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          * * *



「あ、出てきた」

 朝日が昇ってからしばらく経っていた。まっ暗に塗り潰された夜は徐々にその姿を変え、やがて立ち並ぶ町並みを浮かび上がらせながら日が昇った。そのときの思いをサスケもナルトも未だ上手く昇華出来ずにはいたけれど、それがひどく胸を打つ光景だったことは分かった。
 ひとときも留まらない世界。弛まなく動き続ける悠久無限の世界。自分たちの世界とはなんと懸け離れた世界であることか。莫大なエネルギーを抱えたなんと美しい世界。
 太陽はその象徴のように世界を鮮やかに浮かび上がらせる。思わずにじんだ涙を気が付かれないように拭うと、隣のナルトも服の袖で目元を拭っていた。そういう美しさだったと、サスケはじりじりと高度を上げる太陽を見ながら思う。
 なんと不思議に満ちた世界だろうと。明ける朝、暮れる夜。光、温度、空気の流れ、匂いや町のざわめき。
 夜が冷えているのはなぜなんだろうか。朝が温かいのは太陽のおかげなんだろうか。月は明るいのになぜ地上を暖めないのだろうか。初めて過ごした地上にはサスケの知らないことばかりで、多分もっと色々なことを知らないはずのナルトでさえもこの美しく不思議な世界を肌で感じるようにただ黙っていた。
 そうして、夜が明け、朝が来た。もうすぐイルカに会える。今は見えない扉が開かれ、そうして魔法陣にイルカが踏み込むのだ。師であるカカシがあれほどに執着する人物。どんな人物なのだろうかと、サスケは珍しくぼんやりとしていた。世界に圧倒されていたのかもしれない。
「あ、出てきた」
 隣で今か今かとイルカの出現を待っていたナルトが声を上げて、ようやくそのことに気が付いた。なんたる失態。仕事のことも忘れて上の空だなんて。慌てて振り向けば何もないはずの壁にうっすらと切り込みが入っていた。徐々に開かれる壁。
「サスケ、出てきたってばよ!」
 興奮してサスケの腕をつかんだナルトをごつりと殴る。
「静かにしろ」
 文句を言いかけたナルトをそう制してサスケは開かれた壁から抜け出た人物を見た。あれが、イルカ。黒い髪、黒い瞳。どこにでもいそうな平凡な人間に見えた。どこにも特別に見える所はなく、なぜカカシがイルカを選んだのかサスケにははかりかねた。
 そうして廊下に踏み出したイルカが魔法陣の中心を通ったとき、うわんと空気の歪む音が辺りに響いた。イルカの周りに光の円が浮かび上がる。きぃん、と金属をひっかくような音がしてそうして光は瞬時に霧散した。
「あ、れ?」
 何が起こったのかイルカには分かっていないのだろう。不思議そうにきょろりと辺りを眺め、そうして首筋を撫でている。首をかしげてイルカはふと腕にはまっている何かを見た。
「わ、急がないと!」
 そう呟いて慌ててエレベーターホールの方へと走り去ってしまった。
「なぁ、サスケ。術は成功したのかよ」
 走り去るイルカを見送っていたらナルトに腕を引かれた。不安そうなナルトの顔。
「……多分」
 成功してるはず。正直な話サスケにもよく分からなかった。あれでイルカの記憶の書き換えは完了したんだろうか。たったあれだけで。こういうのはサクラの専門だ。頼りないサスケの返事にナルトは不満そうに頬を膨らませる。
「何だよサスケ、しっかりしてくれよな!」
 おまえこそしっかりしろよと内心サスケは思ったけれど、あえてそのことは口に出さなかった。
「まぁ、術が成功しててもしてなくても、オレたちに出来ることはもうないからな。あとは夕方先生が帰ってくるまで待つだけだ」
 万が一を考えて、目立たないよう屋上に移動したあとサスケは眼下の町を見下ろしながらそう言った。
「そんなこと分かってるってばよ」
 返したナルトを一瞥してサスケはその場に腰を下ろした。まだ自分たちに出来ることはない。これからだ。イルカが帰ってきて、それから。術が成功しているか否か。成功していなければカカシに指示を仰がねばならず、成功していればそこから仕事が始まるのだから。
 サスケはポケットを探ってその中にあった小指の爪ほどの大きさの珠を握った。万が一を考えて、とカカシがサスケに渡したもの。部屋の中に入ればいつでも通信は可能だが万が一術が失敗したときはこれで通信しなければならい。自力ではまだ魔界に帰れない自分たち。魔界にいるカカシに連絡を取ることさえ無理なのだから。ポケットの中で冷たい珠を転がして、使わなくて済めばいいけれどとサスケはぼんやりと思った。
「なぁ、サスケ」
 しばらくぼんやりと自分の思考に浸っていたサスケはナルトの呼びかけにようやく顔を上げる。
「何だ?」
 振り向いたナルトはほんの少し困惑していた。
「あのさ、オレたち何にも持ってないけどそれって変じゃないのか?」
 困ったように目を細めて自分を見るナルト。確かに自分たちは手ぶらだけれど。
「だってよ。ほら」
 そう言いながらナルトは真下の道を行き交う人々を指さした。ナルトの指し示した先には老若男女様々な人が忙しなく行き交っている。そうしてその手に必ず袋のようなものを提げていた。大きさはまちまちだけれど手ぶらで歩いている人などほとんどいない。
「みんな荷物持ってるじゃん。オレたちこれからイルカ先生のところに住むのになんにも持ってなかったらおかしくないか?」
 屋上の手摺りにもたれて体を揺らしながらナルトは腕を組んだ。
「………おかしいな」
 確かにナルトの言う通りだ。気が付かなかったけれどそりゃ確かに不自然だ。どうしよう。どうしたらいい?考え込むサスケにナルトも不安そうな顔をする。
「どうしよう、サスケ」
 カカシに連絡を取ればいいが連絡を取れるのはたった一回だ。どうしたらいい?サスケもまた困惑したままナルトを見た。
「なぁ、サスケってばよ」
 急に不安が増したのかナルトはサスケの隣にしゃがみ込んだ。見つめるナルトを見返してサスケは小さく溜息をはき出す。不安なのはこっちも一緒だというのに。
「…カカシに連絡が取れないわけじゃない」
 驚いたような顔をしたナルトにサスケはさっきまでポケットの中で転がしていた珠をそろりと見せた。手の平に乗った小さな珠。
「これは緊急用にカカシから渡されたものだ。これを使えば魔界のカカシと連絡が取れるけど…」
「じゃあ今すぐ使おうぜ!」
 とたんに顔を輝かせ珠を取り上げようとしたナルトの額をサスケはべちりと叩いた。
「いてっ!なにすんだってばよ!」
 額を抑えて睨むナルトから珠を隠すようにサスケはゆっくりと指を折った。
「ちょっと待て。これは魔法陣が失敗したときのために渡されたものだ。今使ってもし万が一イルカ先生の記憶操作が失敗してたときはどうするんだ?オレ達は魔界に帰ることもイルカ先生の家に入ることも出来ないまま立ち往生することになるんだぞ」
 イルカの許可がなければあの家には入れないのだ。扉の存在すら確認出来ないほどの強固な結界が張り巡らされた部屋。魔界にも帰れずイルカを守ることも出来ないどころか、大蛇丸に消されてしまうことにだってなりかねないというのに。
「サスケって意外と頭堅いよなー。そんなの簡単だってばよ!今からカカシ先生と連絡を取って魔法陣が失敗してたときのことを聞いといたらいいじゃん」
 あっけに取られるサスケを余所に、ナルトは閉じた手の平を開きにかかった。あぁ、そう。確かにな。お前の言うことは正しいよ。簡単な話だったよな。どうせオレは頭が固いよ。やさぐれながらサスケはナルトを制してゆるりと指の力を抜いた。手の平で光る小さな珠。
「じゃあ、連絡を取るぞ」
「早くしろってばよ!」
 急かすナルトの前でサスケは珠を屋上の堅いコンクリートの上に置いた。短い呪文を口の中で呟き、そうして手の平を珠の上に押し当てる。その瞬間ぐにゃりとコンクリートが熔けたように見えた。空間が歪み、ざあ、とノイズのような音が聞こえる。そうして小さな水たまり程の空間が光りを帯び始めた。
「わ、なんかスゲェ…」
 呟くナルトに目もくれないでサスケはさらに手の平に力を込めた。光が徐々に力を失い始める。ざあざあというノイズもやがて静まり始め、そうしてぽっかりと屋上に鏡のような空間が出現した。鏡に映り込んだ不鮮明な映像はやがて徐々にその輪郭を現し始める。
 そうして、そこに写った者。ぼんやりとした視線をこちらに向けてがりがりと頭をかいていたその人物は。
「カカシ先生!」
 安心したように叫んだナルトを横目に見ながら、サスケも心の中でひっそりと安堵の溜息を漏らした。
『なに?早速魔法陣失敗したの?』
 幸先悪いねぇ。もそもそとシャツを羽織りながらそこに映り込んだカカシは欠伸をかみ殺しながらそう聞いた。
「違うってばよ!まだ成功かどうかは分かんないけどそんなんじゃないんだってばよ!」
 屋上の床にぽっかりと空いた小さな空間。空間を歪めてそこに映るカカシにナルトは早くもわめき倒している。
『じゃあ何なの?大体失敗かどうかも分かんないのに連絡してくるなんてどういう緊急事態だよ』
 がりがりと頭を掻きながらカカシは胡乱気な視線を投げかけた。そんなカカシにまるで頓着しないままナルトは、超緊急だってばよ、などと言った。
「カカシ先生超緊急なんだってばよ」
『だから何?』
 緊急緊急という割には二人の間に何の緊張感もないのは一体どういうことだろうかとサスケは痛む頭を抱える。
「あのさ、オレ達何の荷物もないけどそれって変じゃないのかよ!」
 目を細めて詰め寄ったナルトにカカシは珍しく驚いた顔をした。
『…………変だね』
 そうか、それは盲点だったなぁ…。顎に手を当ててカカシはわずかに眉を寄せた。
「カカシ先生、どうしたらいいんだってばよ」
 困ったように聞いたナルトに被さるようにサスケはようやく会話に口を挟む。
「あと、魔法陣が万が一失敗してたときのことも考えておいてくれ。通信はこれっきりだからな」
 サスケの言葉にカカシはますます眉間の皺を深くする。そうしてうぅ、とかあぁ、とか訳の分からない呻き声を漏らしたあと、おもむろにカカシは顔を上げた。
『サスケ、ひとまずお前の心配は今すぐ解消出来るぞ』
 突然のカカシの言葉に面食らったのはサスケだけではなかった。ナルトも驚いたような顔をしている。
『ナルトの方はなぁ…。まぁ、それも何とかなるだろ。ちょっと待ってろお前ら』
 驚く二人をよそにカカシはなにやらごそごそと下の方を探り始めた。
『イルカ先生、起きて下さい』
 イルカ先生?
『イールカせんせー?』
 はぁ?!誰かを起こしているようなカカシの声。誰かというか聞こえてくる台詞から考えたらそれは他でもないイルカ。しかし何でそこにイルカがいるんだ?ぐるぐると回る疑問符に思わずナルトの顔を見れば、ナルトも面食らったような顔でこちらを見ていた。
「どういうことだってばよ、サスケ…」
「オレがそんなこと知るわけないだろ」
 呟く二人の耳にそうして飛び込んできた声。
『……ん?何ですか、カカシさん…』
 聞き覚えのない男の声。聞き覚えがない訳じゃあない。ほんのついさっき、一瞬だけ聞いた声に酷似した声。それは。
 見つめ合っていた顔をそろそろと鏡に戻したとき、映り込んだカカシの横にひょっこりと影が現れた。
 黒い髪と黒い瞳。いささか寝ぼけたような感じはぬぐえないけれど、そこに映っているのはどこにでもいそうな平凡な、男。見顔だ。それもほんのついさっき。
「イルカ先生だってばよ…」
 呆然と呟いたナルトにサスケは知らずこくりと頷いていた。
 先ほど見たときはちゃんと括られていた髪はばさりと肩に広がっているが、そこにいたのは紛れもなくイルカだった。
『起こしちゃってごめんなさい。でもちょっと用事があるんです』
 ちゅ、と音を立てて寝ぼけたイルカの目蓋にキスを落としながら、カカシはだらしなく顔を崩している。思いがけずラブラブいちゃいちゃする上司を目撃させられて、サスケもナルトもうんざりと溜息を吐いた。
「カカシ先生、何でそこにイルカ先生がいるんだってばよ!」
 未だ困惑と精神疲労から立ち直りきれないサスケは驚異的な回復力を見せたナルトの神経に心密かに賛辞を送った。そんなサスケのことなど気が付きもせずナルトは鏡の中をびしりと指さしている。
「それになにイチャイチャしてんだってばよ!オレ達が超苦労してるっていうのによ!」
 その声に驚いたのはどうやらカカシにしどけなく体を預けているイルカだった。
『え?!だ、誰ですか?!』
 シーツで体を隠していたイルカにどこからともなく取り出したシャツを羽織らせながらカカシは笑っている。そのカカシをイルカは穴が開くんじゃないかと思うほどじっと見つめていた。
『誰かいるんですか?カカシさん』
 見つめるイルカに、なんだかそんなに見つめられると照れますね、などととんちんかんなことを返しながらカカシはシャツのボタンをきっちりと留めている。
「カカシ先生、いつまでやってんだってばよー!」
 いつまで経っても終わりそうにない二人のやりとりにいい加減しびれを切らしてナルトはもう一度叫んだ。あんまり大声を出すなよ。現実逃避も甚だしくサスケは全然関係のないことを心の中で突っ込んでいた。
『今、今どこかから声がしましたよ?!カカシさん?!』
 あははと笑うカカシをつかんでイルカはがくがくと揺さぶっている。
『イルカ先生、後ろ後ろ』
 揺さぶられるままにカカシがイルカの後ろを指さす。開いた片方の手は相変わらずしっかりとイルカを抱き込んでいるようだった。恐る恐るといった風にイルカはカカシの腕の中でそうっと振り返った。今まで横顔しか見えてなかったその人物の顔がゆっくりと鏡に映し出される。そうして。イルカはナルトととうとう目を合わせてしまった。
『わー!!ひ、人が浮かんでる!』
 向こうでは一体どんな風にこちら側が映っているのだろうか。ひしとしがみついたイルカを改めて後ろから抱き直しながら、カカシはくすくすと笑った。
「やっぱイルカ先生だってばよ!なんでイルカ先生がそこにいるんだ?」
 かみ合わない会話。ナルトが相手だから仕方がないだろうが、カカシにはそろそろ状況説明をして欲しいものである。サスケもなぜそこにイルカがいるのかさっぱり分からなかった。地上のイルカは偽物なのだろうか。下は下でイルカがカカシに食ってかかっている。唯一事情を把握しているはずのカカシは相変わらずのんびりとしたような表情を崩さないままへらへらと笑っていた。
『まぁまぁ、二人ともちょっと落ち着いてよ』
 相変わらずへらへらとしたままカカシはイルカを撫でている。アンタ一人が落ち着いてる場合なのか?イルカの肩を撫でる手がどうにも落ち着かせるために撫でているようには見えず、サスケは心の中で突っ込みを入れながら深い溜息を吐いた。
「事情を説明しろ」
 鏡に向かってようやくそれだけ言うとカカシはおや、という顔をした。
『サスケはさすがに落ち着いてるねぇ』
 落ち着いてるわけじゃねぇ、とサスケは思った。別に落ち着いてる訳じゃないが正直なにがなんだかよく分からないから焦りどころが見つからないだけだ。あとはカカシに突っ込みを入れたい気分で一杯一杯である。
 魔界であれだけ真剣な顔をして自分たちを脅した男と目の前の人物を同一視するのはかなり難しい。しかもそれが自分の師だなんて。誰か何とかしてくれ。そう、むしろサスケは落ち着いていると言うよりも単に脱力していたのだった。
「一体なにがどうなってんだってばよ!」
 サスケの心をそのまま代弁するようにナルトがカカシを問いただす。
『そうです、一体なにがどうなってるんですか?!』
 そうして、鏡の中の人物も。ナルトとイルカ双方にやいのやいのと言われてようやくカカシはその気になったようだった。 『ハイハイ、今説明しますよ』
 後ろからぎゅうとイルカを抱きしめてその肩に顎を乗せ、そうしてカカシは改めてこちらに向き直った。
『えっとね、あの金の髪のがナルト。その後ろにいるのがサスケ。あいつらはオレの使い魔です』
 すいと長い手を持ち上げて指さしながらカカシはまずイルカに二人を紹介した。
『オレはイルカ先生を介さないと地上に出られないから、取りあえずあの二人にイルカ先生の身辺警護をさせる事にしました。で、二人は今地上から術を使って連絡を取ってきてる所です』
『へぇ、そうなんですか…』
 使い魔、と呟きながらイルカはまじまじとナルトとサスケを眺めている。
『で、サスケとナルト。こちらがイルカ先生。万が一を考えてイルカ先生の魂を分割して魔界に一緒に持ってきてたんで、取りあえず実体化してもらってる』
 なんだそりゃ、とサスケもナルト思った。分割とか万が一とかいったい何の話なのだろう。
『地上でお前達が会ったイルカ先生が本体の方だ。でもこの人も紛れもなくイルカ先生なの。そっちにいるのはオレを忘れたイルカ先生でこっちにいるのは覚えてるイルカ先生って事』
 ますます混乱する地上組をよそにカカシはイルカの額にそろりと手の平を当てた。
『イルカ先生ちょっとごめんね。中覗かせてもらうよ』
 え?とイルカが問い返したとき鏡の中が一瞬光に包まれた。刺すような光ではなくひどく柔らかな光。そうしてカカシはふとサスケの方を見て笑った。
『おーいサスケ。術は成功してるぞ。記憶の書き換えは済んでるからその辺は大丈夫だ』
 一体なにをしているのだろうか。初めて体験する地上と魔界を結ぶ大規模な任務にサスケはぐらりと自分の足下が揺らいだような気がしていた。カカシの術は遥か高みで行われている。自分の知らない高等技術ばかりが今まさに目の前で展開している。大丈夫なのだろうか。果たして、この任務を全うする事が自分たちに出来るのだろうか。
 カカシ先生なにしてんだってばよ、などと問うナルトの声がサスケにはずいぶん遠くで聞こえたような気がしていた。
『イルカ先生は地上のイルカ先生と繋がってるんだよ。だからちょっと確認させてもらったの』
 何でもない事のように言ったカカシにふうんと気のない返事を返すナルト。ナルトは分かっているのだろうか。カカシの言ったその言葉の重みが。そんな風に簡単に言った術がどれほど高度な術なのか。その、カカシですら手こずる相手。
 大蛇丸。
 急にのし掛かった存在の重さにサスケは思わずぶるりと身を震わせていた。
『あの、カカシさん…』
 向こう側で控えめな声がしている。かくりと力の抜けそうな体を叱咤してサスケはその声に耳を澄ます。
『記憶の書き換えとか中覗いたとかって、一体どういう事ですか…?』
 控えめな声は控えめな割にはどこか恐ろしい響きを持ってサスケの耳に届いた。底冷えするような気持ちが足下から這い上がっていたサスケは、その声にふと救われたような気持ちになって顔を上げた。
『い、イルカ先生?』
 薄い膜のような鏡の向こうに映っている師の顔。どこか焦ったような顔。
『カカシさん、あんたまた勝手にオレの頭の中覗いたりしてるんですか…?』
 カカシの腕の中でぐるりと向きを変えその襟首をつかみあげる。
『あ、あの、緊急事態だったんですよ!そのね、イルカせんせ…』
 ぎりぎりと絞まっていく首もと。
『へぇ、それで?』
 ごめんなさいと掠れた声が聞こえて、そうして咳き込むカカシが見えた。平凡な人間にしか見えなかったけれど結構すごい人なのかもしれないとサスケは思う。ナルトも同じように思っていた。あのカカシをあんな風に扱える人間がいるとは。
『ごめんなさい、でも仕方なかったんですよ。記憶操作っていうのはですね、具体的には…』
 言い訳のようにカカシはイルカにぼそぼそと話し始めていた。イルカの体にちゃっかり腕は回したまま。
「なぁ、サスケ。カカシ先生ってばどうして連絡したのかもう忘れてんのかな」
 ぼそぼそとカカシがイルカに説明している間、ふとナルトが振り向いてそう聞いた。不安というよりは不満げに寄せられた眉がどこかおかしい。
「あの調子じゃ覚えてるかどうかは怪しいな」
 すっかり尻に敷かれている。イルカとて本気で怒っているわけではなさそうで、拗ねたような顔をしてカカシのうだうだと長い言い訳を聞いていた。時間がないとか言いながらどこか呑気なカカシとイルカにサスケはようやく、いつも、を取り戻しつつあった。
 いつもの自分。いつものペース。
「おい、それよりも荷物の事はどうするんだ?」
 いい加減終わりそうにない痴話喧嘩に終止符を打つべくサスケは鏡の向こうに声をかけた。そう、これが自分の役割だ。掛けられた声に先に顔を上げたのはイルカ。続いてカカシ。
『あぁ、そうだった。イルカ先生、というわけでこいつらは今日からあなたのところに転がり込むわけですけど荷物とか全然持ってないんですよ』
 どうしましょうとカカシはイルカの顔を必要以上に近くからのぞき込んだ。
『どうしましょう、って言われてもお金とか持ってるんですか?』
『持ってるわけないでしょ』
 自信満々に言い放つカカシをぐいと片手で遠ざけながらイルカは眉間に皺を刻んでいる。
『イルカ先生、あいつらが持って来なきゃおかしい物ってなんですか?』
 唐突にそう聞いたカカシにイルカはほんの少し考え込むような顔をした。そうですね、と呟いて、そうしてまたカカシを見る。
『着替えとか、歯ブラシとかそういう物と、あとは学校の道具ですね』
 ランドセルとか教科書とか体操服とかそういう物。指を折りながら色々な物を上げ始めたイルカを制してカカシはこちらにようやく顔を向けた。
『おい、お前ら聞いてた?』
 こくりと二人して頷けばカカシはにやりと笑う。
『取りあえず今聞いた物、どっからでもいいから盗んでこい』
 さらりと言ったカカシに普通に頷けば、突然イルカが叫んだ。
『あんたなに言ってんですかー!!』
 ごつりと鈍い音がして、カカシが頭を抱えて呻いているのが鏡の向こうに見えていた。



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