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 結局のところイルカの強固な反対に合って、荷物はなしのままになった。盗みを働くよりはよっぽどマシだとのことである。よく分からない理屈だとサスケは思ったがなんとなくこのことでイルカには逆らわない方が良さそうだったので、その代わりに言い訳を考えて貰った。
『そうだなぁ…。多分オレなら信じると思うけど、取りあえず荷物は後から送るってことでなにも持ってこなかったって言っておけば大丈夫だと思うぞ』
 当面困るだろうから洋服とかは買いに行くだろうし…。ぶつぶつとイルカは呟いて、そうして顔を上げにこりと笑った。
『うん、大丈夫。それで行こう。そっちのオレのことよろしく頼むな。多分凄く心細い思いをしてるだろうから…』
 鏡の向こうに映っているイルカは少し辛そうな顔で微笑んでいる。その肩をそっと抱き寄せ宥めるようにカカシがさすっていた。その表情に思いがけず真剣な顔で頷いたのは横に佇んでいるナルトだった。
「イルカ先生、オレスゲー頑張るから大丈夫だってばよ!」
 ナルトの言葉にサスケも深く頷いて、任せろ、とだけ言った。通信時間はそろそろ終わりかけているのか、先ほどよりも僅かに画像が不鮮明になりつつあった。
『そうだ、通信が終わる前に一つだけ言っておかなくちゃならないことがあったんだ。お前達に守って貰わなくちゃならないことが一つある』
 僅かにぼやけた画像の向こうでひどく真剣な表情をしたカカシがサスケとナルトを見つめていた。カカシの表情にサスケも表情を引き締める。
「なんだ?」
 問い返したサスケにカカシは小さく頷いた。
『イルカ先生の前で決してオレの名前を出さないこと。いいな?』
 思いがけないカカシの言葉に問い返したのはナルトだった。
「なんでだってばよ、カカシ先生!イルカ先生にカカシ先生のこと思い出して貰った方がいいんだろ?それなのにどうして駄目なんだってば」
 至極当然のナルトの言葉にカカシは溜息を吐き出した。
『まぁ、お前の言いたいこともよく分かるけどな。駄目なんだ。オレの名前には呪力ある。名を出しイルカ先生に伝わればオレのやってることが大蛇丸に漏れる可能性がある。そうなると大蛇丸はもっと強硬な手段を使ってくるかもしれない。それに対する手だてがあればいいが、なかったときは一巻の終わりだ。お前達はあくまでイルカ先生の従兄弟の子供として振る舞ってくれ。でも、そうだな…』
 そう言いながらカカシはぽりぽりと顎の辺りを掻いた。
『でも、出来るならなるべくイルカ先生の記憶の矛盾を突いて欲しい。カップの数とかオレの使っていたものとか、そういう事を沢山口に出して、イルカ先生に自分の記憶が欠けているっていう疑念を常に抱かせるようにしてくれ。大蛇丸の術はおそらく進行性の術だ。イルカ先生は徐々にオレの不在に疑問を抱かなくなっていくだろう。そうなるとますます思い出すのが困難になってくるからな。難しいと思うけどお前らにしか出来ないことだ。頼むな』
 カカシの横ではイルカが不安そうに表情を揺らしていた。どんどん不鮮明になる画像にサスケは深く頷いて、それから告げた。
「任せろ」
「任せとけってばよ!」
 被さるようにナルトもそう言った。ふ、と表情を緩めたカカシとその横で小さく笑むイルカ、その画像を最後に通信は途切れる。ざあざあと砂嵐のような画面がどんどんと小さくなり、そうして歪んだ空間は跡形もなく消え去った。先ほどまで画像が映っていたところには硬いコンクリートの床がある。
「…頑張らないとな」
 ぼそりと呟いたサスケの言葉に、当たり前だってばよ、とナルトが返した。見上げれば白い雲がたなびく初夏の綺麗な青空が広がっている。きついくらいの日差しにサスケは目を細め小さく息を吐き出したのだった。





 夕方になり太陽がようやく西の方へと傾き始めた頃、サスケとナルトはなにもない壁の前に立っていた。昨日三人で辿り着いたイルカの部屋の前だった。そろそろイルカが帰ってきてもおかしくない時間だ。
 ナルトは手すりに齧り付いて刻々と姿を変える町の様子に見入っている。そのナルトの背中をぼんやりと眺めていたサスケは、エレベーターのあるエントランス付近にふと視線を向けた。エレベーターの扉横に設置されている電光パネルの表示が動いていた。4階付近にいるらしいエレベーターはどんどんと上の階へと上ってきている。帰ってきたのだろうかと思ったとき、エレベーターが止まりそうして扉がゆっくりと開いた。
 重たげに開く扉の向こうにいたのは予想通りイルカだった。サスケは思わず凭れていた壁から身を起こす。
「おい、ナルト」
 サスケの声にナルトも手すりから身を離す。
「イルカ先生だってばよ」
 スーパーの買い物袋と鞄を提げたイルカは、廊下に佇む二人に気付いてにこりと笑った。
「待たせたか?悪かったな」
 買い物袋をがさがさと言わせながらイルカが足早に近付いてくる。つい半日ほど前に話したイルカと全く同じ顔、同じ声。なのにこのイルカはカカシのことなど露程も覚えてはいないのだ。それは何とも不思議なことだとサスケは思った。カカシの横にいたイルカはあんなにも幸せそうだったのに。
「いや、それほど待ってない。さっき来たところだ」
「そっか、なら良かった。まぁ立ち話も何だし中に入ろうな」
 そう言いながらイルカは上着のポケットから鍵を取り出した。サスケとナルトにはただの壁にしか見えないその場所にイルカが鍵を差し込んだとき、すう、とドアノブが姿を現した。それから徐々に扉が現れてくる。
「ほら、二人とも」
 ドアノブを回しイルカが二人を手招いた。コンクリートの壁しかなかったその場所に扉が現れて、そうして扉の向こうにはイルカとカカシが暮らしていた部屋が広がっていた。手招きするイルカにつられるように二人は部屋の中へと足を踏み入れる。部屋の中にはカーテン越しに薄いオレンジ色の光が差し込んでいた。背後でばたんと扉が閉まる。
「なんか、ここって…」
 サスケの前にいたナルトがぽつんと呟いた。イルカは一人ですたすたと部屋の中へ入り電気をつけて台所へと向かっていった。ナルトの呟きにサスケも小さく頷く。この部屋には僅かだが魔界の気配がしていた。そうして濃厚な術の気配も。
 けれどそれが重たいなどということはなく、なんだかひどく温かい雰囲気を醸し出している。カカシが細心の注意を払って作り上げた空間。
「おーい。いつまでそこに突っ立ってんだ?こっちに来なさい。腹減ってるだろ、飯にしよう」
 ひょいと顔を出したイルカに呼ばれてナルトとサスケは慌ててリビングの方へと移動する。
「どうする?さっぱりしたいなら先風呂にはいるか?っていうかそういえばお前ら荷物なんにもないのか?」
 矢継ぎ早にそう言われてナルトもサスケも口籠もった。やはり来たか。
「や、その、とーちゃんとかーちゃんが後から送るとかって言ってたってばよ。取りあえず行けば何とかしてくれるって…」
 昼間イルカ自身から言われた言い訳をナルトが必死でしていた。本当にこんな事で騙されてくれるのだろうか。
「…またあの人達は適当なことを言って…。分かった。今日はもう難しいからオレのTシャツでも着て貰うとして、明日なんか買いに行こうな。まぁ短い間だけどよろしく」
 ぽんとナルトの頭を撫でてイルカは仕方なさそうに笑った。誰の子供ということになっているのかは知らないが、顔も知らない仮想両親にサスケは思わずごめんと謝っていたのだった。



 古びた卓袱台の上に置かれた物体がなんなのかも分からないまま、サスケとナルトは言われるがままに手を洗いその場に腰を下ろしていた。イルカはまだ台所でなにやら忙しなく動き回っている。そうして木の板に何かを乗せてイルカはようやく卓袱台へとやって来た。
「ごめんお待たせ」
 野菜の盛り合わせと水と取り皿を各々の前に並べて、食べようか、と言った。
「いただきます」
 そうして手を合わせたイルカに倣ってサスケもナルトも手を合わせる。
「いただきます」
「いただきますってばよ」
 生まれて初めて口にする人間界の食べ物にサスケは戸惑っていた。イルカを伺えばスプーンで米と茶色のどろりとした液体を共に掬い上げ口に運んだ。ナルトも同じようにそれを口に運んでいる。
「…!旨いってばよ!イルカ先生これむちゃくちゃ旨いってば!」
 感激して目を輝かせるナルトを見てサスケもそれを口に含んだ。
「…!!」
「昨日の残りのカレーだけどな。煮込めば煮込むほど旨いんだよ、これが」
 得意そうなイルカとすでにうち解けているナルトを横目にサスケはカレーとやらの旨さに正直驚いていた。人間界の食べ物は旨い。サスケの中の何かを根底から覆すほどの旨さだ。無心にがつがつと食べるサスケの頭をイルカが不意にくしゃりと混ぜた。
「そう慌てて食わなくてもおかわりならあるから。よく噛んで食べなさい」
 乗せられた手の温かさがなんだかひどくくすぐったくて、サスケは無言のまま頷くことしかできない。なんだろう、この雰囲気。なんだか少し身の置き所に困って、サスケはナルトの方を見た。ナルトはそんなことお構いなしなのだろう。せっせとカレーを口に運んでいる。
「先生、これ、これ」
 そうして早くも空の皿をイルカの方へと差し出す。
「おかわりか?」
「うん、そう、それそれ。おかわりだってばよ!」
 ナルトの物言いが可笑しかったのかイルカは笑いながらその皿を受け取って立ち上がった。
「先生、オレもおかわり」
 二杯目を頼むときはおかわりというらしい。食べる前はいただきますだったか。サスケも皿を差し出すとイルカは、はいはいと言ってサスケの空の皿も受け取ってくれた。イルカの後ろ姿が台所へと向かう。
「なぁ、サスケ。人間界の食い物って旨いのな。オレ超びっくりしたってばよ」
「あぁオレも驚いた」
 ひそひそと話をする二人の元へおかわりを持ったイルカが戻ってくる。
「お前らカレーばっかり食ってないでサラダもちゃんと食えよ。ほら、取ってやるから皿貸して」
 カレーを受け取って皿を差し出せばイルカはサラダという野菜の盛り合わせを取り分け、そうしてとろりとした液体を掛けてくれた。カレーのおかわりを食べ、サラダ、を食べる。サスケは黙々と口を動かしていたがナルトは色々とイルカに質問をしていた。
「なぁイルカ先生。この『かれー』超旨いけどどうやって作ったんだってばよ」
 口いっぱいに含んでいたカレーを飲み込んでナルトがイルカにそう聞いた。
「え?」
「えって、これイルカ先生が作ったんだろ?すげぇ旨いのな!」
「そりゃ、この家にはオレしか住んでないんだからオレが作ったに決まってるだろ」
 笑いながら問いかけるナルトにイルカはそう答えていたけれど、その表情が僅かに揺らいだのがサスケには分かった。どうしたというのだろうか。
「まぁ作り方なんてオレが聞いてもわかんねぇからいいけどよ、またこれ作ってくれな、イルカ先生!」
 せっせとスプーンを口に運びながらナルトは無邪気にそう言った。
「…あ、あぁ、もちろんいいぞ」
 笑顔でそう答えたもののイルカの表情はなんだかすっきりしなかった。何かがおかしい。イルカはサラダを口にしながらぼんやりとカレーの皿を見ている。
 ひょっとすると、とサスケは思った。ひょっとするとこのカレーはカカシが作ったものなのかもしれない。矛盾をついて欲しいと言ったカカシの言葉が甦る。
 カレー皿に視線を落とすイルカは一体今なにを思っているのだろうかとサスケは思った。



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