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プリズム




   二



 訳の分からないところに連れてこられて、もう、どのくらいが経過しているのだろう。結局ここがどこなのだか判然としない。
 この房には窓もなく、扉は分厚い木製のものが一つだけ。ここから入った記憶はない。床や壁中にはスポンジ製の緩衝剤がみっちりと敷きつめられていた。天井は高く、れっきとした照明で暗くはないし、空気も通風口で換気をされているようだ。
 そして、案外この部屋は広い。トイレがあり、蛇口をひねれば水もあるだけ使える。風呂もついている。ただし、タオルはハンドタオル程度の小さなものを使った。
 望めば本も手に入る。ただし、一時に二冊までで猥褻図書以外の情報誌はムリだった。次を望むと前の分が回収される。ラジオはムリだが、音楽も聴ける。
 そして、何より食事が旨い。ここに連れてこられてから、確実に腹の肉は増えた。
 その、全ての注文は、支給の紙に、支給のインクを使い指で書いたものを、扉のポストに入れるだけだ。
 悪くはない空間だ。
 ただし、全裸で入れられていることを除けば。
 私がこの中で気が付いたときには全裸だった。
 なぜ、こんな異様な所に連れてこられたのか、最初は全く判らなかった。
 布団にシーツはなく、支給されるタオルも必ず一枚ずつ小さなもの。この身を覆うものは何もない。
 さっぱり、意図を把握できない。
 だが、一つ考えついてしまった事がある。
 自殺をさせないため、だ。
 そう、思い至ると、無性に自殺をしたくなった。
 なぜならば、生かされている時点で、そもそも私という魂はどうでも良く、まったく某かに支配されていることになっているのだから。私という「個」でさえ、彼らにとってどうでもいいことなのかもしれなかった。
 最初は、私という「個」を形作るバックグラウンドに某かの思惑があるのだろうと思っていた。身代金目的の誘拐だとか、両親に対する怨恨だとか。それは、私のほのかな願いでもあった。私は選ばれて、ここに連れてこられたのだ、という考えは、自意識を満足させてくれた。
 しかし、充分ではなかったのだ。
 そして、ある時気が付いた。私は「魂」も「個」さえ彼らに認識されていないのだと。私以外の人間が、ここに捕らわれているのを知ったからだ。
 その人間を見たのは、食事の書き付けをポストに入れる瞬間だったと思う。ポストの先の暗闇に一つの明かりが浮いて出ていて、何者かが其処を通って居るのだった。慌てて私は支給の紙と自分の身で、ポストからの光漏れを防ぎながら、その光が近づくのを待った。
 徐々に目は暗闇に慣れる。相まって彼らの携える光源で、彼らの姿を初めてみることが出来た。
 男が五人、二つの白い餅のような固まりを二人で一つ抱え、先頭を歩く男が光源を掲げている。目を凝らしてみると、白い物体は、裸体の少女のようだった。男たちはまだまっさらな股間も、膨らんだ胸も隠すことなく、ぐったりとしている腕と足を掴み、まるで輿を持つような形で二人の少女を運んでいるのだ。
 明らかな、物としての扱いに、「私」は誰でも…どれでも良かったのだ、と悟ったのだ。
 私と、本当に無関係人種である、少女たちと私が、どうして共通で選ばれるのだろう。
 選ばれたのではない、無作為だったのだ。
 そして、幼いながらにあられもないメスの姿に、私のいちもつがいきり立っているのだった。
 その瞬間から、私は無性に自殺がしたくなって、それ以来色々考えている。
 恐らくこの何十時間も、自分の最期について考えている。どのように迎えるか、どのタイミングで迎えるか、どのような方法を用いるか。
 鋭利なもので、己の柔らかいところを掻き斬るのが一番好ましかった。痛みも感じる余裕なく逝くことが出来る。しかし、そんな刃物に似たものは、置いてない。筆さえも握らせてもらえないのだ、ペンなど以ての外だ。食事で、本来ならばナイフとフォークが必要なメニューを所望しても、必ず、プラスチック製の先割れスプーンで、食べにくいことこの上ない。箸に至ってはちょっと堅めのゴム製だ。おでんの大根や卵は挟み切ることもできるが、肉は難しい。
 鋭利な先端を持つものを得ることは難しい。
 次に考えたのは、頭を強打してみることだったが、前述の通り、この部屋は総スポンジ張りである。ベッドなんて必要のない程の総スポンジ製である。却下だ。
 首を吊るのはどうか。
 長いものが、何もない。ロープなどは言わずものがな、である。ベッドは、スポンジだ。裸の躰にやさしい低反発な、まるで綿のようなきめ細かなスポンジが、スポンジの上に載せられているだけ。シーツなど、何一つない。タオルは、本当に小さなハンドタオルで、一枚ずつしか使えない。繋げてロープ代わりになどできようはずがない。カーテンなんて、窓がないから必要ない代物だ。自分の髪という手もあるが、残念なことに私の髪は短く、首を括れるようになるまで伸ばすことも考えないでなかったが、月日を計算すると余りにも長く、死ぬために生きる、ただ、その無常を体現するだけだ。…なんというか、つるすところもない。天井は高くがらんどうだ。
 ならば、己の舌を噛みきるか、風呂場での溺死しかない。
 舌を噛み切ること程度では人は死なないというし、実際に死んだとしても、その死因は窒息死なのだと話に聞いたことがある。
 私は、入水をする事にした。
 狂気だ。
 私は今、命を賭して、本来私に具わる獣としての本能と、人間としての尊厳を代弁する絶望を、忍耐力でもって試そうとしているのだ。狂気や気触れと言う以外に、この心境を何と形容しよう。
 ともすれば、初めて自ら選んだ道が自殺だなんて、なんと短絡的なことか。
 あの、二人の少女はまだ幼い。
 冷たい湯船に肩まで浸かりながらふと、考える。
 まだ幼い分、自分よりも環境に順応だ。違和を感じながらもこのスポンジの間で女にまで生長するかもしれない。
 だばだばとどんどん貯まっていく水かさを意識しないように、いろいろと考えた。
 目の高さまで来た水位を避けるように、目蓋を閉じると、その裏に二人の少女が焼き付いたままだ。水の中でぼんやりと考える二人の少女は妄想の中で成熟し、股間の草むらを濃く濡らして、その豊かな胸で、私を誘うのだ。
 窒息の苦しみの中、藻掻きながら最期に見たものは、今までにないくらい勃起した陰茎と、放たれた精液だった。
 末期の残滓が生の営みとは、なんと無常な事よ。





   ***





 涅は快復している。
 あれからイルカが起きて、狩りから帰ったあとには、すっかり男の形に戻って、布団の上でごろごろしていた。
 イルカが仕留めた野鳥で鍋をして、食が進まない涅にゆっくりと咀嚼させて、出来るだけ血肉を摂取させるようにする。肉が硬く、勿論美味なのだが、病人食には合わないか。しかし、涅は何のわだかまりも見せず、美味しいと言って食べてくれた。
 食後には包帯を取り替える。
 食後で満腹なのか、もうイルカの手当に抵抗がなくなったのか、涅は布団の上で、ぐったりと為されるがままだ。縫合あとにあてていたサラシを、生理食塩水を使って丁寧に剥がす。盥の湯に手を突っ込んだときにふと思い出した。
「そうだ、もう、瓶に水が余りないんです。飲料用だけに残しても、もってあと三日程度。このまま治療に使っていたら明日にはなくなってしまいます…」
「…明日の朝は大丈夫なんですよね」
 訳の分からない葉を傷口に敷かれるのを訝しげに見ながら、涅は問うた。うって変わってイルカは真剣である。葉の繊維をじっくりと見ながら良い流れになるように傷跡にあてては直し、あてては直しを繰り返す。
「明日の朝の包帯交換と包帯洗いでなくなりますね」
 この薬草の葉脈はチャクラを通しやすい。医術を少しだけ使って快復を促進させようと言う腹づもりのイルカの目は真剣そのもの。この薄い葉肉には強い殺菌作用もあるという、なんとも嬉しいおまけ付きだ。イルカのチャクラがこの男との相性が余り良くなくとも、この葉があれば先ずは心配ない。
 そんな事を涅が知る由もなく、イルカを不躾な目線でもって眇めてから、小さく溜息を吐き出した。
「では、明日は川に行きましょう」
 そして、野鳥じゃない動物性タンパク質を得るのだと言った。夕食が美味しいのは本当だったようだが、野生物はやはり身が固すぎるらしい。
 術を練り込むとその上からガーゼをあて、防水のための紙を敷いてサラシできつく巻く。そのあとに起き上がって貰って、包帯も、これまたきつく締め上げた。これは、涅の注文だ。
「きつくしめて置かないと、いつ解けるか判らなくて不安だから」
 涅は、きっと戦場のことを想定して言っているのだろうが、イルカは何も言わずに、負担がかからない程度に締め上げた。それが、もう習慣として身に染みていることだろうから…。
 起き上がらせたついでに、寝床を移って貰う。隣りに敷いた布団に涅は大儀そうに横になった。出来るだけ雑菌から傷口を守るために、これまで寝ていた布団とシーツは、一旦殺菌したい。
 釜に盥の残り湯を移すとその中にシーツと使っていた包帯を入れて、一度沸騰させて暫く置いてから、竈の火を落とした。シーツはそのまま、朝まで湯につけておく。布が傷もうが、釜が傷もうがこの際構わない。
 火が消えてしまったのを確認してから部屋に戻ると、涅はご丁寧にも待っていたようで、自分の隣を指し示す。
「伽をご所望ですか」
 その呆れたようなイルカの言葉に涅は薄く笑う。
「そんなイイもんじゃないでしょう、それに、傷が開いちゃいますよ。あなたは湯たんぽ代わり」
 イルカは憮然とした貌のまま涅に薬を飲ませると、男の言うとおりにその横に入る。何が楽しくて同性と同衾しなければならないのだろうか、と考えるが、それは脳みその表面上で考えていることであって、なぜ、全くと言っていいほど抵抗がないのか、自分でもよく分からなかった。
 ただ、今日はそれまでと違い、男が女装して入っているのではなく、素の格好で一緒に横になっているのが、変な気分だった。
 その腕に抱き込まれることに最早抵抗はない。ちゃんと意味のあることだと認識しているからだろう。縋られると、嬉しいのかもしれない。
 そう言えば。
 ふと、目を伏せてしまった涅を見ると、会ったときからしていた口布はもう、其処にはなく、左目だけを髪で隠している。形の良い唇と鼻先が晒されていた。
 長い昼寝の所為か、涅の素顔による緊張の所為か、イルカは暫く眠れなかった。



 シーツと包帯を洗濯している間に、米を炊いて鍋の脂を掬い捨て、野菜と一緒に煮込み、雑炊にして朝食を済ませると、涅に言われるがまま握り飯を作って出掛けることになった。
「水浴びも出来ますか」
「おそらく、水浴びには冷たいですよ」
 と言われたものの、イルカはタオルと下着だけ用意して、小屋を出た。小屋が見える範囲でならイルカも出歩くようにはなったが、今日は涅の案内もある、もっと遠いところまで歩くだろう。
 森の中は薄暗く、足下には起伏が激しい。だが、空気が気持ちいい。
 前を歩く涅を様子を心配しながら、あとを追う。大陽の方向から考えると、どうやら方角としては滝の国の方角に歩いているようだ。
 徐々に傾斜がきつくなってくる山道は、樹木の枝を飛び移ることよりも体力を奪われる。しかし、怪我を負って、衝撃に弱い涅の案内ではこの道を選択するのが妥当だ。
 途中二人で獣肉を得るための罠を至る所に仕掛けて置いた。帰りがけに何か引っ掛かっていたら、儲け物である。
 どのくらいそうして歩いていただろう。太陽の角度が直角に近くなった頃、だんだんと耳に音が強くなってくる。
「これは何の音ですか?」
「水ですよ」
 凪いだ森の中にサアサアと、細かな音が響いている。
 涅を引っ張るようにしてイルカは歩く。男も、苦笑しながら附いていくと、暫くもしな内に足下に岩が多くなり、木々の高さが若干低くなる。
 そうして、目の前に現れたのは、苔むした岩の滝だった。
「わあ…」
 滝と言ってもそんな大した物ではない。高さはおよそ四メートルほどの小振りな物だが、滝壺は案外深い色をしていた。
「滝と草の国境の川、拾川の源流です」
「ひろいがわ…?」
「手偏に合うと書いて拾。その一文字で拾川。元々の名は手を合わせると書いて手合川と呼ばれていたんですが、いつの間にか拾に名が変わったそうですよ」
 川の傍に二人で佇んだまま、そんな会話を交わす。
「でも、あの辺りって湿原ばかりで川らしき川はなかったように思いますが…」
「その湿原の源流ですよ。もともと争いの絶えなかった両国の同盟の意を込めて、『手合川』という名の川を想定したんでしょう」
「へえ」
 さすがは暗部と言ったところか。他国の歴史地理にまで造詣が深いとは恐れ入る。
「しかし、これだけ遠いと運ぶのも大変ですねー…」
 イルカは空を見上げて今の時間をざっと計算する。二時間ほど忍の足で歩いてきたのだ、かなりの距離を歩かねばいけない。それを、瓶を携えて往復なんて、かなりの重労働だ。
「もって帰るのは呪符で充分ですよ」
 と、涅はポーチを探り、巻物を取り出すと何やら術式を書き込んでいく。イルカは黙ってその様子を横で眺める。
 インクが乾くと涅はいくつか印を切り、その巻物を拡げたまま滝壺の浅いところに浸した。
 すると、一瞬水が流れ落ちる音がとまり、流水による波が巻物を中心にぴたりと静まり返った。その現象がすぐに収まってしまうと、涅は漸く巻物を水から引き上げる。その術式の上には、まるでガラスで出来たような呪符が一枚出来上がっているのだった。
「これを乾かせば完成です」
「どうするんですか?」
 さっぱり訳が分からないイルカは、濡れたままの巻物を丸める涅の手元を不思議そうに眺める。涅は晒されている右目を細めて、悪戯っぽく笑った。
「見てのお楽しみですよ」
 その巻物を陽の当たるところに置いておいて、涅はもう一本、同じものを作った。イルカはその間に魚釣りをした。釣れた山女を傍のたき火で、塩を振って焼いて、用意してきた握り飯と一緒に昼食にした。
 腹が満たされると、涅は、陽当たりの良い、大きな一枚岩の上に横になった。そうして体力温存している方が良い。イルカも暫くは傍でぼうっとしていた。
 しかし、何だか間が持たない感じなので、当初から予定していた水浴びをする事にした。涅の姿を確認できる、水深の浅い場所を選び、裸で入っていった。
 確かに、涅の言うように水浴びにはだいぶ冷たい。しかし、耐えられないほどでもないので腰辺りまで水に浸かり、腕や肩を手で念入りに擦る。
 久々の沐浴は、まるで日々のストレスさえも洗い去るほどに気持ちのいいものだった。足下は大きな岩が多く、素足でも平気だ。深い森の中にあり、川だけは陽に晒されている。
 周りは人の手など全く加わらない、自然そのものの風景だった。
 水温に慣れてくると、イルカは子供のように水しぶきをあげながら、そこいらを歩き回った。泥が少ないから、川も濁りにくい。頭まで潜ってみると、岩陰に沢ガニが居た。
 向きになってそれを掴まえようとするが、なかなかにすばしっこくて、岩と岩の隙間に簡単に入っていってしまう。なんとか、イルカは其処に指を突っ込み、小さいながらもハサミで指を攻撃されながら、捕らえきった。
 そんなイルカを迎えたのは、涅の堪えたような笑い声だった。
「あ、起きていたんですか」
「あなた、子供みたいだよ」
 耐えられないとばかりに笑い転げる涅に、憮然としながらイルカは火の傍に寄る。
「沢ガニは食べない方が良いよ。寄生虫が居ますからね」
 イルカの手の中で藻掻く物を火の中に入れようとした瞬間に、その声が降りかかる。あわてて、イルカは沢ガニを取りこぼした。しかし、火の上に落ちることはなく、沢ガニは助かったとばかりに近くの隙間に入っていった。
「食べたことありますけど…」
「全数居るという訳じゃないですけどね。もし、あたっちゃったら大変ですもん」
 これからは食べない方がいいよ、と釘を差す男に、イルカは渋々と従って、滝壺の中に戻る。
 しかし、それから涅の視線がどうにも気になってしまった。まるで一挙手一投足を監視されているようで、居心地が悪い。きっと、自分が裸であると言うこともあるだろう。
 眠っていると思って開放感に浸りすぎたか。
 イルカはいたたまれないような思いで、水からあがり、涅の方を一度も振り返ることなく躰を拭いて、服を着てしまう。そうして、やっと振り返ることが出来た涅は、イルカの方など、露ほども気にしていないようだった。
 なんだか、期待はずれ半分、安堵半分で火の傍に近寄ることが出来た。気持ちは良かったが、躰が冷えてしまっていた。
「ねえ」
 呼びかけられて振り返ると、涅が手招きしている。
「こっち来て」
 おねだり半分、命令半分と言った様子にイルカは逡巡したが、黙って従い、涅の横に正座した。涅は楽しそうに笑ってイルカの腕を引き、自分の隣りに横たわらせると、夜にもそうしているように、イルカの躰に腕を絡めてくる。
「寒いんですか…?」
「寒いんだろうと思って」
 イルカの問いに子供のようにご機嫌でいることを隠そうともしない声色で応えると、涅はイルカの濡れっぱなしの髪の毛を梳いてくれる。
 結局、その手が気持ちよくて、日向と涅の腕が温かくて、少しだけ眠った。



 ふと、何かが光を遮ったような気がする。ゆっくりと目蓋を持ち上げると、涅の露わになった端正な顔が離れていった。
「起きましたか」
 穏やかなその口調に顔を覗き込まれていたのだな、とぼんやり判断する。
「…どのくらい寝ていたでしょうか」
「そうですね、一時間ほどでしょうか」
 涅は口布を鼻梁まであげると、イルカから離れる。
「そろそろ帰りましょう。本当は任務の筈なんですから」
「…そうですね」
 まだ、眠気が完全に抜けてしまわないイルカの代わりに、カカシが火の後始末をしたり、人間の痕跡を消したり動き回ってくれる。全くイルカは補佐だった。
 乾かした巻物を回収して二人は来た道を通って帰る。帰りは下り道だから、膝に若干の負担がかかるものの、往路よりも楽だ。
 途中仕掛けた罠を確認すると、案外動物がかかっている。傷が深いものだけ捕らえて、あとは逃がした。一時にそんなに持って帰っても仕方がない。
 結局手に入れたのはうりぼうと雉、野ウサギだ。
 小屋にたどり着く頃には太陽はだいぶ傾いていた。
 早速、巻物から札を取り出すと、見た目ガラスのようなそれは、しかし、紙のように鞠曲げることも出来るような、不思議なものになっていた。落としても割れないことだけは確かだ。
 涅はイルカにその札を瓶の上で持たせて、タオルを用意すると、柄杓で掬った水を少しだけ、札の端に振りかける、すると、濡れた其処がまるで水道になったように、次々と水を吐き出すのだ。
「スゴイ!」
 無邪気に感動するイルカに涅はただ、笑っただけだった。
 三つの瓶を浸食する頃になっても、水の勢いは止まらない。徐々に不安になってくるイルカを余所に、頃合いを見計らって、涅はイルカの手の上からタオルを被せて、まるで札を拭うような動作をする。
 すると、その水流はぴたりと止まった。
「ど、どうなってるんですか…?」
「この呪符は水を溜め、吐き出すだけのものです。呼び水は、まさに水。呼び水の分だけ蛇口で水を溜めた分が尽きるまで吐き出します。簡単に言うと、濡らされた水の分だけの蛇口で放水するんですね。で、乾くと、放水を止めます」
 と、涅はタオルの中の札をイルカに見せてくれた。
 それは、一回りか二回りほど小さくなっていた。放水の分だけ小さくなるということなのだろう。さすがは暗部、不思議なワザを持っている。
 それから二人で獲物を捌き、夕食を作った。これまた、涅のクナイ捌きが見事で心底震え上がったことは、涅には内緒だ。まるで紙を切るかのように楽に肉と肉を切り離す術は、暗部由来の技なのだろう。
 これまでとうって変わって肉林の膳は旨かった。
 食事が済むと、涅は直ぐさま布団に横になる。イルカも気遣って、片づけなどは自ら進んで行った。
 囲炉裏で湯を沸かし、薬を調合して涅に与える。素直に従っておくと楽なのが判ったのか、最早イルカから手渡されるものを疑いもせずに、口にする涅だ。
 帰ってきてすぐに家に入れて置いた包帯を一本一本巻き直しているときだった。
 こつこつ、と雨戸を敲く音がする。
 涅が手を伸ばして雨戸を開こうとする。腹に力が入って上手くいかないのに、イルカが横から手助けして其処を開けると、いつもの小鳥が二羽、飛び込んできた。その時になってはた、と昨日の報告書を受け取っていないことを思い出したのだった。
 今日、歩いた森の色の羽を持つ小鳥は、イルカの手にとまり、報告書に姿を変えた。
「まだ、大丈夫ですか。起きていられますか」
「良い薬が効いていますからね」
 労り誉めているのか、見下され嫌みを言ってるのか判らないような言葉を交わし、結局二人はその場で二巻きの報告書を確認することにした。
 お互いに黙々と真剣に読み進める。
 ほぼ同時に読み終えると、無言のまま交換して、再び目を通す。
 相変わらず、関係があるのかないのか判らないような報告ばかりだったが、一切報告書を出していないイルカたちよりも随分とましだ。報告書は受け取っているから、火影にはちゃんと生存確認が取れているはずだ。
 二三、気になる報告があったが、ふたり、共通の興味は、一つだ。
 昨日の報告書を放り、二人は額を付き合わせながら、今日の分の報告書を熟読する。
 失踪者の一名が、溺死体で発見されたのだ。
 三十五歳独身男性だ。両親が立ち会って本人確認したらしい。発見された場所は、水やそれを取り巻く島国と火の交通の要所、つまり、霧の方角の海から見つかったということだ。第一発見者は漁師。裸で海に浮いているところを国に知らせたのだという。
「…殺人でしょうか、自殺でしょうか…」
「どちらも可能性はあるでしょうね…」
 心なしか自分の声も涅のそれも、沈んだように聞こえる。
 ついに、死人が出てしまった。
 これから先にも、失踪者に死人が出ないとも限らない。特にイルカなどは生徒を盗まれているのだから、不安が強い。
「この人の失踪場所は判りますか」
 その質問に対してイルカは頷いて答えると、一本目の報告書を取り出す。涅は、地図を拡げた。
「鎮守の森に隣接する砦の町、鬼火の地質研究員で、同僚の話だと森に入ってから、連絡が付かなくなった…もう、一ヶ月前の話ですね」
「鬼火というと…」
 大きな地図に細かに町の名前が書かれている。目を眇めて浚うようにその地名を探す涅に、ぴたりとイルカは指さした。
 鬼火は、どちらかというと、滝に近い火の国の町だ。
「顔確認の際の、ちょっと太った、という証言は水による膨張じゃないんでしょうか…」
「どうせ、顔写真が一本目に付けられて居るんだから、この死体の方の写真も、送ってもらいましょう」
 再送して貰う頃には、きっと解剖も済んでいるはずだ。
「発見は一昨日火口港。波止場に近くに浮いているのを発見」
「火口港は、ここですね…」
 イルカはすっと、地図を指さす。
「…だいぶ離れますね…。忍の足で一週間から十日。一般人だとその三倍はかかる…。勿論転移の術を使えるというなら、話は別ですが…」
「転移の方術は禁術のはず…」
「多大なチャクラを使用しますから、可能性はあまりないと思います。ただ、発見時、死語四日程、と言うのが気になります…。その間、鬼火から火口港への最短距離の道で、目撃情報はなく、一般人ではこの道を通る以外に一ヶ月以内に目的地に着くのはおそらく無理…」
 確かに涅の言うとおりだ。火口港から伸びる道は多いが、火の北の要所たる鬼火は其処から続く道を殆ど持たない。鎮守の森沿いの町々をつなぐ連絡路が、一番の近道にしてオーソドックスな道だと考える。
 ただ、網目状に選択できる鬼火から火口までの道は断定できないが実状だ。
「…裏に忍が介在している可能性があるということですね…」
「そうなりますか…」
 イルカは乾いてしまった口腔を潤すために、二人分のお茶を用意する。涅は熱い内には口を付けない。彼は猫舌だ。
「詳しいことは三代目に聞きましょう。要請を出せば応じてくれますからね。解剖の結果と、死体の写真、目撃情報で進展があったか。失踪時の着衣の行方… この件に関してはこんな所でしょうか…」
 サラサラと達筆で涅がメモを取る。
「…天候を…」
「はい…?」
 地図をじっくり見ていたイルカが、顔を上げて、涅を正面から見据えて言う。
「彼が亡くなってから今日までの、海の天候が判れば、それも」
 涅には理解出来ないのか何も言わずに一つ頷いてそれをメモに取る。
「他に気になったことは…?」
「昨日の報告書なんですけれど…」
 そう言いながら、イルカは放り出したバックナンバーを引き寄せて、指さして涅に見せた。
「火からの報告なのですが、最近様々な動物の需要が高いそうです。ペットから家畜、猛獣まで。ペットはブームなのかもしれませんし、家畜は今が安かったりするのかもしれません。動物園にデートに行ったり観光に行ったりするのが流行だったりするのかもしれませんけど、何かこの重なりが嫌です」
「…はあ…」
「気に、なりませんか…」
 あまりに涅が薄い反応を返すので、イルカはふと、不安になる。思い付きで言ったのがあさってな事だったら確かに目も当てられない。
「あなたって面白い人だね」
 そう言った涅の目は、まるで興味深いものを目にした子供、そのものだった。大人になってから対人に対してのそれは、不躾だ。余りにも。
「……そんなこと言われたのは初めてです…」
 若干の傾斜を持ってしまった機嫌を隠すこともなく、イルカは応える。暗に、『一般人から見たらまともな人間でも、周囲が変人ばかりの暗部から見れば変人なんでしょう』という意味を含めたが、きっと涅には効果がない。
「明日、一緒に町におりますか」
 機嫌の傾斜が、その言葉一瞬にして水平に持ち直す。思わず振り返った黒土はさっきのイルカの嫌味など素通りしてしまったかのように朗らかだった。
「良いんですか?」
「三代目は止めるかもしれませんが、あなたを連れていくというなら、オレを引き止めたりはしないでしょう」
 そんな打算が合ったのか。イルカはハッとしたが、最早後の祭りだ。
「オレが居ないと淋しいんでしょう、一人での留守番も嫌になるほど。だったら連れていってあげますよ」
「な…っ」
 思わず顔に血が上る。なんて言いぐさだ。
「あなたがオレを監視、軟禁してるんでしょう…!」
 その言葉に涅はきょとんと、激昂し掛けたイルカを見つめる。
 次に笑い転げるかな、と思わないでもなかったが、激情のまま突っ走ってしまった。しかし涅は目を伏せると、自嘲的に口元を歪めるだけだった。
「…そうかもしれませんね……」
 涅はそう呟くと、巻物を準備して火影に式を送った。銀色の小鳥に変化したそれは、さっきの涅のメモを携えて火影の所まで飛ぶ。
 真珠にも似た美しい銀色だった。
 涅は温くなったお茶を一気に呷ると、そのまま布団に横になった。さっき飲ませた薬は夜と言うこともあって、睡眠薬も混ぜてある。
 何だかイルカは最期の涅の表情が忘れられなくて、暫く其処に座り込んでいた。悲しげな瞳に彼を傷つけた気がして、動けないのだった。
 囲炉裏の火を落とし、照明である燭台の明かりを消すと、最早何の疑問も抱かずにイルカは涅と同じ布団に入る。本当に抵抗がなくなってしまった。
 すぐに涅のしなやかな腕がイルカの体に絡みつく。イルカは為されるがままに熱を分け与えるだけだ。
「ねえ…」
 もう寝付くつもりだったのではないのか、涅がイルカに語りかけてくる。
「あなた、里でどんなことしてるの…?」
「里で…、ですか…?」
「どんな人間と… どんな女と付き合ってるの…?」
 ゆるりと、躰に絡む腕に力が込められる。心地良い。
「懇意にしている女性、という意味では、付き合ってる女性は居ませんよ。居たらこんな辺鄙なところに来て、やたら女装が上手い暗部と同衾なんてしていません」
「言いますねえ」
 くつくつと涅は笑って、イルカの胸元に額を宛てる。
「本当は言っちゃいけないし、もしかしたらあなたは知ってるかもしれないけれど、オレはアカデミーの教師と薬師をしています。二足のわらじですが、本業はアカデミー教師です」
「…じゃあ、今回失踪した下忍の子は知り合い…?」
「ええ、オレの生徒です」
「そうですか……」
 心配ですね、という涅にまるでオウム返しのように心配ですと応える。
「…なんですか、おれに興味がありますか…?」
 その問いに涅は応えなかった。その代わりというように腰のあたりに回されていた手がおとがいに触れ、耳殻を捏ねられる。くすぐったくて身を捩ると、涅の躰が大きく動き、何かが唇に触れた。
 押しつけられたその柔らかいものが涅の唇だと理解するまで、だいぶ時間がかかった。その間に舌で口唇を割り裂かれて、口内に舌の侵入を許していた。
「…んっ んん…!」
 思わずイルカは涅の躰を押し戻そうとする。しかし、相手は細く見えるのにびくともしないで、そのままイルカの唇を塞ぐ。
 舌と舌が触れた瞬間、まるで小さな電撃が走ったように躰が震えた。すぐに涅の舌はイルカの舌を絡め取り、吸い上げてきた。
 目眩がする。何度も角度を変えては口づけられて、呼吸を奪われては、電流が流れる。
 気持ちがいい。動けない。
「ん…、ん… はァ…んっ」
 口角から溢れ出す唾液が頬を伝う。
 きつく躰を抱きしめられてはじめて、自分のものも涅のものも、硬くなっているのに気が付いた。勿論涅も気が付いているようで、お互いの硬いものを擦り付けるように腰を動かす。敏感になってしまっているペニスは、布越しの刺激にさえ、堅さを増した。
 いきなりの出来事に、イルカはましな抵抗一つ出来ずに、その体を羞恥と快楽に震わせる。
「…やだ…辞めて下さい…」
 口づけの合間にイルカは懇願するが、涅は許さず、イルカの立ち上がったものに直接掴んだ。  
「ああ…っ」
 あまりの快楽にイルカは思わず腰を浮かす。その隙に下穿きをあっさりとはぎ取られ、猛った男根を空気に曝された。それはひくひくと、別の生き物のように脈動し、快楽の徴を零していた。あまりにもいたたまれない光景に顔を腕で覆うと、衣服越しに涅が胸に顔を埋める。
 そして、何言が喋ったようだったが、快楽を引き出された躰では耳に届くことも、もはや理解することも出来ない。それどころかその声の振動にさえ快感を読みとって、硬度を高めた。
「ああん…っ いや…っ、あ いや…ァっ!」
 涅の手の中でイルカはどんどん濡れていく。呼吸も熱く、体中の熱が冷めない。蓄えられていく。
「ヤ…っ、も…ぅっ、うっ」
「行きたい…?」
 イルカの乱れる様をじっと見下ろしていた涅が、口を開く。忙しない様子でなんどもイルカは頷いた。
 うっとりと微笑む涅は自分のペニスを取り出すと、イルカの脚を拡げさせ其処に割り込み、イルカの手を取って、イルカ自身のものと涅のものを一緒に包ませた。
 促されるでもなくイルカは上下にそれを擦った。ゆるりと涅の腰が動き、ペニス同士がこすれる。あっという間にイルカの両手は先走りで濡れ、滑りがよくなる。
「あ…っ、ん…、ん…!」
 思わずイルカも腰を振り立てた。
 羞恥なんて感じられる余裕はない。男根を擦り合わせ、捲り上げられた上着から覗いた乳首を吸われた瞬間、自分の中で何かが焼き切れたような気がした。
「あ…っ、アアーっっ!」
 イルカは激しく腰を震わせて、達してしまった。大量の液体が自分の手と腹に飛び散る。
 同時に涅も達したらしく、小さく呻いて白いものをイルカの下半身に噴きかけた。
 これが何だったのかイルカには理解でないまま、痙攣が収まらない内に意識を手放してしまった。いままでに体験したこともない快楽の余韻に浸りながら。



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