* * *
休日の朝。洗濯物を干そうとしていたとき、ふとベランダに掛けられた簾が目に付いた。先日サスケから問われた事が頭を過ぎる。確かに日差しは強くなりつつあるがどう考えても時期的にまだ早い。
「何で掛けたんだっけ…?」
記憶をひっくり返してみてもやっぱり簾をかけた記憶が全くなくてイルカは首を傾げた。ナルトとサスケに頼まれたわけではない。ふと振り返ってみれば、二人は何か言い合いながらテレビを見ている。
「うーん。どう考えてもまだ早いよなぁ…」
洗濯物を取りあえず床に置いてイルカは簾を見上げた。さわさわと吹く風に簾は小さく揺れている。
「見た目からしてもなんつーかまだ寒々しい気もするしなぁ。やっぱり早いし…、外すかな…」
手早く洗濯物を干すとイルカは手頃な台を取りに室内に戻った。台所の隅に置いてある踏み台を手に取りイルカはベランダへと戻る。ことん、とベランダに踏み台を置いたときテレビを見ていたナルトがやって来た。
「イルカ先生なにしてんだってばよ」
ナルトの後にはサスケ。しょっちゅう言い争いばかりしている二人だがなんだかんだと仲がいい。大体いつでも二人セットで行動している。
「あ、いや。簾外そうかと思って。やっぱりちょっとまだ早いし」
ナルトにそう言えば驚いたような顔をしたのはサスケの方だった。
「なんでだ?この間はすぐ夏が来るからいいって言ってたじゃないか」
サスケの言葉にイルカはそういえば、と思う。あの時はなんとなく外すことに抵抗を覚えたのだが、今はそうでもない。
「まぁそうなんだけどな。やっぱり寒々しい気がするからさ」
季節外れだし。イルカがそう言えばナルトとサスケは僅かに表情を曇らせた。
「イルカ先生、それ外さなきゃ駄目なのか?」
おもむろにそうサスケが言った。言葉の真意を捉えかねてイルカは小さく首を傾げる。
「いや、別に駄目って事はないけど…」
「じゃあ外しちゃ駄目なんだってばよ!」
今まで黙って二人の会話を聞いていたナルトがおもむろにそう言った。
「え…?なんでだ?」
駄目って?やけに真剣な顔をしたナルトは、そう言ってイルカのシャツの裾を掴んだ。サスケも眉を寄せてイルカを見ている。二人がどうしてこんな顔をするのか分からずにイルカは混乱した。だって簾を外そうとしただけなのに。
「オレも、外さないで欲しい」
ぼそりとサスケもそう呟く。
「まぁ、お前達がそんなに簾気に入ってるなら別に掛けておいても構わないけど…」
イルカのその言葉にナルトは少しだけ傷ついたような顔をした。サスケも表情を曇らせたままだ。
「…その簾は、オレ達じゃなくって…イルカ先生が大事にしなきゃなんないんだってばよ…」
泣きそうな顔でナルトにそう呟かれてもイルカにはその意味は分からない。どうしてオレが…?
「ナルト」
辛そうなナルトの髪をサスケがくしゃりと混ぜた。シャツの裾を掴んでいた手が力なく落ちる。
「どうしたんだ、お前達」
イルカが訊ねてもただ悲しい顔をして二人は首を振るばかりだ。
「簾、外さないから」
その言葉に頷いたものの二人の表情は晴れない。項垂れたナルトの手を引いて室内に戻っていくサスケ。さわさわと吹く風は気持ちいいのに、なんだか落ち着かない気持ちだった。
* * *
いつものように光の差す方へと歩く。小さな小さな光は今や辺りをまばゆく照らしていた。
最早暗闇の中の光ではない。光の大きさは測れるものではなくなっていたし、闇を払拭するほどになっていた。けれどその光はけして刺すような強い光ではなく、柔らかく優しい光だった。
「明るくなってきましたねぇ」
手を繋いで歩いているカカシがぽつりとそう呟いた。
「あれ、カカシさんにも見えるようになったんですか?」
イルカの言葉にカカシはこくりと頷いた。
「えぇ、これだけ明るいとね、流石にオレでも分かります。多分もうすぐ着くと思いますけど」
「地上に?」
「えぇ」
今までは光を頼りに歩いてきたけれどこれだけ明るいとなにを目指して良いのかよく分からない。けれど不思議と道を間違える気がしなくてイルカは自らの赴くままに足を進めていた。
振り返れば相変わらず全く同じ距離にあの暗くて青く光った部屋が見える。
「イルカ先生。見えてきましたよ」
不意にカカシがイルカの手を引いた。後に気をとられていたイルカが前を向くと前方になにか黒っぽいものが見えた。人影、の様に見える。
「なんですか、あれ?」
問いかければカカシは一瞬寂しそうな表情を浮かべた。
「イルカ先生ですよ」
カカシの言葉にイルカはもう一度人影を見た。淡く光る、なにもない空間に横たわる人影。一歩近付くごとに人影はみるみる近付いてくる。距離感は全く分からなかったけれど少し歩いただけでそれが自分自身であることは分かった。
「…どうしてオレが?」
白い空間の中の自分はまるで死んだようにぴくりとも動かず眠っている。真っ直ぐに上を向き腹の上で両手を組んでいるから、まるで死体のようにも見えた。
「あれは地上で封印されているイルカ先生の魂です」
人影に過ぎなかったイルカはもうすでにすぐそこにいた。カカシはイルカの手を引いて横たわるイルカの枕元に立つ。白い光の中にいるせいか普段鏡で見る自分よりも色素が薄いような気がして、ますます死んでいるみたいに見えた。
「生きてるんですか?」
イルカが問えばカカシはにこりと笑った。
「もちろん。深く深く眠っているだけです。大丈夫」
そう言ってカカシはイルカをゆっくりと抱き締めた。
「カカシさん…?」
硬い手の平がゆっくりと背中を撫でる。愛おしそうに大事に回された腕。
「イルカ先生しばらくお別れです。あなたはこの魂と一つにならなくちゃならない。オレはここから記憶を無くしたイルカ先生に夢を通じて接触を図っていくことにことになります。ここに眠るあなたを通じて、ね」
カカシの柔らかな声がイルカの鼓膜を震わせた。柔らかく甘く切なく悲しい声。カカシと離れなくてはならない、その事実にイルカは打ちのめされた。
本当に全てのイルカがカカシから引き離されてしまうのか。そんなことがあっていいというのか。そんなひどいことが。カカシの背中に手を回しきつく抱き寄せる。この手を離したくない。カカシと、離れたくない。片時も。
「大丈夫。側にいるから。眠るあなたをずっと抱き締めててあげる。だからイルカ先生、あなたも眠らなくちゃ」
頑是無い子供のようにイルカは首を振った。イルカは良いかもしれない。カカシの腕の中に抱き留められたまま眠るのなら、きっと安心していられるだろう。けれど、けれどカカシはどうなるのだ。
「カカシさんは、大丈夫なんですか?オレがいなくても…」
イルカの言葉に抱き締める腕の力が強くなる。骨が軋むほどに抱き締められ、そうして苦しげに吐き出された言葉。
「大丈夫なはず、ないでしょ。あんたがいないのにオレが大丈夫だなんてことあるわけがない。でも、それでも…」
痛みすら覚えるほどの抱擁にイルカは息が止まるくらい嬉しいと思った。カカシに必要とされていることが。
浅ましいとは分かっている。カカシを苦しめているのが自分だと言うことも。けれど、申し訳ないと思う以上にイルカは嬉しくて堪らなかった。この腕が自分だけのものだということが、こんなにも。
「オレが耐えられなくなる前に助けるから」
カカシはきっとイルカのこのとてつもなく浅ましい心を全部見ているに違いないのに。
「許してくれるんですか、オレのこと…」
抱きついたまま問いかければ、不意に腕の力が緩んだ。そうしてカカシが耳元で不意に小さく笑った。
「許すもなにも、イルカ先生のそういうところ大好きですよ」
くすくすと笑って、そうしてカカシは身を離した。離れる体温が悲しいと思う。
「さ、そろそろ眠る時間ですよ。こっちに来て」
カカシに引かれ、そうしてイルカは眠るイルカの横に座った。
「そのままじっと胸の辺りを見ていて」
カカシは座るイルカの後に立っている。言われたように胸の辺りを見つめていたら、頭上で低い呟きが聞こえ始めた。呪文が終われば多分イルカは眠ってしまう。
戻ってから眠りにつくのか、それとも眠りについてから戻るのかは定かでなかったけれど、最後の最後までカカシを見ていられないのは寂しいと思った。カカシの呪文が低く滑らかに光り溢れる空間を満たしていく。
「おやすみ、イルカ先生」
カカシのその言葉を最後にイルカの意識はふっつりと途切れたのだった。
横たわるイルカにカカシはそっと触れる。遂に手を離してしまった。そのことにじくりと胸が痛む。大丈夫かとイルカに問われた。大丈夫なはずがないと答えたが、本当にその通りだ。全然大丈夫なんかじゃない。
死んだように眠るイルカの頬を撫でてカカシはもう一度思った。大丈夫なんかじゃない。イルカが側で笑っていてくれないとホントに全然駄目だ。
「イルカ先生、あんたがいないとホントオレは駄目だ」
滑らかな頬の感触。失えないもの。泣き喚いてしまいたいと思ったけれど、そうしたところで事態が良くなるはずはない。イルカが再び目を覚まし、そうしてカカシに笑いかけてくれたら思う存分泣かせて貰おう。胸に縋って泣き喚けばきっとイルカは慰めてくれるだろうから。吹っ切るようにカカシは小さく息を吐き出した。
「さぁてと、はじめますか」
カカシは名残惜しくイルカの頬から手を離し、ゆっくりと胸の上に手を翳した。低く滑らかな声で呪文を唱えながらイルカの胸に手の平を押し当てていく。長い詠唱がおわり、そうしてカカシは緩やかに息を吐き出した。
「イルカ先生」
祈るように、その名を呟きながら。
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