プリズム
その足で小屋に戻ってきたは良いが、結局イルカはこの男が、涅なのかどうなのか確信を抱けないで居た。小屋の、結界の前まで来ると、イルカは漸く後ろを付いてくる人物を振り返ったのだった。
真っ黒の外套。獣の面。それが隠れるほどに深くフードを被った男。
まだ陽も高いその時間に不似合いなほど、闇を背負っていた。
「…あなたは、涅さんですよね…」
男は応えない。
イルカは思わず、男が全くの無反応であることを良いことに、その面に手をかけて、外した。中からは、見知った顔が晒される。そして同時に落ちたフードの中からは、銀色の髪が現れたのだった。
思わずイルカは息を呑んだ。
それは日の光に透けて、まるでそれ自体が淡く発光しているような感覚さえ覚える。
「…くろつち、さん…?」
「…敬称は要りません…」
そう言って笑いもしない男は明らかに、今までイルカが接してきて、恋にまで落ちた人間と一緒だった。ただ違うのは、闇を象徴するような黒髪が、全く正反対の、銀に変わっていること…。
「何で、言いつけを守らなかったんですか…!」
「…あの…っ」
「どんだけ心配したと思ってるんです、あなたの体はもうオレのものなのに…!」
まるで泣きそうに涅は顔を歪める。イルカはその言葉に、心が震えるようだった。
「何処にも行かないで…!」
そして、体を強く、取り込まれるように抱き込まれた。
もどかしい所作でイルカは涅に引っ張られるように小屋へと連れ込まれた。そして、敷きっぱなしだった布団に押し倒される。無理矢理に口づけられると、血の臭いが濃厚になった。しかし、それに構わず涅はイルカに口づけを繰り返し、衣服を剥ぎ取ってくる。途中で、やっと首輪の存在に気が付いた様だったが、そのまま放って置かれた。
下穿きを引き抜き、上着を胸の上まで捲り上げて、涅はイルカの体中を舐めてもみほぐしてくる。じっくりと執拗に、晒された両方の乳首を、舌で指で転がされて、イルカは思わず声を上げた。尖ったそれが、興奮してぷっくりとふくれると、舌先で見せ付けるように弄られる。
「や…っ、ああ…っ」
いつも気持ちがいいことは確かだが、今日は異常だ。思わず涅もイルカの反応に、ビックリして少し体を浮かす。
人を殺めた後だからだろうか、それとも、自分の異常な格好に興奮しているのか、薬のリバウンドか。
そのどれが理由だろうと、構わない気がした。
そうして、涅を深く感じることが出来るのならば、イルカには幸せなことだった。少しばかり荒っぽい涅の手管も柔軟に受け入れて、喘ぎを零してしまう。
「誰のものにもならないで、ずっとオレのもので居て」
「なんて傲慢な言葉だろう」
でも、それを嬉しいと感じる自分が居る。お互いに、涅にそれが叶えられる事はないと、何処かで理解している。それでも言葉にしてしまうのは、一時の戯れのようなものだ。
唇を軽くはむようにして涅が口づけながら、イルカの脚を割り裂いて、秘所を探ってくる。そうされて、自分がいつもよりも早く興奮していたことを知らされた。
緩やかに襞を探られ、柔らかく指を侵入させてくる。その優しいばかりの指に、初めて感じた。陰茎を銜えられて、唾液を其処に送り込まれると次第にぐちゅぐちゅと生々しい音を立て始める。そして、今日は馴染ませるだけに留まらずに、内部を探ってくる。
「…気持ちいいところ、教えて」
唇同士をふれ合わせたまま涅が呟く。イルカは既に忙しなくなった息を堪えようともしないで、そっと、その髪に手を入れた。
すべらかなその感覚に感動さえ覚える。まるで一本一本が銀細工のような髪を持つ涅は、イルカの中で、全ての存在を遙かに圧倒していた。神のごとき君臨である。
その指が、ある一点を抉ると、イルカは息を呑んだ。
「ここ…?」
遠慮なく水濁音を立てながら涅は指の抜き差しを繰り返す。
「ああ…っ、ふあ…、やだ…っ、ぁ…」
喘ぐ唇の端からだらしなく唾液が流れ落ちた。其処を涅が弄ると、イルカはあられもない声を上げて、ペニスはふるふると震えて透明な液体を溢れさせた。
「中、感じる…? 今まで触って上げなかったから、今日は沢山感じて、イって」
そして、何度も押されたり掻かれたりしている内に、イルカは精を吐き出してしまった。
「あぁッ…ぁ、ぅ…うー…っ」
ペニスに決定的な刺激も与えられずに達してしまったことに、イルカは思わず呆然としてしまう。
「スゴイ締め付け…」
そんなイルカの唇に胸元に涅は口づけながら、うっとりと呟き、再び抜き差しを繰り返してくる。
「やっ、やだ…っ、も、そこ、イヤ…!」
イルカは泣きながら喘いだ。感じすぎて辛い。感じることが怖い。
「可愛い…」
泣きながら、頑なに首を左右に振りながら嫌がっている素振りを見せても、イルカの性は素直だった。直ぐさま涅の手練手管にいいように弄られ尽くして、立ち上がってしまった。そして、イルカの体を反転させてその背筋を舐め上げた。
「ヒっ…!」
其処もイルカにとってびんかんな所だったようで、綺麗に背中を反らせる、そうすると、自然にまるで誘うように腰が上げられる。
涅は背後からイルカのペニスを掴んだまま猛ったもので貫いた。
「ああ――ッ!」
いきなりの挿入で思わず前のめりになり、腰が浮き上がる。その現象で深く埋め込まれる。
「気持ちいい…」
腰をぴったりと合わせたまま、イルカにとっては相当腰に負担がかかる体勢のまま、耳元でうっとりと呟かれる。少しでもペニスに、中のいい場所に刺激を与えられるときゅうきゅうと中のものを締め上げるのがイルカにも判る。それがいたたまれなくて、顔をシーツに伏せた。
「動くよ」
言葉のままにゆるりと突き上げられる。初めての体勢に、理解してしまった内部の良いところを擦り上げられて、イルカは腰を押しつけられるままに嬌声をあげた。
「あっ…、ああっ…、やっ…あ、あーッ」
涅からは体を起こすとイルカとの結合部が見える。涅の先走りと唾液でぬかるんだ其処は、切ないほどに締め上げてくる。思わず更にその尻たぶを両手で裂いて、押し入った。
「いやああぁ――ッ!」
その瞬間にまるで食いちぎられるような収縮が起き、涅はそれに抗うこともなく中に熱を吐き出した。
小さく痙攣するイルカも精をシーツに吐き出していた。
獣じみた体勢を一変させて、涅はイルカの中に納めたままイルカを引っ張り起こそうとする。既に体中の力が入らなくなっているイルカは、導かれるままに涅の膝の上に座り込んで、抱き合う形で揺さぶられる。
「あっ、あっ、あん…っんん…」
既にイルカもイルカの中の涅も確かな硬度を取り戻して、興奮に色を染めていた。
結合部からぐちゃぐちゃと、卑猥な音が響く。構わずにイルカは、まるで熱に浮かされて、涅の膝の上で腰を振り立てる。仰け反る首に、銀色の首輪。外せば良いだけの話だが、それだけのもので興奮した。
まるで捕らえきったかのような感覚を抱く涅だ。
「自分で持って」
涅は懸命に腰を振り立てるイルカに自分の上着の裾を上げさせ、胸を晒させると、其処に食らいついた。
「ひう…っ!」
その瞬間にギュッと肛門が窄まる。その気持ちいい反応がもっと欲しくて、執拗に舌で交互に愛撫した。どうやらイルカのお気に入りは左の様だ。
抱き上げてその背中を布団に押しつけて、左の乳首ばかりを吸い上げる。
「いや…ぁんっ、いや…っ、あう…っ」
もどかしげにイルカは涅に腰を押しつける。いきり立ったペニスも切なく震えている。
「自分で触って」
その指示がペニスなのか乳首なのか判らなくて、イルカは朦朧とした頭で両方を弄った。
手を一杯に開いて親指と小指で、左右一緒に揉み込むように乳首を弄る。既に吐き出された精液を擦り込むように竿を扱き、袋も持ち上げて会陰辺りまで中指でなぞった。その指先が涅のペニスに触れた瞬間、イルカは悲鳴を上げた。いきなり涅のものが膨張したような感覚を受けたからだ。
「な、なに…?」
怯えた声を出すイルカを宥めるように口付けて、涅も服を脱いだ。イルカの腕を巣の背中に回させると、驚くぐらいに高ぶる。ひくひくと顫動するような涅を感じるのか、イルカはひっきりなしに喘ぎ声を上げ続ける。
「だめ…っ、動かないで…!」
ゆるりと腰を動かしただけで、イルカははしたなく汁を零した。
「気持ち良い…?」
その問いにイルカは何度も頷く。必至になってしがみつき、どうにかして快楽を余所に散らそうとしているのが分かる。分かるだけに涅は面白くなくて良いところを突き上げてきた。
「ヒアッ!」
びゅっと射精のような先走りの液が飛んで、きゅううとアヌスが締まる。美味しいその感触につい夢中になって涅は何度もイルカを穿った。
「や…ァッ、ああッ、ダメ…! イ…、イく…ゥッ!」
ぐちゅぐちゅと狭い穴を犯す音と、イルカの喘ぎに気をよくしのか、涅は深く深く本能のまま抉り、イルカはびくりとその胸を震わせた。
「ア…ッ、アア――――ッッ!」
そして再びイルカは派手に精液を放ち、その飛沫を自分の顔にまで吹きかける。涅もその痴態に引きずられるように逐情した。
汗と精液、そして血糊でべたついた体をお互いに拭きあった。最初は悪戯のつもりが、イルカの媚態に段々本気になっていた涅によってまさぐるように股間を払拭されて、再び前を固くしたイルカは、それを銜えられた。他のところは清拭した後で綺麗なのに、股座だけぬめりを保った感じが卑猥で興奮を呼ぶ。
もう、先のセックスで何度もいっているはずなのに、涅に唇と手で扱かれ、袋と穴を弄り尖端をきつく吸われると、イルカは涅の咥内に放ってしまった。
涅の股間もイルカの媚態によって変化を来している。
「…させて下さい…」
思わずイルカもそれに掴みかかり、口に含んでいた。
じゅぶじゅぶと口の周りが汚れるのも、手がドロドロになるのも構わずに、イルカは涅の股間に顔を埋めて弄る。棹を手で扱きながら交互に袋を吸い上げ、初めて後ろの穴に触れてみた。抵抗はないようで、むしろ快楽に息を飲んだような涅の反応に気をよくして、唾液をまとわりつかせた指をぐりぐりと押し込んでみた。指を呑み込む卑猥なその図に、イルカは興奮して挿入をせがみ、貫かれてイった。
その日はタガが外れたように交わり続けた。まるで初めて行為を覚えた幼いカップルのようだった。
食事をしながらでもその気になれば膝の上に跨ったし、片づけをしながら後ろから貫かれたりした。
イルカはフロンには居る頃、漸くその理由に気付きかけていた。
涅は相変わらず後ろからイルカを抱きしめて前に回した手を服の中に侵入させたまま、イルカの素の腹を撫でまわしている。
「できないかなあ」
なんて、うっとりと呟くものだから、イルカは思わず吹き出してしまった。
「だいぶ本気で正気の発言なんですけどねえ」
涅はイルカの項に口付け、耳殻を食む。今日一日今日一日中弄られ尽くした体は何処に触れられても顕著すぎるほどの反応返すようになっていた。思わず漏れた熱い吐息に、イルカは涙を滲ませる。
「だってそうしたら一緒にいられるのに…」
そうして、耳元に同じ温度の言葉を吐かれると、涙は溢れてシーツに落ちた。
腹を触っていたはずの手が緩く降りてきて、そのまま直に萎えきったままのイルカを掴んだ。
「…もう一度…」
そう言って寄せられる唇に、今日何度ともしれない口付けでもって返答にする。
きつく首に胸に吸い付かれて、真っ赤な花びらのような痕を残される。イルカも付けて良いかと訊ねれば、涅は綺麗に笑って鎖骨と項を差し出してくれた。それは白い涅の肌に儚げに浮かび上がる、イルカの所有印。
愛おしくて、でもそれは言葉に出来なくて、イルカは涅の心臓の上にもその痕を残した。
「お揃いですね」
と、涅が指さしたイルカの胸に真っ赤な花びらが浮いて出ているのを見て、涅も自分と同じ気持ちで居ると言うことを悟った。
暑くて開け放った雨戸から差し込む月の光に、涅の紙が柔らかく反応する。その髪に肌に触れて、イルカは入れられただけで達した。愛おしそうに検分してくる手に、イルカは体を中から侵食する熱に胸を震わせて泣いた。
「眠って」
いやだ、眠りたくない。
そう思う。
優しく髪を梳いて、次々にあふれ出す涙を唇ですくい取ってくれる。この優しい手を離したくなかった。
しかし何度もいかされた体は疲弊しており、イルカの意志を裏切って、その意識を地下に深く引きずり込んだのだった。
六
気が付くとイルカは一人でそこに寝ていたようだった。
開け放たれた雨戸も、皺の寄ったシーツもそのままに、イルカはそこに一人きりだった。
裸の太股や胸に数え切れないほどの口付けの痕が目に入り、また、起きあがった際に下半身に湿った感覚が残されているばかりだ。
涅の影も形もない。
昨日脱ぎ散らかした衣服だとか、湯飲みだとか、残っているのはイルカのものばかり。
別れも、言えない。
イルカは声もなく泣き続けた。
きっと心が悲鳴を上げている。
裸の体を投げ出して、ただただ、眼から水が流れるままに流して置いた。まるで魂を失ったかのようだ。
心は失った、屹度。
持っていかれてしまった。
涅はもう戻ってこない。心は涅と一緒に行ってしまった。
交わることなどあり得ない人間だったのだった。
別れが必ず訪れると、一ヶ月以内に訪れると分かっていたはずだ。だから言わなかった。言えなかった。それは縛る言葉だから。
愛した、と。
その日一日、戻ってこない涅を待ってみた。シーツを洗って、布団を干して、大目に料理を作った。こんな場所では粥や鍋のような質素なものしか作ってやれなかったけど、本当は色々作れると言うところを見せて上げたい。みそ汁と白飯で感動していたあの人はきっと、子供のように喜ぶことだろう。
こんなところで人の温もりに邂逅するなんて思いもしなかった。
遠い昔に失ったものに再び触れ、再度喪失を味わうなんてなんて酷い経験。
二人で眠った布団に、初めて一人で眠った。
翌日イルカは火影の式を受け取り、火の国へと戻った。
任務終了が言い渡されたのだった。
火の国か移動に剃って、旅人に混じって歩いたため、イルカの帰途は往路の倍近くかかってしまった。
辿り着いた里では、わざわざ火影が出迎えてくれたのだった。
「なんじゃ、少し窶れたか」
「ご心配をおかけしました」
「ほんとうじゃよ」
そういって親代わりの老人はくつくつと笑う。
「ましな報告の一つもせぬと思うておったところに急に、真犯人発覚の報せじゃからなあ、度肝を抜かれたわい。他の忍が怒って居ったぞ、情報の隠蔽だとな」
「…そ、そんな…」
思わず悲痛な声を上げてしまうイルカに、里長は冗談じゃと笑った。
「お人が悪い…」
「じゃが、先走ったことも事実じゃよ。他藩との連携が必要な場合は、もっと摺り合わせを行ってくれ」
「はい」
イルカは火影と並んで歩き出す。
里は、相変わらず平和そうだった。その、に稀タフ右傾に懐かしく感じるのはおかしいことだろうか。
「あやつとは、遣りづらくなかったか」
涅の事だとすぐに悟ったイルカは、小さく首を横に振った。
「危険なことがないように言い含めたのじゃがな」
と、里長がちらりとイルカの左手を盗み見る。そして減棒じゃな、と真剣な眼をして呟いている。
「よく、してくれましたよ…。この負傷は…命令を無視した結果ですから…」
「…お主がそう言うなら、まあ咎めはせぬが…。ところで、綾角傷を看てくれたそうじゃな。大層感心して居ったよ、まあその腕を見込んで負傷したものと組ませたわけだが…」
涅の話をされると傷口がじくじくと痛み出す。やめてくれとも言えないで、イルカはただ黙って火影の後を附いていった。体の傷はたちどころに癒してしまえるイルカだが、心のそれだけは今は立った一人にしか癒すことが出来ない。
離れて早いつかにもなろうとしてるがそんな短期間で忘れられるわけがなかった。
会いたい、と切に願う。
「あー何々? 里長と先生が一緒に歩いているってばよー」
真明るい声が頭上から降ってくる。金色の毬のような少年がまろぶようにかけてきて、二人の周りをぐるぐると回る。
「ナルト…!」
「なになに? これが大人のダンゴウってヤツですかー!」
覚えたてと思しき言葉を言い捨てると、既に心得たもので、さっさとイルカの拳の射程外に走り去ってしまった。
その元気な姿を見て無事で良かったと心から思う。実は狙われていたなんて本人は知りもしない。
「滝に入っていた者達によって、生き残った失踪者は無事に生還したよ。初香とユウヒも帰ってきて居る」
そう言って火影が連れてきたのは病院だった。中庭と繋がっている特別個室に連れて行かれると、そこにはベッドが二つあり、その奥の中庭には、良く見知った二人の少女が仲良く日光浴をしている。
「イルカ先生」
先に気が付いたのは初香だった。そして先にかけだして抱きついてくるのはユウヒだ。
「役得じゃな」
二人の少女にぎゅうぎゅうと抱きつかれて、火影に妬かれ、悪い気はしない。
「イルカ先生が助けてくれたって聞いたよ!」
「捜しに来てくれたんでしょう、すっごくこわかった…!」
初香とユウヒはそのまま忍のライセンスを返上することなく、結局、下忍を続けることを選択したのだそうだ。
「母さんが死んだら忍をやめるわ」
と、こっそり耳打ちしてくれた初香の言葉は、親に対してとんでもなく不敬なものだったけれど、それが彼女の譲歩なのだろう。吃驚したようなイルカに蟠りも見せずに笑いかけた初香の顔はとても少女らしくて嬉しくなった。
「カズラ、リン、ハヤセは各国に引き渡して置いたよ。おそらくは草も滝も国主は知っていたんじゃろうな、三人が何を作っていたかなんて」
「抜け忍の中には木の葉の人間も居ました。ナルトのことを知っていて吃驚しました…」
「蛇の道は蛇…ということか」
里長はふっと空を見上げる。それに習い、イルカも空を仰ぐ。その青色は月明かりの下で看た涅の眼と同じ色をしていた。
「あの人は…」
このままイルカに思い出だけを背負って歩けと、態度で示した酷い男を、今は何を見ても思い出す。
空の青に、森の匂いに、月の白さに、闇の深さに。
「どこに行ったんですか…?」
火影は笠を深くして視線を遮る。
聡いこの老人はきっと何もかもを把握しているのに違いない。隠し事が出来ないと言った方が正確か。
「次の任務に出ているよ」
その言葉だけで十分だった。
イルカは火影の前を辞した。
詳しいことは聞かなかった。火影が把握しているならそれで十分だと思ったから。
初香とユウヒがもどれば、その任務の関心は涅にしか残らない。
毎朝、イルカは涅の鋸知多腕の内側にある鬱血の痕を吸った。唯一自分の唇が届く場所だった。
何処かでイルカの静かな夜を守るために戦っている人を思いながら。
その任務から半年も経った頃に一度、イルカは火影の使いの帰りに、香の樵小屋に寄ってみた。しかし、それは捜せども見つからず、結局イルカは時間が無いことから半日程度の捜索で諦めざるを獲なかった。
だが、体が諦め切れていない。心が、戻ってこない。半年も経って癒されない喪失感に、イルカは月から隠れておえつを漏らした。
初香とユウヒが揃って中忍に合格した年だった。
あのとき小さかったナルトもアカデミーをやっとの思いで卒業し、さらに難関と言われる下忍試験も通過したのだ。イルカも色々と大変な思いをしたけれども、今は素直にナルトの巣立ちが自分のことのように誇らしかった。
綻びかけた桜はお祝いの席に丁度いい。満開になったらナルトなり新米中忍の二人なりを連れてこよう、と頭上の桜を見上げてそう思う。まだ、五分も割いていないが月明かりに照らされたそれは随分と情緒がある。
「桜は案外白いんですね」
立ち止まって、それを見上げていると、来た方向から挨拶もなくそんな声をかけられた。存外に近いその声の主を振り返る。 振り返った配意が、イルカはその場に硬直してしまった。
「今晩和、良い月ですね」
のんびりとまるで吟ずるような口調。
月。夜。桜。
男は額宛を外し、口布を下げてにっこりを笑った。
銀色の、煌めく。
「初めまして、イルカ先生」
一瞬して視界の桜が一杯にその花弁を撒き散らしたかのような錯覚を受ける。
勿論、それは錯覚だ。イルカの心が、その人物に反応して看たいように見せた幻でしかない。
愛おしい人だ。
ずっと忘れなかった。
往来であることを忘れさせたイルカの歓喜はそのままその人物に飛びつかせて、深く口付けさせた。
まさか、まさかこんな日が来るとは思っていなくて、イルカは必至にその身体に取り縋る。
心を失ったイルカが自分の都合の良い幻覚を見せているのではない、と信じるに至るまでその人物を抱きしめて、頬を両手に包む。相手もそんなイルカの行動に抵抗せずに、優しく背中を抱いてくれる。
「あなたの側にあるため、戻ってきました…」
そんなことが可能なのだろうか。
だが、目の前のその姿は実物で、イルカの良く知っているものと同じで、疑う余地など何もない。
「離れないで、側にいて」
そうしてイルカが残す鬱血の痕に顔を埋めてくる。
幸せで、嬉しくてイルカはただただ泣いた。
「名前を、教えて下さい…」
イルカがしゃくり上げたまま口を開くと、漸く口を聞いてくれた、と男は笑いながらその涙を拭った。いつかそうしてくれた手と同じ仕草だったことを思い出した。
白い、桜。月夜。
「はたけ、カカシ」
優しい、煌めきと共にある、名になった。
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