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 道は相変わらず平坦で暗く、握った手の平は温かい。毎日進んでいるんだか進んでいないんだかいまいちはっきりしないと思ってはいたけれど、光の大きさだけは最初よりも大きくなっていた。遠く、点にしか見えなかった光の大きさは、今はバスケットボールくらいになっている。
「カカシさん、大蛇丸はどうしてオレの記憶を消そうとしたんですか?ただ殺すだけじゃ駄目なんです?」
 イルカはふと引っかかりを覚えてカカシにそう問うた。そう、どうして大蛇丸は記憶を消す必要があったんだろうか。こちらと地上の間にある結界に穴を開けるにはイルカの血さえあればいいはずだ。
 殺してしまえばいいはずなのに、どうして大蛇丸はイルカの記憶を消すなんてめんどくさいことをしようとしたのか。
「あぁ、うん、そうだね。大蛇丸は目的が違うから」
 前方の光の位置が僅かに右に逸れていることに気付いてイルカはカカシの手を引いた。真っ直ぐに進んでいるつもりでも時折光が逸れる事がある。その度にイルカはカカシの手を引いて軌道を修正する。
 カカシにはまだ光が見えていないらしい。イルカにはあんなにもはっきり見えているのに。
「目的が違う?」
 何気なく落とされたカカシの言葉をイルカは反芻した。どういう事だろう。
「そうですね、どう説明したらいいかな。大蛇丸はそもそも人間界にいるわけだし、召喚者もいないくせに向こうでも結構な力を使えてるみたいじゃない」
 カカシの言葉にイルカは頷いた。そうだったのかと思いながら。イルカが大蛇丸の悪魔としての側面を見たのは記憶が封印された日だけで、それ以来学校で見る姿に不審な点は全くない。
 イルカは漠然と以前カカシが話してくれたように大蛇丸も他の悪魔のようにイルカの命を狙っているとばかり思っていた。
「目的がなんなのかはよく分かんないんですけどね。多分イルカ先生とオレの力を手に入れたいんだと思います」
「そんなことが出来るんですか?」
 イルカが問えばカカシは少し困ったような顔で笑った。
「普通は出来ませんよ、そんなこと。悪魔は地上においては使役されるもの、というのが普通です。悪魔が召喚師を操ったり、ましてや召喚師の使い魔、この場合オレですけど、その力を使ったりなんてことは不可能です。でもね、方法がない訳じゃない」
 歩みは止めないままイルカはカカシの話に頷いた。
「記憶を奪いその人間と契約することが出来ればそれが可能になります」
 カカシの言葉にイルカの身体が僅かに強張った。記憶を奪う。それは。
「イルカ先生はまだ大丈夫。忘れてるだけだから。必要なのは現在契約している悪魔についての記憶を完全に消し去ることです。オレがあなたの魂を分けたのもそれが理由。もしも万が一そんなことがあっても魂が完全じゃなければ記憶を消し去ることは出来ないからね」
 契約のもっとも大切な拠り所は記憶なのだとカカシは言う。だから出かける前にあんな風に言ったのだ。イルカに忘れないでとお願いしたのだ。間抜けな自分は大蛇丸なんかに記憶を封印されてこんな風にカカシに迷惑を掛けている。
 少しだけ俯いたイルカの頬にカカシがキスを落とす。驚いてカカシを見れば柔らかな瞳に絡め取られた。なんか、恥ずかしい。熱くなってきた頬をイルカが繋いでいない方の手で擦っているうちに、カカシはまた話を始めた。
「基本的に一人の人間が同時に契約できる悪魔は一人だけと決まっています。契約が済んでまた違う悪魔と契約するってのは有りですけど、同時に何人もの悪魔を使役するなんて事は出来ません。出来ないし、なによりそれはやってはいけないことなんです。そういう法則がある。悪魔が力を制限されないと勝手に地上に出てこられないように、召喚師もまた二人の悪魔と同時に契約してはいけない。普通は出来ないようになってる」
 でも、とカカシは続けた。
「でも今回大蛇丸がしようとしていることはそのことに他なりません。大蛇丸は主を持たない悪魔だ。力も強い。どうしてあんな風に強い力が使えるのかオレには分かりませんけど、彼がもっと強い力を使うには召喚師の力が必要になるのは確かです。なるべく強い力を持った召喚師と契約すれば大蛇丸はそれこそ世界を滅ぼすことだって可能でしょう。けど契約した悪魔っていうのは召喚師が望んだことにしか力を使えない。召喚師がよほどの過ちを犯さない限りね」
 そう言ってカカシはイルカを見つめた。過ち。イルカが犯してはならない過ち。
「過ちとは、すなわち二重契約を結ぶことです。それはすでに契約している悪魔がいるのに別の悪魔と契約すること。そのことをオレ達はそう呼んでいる。ただ二重契約を結ぶには条件がある」
 イルカの身に降りかかろうとしている災い。
「それは召喚師が完全に現在契約中の悪魔の記憶を持っていないことに他なりません。忘れているだけでは駄目です。失ってしまっていなければならない。記憶を失っても期間が切れない限り契約は続行します。契約期間中に記憶を完全に失えば別の悪魔が契約を結ぶことが出来る。ただもしこの二重契約が成立すれば後から契約した悪魔は召喚師の望んだことでなくとも力を使うことが出来る上、最初の悪魔の使役権すら手に入れることが出来るんです」
 カカシの言葉にイルカの身体は小さく震えた。このままではカカシを忘れ、そうしてカカシを苦しめることになる。そんなひどい話があるのだろうか。
「普通はね、記憶を完全に失うなんて事ありえません。記憶喪失とかっていうのは単に忘れてるだけだしね。悪魔が側にいさえすれば記憶喪失なんて簡単に直せるし。困るのは今回みたいに地上ではない場所に来ているときだけです。記憶を失おうと思ったら、大蛇丸のように誰かが術を掛けて消し去る以外方法はありません」
 カカシはそう言ってゆっくりと息を吐き出した。
「大蛇丸はあなたがオレと契約したときからずっとこの機会を狙っていたんでしょう。オレがいずれ近いうちに契約書のことで地下に潜ることは分かっていたはずです。その日を虎視眈々と狙っていた。そうしてオレが地上から姿を消したその日に行動を起こしたんです」
 カカシの言葉は苦渋に満ちていた。
「ごめんね、イルカ先生。オレが油断したばっかりに。あんたを学校になんて行かせなきゃよかったよ。あの部屋から出ない限りあんたは安全だったのに」
 ホントにごめん、とカカシは呟いた。そんな。
「そんなことないです。オレもおかしいと思った時、すぐにあなたを呼べば良かった。あの人のことを怖いと思ってたのに」
 繋いでいた手を離され、そうして抱き寄せられた。イルカのその背中に手を回す。
「悪いのは、大蛇丸ですね。隙を見せたオレ達にも非はあるだろうけど、あいつが全ての元凶です。絶対にあなたにオレを失わせたりはしないから」
 カカシの言葉にイルカは瞳を閉じてこくりと頷いた。オレにあなたを失わせたりしないで欲しいと心の底から願いながら。





 それからまたしばらく歩いて、イルカの本体が眠ったところでいつものように部屋に戻った。ドアを開けると普段ベッドしかない空間にテーブルセットが設置されている。それだけでも驚いたのに、そこには見知らぬ二人の人がいた。
 ここに来てどのくらいになるかよく分からないがイルカは初めてカカシと火影以外の悪魔を見たのである。二人のうち一人は桜色の髪をした少女、もう一人は白い髪を地に届きそうなほど長く伸ばしたかなり大柄な壮年男性だった。
「カカシ先生ただいま。お連れしたわよ」
 少女は膝頭を揃え行儀良く椅子に腰掛けている。大柄の男の方はその隣でかなりだらしない格好で座っていた。
「遠路はるばるご足労頂きありがとうございました。お初にお目にかかります。私火影の息子のカカシと申します」
 いつもは猫背の姿勢をぴしりと正し、カカシは男に向かって深々と頭を下げた。イルカは初めて見るカカシの姿にこの部屋に入ったとき以上に驚いた。こんな風にきちんとした態度を取れる人だったとは。それからはカカシは少女に向かってにこりとほほえみを向ける。
「サクラ、ご苦労だったね。ありがとう」
 少女はにこりと頷き返し、そうして児雷也と呼ばれた男は僅かに姿勢を直してにやりと笑った。
「儂は児雷也じゃ。お主の噂は辺境にもよく届いとるぞ。そっちは?」
 水を向けられイルカは慌てて頭を下げた。
「あの、海野イルカと申します」
 イルカ、と児雷也は小さく呟いた後、まぁ堅苦しくならずにな、と言った。そうしてカカシの方へと向き直る。
「火影殿には色々と世話になっとるからのぅ。まぁその息子の頼みと言われたら断れんわい。気にせんでもええが、儂になんの用じゃ?」
 カカシはイルカを手招きし、そうして二人もテーブルに着いた。
「…大蛇丸と最近まで親交があったと聞きました」
 カカシの言葉に児雷也は僅かに眉を顰めた。
「あるにはあった。最後に会ったのは五十年ほど前じゃったかの。…あやつ遂に始めたか」
「遂に?なにかをご存じなんですか?」
 カカシの問いに答える前に、児雷也は隣に座るイルカへと視線を向けた。
「そこに居るのは召喚師じゃろう。お前さんの主と見たが…、魂が欠けとる。魂が欠けとるというかそっちが魂の欠片と言った方がええの。しかもひどく不安定じゃ」
「おわかりですか。大蛇丸に記憶を封じられています。オレがこっちに帰った隙を狙われました。肉体に宿る魂が記憶を無くしているためオレは身動きが取れない状態です。今彼に導かれて精神への接触を図るべく道を辿っていますが…、正直大蛇丸の実力が知りたい。それであなたをお呼びだてしました。こちらから出向くのが本意と思いましたが…」
「緊急事態じゃからの、それは構わんが…。お前さんも随分と過保護じゃのう…」
 呆れたような児雷也の声にカカシは僅かにばつの悪い顔をした。心当たりがあるのだろう。イルカには分からないが随分と過保護に守られているらしい。カカシの表情にイルカもなんだかばつが悪くて取りあえず俯いた。
「まぁ、そりゃいいとして大蛇丸の実力、という点は儂にもよく分からん。あいつは五十年前召喚師を殺して地上に出た。その目的は分からんが最終的に二重契約を結んでなにかをやらかそうと思っておるのは間違いないじゃろう。それからどのくらい向こうで力を蓄えたのかは知らんが、相当に強いことは確かじゃの…」
 召喚師を殺して。児雷也のその言葉にイルカは顔を上げた。カカシは誰も試したことがないと言っていたのに。けれど横に座るカカシの表情がイルカを騙していたのではないことを教えてくれる。カカシも知らなかったのだろう。
「ただな、一つだけ儂でも分かることがある。主なしの悪魔と主のおる悪魔では地上における強さには雲泥の差がある。記憶を全て消される前にそこの召喚師がお主のことを思い出せさえすれば、大蛇丸には万が一の勝機もないのは確かじゃな」
 その言葉に隣で強張っていたカカシの身体が少し弛緩したのが分かった。カカシがどれほど必死でイルカを守ってくれても、イルカにはなにも返すことが出来ない。それが少しだけ悲しい。テーブルの下でこっそり手を握れば強い力で握り返された。
「お前さん、その魂を地上に戻すつもりじゃな?」
 児雷也の言葉にカカシは頷いた。
「イルカ先生がオレのことを思い出すとしたら覚えている魂が肉体に戻る瞬間だろうと思っています」
 握った手の力強さ。そうしてその温もり。硬い手の平の感触。その手が縋るようにイルカの手を握っている。こうして側にいることがカカシの支えになっていればいいのにと、心から思う。
「おそらくその予測は間違いないだろうがのぅ。魂を戻すのがお前さんとは限らんぞ」
「分かっています…。大蛇丸がイルカ先生の魂を強引に戻す可能性の方が高い。そうなれば記憶は消されてしまうでしょう。戻った瞬間にイルカ先生がオレの名を呼んでくれれば…あるいは…」
 カカシの言葉に児雷也も僅かに黙り込んだ。児雷也の隣ではサクラと呼ばれた少女が真剣な面持ちで成り行きを見守っている。みんなイルカのために動いてくれているのだ。そう思うとありがたさと申し訳なさで胸が詰まった。
「…なるべく早く精神への接触を図った方がええじゃろう。イルカの胸の内をなるべく疑念で一杯にしておけ。その方が記憶が戻った瞬間に立ち会うのが大蛇丸だったとしても良い結果を生むじゃろうからな」
 児雷也の言葉にイルカもカカシも深く頷く。それを見て児雷也は少しだけ表情を緩めてそうして改めてイルカの方へと向き直った。
「それはそうとイルカ先生、じゃったかの?」
 問われてイルカは慌てて頷いた。
「はい、なんですか」
「お前さん地上の魂と繋がっておるなら今どの程度大蛇丸の術が進行しておるか分かるか?」
 児雷也の言葉にイルカは首を傾げる。進行の具合と言われてもイルカにはそういうことはよく分からないからだ。
「そうじゃのう。例えばどの程度違和感を覚えなくなっておる、とかそういうことなんだがの」
 児雷也の言葉にイルカは記憶を探った。経験していないのに思い出そうとすれば思い出せる自分の記憶。それはとても不思議な感覚だ。
 向こうのイルカもそれを経験できるはずなのに、と思う。けれど記憶の中の地上にいるイルカは、もう夢も見ていない。
「…あんまり良くはない状況かもしれません。大蛇丸という悪魔はオレの学校に教員として赴任してきています。オレは会ったその日は大蛇丸が凄く怖いと思ったのに、今では全く警戒を覚えていません。最初は食器の数や洗濯物や買った覚えのない小物なんかに凄く奇妙な感じがしていたのに、最近はそれらも自分で買ったと思ってる」
 自分がそんなもの買うなんてことあるはずないのに。そんなこと自分自身が一番よく分かっているのにそれに疑問すら抱かないなんて。
「ふむ。まずいのう。術が進行しておる」
 カカシも小さく息を吐き出した。事態はずっとずっと深刻になっているのかもしれない。イルカが不甲斐ないばっかりに。
「深刻になっても仕方がないの。道を辿ることはあんたにしか出来んことだ。あとは存分にカカシに甘えればよいわ」
 くしゃりと頭を撫でられそうして児雷也は豪快に笑った。児雷也の様子にカカシも笑う。
「ありがとうございます。児雷也様、一つ頼み事があるのですが…」
 手はまだ繋いだままだった。大丈夫。この手を離さない限りは大丈夫。そう、信じている。
「なんじゃい」
「もし、大蛇丸がこっちに帰ってきたら少しの間引き留めておいては貰えませんか。ほんの百年程度で良い。その代わり児雷也様の願いを一つ叶えます」
 カカシの提案に児雷也はにやりと笑った。
「ふむ。その取引は乗ってやろう。ただしばらくの間サクラを伝令で儂に貸しておいてくれんか?」
 児雷也の言葉にサクラはびくりと身を竦ませた。
「うーん。サクラが構わないなら。あとあらゆる意味でサクラの身の安全を保証してくれるならってとこですか。どう、サクラ?」
 サクラは僅かに迷った後、こくりと頷いた。
「…児雷也様のところは凄く沢山貴重な資料があったから…、それを見せていただけたら嬉しいんですけど…」
 ちらりと隣に座る大男に視線を向けたサクラはおずおずとそう申し出た。
「お前さんは色気がないのう。ま、その程度のことならお安いご用じゃ。カカシよ、儂とサクラで取りあえず網を張っておく。なにがなんでも大蛇丸を退けろよ」
 カカシは僅かに握る手に力を入れて力強く頷いた。
「もちろん」
 なにが出来るわけでもないけれど、イルカも手を握り返し頷く。この手を離さない限り、きっと大丈夫だから。



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