プリズム
三
この世に生を受けてからずっと、屈辱を味わっている。生まれながらにして敗者にしたのは紛れもなく両親だ。ヤツらがオレに奴隷の烙印を落としたのだ。
なぜ、オレには何もくれない。
地位も、金の生る木も、全てオレ以外の兄弟へと与えた両親は、オレには何と『定め』とか『試練』だとかいうものばかりを押しつけた。そんなもの、誰が欲しいものか。
兄弟のようにただ、ヤりたいだけヤって、ガキが出来れば結婚の一つや二つでもして、のんびりと生き、そして、皆に傅かれたいだけなのだ。
何故、同じ腹に植わった同じ種の兄弟に対してこの自分だけが卑しい地位につかねばならないのか。
ともすれば自分は妾腹だったり種違いだったりしたのではないか、と考えることもあるが、残念なことにそれはきっとあり得ない。こればかりはオレも納得せざるを得ない。
両親亡き今、ならば、今度は兄弟たちに『定め』と『試練』を味あわせるしか、この鬱屈をはらす術はない。
死んでしまえばいい。
そうすれば、兄弟の持っているものは全て自動的に自分の手元に転がり込んで来るのだ。ただし、自分で手を下すのは、都合が悪い。自分が裁きの鉄槌を下すことが出来れば、それに勝る鬱憤晴らしはないのだろうが。
死んでしまえばいい。
出来れば凄惨な死を与えたい。
兄弟が死んでしまえば、この憎しみも、きっと晴れる…。
***
目が覚めると、朝だった。
ぱっかり目を覚ましたイルカはしかし、暫くは何も知覚できずに、微動だにせず、ぼうっと天井を見つめる。
遠くに啼いた鳥の声で、朝だと認識したイルカは、やっと其処から起き出した。
土間に下りて、なみなみとした水で顔を洗い囲炉裏と竈に火を入れる。
何だったのだろう。
最早惰性で朝食を作るイルカの脳裏にはその事だけがずっと、ぐるぐると渦巻いている。
昨日のアレは、何だったのだろう…。
涅は、あれよあれよと言う間に、イルカに断りもなく唇を奪い、あまつさえ体中を弄り回してきた。人が善意で添い寝をしていただけなのに、なんで、こんな羽目になるのか判らない。
そして、喘ぐ自分を見下ろして、うっとりとする涅が判らない。そして、あの時大した抵抗も出来ずに、いつの間にか腰砕けになっていた自分が、自分の事ながら、更に理解できなかった。
「……うううう…」
今更恥ずかしくなってきて、イルカは土間にへたり込み、頭を抱える。耳も頬も、熱い。
今までになく気持ちよかったことを覚えている。自慰など問題外、初めて女と経験したときよりも、余程気持ちよかった。
やったことは、自慰と変わらない。扱く手に、もう一本加わっただけだ。なのに、なんであんなに気持ちよかったのだろう。
失神するほどに。
たかが一緒に擦りあげたくらいで、乳首を吸われただけで。
「…ああー…」
これからどんな顔をして涅と接すれば良いのか。イルカは大きな溜息を吐きながら、両手でぱんぱんと軽く頬を張る。
なんだか、昨日抜かれてしまったくせに、その事を思い出すと、また股間が疼くようで、その感覚が、またいたたまれない。ここでちょっと触れられたりすると、もう、腰砕けになってしまいそうだ。
いや、ここで自分をしっかり持たなければ、今後なし崩しに致されてしまう可能性もある。
もし、次があるのなら、しっかりと断ろう。
イルカはそう心に秘め、気分を一新するために、爽やかな外の空気を吸いに出た。今日は残念なことに少しだけ上空に靄がかかっている。薄曇りの空だ。
「なに、朝っぱらから百面相しているんですか」
と、小屋に戻った途端、声を掛けられる。思わずびくりと体を震わし、声の方を振り返ると大儀そうに横臥状態になった涅が不審そうにイルカを見ていた。
「お、オハヨウゴザイマス…っ」
声は上擦っているものの、咄嗟に挨拶が出ただけ、上出来だ。涅はそんなことを意に介した様子もなく、上機嫌を丸出しにして、挨拶を仕返す。
あれ。
その涅の反応はイルカにとって意外なものだった。
だって、揶揄されると思っていたのだ。昨日のことを。必ず。
自分もあれは早いし、そもそも流されてしまうなんて、明らかに失態だ。しかも情けないことに気絶までしてしまうという、おまけ付き。これが、女相手だったら、朝はきっと同じ布団で寝ていないに違いない。
バカにされるのだろうと思ったけれど、涅は全く気にした様子もなく、囲炉裏に掛けられた昨日の残り物の鍋を覗き込んでいる。煮立っているのか、鍋の蓋をして、火掻き棒で木炭を隅に避けて火の調節をしてくれている。
もしかして。
あれは夢だったのかもしれない。だから、涅が何も言ってこないのだ。
だとしたら、なんて卑猥でリアルで気持ちいい夢を見たことだろう。溜まっていたというのは事実だが、なぜ、夢の中での対象が涅なのだ。
確かに涅は、同性である自分がみても整った容姿の持ち主だ。中性的と言っても良い。今、涅と交わることを想像しても嫌悪感は殆ど無いに等しいのが、イルカの心情だ。
だからといって、近くにあるからと言って、即、その対象では即物的すぎる。
独りでに赤くなったり青くなったりするイルカは、まるで激情した烏賊のようだった。
結局、涅の飄々とした態度からは、イルカは全くもって真実を読みとることが出来なかった。果たして夢なのか、夢じゃなくて、本当に冒してしまったことなのだろうか。
「何だか、情緒不安定みたいですねえ」
食事の席でのんびりとそんなことを言われて、イルカはそうですか、としか応えられなかった。本当は『あんたのせいだ』と涅を罵ってやりたかったのだが。
食後にきつく包帯を巻き直すと、涅はイルカに衣服を差しだしてきた。
それはごわついた布で出来た旅の衣装だ。
「町に下ります。着替えて下さい」
そう言われてイルカはハッとした。
連れてこられて十日目。やっと、人里に下りて自分も捜査を開始できるのだ。その事だけで昨晩の疑惑は雲散した。
イルカは土間に下りて四苦八苦しながら、着慣れないものを身につけた。しかも新品の様だから着心地も余り良くない。膝袴は本当にどうやって身につけたらいいか判らなかった。こうしてみると忍の黒装束の方が旅装よりも動きやすい。
「どうですか」
と、イルカの様子を伺いに来た涅は、いつの間にか女の姿だった。女物の服を着てカツラを被っただけの様で、まだ、化粧はしていないようだが、それでも美人であることには代わりがない。
「…いつも思うんですが、何で女装なんです…? あんまり美しすぎると、かえって人の目を引きませんか」
「誉めてくれて居るんですか」
涅は土間に下りると委細構わずにイルカの足下に跪いて、それ以上イルカの質問に答える気は無いようで、黙ったまま膝袴を丁寧に穿かせていく。伏せられた涅の睫毛は、昨日の式に使った小鳥と同じ色をしていた。
ふと、その先に見える薄い唇に目を奪われる。
きのう、あの唇に触れられたのだろうか。口づけられたのだろうか。
ぼうっと見とれているイルカに、さっさと手際よく準備を済ませると、涅はイルカを部屋に引き上げた。
「傷を隠しましょう」
座布団に正座させると、涅はまじまじとイルカの肌を見つめる。そして、やにわに近くの化粧箱を引き寄せると、チューブを持ち出してイルカの傷の上に塗る。まるで陥没したところを埋めるように塗り込められると、その上から、何種か粉をはたかれた。
アッという間だった。
自分は涅の肌理を見る暇なく、すぐに終了して手鏡を差し出される。態度で語られるままにそれを覗き込むと、顔を横切っていた傷は跡形もなくなっていた。
「触らない方がいいですよ、ただの化粧だから、すぐに落ちる」
涅は化粧箱を抱え込んで、今度は自分の化粧をしながら、そう忠告した。まさか、こんなに自然に簡単に隠せるとは思ってみなかったイルカは、驚愕と若干の歓びを感じながら、まじまじと鏡を見続ける。
「…自分の顔がそんなに好きですか…」
呆れた涅の声が降るまでじっくりと堪能した。そんなに時間もかかっていない筈なのに、いつの間にか涅の顔はばっちり化粧が施されている。
「…化粧は暗部で習うんですか…」
思わず呟いたイルカの言葉に、涅は化粧が剥がれそうだと言いながら笑い転げた。
「化粧も技術の内ですよ。今の内にくノ一にでもおそわったら如何です」
化粧の所要時間よりも長く笑い転げて涅は言った。
「あなたって本当に良いね」
そう言いながらうっとりと笑った涅の真意を、イルカはやはり測ることは出来なかった。
火の国から草に続く街道に出ると、二人は旅人を装い、地道に、地面を歩いた。その途中に涅はイルカに城郭の関所をくぐるために必要な旅券を差しだした。
「他国に一般人として入るためにはこれが必要なんです」
と、自分の旅券を懐に納めた。イルカもそれに倣う。
暫く歩くと草の境界の町が見えてくる。その門には「午」と記されていた。町の、南門である。
「いつもこんな風に正式に入ってるんですか」
そう尋ねると、涅はころころと笑って否定した。
「一人の時はこっちの方が疲れちゃいますよ」
いつもの通りに忍び込むにはイルカは足手まといだとでも言うのか、そう解釈して、イルカは憮然とする。
「バカな男を逆ナンして、馬の後ろに乗っけて貰うんです」
と涅は平然と宣った。なるほど、それでは確かにまともな女装が出来ないイルカと一緒じゃ成功しないだろう。
門に近い付いたときにふと、涅の手が手に触れた。はっとして離そうとしたが、逆にその手が追ってきて、イルカの手を捕らえてしまう。動揺したイルカに涅は嫣然と笑って、その手を握り締めた。
最初よりも意図が量れなくなったのは、何故なのだろう。
イルカは困りながら、涅の行動を量り兼ねながら、結局その手を振り払うことさえ出来なかった。
ふと、視線を寄越した先の涅の表情はまるで、殺伐とした暗部など思わせない、朗らかな笑みだった。伏せた睫毛が、黒々と長い。
銀色の扇のような睫毛の方が似合うと思ったのは、内緒だ。
新婚夫婦を装って押し掛けた関は、あっさりと二人の通行を認めてくれた。
中は、さすが城下町、それなりに活気もあって、人通りも多い。火の城下町などとは比べものにならないが、道も広く、馬や車が頻繁に行き来している。戦の時には砦になった町だけあって、堅牢だ。
「これが山瑠璃の町です。中央に見えるのが、山瑠璃城」
涅が指さす方向を素直に見上げると、ちょっとした丘の上に、その石造りの城があった。火の国の木造ベースの建築とはまた違った石の城は、煮ても焼いても墜ちそうにない印象がある。
「昼までは色々と見学しましょう」
そう言って涅はイルカのことを引っ張り回すのだった。
宿屋街や、飲食店街、土産物屋は、一番交通量の多い午の門の近くに多かった。ガラス張りの建物の中は有りとあらゆる植物を飼育した、植物園がある。人が少なくて心地良い。そこで、珍しい薬草を一束、大特価とも言える値段で購入したイルカだ。
一般人も上れる城郭の上まで上る。ぐるりと一周することもできるが、さすがに其処までの時間は無い。勿論走れば一周など造作もないことだが、今は一般人を装っているし、大人げない。
丁度、卯の門の上当たりまで歩くと、涅が東の方を指さす。
「あれが、滝の、草との国境の町、ミズチ」
まるで、海のようにキラキラと日の光を照り返す湿原の向こうに、まるで、この町と双子星のように、その町は存在していた。
森に三方を海に一角を守られた火の国で育ったイルカには、隣の国を見渡すことが出来るという事実がぴんとこなかった。肥沃な田になりえる湿地を巡って、諍いが耐えなかったという史実を、イルカは知識として持っているが、まさか、ここまで近い町でのもめ事とは思わなかったのだ。
思わず、眩しいものでも見るように、ミズチというおどろおどろしい名を付けられた町を見据える。
「滝隠れと草隠れの由来もこの町と湿原にあります。もともと、滝と草は同じ国だったという事をご存知ですか?」
「…いいえ…」
「まだ、火の三国時代に、草と滝は元々一つの国でした。今で言う草は、火の国に似た肥沃な穀倉地として有名ですが、滝の方は傍に土の峻峰が連なり、天候が厳しい土地柄で、農耕よりも酪農が向いているような土地なんです。このときまだ名を草で統一していたのですが、時の国主は、まあ無能だったようで、納税を全て穀物で行えと宣ったそうです。もちろん、今で言う滝の方は穀倉地なんて無いのだからまともな納税など出来なくなり、結局草から穀物を買い、それを納税したのです」
「それでは…!」
「ええ、穀物の需要が高まり、値段は高騰しました。一気に貧富の差が開いてしまったんです。当時まだ、民間に『両』という通貨が浸透していなかったので、これはこれで、時の草の王は頭が良かったのかもしれません。通貨の代わりに穀物を今で言う金銭にしようとしたんですから。それまで、ミルクか米かで判断つきかねていたものの価値がこれで安定したと、言えなくもないのですが、おかげで、滝側は暴動に出て、それから独立宣言をしてしまった。その後、争いは深刻化し、果ては領土問題にまでなって、其処で現れるのが忍び達です。こうした戦によって両国の忍は育成されたんですよ…」
深い水の底に、澱に…涅になって、そのころの忍の無念が残っているのかもしれない。それを『涅』と名乗る暗部の男が語るだけでも、出来過ぎた話だ、とイルカは思う。
「なぜ、穀物にしたのでしょうか、酪産物ではなく」
「それが変な話でね」
と、涅はまるで、恥じいるように笑った。
「時の国主様は、女嫌いで、メスの分泌液など毛嫌いしていらっしゃったそうですよ」
「…呆れた…」
下らなさすぎて、悲しい話だ。
「いっそ、税金を全てミルク粥がオートミールにできたら万々歳だったのに」
「日持ちしませんよ」
今は穏やかな関係を保っているという両国の、それでも裂け目を、二人は軽口をたたき合いながら後にした。
「さあ、昼ご飯にしましょう!」
堅牢な城郭を下り、地上に戻ると、涅は嬉々として飲食店を物色し始める。
「草は何が美味しいのでしょう」
「滝や土との交易でもたらされる牛も美味しいし、雑草じゃないのかって言うような草まで食わせてくれるところですよ、何でもあります。あなたは料理が上手だから今回は人の味に飢えていないしなあ」
何か、食べたいものはありますか、と訊ねてくる涅に思わず苦笑してイルカは首を横に振った。本当はラーメンが食べたかったのだけど、麺だけ買って帰れば、生々しい話だが、うりぼうも残っているのだから自分で作ることもできる。今日は、この人が食べたい物を食べればいい。
「じゃあ」
と、涅がイルカの手を引いて迷わず入っていったところは、赤い塗り物の柱の目立つ、でも、小さな店だった。おどろおどろしい漢字で、何言か看板に記されてあったが、イルカには判読できなかった。
午もピークを過ぎてしまっているからか、狭い店内に客はまばらだった。二人は好んでカウンター席に就くと、直接料理人が注文を取ってくれた。メニューを眺めながら適当に注文していく。狭い店内だから、一人きりのフロア係で充分なのだろう。フロア係と思しき女性は他の客のレジ打ちをしていた。
「来たことあるんですか?」
と、イルカが問うと、涅はええ、と朗らかに頷いた。
「ここのワンタンが好きで…」
続けられた言葉は、目の前の料理人にも聞こえたらしく、彼は厳つい顔でにっこりと笑った。
「姐さん、舌が肥えてますね。ウチのワンタン、餃子はどこにも負けないよー」
料理人は今まさに、餡を皮に包んでいるところだった。そんなに太い指でどうしてと思うくらい、繊細な襞が出来上がる。
思わず、二人は素直に、おお…という歓声を上げてしまった。
「旅の御方なんですか?」
「そうです、草には観光で」
「新婚さん?」
「はい」
殆どの受け答えを涅がやってしまう。お侠な娘役を完璧にこなしているからスゴイ。普段の彼はもっと泰然としているのに…。
「この人が、草にいってみたいって言うもんだから、連れて来ちゃいました」
「アッハッハ、何だか逆だねー」
尻に敷かれないようにしなさいよ、と、男は楽しそうに笑った。余計なお世話だ。
「何か、面白いものはごらんになりました…?」
そんな控えめな声を掛けてきたのは、フロア係の女性だ。二人以外の客を全て送ってしまって、今やっと、お絞りを出してくれる。
「植物園を見てきました」
「ああ、あれは、現城主様がお作りになったんですよ」
「城主様…」
彼女は、そのままイルカの隣の席に座った。料理人は咎めるでもなく、何にするか、と問うているので、今からやっと昼ご飯なのだろう。
「山瑠璃城の五代目城主、堅香子カズラ様。御歳…いくつだったかしら、お子さまが三人いらっしゃるから次の御代も心配ないわ」
「名君でいらっしゃるんですね」
彼女はまるで、夢を見ているように語る。
「文武両道で、何でも忍の方々に興味があるらしく、日夜研究をされているという話を耳にします。何事に対しても熱心な方で、この町も住み易くなりました」
「悪いヤツらにとっちゃ住み難くなったもんだよ」
と、料理人も合いの手を入れる。良く熱した鉄鍋にごま油と、唐辛子が姿のまま炒められている。鍋とお玉を逆に回すようにして炒める姿は様になっていた。香ばしい臭いで、イルカは食欲を刺激される。
「何か規制を?」
すかさず、涅が訊ねると、それには女性が応えてくれた。
「銃刀所持法立ち上げと、私設警察の設置のおかげなんです。刃渡り三寸以上の刃物を裸で持ち歩くことは禁止されました。梱包されていれば大丈夫です」
「刃渡り三寸…」
「約十センチですね」
イルカの反芻に、涅が間隙を与えずに応える。
カッターナイフですらきわどい所だと言うことか。
確かにそれだけの長さでも、咄嗟に抜くことが出来れば、ケンカの際に刃傷沙汰になりかねない。
「私設警察というのは…」
「この町の構造をご存知ですか?」
イルカも涅も首を横に振ると、女性は一旦カウンターから離れて、奥から何やら、カードケースのようなものを持ってくる。手渡されるがままに覗き込んでみると、それはこの町の鳥瞰図だった。
「ごらんの通り、山瑠璃の町は、山瑠璃城を中心に八方に道が延びています。その先が八つの門ですね」
この作りは、木の葉の里にも似通ったものがある。ただ、木の葉では崖を背にしているので半円の月形になるが。
「この道にそれぞれ、有志の人々が城の援助で、自警団を設立したんですね。忍に任せるよりは随分安価になると聞きます。…忍が入った町は、戦を呼びますので…」
彼女の言い分は尤もだった。変な話だが、高名な忍を雇えばその名を狙って、他国の忍がやってくることもある。強い力は、争いを産むのかもしれない。
ふと、自分の中に暗い影がよぎるが、涅はそんなこと露ほどにも思っていないのか、判ります!と、彼女に強い同意を示していた。
「…しかし、城主様は忍を雇われたかったのだと思います」
「何故です?」
「ほら、さっきも言ってたじゃないですか」
と、今度は料理人の方が口を聞いてきた。
そして、二人の前に、どんとスープの鉢を置いた。ワンタンと炒め野菜の春雨スープ。涅は嬉々としてそれを受け取り、普段は全くそんなことしないのに、取り分けてくれる。きっと、二人には甲斐甲斐しい新妻に見えて居るんだろう。
料理は、仰るとおり旨かった。なにより、バカみたいにワンタンが多い。普通の店なら、飾りのように鎮座ましますワンタンが、まるでイモの子を洗うようにして野菜と春雨と場所を取り合っているような状況だ。
「この町の城主様は忍贔屓らしいからね。何でも、時折他国からも忍を招いて、色々話を聞いたり、知識人を集めて独自で勉強したりもしているらしいからねえ」
「真面目な方なんですよ」
料理人もフロア係の女も、口調は柔らかく、現城主に好意を抱いていることがよく分かる。余程の好人物なのだろう。
「城主様を知らない、と言うことは奥方も見たことはないってことですか?」
じゃっじゃっと料理を続けながら料理人が訊ねてくる。素直にイルカはありません、と首を横に振った。
「そりゃあもう、綺麗な方で、その人有りと歌われたほどの美姫でねえ…」
男はうっとりとして、その奥方を思いだしているのか、中空に視線を彷徨わせる。
「隣のミズチの現当主の妹姫なんだ。滝からお輿入れなさったんだよ。綺麗だよー、目が覚めるよー」
と、うっとりとして、料理の手を止める男の顔に、ばっと水が飛んだ。フロア係の女が、コップの水をぶちまけたものであるらしい。思わずイルカも涅もぎょっとする。
「客の前でなんてだらしない顔。卵が焦げるよ!」
そのやりとりで、何だ、と思う。
この二人は夫婦だったのか。
火を弱めて、一旦男は奥に下がると、顔を洗ってきたのか、妙にすっきりとした様相になって、首にタオルを掛けたまま戻ってきて、そのまま、何事も無かったかのように料理を再開する。
「あの…」
ふと、気になったことがあって、イルカは口を開く。
「その、奥方様は、こ…これよりもキレイ…?」
と、イルカは涅を指さした。『これ』呼ばわりは失礼かもしれないが、この場で何と呼んで良いか判らない。さすがに、『涅』ではおどろおどろしいし。
しかし、その夫婦は、一旦顔を見合わせると、苦笑すると言った感じで言葉を濁す。
「ほ、ほら、人にはさ…好みってもんがあるから、何とも言えないけど…」
「そうです…ね、奥方様は万人受けするというか…、何というか…」
「???」
イルカには、二人のその反応が解せなかった。まるで、涅がそんな美女と比べるに値しないしこめにでも見えているような反応だ。
思わず、どうしていいか分からずに涅に視線を寄越すと、くつくつと楽しそうに笑っている。
こんなにも綺麗な人間が目の前にいるのに。イルカなどは初めてみたとき、驚きすらしたというのに。なんだろう、美人は三日で飽きると言うけれども、涅の場合は美しすぎて一瞬で飽いてしまったとでも言うのか。
そうは思うが、考えてみれば、町ですれ違う人々の涅に対する反応は稀薄だ。イルカが思っているのとは全く違う。
草の国は悪食なんだろうか…。美的感覚が火と違うのだろうか…。
「やっぱり、あなたっていい」
涅は、嬉々としてイルカに抱きついてきたのだった。
良い旦那を見付けたね、などと言われている涅を何処か遠くに感じながら、自分の感覚が可笑しいのかと思い悩んだ。一瞬。
「今日は、町に泊まっていきますか?」
それとも、帰りますか。と問う涅に、イルカは小屋に帰ることを選択した。何か心に引っ掛かるモノがある。小屋に戻れば新しい報告書も届いているだろうから、この、心中にわだかまるものを形作るきっかけになる情報があるかもしれない、と考えたのだ。
夜まで繁華街街頭や、ちょっとした店に入って話を聞いたが、とくに気になる話は出てこない。行き詰まったときには、何か、忍の情報網に引っ掛かるのを待つのも悪くはない。
小屋について、さっさと、涅は部屋に上がってしまう。
「あなたなら、町に泊まるんだと思っていました」
足を洗っている間に、涅はさっさと化粧を落として、普段の黒装束に戻り、イルカが洗ってしまうのを横で待つ。
そう言えば、最近では小屋の中での口布は無くなってしまって、イルカはどうにも落ち着かない。涅は、同性でもちょっと見とれてしまうような美しい作りをしているものだから、何だか、居心地が悪い。もちろん、そんなことを当人に言える訳がなかったが…。
「あなたが嫌だろうとも思って…、いつも、律儀に小屋に帰ってらっしゃってたから…」
足を拭きながら言うと、涅はきょとんとした顔でイルカのことを見つめる。
「だって、化粧すると顔が汚れたような感じがするし、それでも、外じゃ落とせないでしょう」
素顔を見られたくないのなら、とイルカは気を遣ったつもりだったのだが、涅はただ苦笑しただけだった。
「洗ってあげますから、足を出して下さい」
新しい湯を盥に張り替えて涅の足を洗った。彼はちょっと困ったようにしていたが、イルカの好きにさせてくれた。
「気持ちいいですか?」
「はい」
イルカは遠出から戻るとこうして、指の間を擦り、土踏まずを揉み上げて、綺麗な布で払拭するとやっと人心地着いたような気がする。涅にそれを味わって貰いたかったのだ。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
それから、竈でたくさんの湯を沸かした。体を洗うためだ。イルカは元来風呂好きだし、涅は大きな怪我を抱えている。清潔に保っておくことに越したことはない。
その間に今日の収穫を二人でまとめた。食堂での話や、街頭で聞いた話。どれもぴんとくるものはなく、失踪事件とは何も関わり合いがないように思える。
だけど、イルカには何かが引っ掛かっている。
一つ、それが判れば後は、ずるずると芋蔓式に判るような気がするのに。
湯が沸いて、傷を庇った涅の風呂を手伝い、終わった頃いつもの報告がやって来た。緑色の小鳥は部屋を一巡りすると、涅の手にとまり、姿を巻物に変えた。
「体を洗ってきます。先に見てて下さい」
涅はその言葉に無言で頷くと、巻物を開き初めた。努めて無関心を装いながらイルカは障子を閉めて土間に下りた。
何だか、情報が錯綜し、今に急展開を見せるような気がしていた。
ざっと、体を拭き終わって部屋に戻ると、涅は報告書を放り出し、地図を睨み付けていた。
「…何か…」
その表情が険しいのに、イルカはすぐに気が付く。傍らに置いてあった報告書に目を走らせると、其処には意外なことが記されていた。
死体となって発見された失踪者の、解剖の結果が添付されている。
溺死。
それは変わらないが、胃の中から検出されたのは、塩素を含んだ水だけだったのだ。
「真水…?」
「しかも、塩素が入ってるんだから水道水ですよ」
涅は憎々しげに呟く。
胃の中の残留物が無い上に、水中での冷却のために、正確な死亡時間は判らない。海で死んだ訳ではないのだから…
「…少なくとも死体を遺棄した者が居るというわけですね…」
しかし、防御瘡などは見られず、更に自分の爪に自分のもの思われる皮膚が付着していたというのだ。
「こう、首に引っ掻き傷がありますね…、苦しみ藻掻いて引っ掻いた感じかな…」
死体の詳細な写真を一枚一枚確認しながら、報告書を読み進める。
「では、毒でしょうか…?」
「…あり得ないとも言えませんが、胃に水が残っているのであれば毒も検出されてもおかしくありませんので、可能性は薄いかと…」
色々な薬草を調合した場合を考えてみるが、イルカの知識の中には、胃で検出され無いような都合のいい毒は存在しない。
「吸引による呼吸器系の破壊だとかだと、ちょっと手に負えませんね…」
涅のその言葉にイルカはふと笑った。
「あなたの口布では防げないかもしれないですからね」
「全くです」
意に介した様子もなく、涅は悪戯っぽく口の端を歪めた。
イルカが調べて貰うように要請した海の天候は、イメージ通り、雷から水・波に及ぶ海の天候が報告されていた。これで、火口港近辺だけの報告書だったら目も当てられないところだ。
等高線図が一日一枚と、三時間毎の天気が各ポイントで記されている。
海は、この三日ほど嵐が続いていて、発見当時は丁度晴れ上がって、久々に凪いだ海だったようだ。
「…何故、天気を…?」
涅にとってはイルカのその資料請求の意味が量りかねていたのだろう、イルカが資料に見入っているところを横から眺めてくる。
「海流と季節風です。この時期、穏やかな海流がゆっくりと雷から火の国まで流れて居るんですが」
イルカは涅の手元にあった地図を指さし、つうと海をなぞる。
「こう、南下するんですね。これが、季節風も同じ方向に吹いて居るんです。だから、ひとたび嵐になると、この時期は必ず北の海域のものは火の方角に流される…」
「…じゃあ、香の国や雪の国の沖合から流せば…」
「ええ、必ず火の国に着きます。想像以上に早い海流になりますから、おそらくは雷の町、来迎から流したとしても三日ほどで火口にたどり着けます」
「…速いですね…。じゃあ、被害者が香か雪に行き、其処で流されたとも考えられると言うことですか…」
「そう言うことですね…」
結局、被害者の男性の足取りは掴めて居ないようだ。其処さえはっきりすればあとはの犯人割り出しは比較的楽なのに。
「…写真は、膨張だけじゃない…みたいな感じがしますね…」
そう言って涅が差しだした、生前の証明写真に使われていたものと、死体を正面から写した写真を素直に受け取り、見比べる。
「確かに、水に浸してふやけて膨張したと言うよりは、肥満しかかっているところに、皮膚の膨張が間に合わない…と言った感じに見えますね…」
写真の露光の所為もあるのだろうが、死後数日にしては、肌に艶があるような気がした。
「何でしょうか、失踪先で良いものを食わせて貰っていたんでしょうかね」
「…そうなんでしょう…ねえ…」
それは、確かにそうとしかイルカも思いつかずに、相槌を打つ。
「これで失踪の何から何まで忍とか第三者が関わってきていたなら、まるで、家畜ですね、この男も…」
「……!」
涅は自ら傍に布団を敷いて、そこに横になる。だいぶ疲労しているらしい。
「太るほどに良い栄養価を与えられて、死ねば遺棄される…。まあ、家畜は死んだら食用でしょうが…」
「涅さん…」
減らない男の口に苦笑して、イルカは茶を淹れた。
「無くなった方に失礼ですよ。目の前にいらっしゃるんですから」
そう言ってイルカは写真を指し示す。涅は肩をすくめるばかりだ。
しかし、イルカは涅の言葉に引っ掛かっていた。
家畜同然…。
何だろうか、心にざわついたものを感じる。
涅は気にした様子も見せずに、淹れたての茶を四苦八苦しながら口にしている。イルカは一人煩悶としたまま、地図を見据えた。
引っかかりは、何…?
「もう、寝ましょう。明日もだって、町に下りるんでしょう?」
布団に横になったまま、涅がまるで、だだを捏ねたように布団の上で足をバタバタと動かしている。まるで、エネルギーを有り余らせた子供のような仕草だ。イルカは資料を片づけると、いつものように、涅が何も言わないことを良いことに、傷の具合を確認する。
涅は平然とした顔をしているけれど、傷はまだ塞がって居ない。ふとした折りに痛むこともあるだろうし、本音を言えばまだ、ゆっくり療養して貰いたかったが、期限を切られた任務である。そう、うるさいことを言っていれば、任務に支障を来すだろう。
包帯を剥がし、防水紙をとる。その下のサラシとガーゼは殆ど汚れていなかった。
「?」
「?」
傷の様子がおかしい。訝しむイルカに、涅が不思議そうな顔をする。
さすがに、薬草と接触したガーゼは貼り付き、リンパで汚れているようだ。丁寧に生理食塩水で剥がして薬草を曝すと、其処は、イルカが思った以上に快復していた。
「…化け物ですか、あなたは…」
「…いやあ、ここまで速いのは初めてです…」
と、傷の様子を見て涅自身も驚いていた。
この快復速度からして、今すぐ抜糸をした方が良さそうだ、と判断したイルカは、大わらわで湯を沸かし、消毒液を用意し、蝋燭をともして明かりを倍にした。
「眠いかもしれませんが、我慢して下さいね」
肘当たりまで消毒液で消毒してイルカがまず、縫合テープから剥がす。
「薬師って、案外凄いんですね…」
珍しく感心したような口振りで、涅はじっと、仰向けになったままされるがままだ。
「多分、薬草の経絡が上手く作用したのと、オレとあなたのチャクラの相性が良かったんでしょう。リバウンドが来ないと良いんですが…」
ふうん、と唸ったような声を出したきり涅は黙ってしまった。イルカも抜糸に集中しているので、涅の気を紛らしてやることもできない。
一本一本抜く毎に傷口とピンセット、ハサミの消毒をする。
蝋燭の明かりで高まった室温と、集中で、イルカの額にはうっすら汗が浮き出るほどだ。
ふと、涅の手が動く。
「…動か…」
動かないで。
そう言おうとしたが、その手がふと、イルカの額に触れ、すっとこめかみに引いていく。顔に手が触れられないイルカの代わりに汗を拭ってくれたのだった。
「もっと拭きますか?」
その言葉に、イルカは頷いていた。
近くに用意してあったサラシを手に取り、涅は丁寧にイルカの汗を拭いてくれる。上を向けと言われて、素直に顎をあげると、首筋まで優しくなぞるようにサラシを這わしてきた。ふと、触れた涅の手は、やはり冷たかった。
抜糸を終えると改めて消毒をして、其処に薬を塗り込んでいく。患部への直接の刺激になってしまったようで、涅は小さく呻き声をあげた。
同じように葉脈を見ながら薬草を載せてガーゼを当てると、しっかりとテープで貼る。後は防水紙の上から包帯を巻くだけだ。
「もう、余程の事がない限り傷は開かないと思います」
ご要望通りに体に負担がかからない程度にきつく包帯を巻けば、今日の治療は終了だ。
「じゃあ、あなたの目の届かないところで好きなだけ動き回っても良いって事ですね」
「そんな強制しましたか? まだ、でも傷口が安定しきってないので、背伸びだとかで痛むかもしれないので、気を付けて下さいね」
蝋燭をいくつか消して、雨戸を少しだけ開けて換気すると、其処から涼しい風が流れ込んできた。
「寝ましょうか」
片づけが済んでしまうと、涅が、恒例のようにイルカを布団の中に引きずり込もうとする。
「や、あの…っ」
思わずイルカはその手を振り払おうとするが、敵わない。汗をかいているから、それを拭いたいし、ふと、昨日の夢なのか現実なのか判らないことが思い出される。
抱き込まれて、イルカは真っ赤になり、硬直してしまった。涅はそんなにイルカに気が付かない振りをしているのか、構わずに首筋に顔を埋めてきた。
「は…っ」
思わず、イルカは喘ぎとも取れるような切ない息を吐き出す。ふと、涅の呼吸がうなじを掠めただけで、腰のあたりにぴりりと電流が走ったのだ。
な、何…?
自分の唇から漏れた反応に、イルカは硬直してしまう。
涅は小さく笑っただけで、背後から抱き込んだままの格好で、ゆっくりとうなじに柔らかいものを押しつけてくる。吸い付くような気配があって、やっと、イルカは口づけられているのだと知った。
「あ…っ」
柔らかい部分を強く吸われて、イルカは思わず戦く。脈打つ筋をつと舐めあげられて、息を震わせた。
「やだ…っ」
得体の知れない感覚から逃げ出そうと、イルカは手を突っぱねて、涅の体を引き離そうとするが、やんわりとその手を捕らえられ、その拍子に向かい合う形になってしまう。見せ付けるように涅はイルカの指を口にした。
「! 涅さん…っ!」
思わず、イルカはその手を引こうとするが、涅はそれを許さない。それどころか、手を引く力を利用して、イルカの体に馬乗りになってきた。
一本一本丁寧に指を舐られ、空いている手で、優しく髪を撫でてくる。その、涅の所作の一つ一つに、イルカは腰を抜かすような、膝が笑うような感覚を味わう。
怖い。
一体、何が起こって居るんだろう。
涅は、何も変わらない。ただ、優しくイルカの体を抱き、慰撫するように、優しく触れてくるだけ、いつもより優しいだけだ。
鼻先が触れ合うほど顔を寄せてくる涅にイルカは何が何だか判らずに、その服を握り締める。辺りは静かなはずなのに、脳内には自分の心音がうるさいほど響き渡っているように感じた。ともすれば、涅にもこの音が聞こえているのかもしれない。
落ち着かせるように、緊張をほぐすように、涅はゆっくりと髪を梳き、肩を撫で、指に口づける。まるで、女性に奉仕するような仕草だ。
もしかして、求愛されているのか。
その思いつきにビックリして、涅の顔をまじまじと見ると、彼は穏やかに笑って、唇をイルカのそれに軽く押し宛ててきたのだ。
ああ、そうじゃないのに。
真意を窺いたくて顔を上げたのに。
しかし、その唇は何度も何度も、硬直して閉じきったままのイルカの唇を啄む。その丹念さに、イルカは涅の傷からガーゼを剥がすときの慎重さを思い出す。
優しく唇を吸い上げてくる涅と、口づけたまま、目があった…気がした。そのとき、優しく腕や肩を撫でていた手が、イルカの服の中に滑り込み、胸の突起を捏ねた。
「あ…っ」
不意に漏れた声に、すかさず忍び込んできたのは涅の舌だった。さっきまでの貞淑で控えめだったキスは、イルカの粘膜に押し入った瞬間、あっという間に熱と色を帯びたものに早変わりする。舌を吸われ歯列をなぞられ唾液が絡めば、イルカの体の熱も一気に上がったようだった。体を強く押しつけられた瞬間に、目の前が真っ白になって、思わず、涅の体に縋り付いたのだった。
「んっ …ふ…、ぅんん…っ」
角度が変えられるそのちょっとした唇の隙間から、二人は何とか酸素を取り込む。その量が微量過ぎるのか、二人が興奮しはじめているからか、呼吸はすぐに忙しなくなった。
涅の手は、大胆さを増して、イルカの服を捲り上げてくる。深く口づけながら、薄明かりの下に曝された乳首を、つまんだり転がしたり、不埒な動きを見せる。それに連動したようにぴりぴりと響く腰の痙攣に、イルカは堪えきれずにその手を掴んで辞めさせようとするが、逆に捕らえられ、自分で触れることを強要された。
「ヒあ…っ」
さっきの涅の唾液で濡れたままだった指は、イルカの胸の突起を滑り、その感覚にイルカは思わず腰を震わせる。
こんな所が、こんなに感じるなんて、知らない。どうなってしまって居るんだろう、自分の体は。
スイッチを入れたのが涅だと判っていても、こんな感じまくる自分を見られるのは嫌だ。キスを振り払って、体を小さくするけれども、涅は意に介した様子も見せずに、衣服越しのイルカの肩に顔を埋める。
「かわいい…」
イルカには、その涅の呟きが、自分に向けられているものだと思いもしない。ただ、素直に何を見てそう言う感想を洩らしたのか知りたくて、首を少し巡らせてみたのだ。
そうすると、今度は涅が、そんなイルカの心情など知る由もなく、イルカの首筋に食らいついたのだった。
「あ…っ!」
また、さっきの腰を痺れさせるような感覚が沸く。びくびくと戦慄かせている間に、涅はあっという間にイルカの下穿きを剥ぎ、下着だけの姿にしてしまう。
「だ、駄目です…! こ、こんな…っ」
布一枚だけにされると、さすがに心細くなって、イルカは涅の体を引き剥がそうとする。しかし、意に介した様子も見せずに、涅はイルカの体中を撫でさする。
すっかり熟れてぷっくりとふくれた乳暈ごと、吸い付かれて、イルカは言葉にならない声をあげた。
「やっ、…んで、なんで…っっ」
これ以上感じると、我慢できなくなってしまう。同じ性別だから判ってくれても良さそうなものなのに、涅は、どんどんイルカの熱を高めようとあの手この手で、イルカを翻弄する。頭では、止めさせなければ、とも思うのだが、まるで点穴を突かれているかのように、体が言うことを聞かない。
涅の激情も理解できなかったが、それ以上に、硬直してしまって少しも抵抗できない自分が判らなかった。
男と、こう言ったことになったことがないイルカは、戦場にいたときも、嫌なら嫌と突っ張ることも出来ると考えていた、経験したこともない頭の中で。だが、実際下に敷かれてみると、ろくな抵抗も出来ない自分が居る。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
…否…、目の前に居る男が怖い訳じゃないから、その表現はおかしいか。
涅は動けないイルカの脚に、いつの間にか自分の脚を割り込ませて、腹や胸を唇と舌で弄りながら、緩く、イルカの性器を下着の上から撫でてくる。
「あ…っ、いや…、や…っぁ」
間髪を入れずに与えられる快楽に、イルカはなし崩しのまま身悶えるばかりだ。
涅はイルカが抵抗できないことを好いことに、そのまま下にずり下がって下着をそっと下げる。出てきたイルカの先端に迷うことなく、キスをして、舐めあげた。
「ヒッ!」
思わず腰が上がった瞬間に下着を全部取り払われて、あろう事か、陰茎を口の中に含まれてしまう。
「イっ、いや…ッ、あっ、ああ」
柔らかく温かい口内に含まれて、イルカは思わず仰け反る。銜えられているだけでも、腰が砕けそうに気持ちがいいのに、それに舌が絡みついてくると、喘ぎも抑えられずに、あっという間にペニスは力を持つ。
「や…っ、ん、はァっ、あんん」
イルカがひっきりなしに声をあげるのに、気をよくしたのか、涅の愛撫はエスカレートしていく。じゅぶじゅぶと舌を陰茎に絡ませながら、唇で扱くように吸い上げてくる。あいた手は臀部を割り、其処を撫でながら、襞をほぐしてくる。
「やだ…っ、…んなトコ、触らないで…っ」
しかし、イルカの懇願など、涅は聞かないで、自分の唾液を絡ませた指で、柔らかく触れたり、入口にそっと侵入してきたりする。
困ったことに、そんなところが感じ始めていた。
涅は中指でイルカの直腸を弄りながら、袋を吸い、竿を扱き、イルカの股ぐらに顔を埋めるようにして、指を遇したままの肛門も舐める。唾液を送りながら、ゆるゆると指が深く侵入してくるのにさえ抵抗が出来ない。
だって、気持ちいい。
其処を弄られるのは初めてで、気持ちいいコトなんて無いと、ただ痛みを伴うだけだと思っていた。戦場で無理強いをされたことのある人間の話を聞いたこともある。熱を出して二日間出歩けなかったとか、足腰が立たずに同様に二日間寝たきりだったとか、とにかく痛いと、気持ち悪いと。
だけど、涅は殊更丁寧にイルカをほぐす。指を増やし、あいた手で宥めるように太股を撫でたり、臀部を揉んだりして、唇は至る所に口づけてくる。袋の裏から根本を吸い上げられた時には、悲鳴のような声をあげてしまった。
気持ちよくてもどかしくて、こもった熱を散らすことも出来ずに、汗と涙を滲ませる。
「ああっ、あ…っ、や…っ、はっ」
「…痛く、ないですか…?」
頬をすり寄せられて、耳元でそう囁かれると、バカみたいに腰が震えた。返事を言葉にすることも応じることも出来ずに、イルカはただ、享楽に胸を喘がせる。涅は耳朶をねぶり、指の挿入を早める。その時に激しくなった濡れた音で、其処がイルカの予想以上に潤んでいる事を知った。
「力を抜いて。ゆっくり深呼吸して」
言われるがままに、イルカは動悸を押さえ込むようにして、空気を深く吸い、ゆっくりと吐き出した。そうすると、指を引き抜かれて、いつの間にか曝されていた涅のペニスを其処に突き立てられた。
「アアアっ!」
思わず悲鳴じみた声が上がる。
指よりももっと太くて熱くて、質量を持ったものが、イルカを貫いた。涅が少し動くだけでも、敏感に感じ取ってしまい、イルカは派手に声をあげた。
痛い、やっぱり痛い!
イルカは痛みに耐えるように歯を食いしばる。それに気が付いた涅が、前屈みになって口づけてきた。
「ごめんなさい、痛いよね…。力を抜いて…」
その涅の声も上擦っている。イルカは初めて涅のそんな様子に気が付き、食いしばった歯と共に緩く目を開けて、涅の姿を認める。
いつの間にやら上半身の服を脱ぎ捨てて、包帯の胸を晒し、その頬と唇には朱がのっていた。薄く汗を滲ませた額と翠黛を寄せた皺に余裕の無さを感じる。
心臓が跳ね上がった気がした。
この野暮ったい体に、良くも興奮できたものだと感心するが、じんわりと、胸が温かく感じる。嬉しい。
思わず、イルカは涅の体を抱きしめて、自分からその呼吸を奪うように口づけていた。一瞬、イルカのそのキスに戸惑ったような様子をみせた、涅も舌が絡むようになると、興奮したように、イルカの唇を貪り、腰を押しつけてくる。
気持ち悪いなんて、全く思わない。
じっと、中に留まった涅はひくひくとイルカに存在を知らしめる。それとも、イルカが微弱に締め上げているのだろうか。どちらにしても、気持ちがいい。
誰かの熱が傍にある事が、こんなに気持ちが良いものだなんて。
まるで、行為そのもののような口づけを飽くことなく交わしながら、ゆるりと涅が腰を動かす。異物感と、痛み、摩擦に目眩がするのを感じた。
内部の刺激は快楽とは程遠いものの、イルカの陰茎は硬度を保ったまま、天を向きしとどに己のもので濡らしている。
緩くそれを刺激しながら、涅は腰を振ってきた。
「あ…っ、あ…っ」
突き上げられる毎に、イルカの喉から漏れるような喘ぎが零れる。涅の呼吸も荒い。段々激しくなる涅の動きに馴染んできたイルカはペニスを扱かれて、きつく締め付けた。
首筋を舐めあげられ、乳首を吸われると、同様に何故か内部を締め上げてしまうようで、涅の太さと熱をありありと感じる。自分で認識していなかった性感帯を執拗に弄られると、イルカは身も世もなく悲鳴を上げた。
「ひあ…っ、ああっ…ひうッ…もう…っ」
出る。いってしまう。
切羽詰まったイルカの声に、涅も挿入を早め、痛いほどに扱きあげてくる。
「嫌…っ、いや…っ、や、ああ!」
「いや…? いきたくない…? もっとしたい…?」
涅はイルカのペニスから手を離して、顔を覗き込んでくる。ゆるゆると腰の動きだけはそのままだ。
違う、そうじゃない、とイルカは必至に首を横に揺るが、涅は判らない振りをして、イルカの先端を弄る。
「あっ、あっ」
気持ちよくて、イルカは涅の腰に脚を絡めて、もっとを強請る。
「なあに?」
鈍感を装った涅は、あくまで演技を続けるつもりらしい。
「どうして欲しいのか、言って…?」
いくらイルカが腰を押しつけようが、緩く腰を動かしてみようが、ペニスに添えられた手はそのままだ。イルカの内部で確かに、その痴態に反応しているのに、なんて耐性だ。
「ねえ」
添えられた手に、ちょっと力が加わる。
もう、駄目だ。
「いかせて…ッ!」
思わずイルカは縋り付いてそう、叫んだ。
涅は、まるで華が綻ぶように笑って、イルカのペニスを弾いた。
「あんッ!」
そうしてイルカが背骨をしならせた瞬間に、深く腰を抉るように押し進める。
もみくちゃにされるように、イルカは犯され、嬌声をあげるしかできない。高ぶったままのペニスを擦られて、乳首を交互に飽くことなく吸い上げられる。
「もう…、だめェ…っ」
視界が掠れる。涅の動きで、自分の脚が揺れている。しかし、もう、力は入らずにがくがくと戦慄くだけだ。薄い明かりに、唾液で濡れた胸部が浮き上がり、切羽詰まったような涅が、再びそれに食らいついている。
「ヒアッ、あっ、あっ、あァ――ッ」
イルカはシーツをきつく掴んだまま白濁を吐きだした。
その瞬間に涅をきつく締め上げる。その収斂の中で何度か奥までイルカの中に入り込むと、一番奥で熱を吐き出したのが、イルカにも判った。
今、筋肉が筋肉として動いているのは、どうやら、その秘肉だけらしく、イルカは射精に弛緩した体を、布団の上に投げ出した。殆ど同時に達した涅もイルカにもたれるように倒れ込んでくる。
荒い息を押さえ付けるために目を閉じてみたが、その場にすぐに眠気が入り込み、イルカは抗わずに、それに従っていた。
目が覚めれば、すでに朝だった。
肌寒くて掛け物を胸元に集めてみると、自分は裸だった。後ろから自分を抱き込んでいる涅も同様だ。お互いに汗まみれで、委細構わずに射精して、たくさんの体液で汚れたはずなのに、素肌はさらさらで清潔なようだった。すぐに眠ってしまったイルカを涅が介抱してくれたのだろう。
昨日のことや今のこの状況から省みると、きっと一昨日のことも夢ではなくて、現実だったのだろう。
涅が求めて、イルカが抵抗しなかった。それだけだ。
其処に、お互い某かの機微があったのかと問われると、イルカには応えようがなかったが、ただ、イルカに言えることは、行為に嫌悪を一切抱かなかった、ということだ。貫かれても、痛いとは感じたが、辛いとは思わなかった。何処か、嬉しさを感じていたほどだ。
自分の感情を持て余し、イルカは体を小さくする。
いつの間に。
こんな。
イルカが小さくなっただけ隙間が出来たのを察知したのか、すぐに涅が追ってくる。束縛するでもなく、ゆるりと回された手は、まるで、触れていたいだけのように優しい。まだ眠っているのかそれとも狸なのか、涅はイルカの耳の後ろで、穏やかな呼吸を繰り返している。
イルカは頬に血が上るのを感じた。
嫌じゃない、むしろ嬉しい。
こんな感情は、一つしか考えられない。
生徒を取り返す機会なのに、仕事中だというのに、なんて、人間という生き物は不謹慎なのだろう。
いつ、枝から墜ちるか知れない、むしろ、名前さえ判らない花を好きになってしまったのか。
奪うのならば生半可に本能だけではなく、理性までも犯して欲しかった。そうすれば不謹慎などと考える心の余裕もなく、ただ、ひたすらに恋の歓びに目を覚ましていただろうに。
涅には知られてはいけない。
涅もきっと、何も訊ねない、一昨日がそうだったように。
なぜならば…。
この任務は、一ヶ月間。
涅は名も知らない、むしろ姿さえ本当の姿なのか判らない、暗部の人間。イルカとは最早違う次元の忍だと言っても過言じゃない。こんな事でもない限り、交わる機会は無かっただろう。おそらく、諸国に任務で飛び回っていて、里の中で外敵に怯えず、のうのうと暮らすイルカには想像できないような生活を送っているに違いない。
もしかして、各国に恋人が居るのかも知れないな。
そう、一瞬そう考えたが、イルカはその考えを流した。
至極まともな考えだったからだ。
イルカだって、その一人どころか、つまみ食い程度のものだろう。二人きり、山の奥、一緒の布団。つまむくらい…。イルカでも思わないでもないもの。
布団から抜け出して、朝の支度を始める。シーツやタオルなど、昨日の行為で汚れたはずのものは、土間に下りても見つからなかった。
白飯を炊き、おかずを用意して、庭に水を撒く。その間にいろいろ考えてみて、自分の精神安定をはかろうとするが、微妙だった。
昨日の今日、恋情を自覚して冷静になれるわけがないのだ。期限付きの、相手が何者とも知れぬ恋に悲愴ぶったって、抱かれたからだや優しい指先に嬉しいのは代わりがない。いずれ、それが苦痛になるまでは、振り払うことなど出来ないのだ。所詮はイルカも獣だから。
悟られてはいけない。このままの関係を維持するのがどんなに辛いことだとしても、あと二十日ほどでこの関係に破綻が来ても。
「朝ですよ、起きて下さい。今日も町に下りるんでしょう?」
涅が、昨日の行為の残り香を隠滅してしまったように、イルカも素知らぬ振りを決め込むのだ。たとえ、それが娼婦のようであっても、構わない。
ただ今だけは。
「涅さん」
その、イルカの声にぴくりと反応して、うっすら涅が目を開ける。髪や眉とは全く違う美しい銀色の睫毛に縁取られた、水色の瞳がイルカを仰ぐ。
「お早う御座います」
今だけは、この鼓動が激しく胸の内を叩き付けるのを、赦して欲しい。自分を欺くことは、誰にも出来ないのだから。
←back|next→