プリズム
五
この城への侵入は実に二度目だ。結局城なんて言うものは大きいだけ大きくて作り直しも殆どしないから、以前の知識だけで充分に通用した。
山瑠璃城は当然滝側に重きを置く城で、その反対側はちょっとした崖になっている。とはいえ、全体に堀が巡らしてあるので、大抵の忍避けにもなるが、あまり自分には意味がない。崖に高を括って警備が薄いのも知っている。もう、十四年前と何一つ変わっていなかった。
以前侵入したときは、さすがに中忍だったし、勿論随分若かったのもあって、結局軽微に人死にを出してしまった。自分の姿を隠すために侵入した城で、人を殺してしまっては、勿論騒ぎになる。結局、自分は城の中庭から堀へと身を投げて、難を逃れたのだった。
夜の城はさすがに静かだ。
城主のカズラの部屋は当然のように最上階だろう。音も立てずに天井に貼り付いて、階段を探す。上へと通じるものを見付けると、迷わずに上った。
途中、物見台へ行く為の階段と、主やその家族の私室へと向かう階段が別れていることを思い出す。そして、勿論城主の私室に行くための道には、兵が置かれているはずだ。
別に其処を押し通っても良かったが、ふとしたことを思い出して、結局、物見台の方へと足を向けた。勿論、物見台には常に人が居る。二人か三人が配置され見回っているのだ。今日は二人らしい。
台には上がらず、其処から二人の様子を隈無く伺い、死角を突いて移動した。物見台のすぐ下は、もう主の家だ。
屋根づたいに其処まで下りれば、後は容易い。侵入も造作なく、音も立てなかった。さすがに私室だけあって、警護さえない。
中の気配を窺うと、掠れたようなものが三つほどある。眠っているのだろう、微弱だ…。そっと侵入してみると其処は寝室だったようで、大きなベッドに埋もれるようにして女とその両端に子供が眠っていた。
真ん中の女が、きっと、城主の奥方、堅香子リンなのだろう。
ここに嫁ぐ前は『ミズチ城にその人在り』とまで人々に言わせしめた美姫だった。確かに寝顔の今も、そのころの名声を止め続けているのが判る美女だが。
老けたな。
そう、思った。随分前に、それこそリンが娘と呼ばれるの時分に見たことがある。当然のことなのだろうが、そのころのみずみずしさの欠片も残っていなかった。
リンや子供たちに用はない。
さっさとその部屋を抜け、次の間へ移る。其処は子供たちの遊び部屋のようである。敷かし、そこに置かれているのは、忍の道具の標本や、巻物の形をした玩具などで、父親である城主の趣味が伺いしれる。飛ばして、次の間に移る。
其処は鍵がかかっていた。中に人の気配はない。靴の中に仕込んで置いた針金を突っ込み少しかき回しただけで開いてしまう、その扉に、鍵なんて必要ないんじゃないかとも思う。
何故か皓々と灯りの点いたその部屋は、おそらくはカズラの私室だろう。壁一杯にクナイやまきびしなど、こちらは本物を展示してある。草や滝の暗部の面、黒塗りの刃、読めやしないだろうに術の巻物まである。
これはキケンだ、と一瞬にして悟った。
十四年前のあのガキが、こんなものに、ここまで夢中になって居るだなんて、思いもしなかった。
このまま忍の知識がカズラに入っていけば、いずれ、どこの里に属さない忍が出来ることになる。例え、それがどんなに不出来でも、それは里にとっても、国にとっても喜ばしいことではない。今でさえ、ギリギリの均衡で保たれている力の分布が、覆されてしまう可能性があるのだ。
カズラには幸い、子供が既にある。カズラが無くなっても継承争いには至らないだろう。
ここで排除してしまった方が、世界のためだと思った。
ふと、その時、視界に入ったものがある。
それは結界陣だった。
すっと、背筋に冷たいものが走る。
結界陣は高等忍術だ。知識だけを詰め込んだって、一朝一夕の修行でどうにかなる代物ではない。それほどに長けているのか、それとも其処まで使える忍が傍にあるのか。
直ぐさまその傍により、読み解くことから始める。
こんな、大人一人が立てるほどの小ささの結界陣を組み立てて、何をしようというのだろう。
「これは…」
思わず声にしてしまうほどの衝撃があった。
空間転移の方術だ。
小さいながらにそうとしか思えない術式が組み込まれている。
思わず走り出すのを止められなかった。廊下を駆け抜け屋根に飛び出す。そのまま強く屋根を蹴って、堀へ向かって身を投げた。
二度目の侵入もまさか堀に入るなどと、思いもしなかった。
***
そのころ、イルカはやっと、報告書を受け取っていた。火影が暗部の返答も一緒に返してくれたので、二つ同時に受け取ったことになる。
火影は援軍要請に応えてくれるようだが、元々、この仕事えをやっているイルカ自身が寄せ集めなわけだから、そうそう簡単に充分なだけな忍即を集められない、ということを知らせてきている。そんな回答を想像していたので、イルカには大した感想はない。
それよりも。
調べて貰った動物たちの発注者だったが、これはどうやら滝であったらしい。大した娯楽もないミズチの町に動物園が出来るようだと滝に入った忍と火の国から報告が来ている。
「…なんで、滝なの…」
その報告書を何度も読み返しながら、イルカは思わず呟いた。
だが、しかし、この情報が本当ならば、涅の行動は無駄足で、忍とも接触せずに無事に帰ってくる可能性が高い。イルカはその事に少しだけ安堵した自分に気が付かなかった。ただ、滝の方の報告には、建設中の動物園に忍び込んでみたが、動物の形は影も形もない、という情報がしるされている。
もう一枚の新情報を見てみると、それは新たな動物発注のリストだった。
「…え…?」
人間に行き着いた先には、もうないと思っていた。人間が至上の動物だと、どうして思ったのだろう。
そう考えること自体、根拠のないことだったのだ。
だが、よくよく見てみると、その発注者は、草の大名だ。五行、と書いてある。
「……?」
思わずリストをまじまじと矯めつ眇めつする。
しかし、そうしている内に段々、もやもやとある種の不安感を抱き始めた。指先が震えてくる。呼吸が荒くなる。叫びたい気持ちを必至で抑えた。
そのリストは、暗部に情報公開の申請をした動物たちと殆ど一緒だったからだ。つまり、その、研究時間が長かった動物だけが、悉く注文してあるのだ。
イルカは思わず、がっつくようにして、暗部からの報告書を繰った。
動物の種類一体一体を調べ上げ、ありとあらゆるものを数値化したその、資料から、共通点を探さなければいけない。
早鐘を打ったような心臓も、冷たいのに汗の滲んでくる手のひらも、合わない歯の根も、何処か遠くに感じながら、イルカは暗部の報告書に没頭した。
***
身を投げた時のスプラッシュも音も、また、陸に上がったときの痕跡が残るのも嫌だったし、何より髪の色が水で落ちるのを避けたかったから、何とか道具を使って、堀の壁にとりつくと、チャクラを使って貼り付く。大きな上に、無生物である壁に対してその方法はいくらか、浪費が激しいがこの際仕方ない。といったところで、微々たるものなのだ。
堀には用水路が在る。拾川から取水しているこの堀は、城の人間にとって、どうやら重要な隠し部屋へと通じる交通網になっているようだ。
さすがに、これは十四年前には知らなかったことだ。
天守閣から落ちてくる最中に、堀の暗がりに小さな船着き場のようなものを見付けるまで気が付かなかったのだ。
城から堀を使って外に出て行けるところ言えば、取水路しかない。水面に水平になったまま取水路まで音もなく走る。取水路は、町から城へと続く橋の下に在り、探さないと見つからないように出来ている。隠すところが非情に怪しい。
そのまま取水路に入ると、一部がきちんと小舟が付けられるようになっていた。舟を係留するためのロープもごく最近のものであるようだ。どうやら人通りは在るらしい。
人が歩けるようになっているその水路を、前後を注意しながら歩く。さすがに、ここで何者かに鉢合わせしてしまうと、逃げにくい。水路を壊してまで逃げる覚悟はあるが、そうすると町には甚大な被害が出るだろう…。
暫く行くと、扉が在った。鍵はかかっていない。こんな所まで来る人間は居ない、ということだろうか、とにかく、必要は無いのだろう。
さすがに少しばかり警戒しながらその扉の中に滑り込む。すぐ其処に上へと続く階段と下に下りる階段が在る。取りあえず下への階段の先を覗いてみた。
暗い通路は、おそらく忍でなければ歩けないだろう。それほどまでに明かりがどこからも漏れていない。
ここで手間取っても仕方ない。下は後回しか若しくは諦めることにして上への階段を行くことにした。
其処は下階とはうって変わって、皓々と白色灯で照らされている。黒装束に身を包んだ格好では目立って仕方ない。しかし、何も意に介さずそのまま進んだ。明るい廊下を通ると、一つの扉が迎えてくれる。人の居る気配はしなかった。
そっと其処を開けて中に入ると其処は薄暗く、だだっ広い部屋の中央には何やら機械が設えてある。
「…何だ、これは…」
そろりと、その部屋に脚を踏み入れた。
その、足下には、ガラス張りの床の下に更に、薄布のカーテンを敷いたようなその床の向こうに、部屋がある。
其処には女が居た。女は頭の上に居る自分に全く気が付かないように、一糸まとわぬ姿で呆然としている。何処かで見たことがある人間だった。
はっとして、少し離れたところも床の下を見てみると、其処には老人がやはり裸でベッドらしきものに横になっている。
どの部屋にも、中央の装置からハーネスのようなものが伸びている。
「なんだ、これは…」
もう一度呟いた。
ふと、その時に、さっきの女の顔を思い出した。老人もだ。
思わず其処から確認できる部屋を全部走り回って見てみるが、どれも共通する。
かれらはイルカと共に追っていた失踪者たちの顔だった。
***
イルカは呆然とへたり込んでしまった。
一つの、共通点を見付けることが出来て、これに確信を抱くものの、その、事実に恐怖心を覚えたのだった。
もし、この首謀者若しくは実行者が堅香子カズラなのだとしたら、彼は何故、領主の息子などに生まれてきてしまったのだろうか。きっと、忍に生まれてくれば、こんな問題など一切起こさずにきっと、イルカなど歯牙にもかけぬ程の忍になっていたに違いない。
なぜならば、イルカが推理した、動物実験の目的が正しく捉えられていた場合、この実行者は、忍の世界最強と名高い木の葉に所属する暗部の出した結果と、同様の結果を得ていたことになるからだ。
知識と設備を持った、他国の忍の組織が関わっている場合も考えられる。
だが、火の国の人間を使用している事実から、きっとそうではないのだろう。元来忍は他国に意味無く介入することを嫌うからだ。
ただ、今は涅の安否を願う。
***
「これはこれは…」
背後からそんな声がかかる。
さすがにちょっと深入りしすぎたかな、とは思ったが、こうなるともはや後の祭りだ。
振り返ってみると、其処には意外な人物が居た。
「みくずハヤセ…!」
「おお、オレを知ってるの。滝の忍かな、草の忍かな」
薄茶色の髪に浅黒い肌の男は、鷹揚に笑った。滝の領主の弟だ。未だに兄夫婦には子供が無くてミズチの城主の継承権は二位だったはずだ。一位は確か、この、山瑠璃の第二男子。
どうにもないがしろに扱われているが、そうさせるものが本人からもにじみ出ている。不快で、思わず眉を顰めた。
「いいねえ、忍。鼻が利いて、小回り利いて、まるで犬だね」
挑発なのだろうか、まるでそのままだから、何も言わない。
「だけど、ちょっと遅かったね。あと、二日でも速く来れば止められたかも知れない…」
「……?」
なんのことだかさっぱり理解できない。
首をひねっていると、楽しそうにハヤセはそこいらを闊歩して、下を眺める。火の国から浚ってきた人間を一人一人鑑賞しているのだ。
「カズラは大した奴だよ。滝の国の連中とは違って、打算で生きていねえし、頭もいい。だから、利用しやすい。野心深い女ってのも利用しやすいもんだねえ、我が妹ながら、アイツには驚く…」
「……」
やはり、何を語っているのか判らない。しかし、この意味不明の状況を説明してくれる気で居るようだから、暫くは殺さない。
すぐにでも昏倒させて堀に放り込むことだって可能だし、この施設を全て破壊することも可能だった。自分にはそれだけの力がある。目の前の男は、自分をそんな風に見ていないのが、敗因だ。
「忍と、普通の人間の何が違うと思うよ。忍でも、考えたことねえだろ。忍者様は人間とは違う高等なシステムを持ってらっしゃるンですよ」
ハヤセは愛おしそうに、女の部屋に屈み込んでいる。そう言えばみんな裸体だったから、覗きも同然の行為だ。まるで標本のようになっている痛々しい人間を、そんな対象で見ることの出来るこの男の精神を疑った。
「なんだと思いますか、忍者様…。普通の畜生同然の人間と、この世界の平和を左右させる君主様の違いは」
「……」
応えない。名を呼んだときに声を発してしまったのですら失態だと思っている。
「だんまりですかあ、若い忍者様。それはね…」
男はまるで夢心地の様な恍惚とした顔をして呟いた。
「チャクラだよ」
***
チャクラはどんな生物でも大なり小なりに持っている生命エネルギーのことだ。大まかに身体エネルギーと精神エネルギーに分けられる。この二つと印を組み合わせることにっよて発動するのが忍術だ。
勿論、それは人間だけが持つものではない。人間以外の動物も持っている。更にそれは術によっては人間なんかよりも、良質である場合があるのだ。狐や狸なんかは精神エネルギーが高い。九尾の狐のような長寿の化け物は更に上質で甚大なチャクラを持つ。
イルカがアカデミーで教えてきたことそのままが、この報告書に載っている。
購入された動物は、全て良質なチャクラを有する生物だったのだ。
もっと早くに気が付いていれば、涅の手を煩わせずに済んだかも知れないのに…。
そして、チャクラを求めると言うこと、それはつまり大きな力の具現力を欲すると言うことだ。
止めなければ行けない。きっと、この実験を行っているものは、何らかの方法で他の生物からチャクラを抽出する術を手に入れたに違いないのだ。
涅がどんなに高名な忍であったとしても、これだけの生物から抽出されたチャクラの前には、太刀打ちは難しいはずだ。
イルカは大慌てで、薬を作った。多少強引でも。腰の痛みが引けばいい。
そう思って、作って、飲み下したのだった。
***
「ここは、プラントなのよ。つまり、チャクラの抽出工場…。よく分かったね、こんな場所」
辺鄙な場所へようこそ、と丁寧に頭を下げる男に、忍を舐めているのかとはり倒したくなったが、取りあえず、その衝動は抑えて置いた。何せ、今ここにどんな仕掛けが張り巡らされているか判らない。足下には捕らえられたままの失踪者たちが、人質同然で暮らしている。
「どこの忍者様か判りませんが、黙ってこの件に参加してくれるなら、このまま合成チャクラをお分けしますよ。断るンなら…」
男はポケットの中に手を入れる。
「どうするっていうの…」
まさか忍相手にナイフでも構えて肉弾戦を仕向けようと言うのか。物々しくなった雰囲気に、腰を落として身構える。
「勿論、合成チャクラの餌食さねっ!」
ハヤセはポケットの中に突っ込んでいた手を差しだし、拙いながらも印を組む。
まさか。
そう思う瞬間に身を翻していた。背後に轟音が聞こえる。どうやら印の様子からして火遁系の術を使ったらしいが、振り返らずに走った。そのまま取水路を駆ける。
男が後を追ってくるのが気配で分かったから、そのまま、速度を緩めて離れないように付いてこさせた。
まさか、本気で一般人が術を使えるようになっていたなんて。
それに火遁の術は基礎中の基礎の忍術だが、実際に下忍では一握の人間しか使えない。なぜならば、それはチャクラが足りないからだ。そのチャクラが、補充できるものならば、上手くコントロールできたなら、それは上忍が使うそれと同じ効果を持つものになってしまう。
厄介だ。
壁を歩き、そのまま橋の裏に逆さ吊りになって、ハヤセが出てくるのを待つ。暫くしてから、ハヤセは息を切らしながら顔を覗かせるが、その後ろには大量の忍が控えていることに気が付いた。
中には知っている顔もある。
木の葉の抜け忍だ。
このままでは失踪者を盾に、逃げられなくなる。
「あそこだ!」
誰かが叫び、クナイが飛んできた。
もう、迷っている暇はない。
何の躊躇いもなく、派手な音を立てて、橋から堀に飛び込んだのだった。
続いて水の音が響いたが、あの程度の忍なら自分には追いつけない、絶対に。実際に対岸にたどり着き、堀を上がる頃になっても誰も追いつくどころか、自分の姿さえ捉えられていないようだった。よくもまあ、今まで追い忍に捕まっていないものだと感心するほど間抜けだ。
きっと、火影は助勢の申請をやんわりと断ってきている事だろう。しかし、相談しないわけには行かない。実際にこの任務に携わっている人数しか裂けないのが里の実状。
相方と相談して、どうにかするしかない。
濡れた髪が鬱陶しく、頭を振って水気を飛ばす。
銀の髪が、月の光に透けた。
***
町に着くと、何だか其処は騒がしかった。
実際に、町の人々が起き出してきてざわついているのではない。何だか、心がざわついた感じがした。戦いの在った、何とも言えないチャクラと憎しみの残留がイルカを揺さぶる。
涅はきっと、忍か何かと接触してしまったに違いない。そうでなければ、どうしてこんなに荒々しい気配が残っているのだ。町民一人始末するのに、これだけの殺気を放つほど怯えた人ではないはずだ。
イルカは闇に潜みながら、城を窺う。
城中に明かりが灯され、まるで草狩りの様相だ。
やはり、涅はここで忍と接触したのだろう。
まだ、探し回っていると言うことは、つい今し方の出来事なのかもしれない。イルカは物陰から物陰へと移りながら様子を伺う。
城の回りの堀を何やら丹念に棒などでつつき回している様子が目に映る。そんな、牧歌的な、とも思うが、一般人が忍を探し出すなんて、そんな方法しか考えつかないのだろう。実際に堀に飛び込んで逃げたのなら、そうそう長く水の中には居れるまいに。
イルカだったら、取水口から逃げる。
そう思い立って、イルカは取水口を探した。其処を進んでいけば逃げ出した涅と接触が取られるかもしれない。
堀を覗き込むイルカの遙か頭上に、そのとき、影が差した。
一瞬だけ暗くなった事実にイルカはふと頭を上げる。
其処にはまるで人が浮いているように見えた。一瞬だったというのに、それほど、切り取られた瞬間となった。月に輝く一瞬の銀色が、フラッシュのように眼に残る。
忍…なのだろう。今までに見たこともない派手な銀色の髪に、しなやかな四肢で駆けていき、すぐにイルカの視界から消えていってしまった。
追っ手が郊外に伸びているのだろう。イルカは橋の下に見付けた取水路に人が居ないことを確認すると、其処に飛び込んだのだった。
湿気ていて、薄暗い其処は、不思議なくらい人が居なかった。人を傷つけることも辞さない覚悟で飛び込んできたのに、拍子抜けなほどだ。なぜ、誰もここから拾川に抜けるなどと思わないのだろう。
暫く歩くと、扉が薄く開いている。そうして、後ろからばたばたと足音が響いてきたのだった。
思わずイルカは中を軽く確認して素早く入り込む。上と下と別れている階段の、その足場に隠れた。
そのすぐ後に足音の主が其処に駆け込んでくる。
「ハヤセ!」
その人物はそう、大声で呼ばわったのだった。
ハヤセ…?
ふと、イルカはその場に息を潜めたままその名を思い出そうとする。
みくずハヤセ…、ミズチ城城主の弟か。
直ぐさま思い出した名前に、さらにそれを呼び捨てにする人物が気になって、イルカは思わず、安全な其処から抜け出して、上の階段へと上っていった人物を追いかけた。
視界の端に止めた足音の主は、廊下の先の部屋に迷いもなく入っていく。イルカはその扉に貼り付いて、耳をそばだてた。
「銀の忍が入ったって…!」
いの一番に発せられた声はそれだった。
銀…の忍…?
「まあ、落ち着けよ」
その後に続いた声はどうやらハヤセのもののようだ。それから声は小さくなって聞き取りづらくなった。どうやら、ハヤセと地位を同格とする人間も、落ち着きを取り戻して、声を張り上げるのを止めたようだ。そうなれば、この案外厚い扉を経てでは、聞き取り憎いのも詮無い事だ。
銀の忍…とは、どう言うことだろう。ここにはあの、良くも悪くも悪魔のような涅が忍び込んだのではないか。涅は、銀とは、そんな光を抱くような色とは無縁の人だ。
全く違う形容を頂く忍の存在にイルカは戸惑う。その扉に貼り付いたまま考え込んでしまう。
ここには涅ではない、何者かが忍び込んだ。ならば涅はここには居ない、来ていない。
その判断さえ付けば、イルカにはあと構うものは何もない。すぐにでも逃げ出すことが先決だ。
そうして、その扉から離れようとした瞬間だった。
がつり。
いやな音がした。そして、そのすぐ後に何か足下に液体が落ちる。真っ赤なそれは血のようだった。
「叫び声もあげないとは」
そんな声が背後から振りかけられて、イルカは振り返ろうとした、しかし、手が引っ張られて上手くいかなかった。思わずその左手を見ると、千本が貫通して扉に張り付けてあるのだった。
その時に、薬が効きすぎていることを悟った。
痛み止めに飲んだ薬は確かに強力に仕立てたが、まさか全身の痛覚を麻痺させているとは思いもしなかった。
「さっきの忍の仲間か」
声の数から何人も其処にいるようで、イルカはそのまま扉に押しつけられて、人海戦術でもって捕らえられてしまった。
「何事だ」
漸く事の次第に気が付いた中の人物が扉を開けて姿を現した。
そこに立っているのは、三十ほどの男が二人。一人は日に焼けた茶色の髪に同じ様な肌の、見た限り粗野な雰囲気を纏った人間で、佩刀している。もう一人は日に当たらない生白い肌にソバカスの、こちらは真っ黒な髪で、背だけは高い眼鏡の男がイルカのことを見ていた。
眼鏡の方が思わず駆け寄り、イルカの顎をとって、まじまじと顔を見つめてくる。気分が悪くて思わず顔を背けてしまった。猿ぐつわを噛まされてしまったから、何か言いたくても敵わない。
「なんだ…、まったく違うじゃないか…。あの、銀のものだと聞いたから来てみれば…」
と、男は明らかに興味を失った様子でイルカから離れていった。そのままイルカは数人の男たちの手によって、中にまで引きずり込まれる。
そうして、押しつけられた床の先に見たものは、想像を絶するものだった。
カーテンのような細かい格子に編まれた布の向こうに、裸の女が見える。ベッドの上にうずくまって呆然としてる。上で行われていることに全く気が付いていない様子で、こちらに興味も向けてこない。この、メッシュの布のおかげで、全くこちら側が見えていないのだ。
彼女を知っている。
そう思った瞬間に思い出した。
失踪者だ。
思わずイルカは体をひねった。自分を束縛する手から逃れようとする。この下に居るのか、あの少女たちは。初香とユウヒは。
「なんだ、いきなり!」
男たちが慌ててイルカを押さえ込む。
「ははあ…。やはり、さっきの忍の仲間かあ…?」
と、がたいの良い方がイルカの顔を覗き込んでくる。
「反応がまるで一緒だ」
男は楽しそうに喉を鳴らすようにして笑う。まるで、肉食獣が獲物を目の前にしたかのような反応だった。
「この男、知ってるよ、オレ」
そう、声を掛けてきた男をイルカは振り仰ぐことも出来ない。暴れたために押しつけられた手は一層強く、ガラス張りの床に押しつけられる形になった。それでも下階に捕らえられた女性はイルカに気付きもしないのだ。
「木の葉に居たときに受付で見たし、なんでも凄腕の薬師って評判だった。今はアカデミーで教師をしてるって」
そんな声は、まるで少年のように朗らかだった。
まさか、木の葉の抜け忍か。
「ほう、木の葉か!」
イルカの顔の近くまで屈んできて男はなま暖かい息を吹き付けてくる。
「さすがに火の国は反応がはええなあ…。もう、足掴まれちゃったよ…」
「ど、どうするんだよ…、だから人を使うのは止めようって言ったのに…!」
眼鏡の男は腰が引けているようだ。
「盗るだけだよ、国をな」
「そう言えば」
と、木の葉の抜け忍らしき男が口を開く。
「こいつの今の下に、九尾の狐のガキが居るんだよ。さすがに九尾のチャクラを取り出すことが出来れば、木の葉なんて怖くはねえ。なんせ、火影すらやっちまった化け物だもの」
「ほう」
まさか、ナルトのことまでどうして知っている!
イルカは声をあげようとするが敵わない。思わず、涙が滲んだ。力でねじ伏せられることがこんなにも屈辱的なものだと初めて知った。
涅の顔を思い出す。
どこに行ったんですか。
思わず胸を突いて出たのは恨み言だった。
「とにかく、こいつは運良く手に入った、チャクラ源だ。せいぜい大切に扱え」
イルカの、大切な生徒が狙われる。
三人目が出てしまう。
涅さん!
イルカは猿ぐつわのまま叫んだ。
***
小屋に戻ってみると、其処には誰もいなかった。
火もだいぶ前に消されたようで、もう、かなり冷たい。
何処に行ってしまったのか。ここで待っていろと言い含めたはずなのに。
食糧の問題はないから、狩りに出ているとは思えない。部屋をよくよく調べてみると、薬の調合後や、報告書の束が、そのまま片づけられることもなく放置されている。しかし、荒らされた気配は無いから、きっと、慌てて出たに違いない。相方の黒装束もクナイなどの刃物も一切が消えている。
結界を作り替えてしまったために、彼が出ていくのに気づけなかったのだ。歯がみしたい気分だ。きっと、自分を追って町に下りたのだろう。
自分の所為で城は騒ぎになっているはずだ。
巻き込まれていなければいいと、思いながら木の上にのぼり町を見下ろす。いつもの町とは、いくらか様子が違って見えた。自分が撒いた殺気が呼び水となって、争いの雰囲気が漂っているのを感じた。
その時だった。
ふと、滝の方角に自分を呼ばれたような感覚があった。結界に侵入された証だ。そうして、直ぐさま放って置いた影分身が破壊される気配を感じた。
ばれた。
自分達の暗躍が敵に。
そう悟った瞬間、小屋に戻って、忍具を整えた。邪魔にならない程度に出来るだけクナイを仕込み、だいぶ前に作って置いた呪符を懐にしまう。
何故ばれたなどと、問うこともない。捕らえられたのだ、自分を追っていった相方が。敵の手中に落ちたのだ。
背中に黒塗りの両刃刀を帯びると、その足で小屋を発った。
相方は、助け出さねばならない。守り抜くとそう、里長にも誓ったし、何よりも自分が失いたくはなかった。里を知らぬ自分に、里のぬくもりを与えてくれたような気がしたから。
たとえ、人質の全てを引き替えにしようとも、あの人が、その手段を否定しようとも、必ず助け出す。
目指すは隣国。
唯一の味方に成りうる人物を求めて。
***
イルカが自殺をする気は無いと知ると、猿ぐつわを外され、城の天守閣に連れて行かれた。ずっと、暗い地下牢に閉じこめられていたから、ちょっとした光の下に晒されるだけでも、眩むほどのまぶしさを覚える。
太陽の高さからすると、捕らえられてからもう、半日ほど経っているようだ。手のひらに刺された千本の傷は治療されている。未だに全く痛みを感じないのだから、薬のリバウンドが恐ろしい。
首に引き輪をかけられて、半ば引きずられるようにして連れてこられた天守閣で顔を合わせたのは、取水路で会った学者のような長身の男と、きっちりと身だしなみを整えた貴婦人だった。相当の美女である。
直感でその女性が堅香子リンだと悟った。確かにユリコさんよりも美しく、涅よりも萎びていた。名の通り、凛と背筋を張って、イルカの前に堂々としているものの、どこか、くたびれた生活感を感じさせるのだ。
隣で気忙しくしている男の所為かもしれない。
堅香子リンを控えさせているのである。その眼鏡ソバカスの男が堅香子カズラに違いなかった。
「名は何と」
自信なさげに降らされる言葉は、明らかに自分のような囚人に対して怯えている風情だ。勿論イルカには襲う気など無いから、かえって煩わしいだけだ。自意識過剰だと評価する。
「名乗れません。また、必要もないと思います」
そう、出来るだけ対等に言葉を選ぶと、それだけでカズラは圧倒されたように身を縮める。隣で奥方が盛大に溜息をもらすのが聞こえた。
「そのように囚人に尊大な態度を赦していましたら、つけあがりますよ」
全く以てその通りだ。リンはそれを態度で示すように、イルカの頭を扇子で押してくる。別に額を床にすりつけることなど大したことではない。イルカは諾として従おうとしたが、そのリンの手はカズラの手によって止められた。
「高圧的になる必要は無いのです。私はこの人と話がしたいから呼んだんです。対等で何の障りもありません」
その言葉にリンは眉を顰めただけで、最早何も言わずに手を引き、元の椅子に戻る。
「銀の忍をご存知ですか」
「……」
イルカが黙っていると、カズラは勝手に喋り出す。
「私が十五の頃その忍と出逢いました。以来ずっと探して居るんです」
うっとりと呟くカズラはまるで夢を見ているかの様に危なげだ。これではまるで。
「長年の恋をしていらっしゃる」
思わず呟いたイルカにカズラもリンも顕著すぎる反応を返してきた。思わずイルカは腰を引いてしまう。カズラは、まるで理解者を得たような、歓びの表情をその頬に浮かべ、対してリンは、美しい顔が美しいだけに恐ろしく歪んでいた。
「私の心はあの日以来、銀色の忍に捕らわれたままなのです…。話によると、昨日現れたそうですね。ハヤテや何人かの人間が銀色の髪の忍を見ています」
銀色の髪を持つ人間なんて。そんなに多くはないはずだ。ふと、三代目を思い出す。
「あの…その人は、老人…ですか…」
その、質問の瞬間に、穏やかだったカズラは怒りを見せ、リンはくすくすと笑い出す。なんなんだろう、この、凸凹夫婦は。
「おそらく、あのころまだ子供のようだったから、今はあなたと同じくらいの年の頃だろう」
若い…、銀色の…。
「あ…」
「何か思い出しましたか!」
そう言えば昨晩、イルカの頭上を悠々と飛んでいった影が在ったのをイルカは思い出す。その影は月の光に照らされて銀色だったし、しなやかな体が、若さを窺わせた。
あれは、こっちの陣営の人間ではないのか。
しかし、あの人間が木の葉の人間だろうと、草側の人間だろうと、イルカには与り知らないことである。今まで、そんな銀色の派手な色を持った忍に出逢ったことはない。
「存じ上げません」
「…庇っているのではないのですか…」
「いいえ、存じ上げません」
頑なにイルカはそう通した。
「知らないと言っているのだから良いじゃありませんか。さっさと兄上に渡してしまいましょう」
思わずイルカはリンを仰ぎ見る。しかし、リンには既にイルカは『人間』ではなくてただの道具として成り下がっていた。彼女の中で用済みの烙印を押されてしまったのだとそう思った。しかし。事態はもっと深刻だったのだ。
「いい加減兄上が怒鳴り込んできてもおかしくない頃合いですわよ。火の国に行くためのチャクラを、この人から抽出する気で居るのだから」
「り、リン!」
さすがにそれにはカズラの叱咤が飛ぶ。イルカは、ただ、呆然とその先を考えた。きっと、昨晩あの場にいた人間の殆どがカズラかハヤセの私兵で、火の国侵攻の際には携帯できるものなのか判らないがチャクラを各人に渡すことになるだろう。そうなると、イルカだけのチャクラでは到底足りるまい。捕らえられたあの人々のチャクラも、新たに発注された動物たちのチャクラも根こそぎ盗られてしまう。運が良ければ、チャクラは一二週間ほど寝込むだけで回復する場合もある。しかし、運が悪ければ死ぬこともあるだろう。実際に命を賭してチャクラ増強する術というものがあるくらいだ。生命維持に必要な分のチャクラまで搾り取られれば、勿論命を終える。例え、運良く寝込んだとしても、身動きはとれなくなるのだから、結局、この身に自由はない。
何やら堅香子夫婦が言い争っているようだったが、イルカの耳には最早それは届かなかった。カズラが止めに入ったところで、屹度この兄妹はイルカを自分の好きなようにするのだろう、力ずくで。そう言う風に育ってきたに違いないのだから。
せめて、涅は無事でいるのだろうか。
結局逢えずじまいに成ってしまったが、イルカのこの現状を把握してくれているのだろうか…。助けに来いなんて言えない。足を引っ張った上に現状をもしかして悪化させたかもしれないのだから。
おそらくイルカの命を奪い尽くすほどのチャクラを引き出された場合、きっと、里には甚大な被害を及ぼすだろう。忍一人のエネルギーは、そのじつ凄まじいものがあることをイルカは知っている。
世界を滅ぼすとさえ言われた九尾の狐も、結局はたったひとりの優秀な忍の命を一つなげうつことによって、封印できたのだ。
それが嫌だった。死ぬことは、勿論怖い。けれど、自分の力を利用されて、大切なものを傷つけるのはもっと嫌だ。
涅さん、涅さん…。
思わず涙が零れてきて、イルカは其処にひれ伏すように体を屈めて、声も無く密かに涙をこぼした。
良い子にして、小屋で待っていたら今頃は一緒に布団の中に居られたんだろうか。もしかして、里に一緒に帰られたりしたんだろうか。
何を考えても、詮無いことだった。
今、ここでイルカが自分の命を捨てない限り事態が悪化するというのが目に見えて判ってしまうから。
自分がかわいそうで、イルカは暫く泣いた。こんな泣き方は久しぶりだった。子供の時以来だ。
「おい、カズラ。リン。話はまだかかるのか」
そんな声が響いたかと思えば、其処にはハヤセが来ていた。部屋の敷居を跨ぐなり、イルカの首を戒める鎖を勢いよく引いて、無理矢理に注意を自分に向かせる。まるで小さな子供のような所行だと思いながら、イルカは従った。
「首輪がよく似合いますね、お狗様。そろそろオレたちの飯になりませんか」
後ろの取り巻き連中が下卑た笑い声をあげる。どうしてここまで徹底して嫌な人間になれるのだろうかと、イルカは不思議に思ったが、まるでハヤセやその取り巻きに良い印象を持っていないのである。一挙手一投足が鼻について当然なのだった。屹度、彼らに好印象を抱いてる人間が今の様子を見たときには『朗らかに笑って』とでも、形容するのだろう。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ…! 絶対にこの人は知ってるんだよ、あの人のことを…!」
カズラは依然として諦めていなかったようで、鎖を引いて無理にでも連れていこうとするハヤセの腕に取りすがる。そんな様子に奥方は見て見ぬ振りを決め込むらしい。
「あー…」
その腕をぶらぶらと泳がせながらハヤセは明後日な方向に視線を遣り、考え込む風な素振りを見せる。まるで兄妹似た仕草だ。
「ぶっちゃけね、オレはカズラの憧れの人なんて興味ねーのよ。こんな逸材いつまでも放っておけるほど大人でもないんでね」
美味しいものは早めに一人で食べてしまいたいのさ、と笑うと、カズラの腕を軽く振り払ったのだった。
その瞬間だった。
一瞬にして空気が重くなったようになる。その場だけ、重力が強くなり、温度が一気に冷え込んだと思った。そして、そのすぐ後には激しい音がして天守閣の天井が吹き飛んでいた。
「――ッッ!」
いきなりの出来事に、イルカもその城の主さえもその場に固まる。百戦錬磨の手練れを装っていたハヤセの取り巻きたちも、何が起こったのか判らないで、瓦解して崩れ行く天井を見つめた。イルカだけは咄嗟に頭を庇う。
遠くで水の音が聞こえていた。落ちた天井が、堀に落ちているものらしい。
そして、残った物見塔の先端に一つの影があった。高所の強風に晒されながらも、真っ黒の外套を深く被り、動物を模した面を装着している。
暗部の出で立ちだ。
「…涅さん…」
すっとその人物が腕を動かす。その手に握られているのは、人だった。まるで猫の子を掴むようにしてうなじをきつく掴み、そして、その衆人環視の中、まるで、玩具でも壊すかの様な仕草で、意図も簡単に折り曲げたのだった。
人間だったものをぞんざいな仕草で余所に放り投げると、暗部の男は一息で距離を詰めてきた。周囲が息を呑むのが判る、恐るべき瞬発力だった。
いつの間にか手にしていたクナイで、ハヤセの後ろに控えていた人間を次々に、それこそ叫ばせる間もあっと言う間もなく首を掻ききっていく。喉笛も頸動脈も一緒に切断されるため、命は急速に奪われ、今際の声はただ空しい。
「…ひ、ヒイイ――ッ!」
辛うじて冷静だったのは、叫び声をあげたリンだった。彼女は椅子を蹴り上げるようにして奥の間へと逃げ去る。暗部はそんなリンを無視して、ハヤセの後ろの人間を次々と仕留めていった。
「く、くそ…っ!」
ハヤセは上着のポケットの中から何かを取り出すと、それを握り込んだままいくつかたどたどしく印を切った。
直ぐさま術が発動すると、其処には炎の竜が現れ、暗部の黒い外套をめがけて走る。しかし、彼は背中の刀を一閃させるだけでその竜を消し去った。
スゴイ。
イルカは思わずへたり込んだままその様相に見入る。頸動脈を掻かれるわけだから勿論血は噴き出すように飛沫をあげる。部屋や、近くに呆然として立ちつくすハヤセとカズラはそれに濡れるがままだったが、殺していく暗部本人は殆ど濡れていない。
カズラはまるで血と、舞うような暗部に酔ったかのような恍惚の表情を浮かべている。
「たった一人だぞ…! 良いから持ってる奴は全員呼び出せ…!」
ハヤセは狂ったように叫び出す。その声に弾かれて、生き残っている何人かがまろぶ様にして出ていく。
ふと、仮面の男はイルカの傍に立つと、その手と足を戒めていた縄を意図も簡単に解いてくれる。しかし、首輪を外す暇はなく、鎖を断ち切ってくれた。
「自分の身は自分で」
そう言ってクナイをイルカに二本手渡した。
「こいつ等の弱点は、スピードの無さです。一息に片づけて下さい」
「はい…!」
天守閣に人が集まってくる。どれも、合成チャクラなるトンボ玉のようなものを手に携えていた。彼らはまるで訓練された兵隊のようにハヤセを守るようにして取り囲む。一般民衆お得意の人海戦術だ。
「出来ますね?」
「はい」
殺せるか、という問いに頷いてしまった。しかし、ここで怯んでいたら、大切なものは失われるかもしれないのだ。そして、彼らが手に携えているものは、少女たちから搾り取った、生命エネルギーかもしれないのだ。
「行け!」
その声でその場の人間が思い思いに印を組み、飛びかかってくる。異様な風景だった。仮面はそのまま刀で何人か薙ぎ払い、まるで悪魔のように命を奪っていくと、そのまま天守閣から続く屋根を駆ける。直ぐさま其処に現れたのは、ハヤセに協力する、各国の抜け忍たちだった。
イルカはイルカに任された仕事しなければいけない。二本のクナイを構えてイルカは術が発動される前に、腕を落としていった。ともすれば仮面の男よりも残酷なことをしているのかもしれなかった。それでも、最低限殺したくないのがイルカの心情だ。出来れば手首、肘を狙って斬りつけ、出来ないようなら腋、それも無理なら容赦なくどこでも刺し殺す。
彼らは剥奪者だから、イルカも最大限容赦しない。
仮面の男ほどスマートじゃないにしても、とにかく無駄な動きがないように、敵方の動きを制していった。狭い其処はすぐに死体と重傷の人間で埋め尽くされる。しかし、刃向かってくる限りイルカも刃を向け返すのだった。
「う…うう…っ」
最期に一人残ったハヤセはそのトンボ玉を握り締めて立ちつくす。
圧倒的な力の差に、カズラは呆然としていた。
「…こんな、こんなことでえ…!」
ふっとハヤセは最期のあがきか、印をいくつか切ってきた。
それを見た瞬間に、イルカはその術が発動するよりも素早く動いて、両手の親指を切り落としたのだった。手の中からトンボ玉と不気味なまでの親指が転げ落ちる。
「――――!」
ハヤセのその叫びは、声になっていなかった。
遠くでまだ、戦いの音が聞こえている。イルカが首を巡らせると、暗部の男はまだ抜け忍たちと交戦中だ。その足下にはたくさんの死体が転がっている。
イルカの方が一段落したのに気が付くと男はさっと、クナイを上げて、ある方向を示した。小屋のある方だ。そのまま男が自分の指し示した方に飛ぶと、それを追って残っていた大半の忍は追っていったし、イルカに向かってきたものも何人か居た。それを薙ぎ払って道を切り開くと、イルカはかの影を追う。城の壁を走り下りながらイルカも三人ほどを仕留めた。
ふわりと、急に暗部の男の体に抵抗がかかりイルカはそれに掴まれる。そして、勢いの止まらなくなった抜け忍たちはチャクラでブレークをかけ水面衝突から辛うじて難を逃れる。そして、既に対岸に飛び移っていた二人を果敢にも追おうとした。しかし、その横を何か透明な紙のようなものが舞い降りていった。ふと、それは堀の水に触れると、一瞬にして爆発するように水を噴き上げ、残っていた抜け忍たちを容赦なく飲み込んでいったのだった。
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