ロマンス 第2部
引っ越ししました。
取りあえず文房具店で購入してきた引っ越し葉書を眺めつつ、イルカはどこかまだ呆然としていた。出さなくてはいけない。そう、引っ越ししたのだからこの葉書は出さなくてはいけない。
パソコンなんぞという物を未だ持っていないイルカだからこの葉書の宛名書きは当然手書きだ。そんなことはまぁいつものことだからそう苦にはならないだろうけど、でも、遊びに行ってもいいかって聞かれたらどうしよう。どうしようと思うのだ。
引っ越しした。確かに自分は家を引っ越した。教職に就いてからずっと住んでいた、綺麗とは言い難い小さなアパートから確かに引っ越したから案内を出すのは当然だ。
けれどでもこれはちょっとどうだろうと思う。手狭になったから引っ越したのだけれど。一緒に住む人間が出来て部屋がとても狭くなったから引っ越ししたのだけれどこれはどうだろう。まだ片付けの終わらない雑然とした部屋の中、ぽつんと置かれたテーブルの上に買ってきた葉書を乗せたままイルカはやっぱり途方に暮れたような気分になっていたのだ。
引っ越し葉書を目の前にイルカが途方に暮れるのには訳があった。れっきとした、訳が。
そもそもの発端はイルカの同居人にある。同居人、と呼んでいいのかどうか甚だ疑問が残るのだが、ともかくその同居人もどきに色々と問題があるのだ。問題が同居人にあるのか同居人の行動にあるのかイルカはしばし悩んだりもするけれど、結局のところどちらにも問題があるからあまり事態はよろしくなかったりする。
イルカが盛大な溜息を吐く訳。それはいざとなったらいつでも放り出せる同居人にあるのではなく、誰がどう見てもイルカには不釣り合いなこの部屋の広さにあった。どうしてイルカが、一介の中学教師であるイルカが、こんなだだ広い部屋に引っ越すことになったのか。
それはイルカが厄介な同居人、彼は悪魔でカカシというのだけれど、その同居人とひょんなことから暮らし始めて1月とちょっと経った頃のことだった。世間は年始。古い年がようやく過ぎ去り、どこか気持ちの引き締まる年明けの日のこと。
元旦に配達される分厚い新聞をぱらぱらとめくっていたカカシが嬉しそうにイルカを呼んだのがそもそもの発端だったのだ。いや、そもそもの発端はもう少し前に遡るのだけれど、イルカがそれと分かるくらい驚き、困惑し、果ては思考を放棄したのはカカシが現れたその日を除けば、初めてだった。その日カカシは新聞に埋もれて嬉しそうにイルカを呼んだ。
「イルカ先生、宝くじの当選番号出てますよ!一緒に見ましょうよ」
カカシの声にイルカは洗濯物を畳んでいた手をふと止めた。
「宝くじ?」
「ホラ、ちょっと前に買ったでしょ?」
カカシの言葉にイルカはしばし考えたあと、あぁ、と小さく頷いた。確かにカカシと出会ったばかりの頃、学校の帰り道で宝くじを購入したような気がする。しきりに結果を見ようとわめくカカシにイルカは箪笥の引き出しをごそごそと漁った。大事な物は大体ここに入れると決めている。だから今まで忘れていたけれど、宝くじも多分ここにしまってあるはず。探すまでもなく宝くじは買ったとき入っていた封筒に入れられたままそこへ収められていた。
イルカが思考を放棄するまであと3分。引き出しから宝くじを取り出したイルカがその事を知る由もなかった。
そうしてイルカは宝くじに当選し、一夜にして3億もの金を手に入れてしまったのであった。気があまりにも動転して寝込んでみたりもしたけれど結局宝くじを当ててしまったという事実は変わらなかった。
そう、変わらなかったのだ。カカシが一月経ってもいなくならなかったように、宝くじに当選した事実は変わらなかった。カカシが何か小細工したのに決まっているが、当のカカシはイルカの詰問に意味ありげに笑っただけだった。
あの顔。どう考えてもカカシが一枚噛んでいる。どこをどうしたのかイルカには知る由もなかったが、この宝くじを当選させたのは間違いなくこの悪魔であるはずだった。だが当のカカシは、イルカ先生って強運の持ち主ですね、と嬉しそうに言うばかりだった。
そうして宝くじに当たった事実をようやく受け止めたイルカは、今度は途方に暮れた。この金の使い道をどうしていいのか分からずに、途方に暮れてしまったのだ。取りあえず引っ越しに幾らかいるからその分は差し引いたとしても、残る膨大な金をどうしたらいいのか。一体、どうしたら。
イルカはほとほと困り果ててぼんやりと日々を過ごしていた。金がありすぎるというのも厄介なものだと初めて思い知っていた。貧乏暮らしに慣れきっているイルカにはそんな大金は最早金とも認識できないくらいだ。けれどもぼんやりと、それでも引っ越し先を決めないと、などとは思っていたその矢先。ある日住み慣れたアパートに帰ったら満面の笑みを湛えてカカシがイルカに告げたのだった。
「イルカ先生、引っ越し先決めてきましたから」
曰く、良いマンションがあったから購入したとのこと。購入した、と。
「一軒家にしようかと思ったけどね、それはもう少し歳をとってからでもいいかと思って。取りあえずマンションで手を打ってみたんですよ。このマンションのいい所はね、景色もすごくいいんですけどなんといってもお風呂が広くてね。もちろんイルカ先生の学校からはかなり近いですし快適ですよ。で、ついでにダブルベッドも買っときましたから。これからは寝るのも狭くないし、お風呂も広々だし、ね」
いや、狭いのは狭いので楽しいんですけど。うきうきと一人まくし立てる悪魔にイルカは眩暈を覚えていた。聞けば引っ越しは一週間後だという。荷造りはどうするんだなどとすでに論点の違うことで頭を抱えるイルカにカカシは微笑みを浮かべて言った。
「全部引っ越し業者の人に頼んでありますから荷造りの必要はありませんよ。家具も新しいの買ってありますから、古いのは業者の人が持っていってくれます。どうしてもっていう思い出の家具とかは言って下さいね」
古い毛羽だった畳に手を突いてイルカは思った。そういえばこの人、昼間暇なんだっけ…。
それから一週間、イルカが何かをする暇なんてどこにも存在していなかった。新しいマンションの解約の手続きをしたり、他の部屋を探したりなんて暇はどこにも。
気が付いたらもう週末だった。カカシの言った、引っ越しの当日。イルカがひょっとして、と淡い期待を抱いていたのも確かだった。まさかカカシでも、あんな非常識きわまりない生き物でもまさかそんな大胆なことを本当に実行しているなんてことはあるまいと思っていたのだ。
高をくくっていたといっても良い。まさか、と。大体部屋の片付けなんて一つもしていないのだ。いくら業者任せだとはいってもこんな状態で引っ越せるはずがない。まさかね、そう思っていた、のに。
そのまさかはイルカの期待を簡単に裏切ってやってきた。晴れやかに、にこやかに笑う引っ越し業者の人々。イルカは朝食を食べ終えたばかりでようやく洗い物が終わった所だった。
まさかとか、やっぱりとか、嘘じゃなかったのかとか、夢でもなかったのかとか思ったけれど玄関先に佇んでいるのは紛う事なき業者の人間だった。作業着の胸のところに木の葉引越センターという刺繍施してある。
イルカは呆然とした。呆然と立ち竦むイルカを押しのけて、実に手際よく采配をふるったのはカカシに他ならない。イルカがただ呆然としてる間に何もかも終わってしまった。小さな古いイルカのアパートは見る間に空っぽになって、引っ越し業者の人々は来たときと同じようににこやかな笑顔を残して居なくなった。そうしてイルカも呆然としたまま、カカシに手際よく運び出されてしまう。
引っ越しって、こんなんじゃないはず。イルカがそう思ったとしても仕方がない。彼は今まで一度も金持ちだったことがないのだから。汗水垂らして引っ越しをするのが当然だったから。
友達とかに手伝ってもらって、ささやかながら晩飯奢ったりとか交通費くらいのお礼を出したりとかして、それでもわいわいとやって、友達が帰ったあとも一人途方に暮れながら片付けとかするのがそれが、普通。イルカの中の、常識。こんなの引っ越しじゃないって。
新しいマンションは到着したときにはすでに中は住めるくらいには片付いていた。残っていたのはイルカの細々とした私物。それだけ。それだってそんな量じゃないから明日中にはきっと片付いてしまう。
新しい部屋、新しい家具、最上階にほど近い高そうなマンションの一室でイルカは今までとは違う意味で途方に暮れていた。家賃、払えるんだろうか。一括購入したマンションに家賃を払う必要がないとイルカが気が付くのは、もう少し後の話である。
引っ越しのお知らせ葉書を買ったのはついさっき。ここに来るまでの間にあった文房具屋でカカシに買わされたのだ。買わされた、というよりは乗せられて買ってしまったというか。何から何までなんて手際のいいことだろう。イルカはまだ呆然としたまま、そうして途方に暮れた。
葉書買ったってさ、どうすんだよこれ。出すの?なんて書くわけ?こんな高級マンションに引っ越したって書けるか?有り得んだろ。っていうか。ていうか。ホントにここ、オレの家か?
こんなことでいいのかなぁ、この先のオレの人生こんなことで。ついついカカシに流されてしまっている。このまま流され続けてもいいのか。いや良くない。良くないっていうか。そりゃ良くないだろう。
良いとか良くないとかいう以前の問題な気もするが。そういえばカカシはいったいどこに行ったんだろう。あの諸悪の根元は。さっきまでそこら辺をうろうろしていたのに。取りあえず葉書を見なかったことにしてカカシを探してきょろりと首を巡らした。
「イルカ先生、呼んだ?」
探した瞬間イルカは後ろから堅い腕の中に抱き込まれていた。温かい優しい腕の中に。カカシの登場はいつだってこんな風にしていつも突然で、イルカは驚きを隠せない。
「よ、呼んでませんよ」
あわてて腕を外そうとするイルカを易々と抱き込んだままカカシは耳元で笑った。
「何もそんなに悩むことないでしょ?部屋は広くなったし職場には近くなったし、見晴らしはいいし住み心地は抜群。な〜んにも不都合なし」
くすくすと笑ってイルカをぎゅうぎゅうと抱きしめるカカシ。なんだかんだといいながら流されるのも悪くないと思ってしまうのはこの腕の温かさのせいなのかも知れないと、イルカはぼんやり思った。
「そりゃ確かに不都合はありませんけど…」
カカシの腕に抱き込まれたままイルカはそんな風に言ってみた。藻掻いても一向に弛む気配すらないその腕。イルカは諦めたように力を抜いてカカシにもたれ掛かる。
そう、カカシの言う通り不都合なんてものは無いに等しい。真新しい広い綺麗な部屋。広いリビング、広いベランダ、広いお風呂、おまけに和室まで付いている。手狭だった台所もひどく使い心地が良さそうだった。まさにキッチン、といった風情。広い割にはがらんとした雰囲気なんて全然無くて、それはどこをどう見たってとても住み心地の良い家なのだ。
そうして、ここにはカカシがいる。一人ではないという安堵。この広いマンションに一人ではないという安堵感。共に食事をする相手のいる幸福。ただいまと言う、お帰りと答える、ただそれだけのこと。明日の約束をしなくてもいい相手がいるということ。ただ、それだけのこと。イルカにとって重要なのは、多分そんな他愛もないこと。だから、それについては別に問題ないと思うのだ。
ただ、だけれども。不都合はないけれど別にこんな豪華なマンションでなくても良かったと思う。こんなどう考えたってイルカには不相応な立派なマンションではなくとも。
ごろごろと猫のようにイルカに懐くカカシをそのままにイルカは溜息を吐いた。そう思うけれど、決定を覆すことはどうせ無理だったに決まってるとも思った。カカシがここに住むと決めたのだから、多分自分がこの決定を覆すのなんか無理だったに決まってるのだ。
カカシの主人ってオレじゃなかったっけ?イルカはぼんやりとそんなことを考える。言うこと聞かないよなぁとか色々。そんなイルカの耳元にまたしてもカカシの甘い声。
「イルカ先生がホントに嫌がることなんて、何にもしませんよ。オレは」
笑いながらカカシはそんな風に言った。イルカはほんの少しだけ困ったような顔をしてそれでもゆったりと笑う。
「そこでオレに懐いてないで葉書の宛名書き手伝って下さいね」
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