* * *
ゆめを、みた。
あたたかくやわらかくやさしいゆめを。
夢の中には誰かがいて、その誰かに抱きしめられていた。その人は薄い膜の向こうにいるみたいにぼんやりとしていたけれど、確かにその人に触れている所は温かかった。そうしてその腕の中ではひどく安心出来て幸せだった。
ここにこのままこうしていたいと思う。この人の腕の中に。誰かは分からないけれど、きっとこの人は自分の大切な人だ。こんな風に側にいて安心出来る人なんて今までどこにもいなかったから。だから本当に心の底から安堵した。
よかった、ちゃんと側にいてくれてるんだ。今までみたいにこうやって側で抱きしめていてくれてるんだ。心のどこかで夢だと分かっていたけれど、これが夢じゃないことも分かっていた。本当は側にいないことも、けれどずっと側にいてくれることも。
甘えたように頬を擦り寄せれば、抱きしめる手の力が強くなった。あぁ、もう少しこのままで。彼を覆う膜がとても邪魔でその事に少し泣きそうな気持ちになった。
ずっとこのまま目が覚めなければいいのに。抱きしめられたままこめかみに口付けを落とされて、もうすぐこの夢も終わってしまうことが分かる。どうか目覚めても側に。
けれどそれが叶わない願いだというこも、痛いくらいに分かっていた。
ふと目を覚ますとまだ夜明け前だった。出勤時間にはまだ間があるだろう時間。イルカは枕元の目覚まし時計を確認しようとして、自分が泣いていることに気が付いた。
あれ?眦を伝う涙が、空気に触れて冷たくなっている。身を起こせばあふれる涙がぱたぱたと音を立ててシーツに染みを作っていた。
「なんでオレ、泣いてんだろう…?」
口に上った質問に答える声などなく、イルカは夢の残滓がそこかしこにまだ散らばっているのに気が付いた。
「…そうだ、夢を…」
そう、夢を見ていた。夢の内容なんて思い出せもしないけれど、それは温かく柔らかく優しい夢だった。夢の中で自分はひどく幸せでそのことがなぜか胸を締め付ける。
あぁ、夢から目覚めてしまった。不意にそう思った自分にゆるく笑いながらイルカは涙をようやく拭う。ただの夢なのに。そう、ただの夢。拭っても拭っても落ちる涙は止まることなく、イルカは昨日よりも喪失感が薄らいでいる事実に気が付かなかった。
記憶は抜け落ちていく。砂時計の砂のようにさらさらと留めなく。それがどんな意味を持つのか、イルカには分からない。
その夢が喪失を留めるたった一つの砦だということにも気が付かないまま、イルカは夢の残滓を拭うように頭を振った。
* * *
「イルカ先生」
呼びかける声、暖かな手の平。夢を見ていた。その夢の中では触れることの出来なかったそれ。感じることの出来なかったぬくもり。息づかいとか、鼓膜をくすぐる低い音とか。
まぶたを押し上げればカカシがいる。そこに、カカシが。あれは夢だったのだ。カカシがいるのに、カカシに触れられなくて。覆い被さるようにイルカをのぞき込むカカシにそっと手を伸ばす。頬に触れたあと銀の髪に指を絡ませれば、ほたりと涙がこぼれた。
「イルカ先生?」
問いかける声は優しく柔らかく、そして温かい。夢の中でもそう感じたように頬を伝う涙をぬぐう手は優しかった。
「夢を、見ていたんです」
ぽつりと呟いたイルカにカカシはふと首をかしげた。
「夢?」
「そう、夢を。温かくて優しくてとても安心出来るのに、ひどく悲しい夢でした」
カカシの存在を感じているのに、それがなんだか分からない自分。側にいてくれることを喜んでいるのに、離れなくてはならないことを悲しむ自分。あの悲しみは。
「失ってしまう痛みが、悲しかった」
あなたを失ってしまったそのことが。
側にいることを知っているのに思い出せない自分。あれは嘆きだ。もう失いたくなかったのに。二度と失えないはずだったのに、失ってしまった。その喪失に嘆く自分。
痛くて悲しくてつらくて苦しくて、でも夢の中では幸せだった。夢の中だけ、幸せだった。あなたが側にいることが分かったから。あなたの側にいることを分かっていたから。
でも、今は?
「あれは、地上のオレが見た夢なんでしょうか…」
ぬぐわれた涙はカカシの手の平に。この身を抱きしめた腕は確かにカカシだったのに、それを思い出せない自分。あれが地上の自分だとしたら、それはなんて可哀想なんだろうか。あんなつらい、悲しい思いをしているなんて。
「おそらく間違いないでしょうね。あなたは地上の肉体と深く繋がっていますから」
柔らかく頬に口づけを落とされてイルカはゆったりとカカシの背に手を回した。体重をかけないように重なる体。全身をカカシの体温に包まれて、イルカはほうと溜息を漏らした。
「つらくて悲しかった。あなたがいるのにあなたがいなくてつらくて悲しくて怖かった。失ってしまったのだと分かっていたから、とても怖かった」
一人になるのが、怖かった。せっかく手に入れたのに。一番欲していたものを、ようやく手に入れたと思っていたのに。
「ゴメン、ゴメンねイルカ先生。必ず助けるから。必ずあなたにオレを思い出してもらえるよう頑張るから」
押しつぶさないようイルカの横に移動したカカシは、そうしてぎゅうと抱きしめ返してくれた。痛いくらいに、強く。カカシが悪いわけじゃないのに。
「早くオレを助けてあげて」
でも、カカシに縋るしかないから。あんな悲しい思いをしている自分を助けてあげて欲しい。呟いたイルカをもう一度ぎゅっと抱きしめてカカシは小さく頷いた。
「必ず」
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