業するまでの間に出会った人ではない。学校に勤め始めて会った人でもない気がする。
 夢の中でも霞が掛かったようによく見えないその人の顔は、こうして目覚めてしまうと余計に思い出せなくなってしまう。覚えているのは肩から腕に掛けてのラインと低く甘い声だけ。出会った事なんてないはずなのにどうしてこんなにも繰り返し夢に見るのだろう。どうして?

 オレは何か大切なことを忘れてしまってはいないだろうか。

 不意に浮かんだ思考にイルカはひどく戸惑った。忘れる?なにを?
 けれど一度浮かんだその考えはなかなかイルカの脳裏から離れて行かなかった。忘れているのだろうか。夢の人のことを。だからこんなにも夢に見るのだろうか?でも…。
 なにかがおかしいような気がした。何か大切なものを取り落としているような心許ない気持ちだった。どうしてこんな気持ちになるのだろう。
 けれど明確な答えを出すことも出来ず、イルカはただ小さく溜息を吐き出してベッドから起きあがった。
 顔を洗い身支度を調えてからチビどもを起こし、いつものように朝食の準備をしていつものように二人よりも先に家を出る。からりと晴れ上がった空がとても気持ちよくてイルカは天を仰いだ。いい天気。
 夢の残滓は最早どこにも残ってはいなかったけれど、どこか温かい気持ちだった。夢にひどく助けられていると思いながらイルカは自転車のペダルをゆっくりと漕ぎ出したのだった。



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