プリズム
自然と、目が覚めた。
イルカはそのまま呆然と身じろぎもせずに天井を見つめる。
まずここが何処だかを思い出すのに、じっくりと天井を見つめ、梁を見つめ、囲炉裏へと下りる鈎を見つめ、結局一、二分はかかった。そして、遠くの小鳥の声を聞きつけ、今が朝だと言うことを認識する。
そして、初めて体を起こそうとした。
しかし、思うようには動かない。
「??」
何かに拘束されたような感じがする。しかし、それはけして解けない事もないようで、むしろ、床に縛り付けられていると言うよりは、背中に重さを感じる。思わず布団を剥ぐと、そこには目を見張るような美人が潜り込んで、イルカを抱き枕にして寝息を立てていた。
「うわ――――っっ!!!!」
あわててその人物を引き剥がし、布団から離れる。しかしその佳人は少し、驚いたように起きただけで、また、そのまま敷き布団に横になってしまった。
イルカはそうして、初めてその人物が暗部の男であることを思いだした。少し遠くで眺めると、はだけた腕や足は、ほっそりしていたが明らかに男のものだった。
「なんで、この人、オレの布団に潜り込んでるんだよ…」
そして、自分はどうして潜り込まれたのに気がつかなかったんだろう。
まさに忍者失格だった。それとも、これがしがない中忍とエリート暗部の格の違いだろうか…。
せめて後者であるならばよいと願いながら、イルカは顔を洗うために立ち上がった。
涅を起こした方がよいのか悩んだが、自分が起きても居ない深夜に帰ってきたことを思い出して、暫くそのままにしておくことにした。
敷き布団の上で小さく丸めている体の上に掛け布団を掛ける。
顔を洗い髪を結い直してから、朝食の準備に取りかかる。囲炉裏に小さく火を入れてから鉄鍋で湯を沸かす。庭で薬草を摘んで、苦無いで刻んだ。煮干しと干し肉で出汁を取り、塩と醤油で味を付けて、薬草を入れる。
火が通った頃に、昨日の残り飯を入れた。
そうした間にも暗部の男はすやすやと健やかな息を立てながら、気持ちよさそうに眠っている。
結界を張っているとはいえ、敵地、そして、見知っただけの男と一緒で、良くもまあここまで無防備に寝られるものだ。
イルカは自分のことを棚に上げて、心の底から感心する。
「あのー、朝飯を作ったんですけど、起きませんか?」
イルカは男のことを揺さぶりながら起こそうとする。
涅は僅かに唸り、身じろぎをして、イルカに背を向けるように寝返りを打つ。
まるで、小さい子供が愚図っているような感じだ。イルカは少しだけ笑った。
雑炊は冷めてしまうとあんまり美味しいものではない。どうせだったら一緒の方がすぐに片づくし、昨晩の収穫も聞きたいものだ。
とにかく、イルカは涅の目が覚めるまで頑張ってその体を揺さぶり続けた。
男が起きたのは、それから十分ほどしてからだった。
「あぁ、おはようございますー…」
「お早う御座います。簡単な朝飯、作ったんで、食べませんか?」
男はきれいに化粧した顔を、にこっと歪ませて、いただきますーと、長閑な声で応じた。はだけた着物を引きずるように四つん這いになって、囲炉裏の傍まで来ると、そこに猫背に座った。美しい容貌が台無しだった。
イルカが雑炊を器に装ってやると、男は座ったまま器用に、船をこいでいた。
「もう少し、寝てますか?」
イルカのその声で、男はハッとして周りをきょろきょろと見回す。イルカはその様子に苦笑した。
「…済みません、寝ちゃってたみたいです」
涅はイルカから椀を受け取ると、あまり、上手とは言えない箸捌きでぽろぽろと箸から取りこぼしながら口へと運んでいる。見るに見かねて、イルカは木製の匙を渡した。しかし、それでは熱すぎるのか、今度は頻りにふうふうと息を吹きかけながら熱を冷まし、口に運んでいるので、速度は箸と大した差はない。
どうやら涅は半液状・半固体で熱いものを苦手としているようだ。
食事と眠気でもう必至になっている涅に、今、この場で収穫を尋ねるのも酷な話だろう。イルカはただ、黙って朝食に手をつけた。
速度の所為か、昨日とはうって変わって少量で満足した涅は、緩慢な所作で再び布団の中に潜り込んでしまった。
疲れているのだろう。どうせ、今日は連れていって貰うつもりだから、その道中で成果を問えばいい。イルカは土間で洗い物をせっせとこなした。
盥に屈み込んで後片付けをしているときに、また、あの音がした。
がちゃ。ぱたん。
そして、振り返ると、今度は闇の名の通り、黒装束の出で立ちで涅がフラフラと歩いていて、ちらりと、イルカに一瞥をくれると、そのまま敷かれてあった布団に倒れ込むように横になった。
なんだろう。
ちょっとした違和感がイルカを覆う。
涅が、あまりにも消耗していること、あの音。
これから違和感がどんどん増えていくような気がして、イルカは小さく息を吐いた。
「あなた、よっぽどタライが好きなんですね…」
そう、囁かれた言葉はイルカの耳にも届いた。反論しようと勢いよく立ち上がったが、男は既に、布団の上で穏やかな寝息を立てていた。掛け布団を拡げる気力もなかったのか、それは、伸びたように長い涅の体の横に、うずくまっている。さっさと洗い物を片づけると、イルカは掛け布団を拡げて、涅の体に掛けた。彼はふと目蓋を持ち上げたけれども、直ぐさま億劫そうに、掛け布団をしっかりと握ってうつぶせになり、目を閉じた。
イルカは、昨日の続き、庭いじりと薬草の世話をすることにした。
今日も、いい天気だ。
太陽が西に傾き掛けた頃、涅は漸く起き出してきた。暗部のイメージそのままに昼夜逆転の生活に近い。
それまでの間にイルカは丁度いい頃合いに生長した薬草を丁寧に収穫し、いくらかの束にして軒下に干してみたり、雑草を抜いたり、勿論昼食も一人で摂って、涅のために白ご飯を炊いておいた。昨日の残りの大根と干し肉、新たに収穫した人参で煮物も作った。
「夕食には早いし、お昼には遅すぎますけど、食事しますか」
「…そうですね、頂きます…」
随分と眠っていたはずなのに、涅は朦朧とした様子で布団から這って、囲炉裏まで出る。イルカはまだ出来て間もない白飯とおかずを器に装った。
「どうぞ」
涅は、ちゃんと手を合わせてから、いきなり、イルカの目の前で何も憚ることなく、顔の半分を覆う口布を下ろした。そして、何事もなかったかのように、食事に手を着ける。思わずイルカは穴があくほどにその素顔を見つめてしまった。
涅は、そんなイルカの様子を一瞥すると、興味なさそうに、食事に視線を戻す。
口布に覆われたその唇と鼻先は、女性に好まれそうな端正な形をしていた。ともすれば酷薄そうに見えるほどの怜悧なものだ。同性であるイルカが見とれてしまうほどの代物である。里に戻れば、里の、同世代の女性はきっと、自分の年齢を喜ぶことだろう、一縷の望みでも存在することに。
「何故、隠すんです…?」
「名を隠すことと同じです」
男はイルカの対忍に対しては不躾とも言える質問に対して、こともなげに応えた。
「オレには、あんまり興味ないモンですから」
と、そう、素っ気なく宣う。確かに、自分で努力して得たものでないのなら、大して執着は抱かないのかもしれない。
執着自体、捨てたのかもしれない。
イルカはふと、そう思ったが、それは口にしなかった。
涅は、ただ黙々とイルカの用意した食事を平らげていった。
「今日は、オレも連れていって下さいね」
涅が空になった椀を差しだしたときに、受け取りながらイルカは言った。何故かちょっと、勇気が要ったのは秘密だ。
最初涅は何の事だか判っていないようだったが、ふと、顔を小さく歪ませる。
「駄目です」
そう、きっぱり押し切られた。
そう言われるのを、少しだけ覚悟していたからだろう、さっき、勇気が必要だったのは。だが、こんな所で引き下がるわけにはいかない訳が、イルカには有る。
「生半可な気持ちで志願したんじゃありません。死地に赴くようなつもりで来たんです」
その言葉を聞いて、涅は、思案するように睫毛を伏せる。銀色の、扇だ。
「派遣させた側はそんなこと露ほども考えちゃいないんですよ…」
呟かれた言葉は、どこか責めるような響きだった。
「あなたは、おれの後方支援。オレの手となり足となり働くのではなく、そうだね、言うなら、給仕人や家政婦代わりで丁度いいところです」
「…! オレだってれっきとした忍なんです!」
涅の言葉に大してイルカは逆上しかかる。
もしかして、あの、少女たちの命が危ないかもしれない。犯人が見つからなければ、次の犠牲者だって出るかもしれないのに、成人男性であるイルカにその様子を傍観していろと言うのか、この男は。
こんな所まで連れてきておいて。こんな所まで派遣してきて。
「外は危ないんですよ、お嬢さん」
涅は自嘲するように笑って、イルカの手に乗せられたままだった椀をひったくって、自ら、白飯のお代わりだ。
何のために火影が自分をここに派遣したのか、さっぱり、筋を見失い掛けているイルカだった。
結局、涅はイルカをおいてふらりと小屋を出ていってしまった。昨日と同じように、眩しいほどの女性になりすました涅に、男だと判っていても、強く切り出せなかったイルカの負けだ。しかも、時間がなかったから、とかなんとか言い訳をして、結界は改造されず、そのままで、イルカは今日もずっとこの敷地内で過ごすハメになった。
連絡待ちとは名ばかりの、「留守番」兼「家政婦」のレッテルを貼られてしまったイルカは、一人で、いつもの時間に冷えた食事を摂る。
こんなことなら、里にいてヤキモキしているのよりも、余程質が悪い。傍にいるのに参加することさえ禁じられている、そんな任務だ。
堪え忍ぶことも、忍の任務の一つだと、イルカもアカデミーで教育しているが、今回、イルカは全く何も納得していない上での、耐久任務だ。これでは、涅という暗部の人間に囲われているのと何も変わらない。
彼の都合のいいように食事の支度をし、汚れ物を洗い、もしもの時のために薬を用意して、帰りを待つ。
「…ありえねえ…」
一人で考えながらの食事中、心の中で、まるで嫁のようだと自分のことを比喩して、思わず呪うような言葉が吐き出す。
任期は一ヶ月。苦痛がまだ、始まったばかりだと思うと、イルカはげんなりとしてしまった。
律儀に、手を合わせて食事を終了した、その時だった。
こつこつと、本当に小さな音で雨戸を敲く音がする。わざわざ、異界のようになった庭の方から聞こえる音に、イルカはハッとして体を硬直させる。
しかし、音は止まない。
片づけようと手にしていた食器をそのまま戻すと、イルカは恐る恐るその障子と雨戸をほんの十センチほど開いた。すると、その間を縫って、小鳥が一羽部屋の中に入って、飛び回り始めた。
式だ。
僅かながらに人為的なチャクラが感じられる。
きっと、他班の報告に違いない。遠隔地に居るイルカたちよりも、木の葉の担当班は一日早く任務に就いている。
イルカが手を差し出すと、そのカナリアに似た深緑の小鳥は、その指に向かって下りてくる。そして、イルカの指に触れた途端、煙を上げて巻物に変化した。
拡げてみるとそれは、今日の午前中までに火影が受けた報告の写しだった。
全ての報告は、各班が必ず火影に寄越し、それを火影が他班に展開するという方式をとっている。若干の情報の遅れはやむを得ない。
なんと、自分達の報告が載っているからビックリだ。涅がきちんと報告していたのだろう、イルカと涅が逗留予定地に到着したことだけが簡単に記載されていた。ここに到着するまでの過程を思えば、涅という男が律儀なのか否か、判らなくなってくるイルカだ。
イルカは汚れた食器などそっちのけで、その巻物にざっと目を通し始める。
木の葉の班などは、二日分もあるので、大部読み応えがある。
火の国での失踪者数は十五名にものぼり、失踪時の様子や家族構成、人間関係など、克明に調査結果が記されている。写真も載っているそれには、勿論、イルカの教え子である梅木初香と星野ユウヒの事も触れてあった。
忍が連れ去られているのは、彼女たち、二人きりのようだ。
どんどん読み進めていくと、今回の失踪事件に関係あるのかないのか、判らないような事柄まで報告してある。担当忍が気になったことはどんどん報告しろとの火影の言だから、それを忠実にこなしているだけのことだ。
例えば滝と草の詳細な関係が、滝に入った忍から。木の葉の抜け忍の目撃情報が火から。
何と何が符合しているのか判らない事件だ。こんな関係のなさそうな話まで記されている。
勿論、失踪者自体に、共通項目があるわけでもなく、もう、老若男女入り乱れもいいところだ。十五名もの失踪者が居るのに、イルカにはこの無作為ぶりが作為的な気までした。敢えて失踪者の共通点を見出すとすれば、「失踪しなければいけないような何か」が全くないと言っていい、ということだ。初香とユウヒの例を取ってもそうだ。下忍になったばかりの彼女たちに、失踪するまでの憂いがあっただろうか。少なくとも、ユウヒにはないと、イルカでも断言できる。
そんな訳だから、失踪に関わる某かの符合を探し出さないことには、失踪原因を突き止めることは出来ないだろう。ましてや、一般人と忍のそれを一緒にすることなんて出来ない。
むしろ、イルカは忍と一般人の失踪は無関係ではないのか、と考えている。
木の葉の隠れ里は火の国の奥深いところに位置している。他国の人間では、その位置を把握している人間は、商人を含めたごく僅かだろう。連れ去った人間が居るとしか思えない初香とユウヒの失踪は、余りにもハイリスクだ。
それに比べ、一般人の失踪は主に滝と草の国境付近であり、関など全くない地域で、出入りは簡単。こう言っては何だが、余りにもお安い、お手頃感が否めないのだ。
「うーん…」
イルカは一人で唸りながら、報告書を読み進める。
こういった時に一人では分が悪い。一人の角度からでは全体像の把握にも限界がある。他人の話を聞き、自分の考えとまとめて編集することによって、より正確な像が結べるものだ。暗部の、涅の意見も聞いてみたかった。
彼ならば、一見、無関係に見えるこの報告集を見て、なんと宣うだろう。どんな推理をするのだろう。
イルカは悶々としながら、報告書を矯めつ眇めつ、裏にしたり表にしたりしながら、色々考えながら床に就いたのである。
夢見は、あまり良くなかったような気がする。
目が覚めると、昨日と同じように体が重かった。
恐る恐る布団の中を覗いてみると、其処にはやはり、美しく女装したままの涅がイルカを抱き込んだまま、穏やかな寝息をたてているのである。
男だと判っていても、思わず赤面して、動悸が早くなるのを感じた。
いいかもしれない、とちょっと考えてしまうが、中味は結局、あの陰険な暗部の男なのだ。
きっと布団を敷くのが面倒なのだろう。明日は、この人の分も敷いてから寝よう、そうすればもう、こんな風にイルカの布団に潜り込んでくることもあるまい。
ちょっと残念な気もするが。
イルカは涅を起こさないように、そろりと布団を抜け出した。
今日もいい天気のようだ。
結局、イルカはこの一週間、一度も草の町には行けていない。涅によって小屋の出入りも、出来るようにはなったが、制限されている。これでは、小屋の位置を覚えたって、何の役にも立たないではないか、とイルカは一人で憤慨していた。
しかし、布団は必ず潜り込んでくる。イルカが男のために予め布団を敷いて寝たとしても、涅は朝には必ずイルカを抱き枕にしているのだ。
もう、涅がイルカと仲良くしたくないのか、そうでないのか、イルカにはさっぱり分からなかった。
水も残り少なかった。
普段から獣肉を余り口にしないイルカは、其処まで体臭のきつい方ではない。それをいいことに、髪は二日に一度、体は毎日、拭くだけに止めているが、本当は皮膚がカサカサになるまで風呂に入るのが好きなのだ。いい加減湯に浸かりたい。
せめて町に下りたら銭湯くらいはあるだろうに…。
しかし、町に下りるのは涅に禁止されているのだ。
こつこつと、習慣になってしまった音が雨戸から届く。そっと開くと、深緑色の小鳥。火影からの定期連絡だ。一番最初に、報告書を受け取ってから、毎日律儀に同じ時間にやってくる小鳥自体が、煙を吐きながら報告書に転じる。
そうして受け取った巻物はもう五巻目だ。
涅は今日も居ない。
ともすれば、涅とは殆ど会話もなく、任務の話しもしない。いつも消耗しきっている涅は、朝にはイルカの布団で夕方くらいまで眠り、それから女装して町へ繰り出すことをサイクルにしている。イルカと会話することを避けているのか、それとも会話できないほどに消耗しているのか。
町で彼が何をやっているか、イルカは知らない。
そして、火影から送られてくる報告書を見る限り、最近では報告もままなっていないようだ。
日に日に顔色をなくしていく涅に、イルカは心配していた。
一度、本気で町に下りることを辞めさせなければいけないかもしれない、と考えながら、イルカは巻物を開いた。
その夜は、何故か寝苦しくて、イルカは浅い眠りの途中で何度も目を覚ました。顔は火照って熱いのに、何故かつま先は冷えて汗をかいている。いやな感じだ。
何度目かに目を覚ましたときに、限界だと思って起き上がった。自分の布団にも、もう一組の布団にも、涅は戻っていないようだ。水を飲もうと土間に下りた瞬間、引き戸が一度戦慄いた。勿論、予想だにしていなかった事に寝ぼけも相まって、イルカもびくつく。
まさか、獣がこの小屋を見付けたのだろうか。
慌ててイルカは短刀を持ち出すと、きちっと履き物を履く。視界が遮られるが、髪は解いたまま、その短刀を構え、引き戸に手を掛けた。
小さく隙間を開けて、刃に反射させながら外の様子を伺うが、特に変わったことは何も見受けられない。今晩は晴天で、月の光が視界を露わにしてくれている。
そろそろと引き戸を開けると、其処には獣の気配などなく。
「涅さん…っ!」
月の光のしたに、上半身を小屋の壁にもたれるようにして、人が倒れていた。黒髪をむき出しの土に散らしている。
思わず駆け寄って上半身を抱え上げると、体中が冷え切っている。化粧の所為で顔色は判らないが、おそらくは蒼白なのだろう。
慌ててイルカは涅を小屋の中に引きずり込んだ。細そうに見えてこの男、だいぶ重い…。 涅は口を聞くことすら億劫なようで、薄目でイルカの姿を確認すると、すっと、その身をイルカに預けたように、強張りを解く。ただし、それは忍としての警戒だ。何に冒されているのか、涅の体は小刻みに震えている。
イルカは、その体を布団に横たえると、胸元を拡げようと手を掛ける。涅はそれを拒もうとしたが、イルカはその弱い手つきを振り払った。
「…なんだこれ…」
拡げた胸元にはきつく、厚く包帯が巻かれているが、其処には血がにじみ出ている。思わずイルカはその服を腹まで割り開くと、その出血は臍の辺りまで続いていた。
「…大胆ですね…」
涅はそう言って、幽かに口の端を歪めて見せた。自嘲して見せたのだろうが、うまくいっていない。
「なんで、こんなもの…。町で忍と接触しましたか?」
「…先の任務で負ったんです…」
辛うじて、応える涅に、イルカはもう、何も問わずに囲炉裏に火を熾した。瓶から残り少ない水を鉄鍋に汲んで、囲炉裏の火に掛けた。
浅く頻繁に息を吐く涅の汗を拭い、包帯をゆっくりと剥がしていく。リンパと血小板のおかげで、それは濡れたようにも固まったようにもなっていて、中味の惨状をイルカに伝えるようだった。
温くなった湯で固まりを溶かし、慎重に男に負担を掛けないように剥がしていく。
真っ赤に染まったガーゼのしたから現れたのは、まるでザクロのような傷口だった。
「…こんなものを抱えて…」
今にも化膿しそうなそれは、一部縫合の必要のあるものだ。なぜ、この男は医者にかからないのか。
イルカは薬棚から、調合したばかりの痛み止めを取りだし、涅に差し出す。
「飲んで下さい。縫合します」
「あんたにできんの…?」
「一応、薬師ですからね」
その言葉に睫毛を伏せて、涅は湯呑みを受け取ろうとした。しかし、握力がないのか、それを取り落としてしまう。顔を自嘲に歪ませた涅を無視して、イルカは沸騰しない内に、再びぬるま湯を汲み代えた。そして、薬包紙を開けると、自ら湯呑みを一口呷り、そのまま、紅のはげ掛けた涅の唇を塞いだのだった。イルカの解かれた黒髪が、肩からシーツの上に落ちる。
「っ!」
涅はビックリして幽かに震えたようだった。
委細構わず、その顎を取り、水を与える。案外素直に涅はそれを受け入れて、飲み下した。
口を開けることを指示すると、子供の様に素直に従う。イルカは薬包紙の端を唇にあてて斜めにし、勿論旨くはない粉末状の薬を口に含ませると、もう一度、水を与えた。
「忍用の強力な睡眠薬と痛み止めが入っています。強力すぎて、もしかしたら三日くらい体が痺れるかもしれません。でも、ま、この状態での捜査は不可能ですしね、構いませんか」
「…それを飲ませた後で言うんですか…」
「だって、言えば飲まなかったでしょう」
そのイルカの言葉に、涅はしたやられた、とばかりに舌打ちをして目線を逸らした。
「凄腕と呼ばれた薬師が、あなたの傍に居るんです。速効で、治して見せますよ」
涅は、最早イルカの言は信用できないとばかりに、そっぽを向いてしまった。その子供のような仕草に、ちょっとだけ笑ったが、その余裕に感服もする。
恐らく刀傷と思われるその裂傷は、長く、けして浅くはない。
乾燥するような気配も見せず、真っ赤な血肉を晒しており、未だに血が止まっていないことを物語っていた。傷口の端の肉が溶けかかっている。
盥を持ち出し、だいぶ熱くなった湯をそれに移し替えて、更に湯を沸かすべく、鉄鍋に水を入れた。
縫合の経験も勿論あるが、実を言うと、今まで一人で治療すると言った事はなかった。ましてや、涅は薬師としてのイルカにとって、一見さんも同じなのである。本来ならば薬師は、その患者の身体的性質や特異性を把握してから、合う薬を調合し実際に試しつつ、手術をはじめとする治療を行う。医術とは勿論異なる。むしろ漢方や民間療法に近い。体に負担を掛けにくいし、薬に耐性も付きにくいが、快復に時間がかかるという難点がある。 真新しいサラシで傷の周りの汚れをぬぐい去る。恐らく一反単位で巻いて用意されているそれを、要る分だけを切り、盥の湯で絞って汚れを落とす。
その間、涅の呼吸は次第に浅く、緩やかになっていった。
彼にとって、この時間が短く感じられればいい。神経を突き破るこの作業に何も苦痛を感じてくれなければいい。
そう思いながら、イルカは傷口の消毒をした。
涅に取っては、短くなるように祈りながら、イルカはこの長い夜を覚悟した。
イルカの手術から半日くらいで目を覚ました涅は、やはり強力な薬のために躰が不自由なようで、口を聞くときの口唇でさえ戦慄いていた。
縫合は、完璧だった。所々を縫い、あとはテープで留めている簡易的だが、実用的な技術がこの際、役に立った。なにせ、針を完璧に消毒できる環境にないのだから、一本縫っては消毒し、縫っては消毒しの繰り返しである。自分の集中力も、涅の体力も心配だったのだ。
「気分は如何ですか」
夜を徹しての作業でイルカはうとうととしかかっていたが、気力を振り絞って、出来るだけの笑顔を見せた。
「…寒い…」
熱が上がっているのだろうか、あわてて、イルカが涅の額に手をやると、其処はとても熱があるように感じられない。むしろ、冷たくなっているようで、布団の中に入っている手を取り上げると、それは、生水のように冷たかった。
血が、足りていないのだ。
慌ててイルカは湯に浸したサラシを絞り、首元や手に持っていく。しかし、それは外気に冷えてしまって、その場しのぎでしかない。
そのとき、はたと思い立った。
…だからこの男は毎晩イルカの布団の中に潜り込んできたのだ。
やっと、合点がいった。
生死に関わりかねない問題だからこそ、他人の布団に入り、暖を取っていたのだろう。そうでなければ他人との、そう言った接触を嫌いそうだ、と同居一週間にして決めつける。
「…あなたは何にもオレに話してくれないんですね…」
イルカは小さく溜息を吐くと、意を決して、涅の布団の中に潜り込む。涅には一瞬何が起きたのか判らなかったらしい。恥をかなぐり捨てて、イルカは涅を腕に抱き込んだ。
「…淋しいんですか?」
そんな風に余裕の言葉を吐ける男の様子を見て、ちょっとだけ笑ってしまった。この分ならば、そんなに問題はないだろう。起きたら森に狩りに行って、獣の肉から肝まで涅に喰らわせよう。そうしたら貧血、失血なんて二日程度で快復するはずだ。
「もう少し眠りましょう。オレも眠ります」
イルカが目蓋を伏せると、ゆっくり何かが躰に巻き付いたのを感じた。
そのまますぐに、まるで重力に引きずられるように意識を泥に捕らわれてしまったイルカだった。
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