* * *
そんな風にして、イルカの新しい日常は始まった。カカシと二人の生活。それは変わらないまま、居心地の良い部屋で二人。それはイルカにとってはとても幸せな日々だった。
このときはまだ、そんなことにさえ気が付いてはいなかったけれど。こんな些細な幸せがどんなに大事なものかということに、気が付いてはいなかったけれど。
「イルカ先生、簾を買ってきたんです」
ある日カカシは学校から帰ってきたイルカを迎えてそう言った。
「簾?」
「そう、簾」
楽しそうに言うカカシにイルカは不思議そうに首を傾げた。なぜ、簾?まだ早くないか?季節はまだ春と夏の境目。初夏というにはまだ肌寒い日もあり、春というにはもう日差しがきつい。そんな季節。
イルカの中の常識では簾をかけるのは夏に突入してからだった。黙ったままなにやら考え込んでいる風のイルカにカカシは急に顔を曇らせた。
まずいことをしたのかも知れないという不安がカカシの表情からありありと伺えてイルカは思わず笑ってしまった。慣れてる風にイルカを扱うくせに、ふとした瞬間まるで見当違いのことをやってのけてしまう。カカシにはそういう所があった。ふふ、と笑いながらイルカはカカシに問う。
「でも簾なんて、どこにかけるんですか?」
イルカが笑ったことで安堵したのかカカシも硬い表情を崩して話を始めた。
「あのですね、ベランダにかけようと思うんですけどどうですか?」
悪くない、とイルカは思う。カカシの買ってくるインテリアの類はどういう訳だか知らないけれど和風なものが多いから、多分簾はあの窓の風景によく似合う。イルカは笑ってカカシに言った。
「いいですね、それ」
カカシも、笑う。
「いいでしょ?」
うきうきと早速簾をかけに行こうとするカカシにイルカは後ろから声をかけた。
「カカシさん、でも簾をかけるには季節がちょっと早いですよ」
「え〜」
不満たらたらのカカシにイルカは本当に吹き出してしまった。もう少し夏が近づいたら風鈴でも買いに行こうか。そう思いながら。
「ご飯出来ましたよ」
イルカがそういってお盆を手にリビングに入ったとき、カカシが買ってきた簾はすでにまるで決められていたかのごとく燦然とベランダにかけられていた。思わず漏れた溜息にカカシは笑いながら振り返った。
「どうです、イルカ先生」
得意満面なその笑顔にひどい疲労感を覚えつつ、イルカは古いアパートからわざわざ持ってきたちゃぶ台に夕飯を並べる。まだ早いと言ったのに。不満たらたらだったけど承知したんだと思ったのに甘かったか。
「どうって言われても、まだ寒々しいような気がしますね」
溜息混じりに食卓の準備を進めるイルカに、カカシはむくれた顔をした。
「なんか乗り気じゃないなぁ。ホントはちょっとイイと思ってるくせに」
ぶつぶつと文句を言うカカシにイルカは呆れてまた溜息を吐く。
「ご飯いらないんですか。いるんだったら手伝いなさい」
「はぁい」
おやいい返事。食い気の方が大事だったか。いそいそと座布団を並べるカカシにイルカは笑った。子供みたいなんだよなぁ、この人。
怖いな、と思うときもあるけれど、反面可愛いなと思うことも多い。きっとカカシは自分にひどく正直なのだ。教え子達よりも子供っぽいときだってあるくらいだから、自分の感情にきっともの凄く正直なのだ、この人は。
簾を買ってきたのも、そもそもは自分が喜ぶと思ったからだろう。確かに時季はずれだとは思ったものの、自分はカカシの買ってきたそれに喜んだのだ。
きっとあの窓に合うと思った。そして褒めた。いいと思ったから、いいと褒めたあげた。そうしたら今度はかけずにはいられなかったのだろう。なんて子供っぽい可愛い人なんだろう。
「イルカ先生の方が可愛いよ」
お箸と取り皿を並べていたカカシは、ふと顔を上げてうっそりと笑った。こういう顔をするときは全然可愛くない。
「勝手に人の思考読まないで下さいって、前から言ってるでしょう」
あぁ、可愛くない。機嫌の急降下するイルカにカカシは笑いながらそれでも問うた。
「ねぇ、オレの可愛いイルカ先生。あの簾どうです」
むかむかしながらカカシを睨んだけれども、そこに見つけたのは思いがけず優しい眼差しだった。こんな時カカシと暮らしていることにふと暖かい気持ちになるのだ。だから、イルカは小さな声でこう答えた。
「悪くないと思いますよ」
「良かった」
嬉しそうにくしゃりと笑ったカカシにイルカはほんのちょっぴり赤い顔で、山盛りによそったご飯を渡したのだった。
食後の片付けはカカシの仕事。食事を作るのはイルカの仕事だったりカカシの仕事だったりするらしい。カカシと住み始めてからイルカにとって一番良かったことは、家事を半分やってもらえることだった。
悪魔の特殊能力なのか単に元々手先が器用なのかカカシの料理の腕はみるみる上達していた。箸の持ち方も知らなかったくせに、と思う。別に美味しいものが食べられるのはいいことだし、遅くに帰ってきて夕飯が用意してあるのはとても嬉しいから何の問題もないのだけれどなんか悔しい。
カカシは趣味もいいのだ。イルカが以前使っていたタンスや食器は引っ越しの時に全部捨てられてしまった。捨てたのか、それともどこかに売ったのかは定かではないがとにかく一新されてしまったのだ。その事に延々文句を言ったらカカシに逆に説教されてしまった。
「イルカ先生はね、勿体ない勿体ないって言いますけど」
ぷりぷりと怒ってカカシは言った。怒っているというか拗ねているというか。
「あんなもらい物とか景品とかばっかりの食器使ってたら食事の美味しさ半減ですよ!」
なんだかよく分からない理屈だった。カカシ言いたいことがよく分からなくてイルカは首を傾げた。
「いいですか、やっぱり食器とかに凝らなくちゃ駄目なんです!料理は目でも楽しむもんなんですよ?」
何言ってるんだか。食器なんて取りあえず料理が乗っかればいいじゃないかとイルカは思う。そういうことにあんまり頓着する方じゃないから大体はもらい物、それも主に何かの景品ということが多かった。その事をなぜカカシがそんなに怒るのかイルカには全然理解できなかった。
「何をそんなに怒ってるんですか?」
うんざりしてイルカが溜息を吐いたときカカシはまた腹を立てた。
「怒りますよ!イルカ先生のそういう所絶対矯正してみせますからね!」
カカシが妙な宣言をした次の日、引っ越し先の備え付けの空の食器棚には素焼きの大皿や上薬の綺麗な陶器のカップやつややかな塗り物のお椀やその他諸々の、イルカが見ても趣味がいいと思える食器が並べられていた。
いつの間にと思ったのも確かだけれど、その日イルカがそれらの食器に自分の料理が盛られるのを見て、あぁ、と思った。美味しさ半減、というよりは2割り増しくらい美味しそうに見えのだ。
こういうことかとようやく納得する。どうにもこの悪魔、感性だとか情緒だとかをやたらに大事にするよなとか、そういうことを全然気にも出来ない自分がちょっと寂しかったりして、イルカは盛りつけられたおかずをまじまじ眺めた。カカシと一緒にいたら自分も少しずつそういう感性とか情緒とか芽生えたりするのかなとか思いながら。
したり顔のカカシは小憎らしかったけれど、その日食べた自分の食事はいつもより3割り増しくらい美味しく思えた。
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