* * *
テレビの砂嵐のような画面がだんだんと小さくなり中空に浮かんでいた映像は何事もなかったかのように消えた。
「さて、イルカ先生。地上のことはあいつらに任せるとして、オレ達はオレ達で頑張らないとね」
すっかり身支度を調えたカカシはイルカにズボンを渡しながらにこりと微笑んだ。昨日結構無茶されたのに身体の痛みはあまりない。
イルカが四分の一の魂だけの存在だからそうなのか、それともカカシが何かしたのかはよく分からなかったけれどなんにしても今日から長時間歩いたりするのならば痛みのないことは良いことだと思った。
着替えが済むと昨日の部屋へと連れて行かれる。部屋は昨日と同じようにぼんやりと青白く発光していた。
「ただ歩けばいいんですか?」
カカシに手を引かれ暗闇の広がる壁の方へと向かされた。部屋の入り口から中心にかけては青白く発光しているのに入り口のない三方の壁面はいずれも深い闇に閉ざされていて、部屋の広さや奥行きは全く分からなかった。イルカの言葉にカカシは小さく頷く。
「そう、ただ歩けばいいんです。イルカ先生にしか見えない光の差す方へ」
今イルカとカカシは入り口の扉から見て右側の壁面へ向かっている。ただ漠然と見たのでは分からないけれど、目を凝らせばその壁面のずっとずっと奥の方に小さな光があるのが分かった。それを目指して歩けばいいとカカシは言う。
「一体どういう仕組みなんですか?歩いていればいずれは部屋の壁にぶつかるんじゃないんですか?」
そんな間抜けな事態に発展するはずもないとは分かっていたけれど聞かずにはいられなかった。巻き起こっている事態の重大さはイルカにもよく分かっているつもりだ。このままではカカシは地上に出ることも叶わず、イルカは大蛇丸という悪魔の手によって殺されてしまうのだろう。
けれどイルカには全部が知らされていない。カカシがどんなに辛い思いをしているとか痛い思いをしているとか、そう言う本当に大事なことは全然知らされてなんかいない。
昨日イルカの肩で初めてカカシが泣いた。まるでイルカに縋るように回された腕の力。ずっとずっとカカシはそうやって一人で辛いことを耐えてきたのではないだろうかと、イルカは昨日初めて思ったのだ。
「大丈夫、そんな間抜けなことにならないって知ってるでしょ?それにあんたがいる限りオレに辛い事なんてそうそうないんですよ」
それも知ってるでしょ?そうカカシは笑った。
「…また、人の頭の中、勝手に覗いて」
イルカは繋いでない方の手でカカシの肩をぽかりと叩いた。カカシはイルカの行動に小さく笑っている。
けれどこうして笑っているときでさえ、イルカのために辛いことを我慢しているのではないだろうかと思わずにはいられなかった。
カカシは強い。人とは違うものだから強くても当たり前なのかもしれないけれど、肉体も精神もイルカとは比べものにならないくらい強靱で揺らぐことすらないように見える。そのカカシが見せたほんの少しの弱音にイルカはひどく動揺しているのだと思った。そうしてカカシが甘えてくれたことを少し嬉しいと思っている自分。
「…歩きながら話そうか。イルカ先生オレを導いて」
カカシに手を引かれイルカは今はまだ点にしか見えない光の方へと一歩を踏み出した。ゆっくりと歩を進めながら隣を歩くカカシを見上げる。イルカとカカシの周りは底知れぬ闇に包まれているというのにお互いの姿は不思議とはっきり見えた。
「オレはね、イルカ先生。あなたが思っているように強いんです。悪魔ってのは人間みたいにあんまりあれこれ悩んだり揺らいだりしないし、騙したり裏切ったりすることに罪悪感を覚えたりもしない生き物なんです」
だから、とカカシは続けた。
「だから昨日のは特別。オレの読みの甘さにちょっと落ち込んだだけ。あんたにはずっと格好いいとこばっかり見せたかったけど、甘えられるのもあんたしかいないって昨日痛感しちゃってさ。昨日はありがとね。でももう大丈夫だし、精神構造が違うからあなたが思うような心配はしなくても大丈夫ですよ」
繋いだ手の平に僅かに力が込められる。イルカもその手をきつく握り返した。地上にいる自分の不安がこうしてカカシに触れていることで少しでも薄らぐといいなと思いながら。
* * *
夢を、見た。昨日見た夢と同じような夢を。夢の中でイルカは誰かと手を繋いでいる。手を繋いで何かを話しながら暗くて柔らかくて暖かい道をゆっくりと歩いていた。辺りは暗いのに不思議なほど手を繋いでいる人物はよく見えて、イルカはそのことを少しだけ不思議だと思っていた。
繋いでいる手が温かい。握った手の平からイルカの中に勇気が流れ込んで来るみたいだと思った。
勇気。一体なにに勇気を持たなくてはならないのかイルカにはよく分からない。昨日と同じだと思う。よく分からないのに、でも安心なのだ。今ここにあの人がいてイルカの手を握ってくれているというその事実が。なによりも。
手を繋いで歩いていたはずなのにいつの間にかイルカはその人に抱き込まれ横になっていた。温かい身体に抱き締められ、ゆっくりと背中を撫でられている。
不意に泣きたい気持ちになってイルカは思わず涙を零した。オレはこの人のことを知っているはずなのにどうして名前すら思い出せないんだろう。見上げた顔は霞が掛かったようでイルカには上手く判別できず、そのことが一層悲しみに拍車を掛ける。
悲しい、この人と引き離されてしまっていることが堪らなく悲しい。この温もりを夢の中でしか感じることが出来ないのが悲しくて堪らない。どうして。
『イルカ先生、泣かないで』
優しく頬を撫でられても涙は止まらなかった。まるで指の間から砂がこぼれ落ちるみたいにこの人を失い続けている。そんな気がしてならなかった。
『オレが助けるから。だから大丈夫』
頬と瞼に口付けが落とされる。大丈夫と言ってくれたのに涙が止まることはなかった。だってオレはこの人を少しずつだけれど、確実に失い続けているのだから。
『イルカ先生』
名前を呼ばれ今度は唇にキスされた。もう少しだけでいいから夢を見ていたいのに、イルカはこれ以上夢に止まることが出来ないのが分かった。せめて名前を呼びたいのに。
オレがこの世でたった一つ使える魔法の言葉。零した涙を拭われてもイルカの悲しみは去らない。
目が覚めるのが怖いと思っているのにもうこれ以上夢に止まることが出来ないのも分かっていた。失われていくもの。なによりも大切なはずのその記憶。
『イルカ先生』
名前を呼ばれたのを最後に隣でイルカを抱き締めてくれていたはずの人が消えた。そうして。
「あれ?」
ぴぴぴぴぴぴぴと耳元で電子音が響いている。無意識に目覚ましを止めてイルカは身を起こした。頬に伝った水の感触で自分が泣いていたことを知る。
「なんで泣いてんだ、オレ?悲しい夢でも見たんだっけ?」
ほたりとシーツに零れた涙をパジャマの袖で拭ったイルカは、変なの、と首を傾げた。悲しい夢だったかどうか以前に夢を見ていたことさえあやふやでイルカはごしごしと目を擦った。
そう言えば昨日も夢を見て泣かなかったっけ?泣いていたことは思い出せても夢の内容までは思い出せなかった。夢の内容はなんとなく気にはなったけれど、それを気にしていても仕方がない。今日からはチビどもの朝食と弁当も作らなくてはならないのだし、そうぼやぼやはしていられないのだ。ましてや夢のことなど気にしている暇があるわけがなかった。
イルカは一度背伸びをしてから広すぎるベッドから降りた。一人で寝るっていうのになんだってダブルベッドなんて買おうと思ったんだか。ほんの数ヶ月前の自分にちょっと聞いてみたい気がする。
広くて寝やすいのは確かにいいとは思うけど、ちょっと寒々しい気もするのだ。せめてセミダブルで良かったんじゃないかな、とは思ったけれど自分が買ったのだから仕方ない。大して気に留めることでもないと思って、イルカは洗面所へ向かった。
大切なものが刻々と失われていることに、もはや違和感さえ覚えないで。
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