* * *
カカシと手を繋いで歩く。昨日もずっと歩いていたのに振り向いたら元来た部屋はすぐそこにあって、イルカは心底ビックリした。光は点からビー玉くらいの大きさになっていたから、結構歩いたと思っていたのにそうでもなかったのかと思う。
けれど驚くイルカにカカシは笑ってちゃんと近付いてますよ、と教えてくれた。どういう仕組みなのかはよく分からないけれど、もうそのことについて考えても仕方ないとも思った。
イルカには所詮理解の出来ない世界の話なのだ。カカシが大丈夫だというのなら大丈夫なのだろう。餅は餅屋に任せるに限る。抱き締められて眠りについて、そうしてまた今日も一日地上のイルカが起きている時間歩き続けるらしい。一つ救いがあるとすればいくら歩いても全く疲れを感じないことだった。
「カカシさん、あの、そう言えば思い出したんですけど、オレが記憶を失ったのって赴任してきた先生に術を掛けられたせいだったんです」
光のある方へ顔を向けたままイルカは甦った記憶をカカシに話した。
「え?」
「昨日産休代理の先生が来たんです。前々から来るって知ってたんですけど昨日なんかいきなり来て…。オレはなんかいきなりって思ったんですけど同僚の先生とかは昨日言われたでしょ、とか言ってて…、まぁ、オレが忘れてただけかもしれないんですけど…」
「うん、それで?」
少し視線を動かせばひどく真剣なカカシの視線とぶつかった。
「えっと、その先生、女の先生だったんですけど大蛇先生っていう名前で…。オレなんかその人のことちょっと怖いなって思ったんです」
イルカは少しだけカカシの手を握る力を強くして光の方へと視線を戻した。あの時イルカがカカシを呼んでいればこんな事にはならなかったのに。
「でも気のせいかな、とも思って…。それでもやっぱりなんか気になったから早く家に帰ろうって思ってたんですよね。でも放課後に大蛇先生から準備室の場所を教えて欲しいって頼まれて、オレ断れなくて…」
カカシは黙ったままイルカの話を聞いている。いくらでも呼ぶ機会はあったのに。ただ一言名を呼んでさえいればカカシをこんな窮地に追い込むこともなかっただろうに。
「イルカ先生は悪くないよ。でもね、イルカ先生はちょっと遠慮しすぎかも。もっとオレを下らない用事でもなんでもいいから、むやみやたらに呼びつけて構わないんですよ。むしろ気軽に呼んでください。オレはあんたに頼られたり甘えられたりすると凄く嬉しいんだから」
こめかみに口付けられてイルカは思わず赤くなった。この赤裸々悪魔め…。口を噤んで赤くなるイルカにカカシはもう一度口付けて、それから?と訊ねた。
「それからって…、それから準備室に入って色々説明して帰ろうかな、と思ったら大蛇先生の態度が急に変わって、オレそこで初めて本気でやばいって気付いて…。カカシさんを呼ばなくちゃって思ったのに声が出なくて、その後のことはよく分かりません。何か、そうだな、ばきんって凄く硬いものが折れるような音がしたのと、身体に何かの衝撃を受けたのは覚えてるんですけど、気が付いたら保健室のベッドにいてあなたのことを忘れていました」
なんだか変な気持ちだった。それは確かに自分の身の上に起こったことなのにまるで映画かテレビを見ているみたいに現実味が薄い。体験したのはこの魂じゃないから当然のことなのだろうけれど…。
「怖かったね、イルカ先生。一人でよく頑張ったね」
不意に立ち止まったカカシに抱き締められ、そうしてぽんぽんと背中を叩かれた。怖かった。確かに凄く怖かった。イルカはそのことを知っているけれど、怖い思いをしたのは地上にいる魂だ。
「お、オレはなんにも怖い思いなんて…」
「ううん、そんなことないよ。全部あなたのことだもの。繋がってるでしょう、ちゃんと。じゃなかったらあなたがそのことを知ってるはずないじゃない」
よしよしとカカシがイルカの頭を撫でる。そんな風に優しくするのはずるい、とイルカは思った。
繋いでいた手を離しイルカはカカシにぎゅっとしがみつく。地上のイルカの痛みが伝わるのならば、こうしてカカシに抱き締められている温もりも伝わるだろうと信じて。
慰められているのは自分だけれど自分じゃないから、少しでも沢山カカシの温もりが伝わりますようにとイルカは祈るように願った。
* * *
従兄弟の子供であるナルトとサスケとの同居生活も今日で一週間経った。従兄弟夫婦とは交流があったもののその子供である二人にはほとんど面識がなかった。
二卵性双生児である二人は外見的にもあまり似たところはなく、そうして性格もあまり似てはいなかった。三日一緒に暮らして分かったのは、ナルトの方が素直で明るくなんでも明け透けな物怖じしない子だということ。サスケの方が落ち着いていて物事を冷静に見ているし、なにをするにもかなり慎重な方だということ。
先日気付いたのだが、晩ご飯などは大体ナルトの反応を見てから口を付けているらしい。毒味、とまでは行かないだろうが自分ですぐに試さないでナルトが美味しいと言ったら安心して口を付けているのを見ると吹き出しそうになる。
ナルトは大体何でもかんでもお構いなしに口を付けている。そういうナルトとサスケの違いは見ていて結構面白い。同じ環境で育った双子でもこうも違いが出るのだから、子供は見ていて飽きないな、と思った。
ナルトは表情豊かでなんでもすぐ顔に出てしまう方だ。サスケは仏頂面が基本で嬉しいも嬉しくないもよく分からないことが多いのだが、事食事に関しては結構表情豊かだ。旨いと思ったらちょっと表情が変わる。
食い意地は二人とも同じくらい。ナルトは野菜があんまり得意ではないらしく、生野菜はあんまり食べない。サスケは甘いものが苦手。短い同居生活だが二人とは上手くやって行けそうで良かったと思う。
同居初日の夜、風呂から上がったサスケとナルトにイルカは一つ頼み事をされた。曰く誰かをこの部屋に呼んで欲しくない、とのこと。ナルトがいうにはサスケはとても人見知りが激しくて、初めて合う大人に異様に緊張する質なのだそうだ。
サスケはその時ばかりはひどく赤い顔をしてそっぽを向いていた。慣れない環境にただでさえ緊張しているのだからオレ達が少なくともここに慣れるまでは絶対に誰もここには入れないで欲しい、とナルトは拝むようにイルカに訴えた。
別に構わなかったので頷いてみせれば、子供達はひどくほっとした顔をしていた。そんな顔をしなくともイルカはこの部屋に誰も入れる気など最初からさらさらなかったのだから本当に構わなかったのだ。
イルカにはそれほど親しい友人もいないし、誰かを上げるだなんて事考えたこともなかったから。そう、だって、約束したから。誰もこの部屋に入れたりしないって、約束したから。
―――――誰と?
不意に浮かんだ疑問をイルカは打ち消して、そうして二人を寝かしつけた。何かが足りないような気がしていた。イルカの中のどこかがかみ合わない歯車のように軋みを上げている気がしてならなかった。
近頃こうして不意に浮かぶ小さな疑念にイルカは溜息を吐き出して冷蔵庫の扉を開ける。酒でも飲んで寝てしまおう。アルコールの力を借りれば夢を見ることもなく眠ることが出来る。
夢が自らにとってどれほど大切なものかも気付かないで、イルカはその夜久々に夢も見ないで眠った。
「なぁ、イルカ先生」
台所で夕飯の支度をしていたらサスケがひょいと顔を覗かせた。サスケはイルカによく質問をする。主に訊ねてくるのはこの家の中のことだ。
あれはなに?どうしてこんなものがあるんだ?それはなにに使うんだ?などなど。ナルトも色々とイルカを質問攻めにする。その質問の返答にイルカはときどき詰まってしまう自分を感じていた。
どうして、と聞かれて分からないことがあるのだ。いつ買ったのかどうしてそこに置いたのか覚えていなかったり思い出せなかったりすることが多々ある。質問の常套句である、なぁイルカ先生を口にしたサスケにイルカはちょっと身構えた。
「ん?なんだ?」
玉葱を刻む手を止めてイルカはサスケに視線を向ける。今日はなにを聞かれる事やら。
「あれ、なんだ?」
サスケが指さしたのは窓の向こう、ベランダに掛けてある簾だった。
「簾だよ。見たことあるだろ?」
イルカの言葉にサスケは小さく首を傾げた。見たことないのか?まさかとは思ったが、気にしていなければ目には入らないものなのかもしれない。
「まぁ、言うなれば日除けだよ。夏とか直射日光が入ると眩しいし暑いだろ?簾掛けて窓開けとけば風も入るし日除けにもなる。一石二鳥って訳だ」
イルカの説明にサスケは納得したようなそうでないような微妙な顔をした。
「…でも、だったら今の季節ってちょっとまだ早いんじゃないのか?」
サスケの言葉にイルカの胸がちくりと痛んだ気がした。まだ早いと自分も思った気がしたのだ。
まだ早いですよ、と誰かに言わなかっただろうか。でもあれを掛けたのは正真正銘自分だ。イルカがその手であの簾をベランダ吊した。胸の中に去来した感情は切なさとなんだか似ている気がしてイルカは右手を胸に当てた。
「まぁ、いいだろ。ちょっとくらい早くてもじきに夏がくるよ」
ベランダをじっと見つめるサスケの髪をイルカはくしゃりと混ぜた。サスケはただじっと窓の外を見つめたまま、そうだな、とだけ言った。
軒先に風鈴でも飾れば子供達は喜ぶかもしれない。ちりんと響くその音を想像したとき、イルカの胸はまた小さく痛んだ。イルカは胸が痛むその理由なんて思い出せないまま、しばらく簾を見つめていた。
* * *
「じゃ、かんぱーい」
かんぱーい、と復唱してから周りの人とグラスを合わせる。イルカの横に座っているのは新しく赴任してきた大蛇だった。
今日は大蛇の歓迎会である。来たばかりの子供達には申し訳なかったけれどこれも仕事のうちだから仕方ない。イルカはビールに口を付ける大蛇を横目でちらりと見た。
漆黒、と言った方がぴたりと来るくらい大蛇の髪の色は黒い。こういうの濡れ羽色って言うんだろうかとも思ったけれど、大蛇の髪の色は闇の色に似ているとイルカはなんとなく思っていた。
髪とは対照的に肌の色は白い。健康的な白さではなく青白いくらいだ。
「イルカ先生ビール注ぎましょうか?」
コップのビールをちびちび飲んでいたら大蛇が不意に声を掛けてきた。見ればビールはあと僅かである。
「あ、ありがとうございます」
ビールを注いで貰いがてらイルカは世間話程度に大蛇に話しかけた。
「大蛇先生って色白いですよね…」
つまみの枝豆を囓りながら呟いた言葉に大蛇はくすりと笑う。
「よく言われますわ。病気なんじゃないかって聞く人もいるくらいなんですよ。至って健康なんですけれどね」
大して気にした風でもなく大蛇はそんな風に言う。やはりみんな同じ事を思うんだなぁ、と思いながらイルカは半分くらい減った大蛇のコップにビールを注ぎ返した。
「北国のご出身なんですか?」
色の白い人はなんとなく北の方の人、というイメージがイルカの中にはある。大蛇はイルカの言葉にくすくすと笑った。
「えぇ、そうです。でも皆さん同じ事を聞かれるんですよね。なんだかおかしいわ」
笑う大蛇にイルカも笑った。最初はなんとなく怖いと思っていたけれど大蛇先生って実際は結構気さくな人なのかもしれない。
その後会話に混ざってきた数人の同僚と共にイルカはその日大蛇と色々な話をした。同じ教科の先生だし、仲良くなれそうで良かった。大蛇がいい人で良かった。そんな風に思っていた。
一番大切なものをイルカから取り上げた人物だと思い出せもしないまま。
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