プリズム
一
イルカが火影に呼び出されたのは、アカデミー卒業試験の翌日だった。出勤の準備をしていたところに、「式」が飛ばされてきたのだ。何の変哲もない小鳥のようなナリをしたその式は、イルカの肩にとまると、火影の言葉を火影の声音そのままに伝える。
見てくれの愛らしい小鳥から、三代目のしゃがれた声でもたらされる召喚や言いつけは、いつまでたっても慣れるものではない。
「本日午後四時に火影執務室まで集合されたし。任務の人員を募る」
その言葉に、イルカは小さく溜息を吐いた。
任務がいやなわけではないが、イルカの場合はアカデミーでの仕事や受付の仕事も振りあてられている他に、薬師としての仕事もあった。受付はまだしも、アカデミーの仕事は、どんどんたまっていくハメになるのだ。先に大きな戦があったばかりで、人手が余りにも少ないのが現状。教員の自分にも声がかかってしまう。そして、幸か不幸か薬師としての腕もそこそこ悪くはないので、戦の前線に連れて行かれても右往左往するなんて失態を犯す不安要素がないため、たいていこういった特別任務があると、真っ先に人員として選択されてしまう。
いっそ、アカデミーを辞めて戦忍になってしまおうかとも考えたが、イルカは、あの、子供を見ていたかった。
十年前に封印された九尾の狐を腹に宿した子供が、本人の意思でアカデミーに入ってきたのだ。
名をナルトという。
勿論、忍にするか否か、其処は火影やご意見番を交えての討論となるほどに、深刻な問題となった。ナルトが忍として長じたときに、九尾の意志に喰われてしまった場合、この里が滅ぶのは間違いのないことだった。封印した先の火影も、もう亡い。
しかし、不安がる若者を退けてナルトをアカデミーに入れることを決定したのは火影と三忍の一人である自来也だった。
きっと、来年にはイルカに任せられることになる子供は、今視界に入るだけでも、気になってしまう。目が引かれる存在だった。
この仕事がどんなものでも、他の人にやって貰おう…。
イルカは申し訳なく思いながらも、そう、心の中で決定していた。
その場に集められた忍は、イルカを含めて十二名で、アカデミー関係者が半分を占めていた。その他は、イルカが知る限りでは、最近、結婚したり伴侶が出産したりと家族の増えた者ばかりだ。もちろん、女性も居る。中忍はイルカを含めても三人。他は上忍という、異様な雰囲気となった。勿論、場違いに感じる中忍の三人で寄り添って、いたたまれない空気を何とか凌ごうとしていた。
「待たせたな」
深く笠を被った小柄の老人とその側近が入ってくると、その場に集められた忍は、火影の道を空けるために、見事な動きで左右の壁に別れて立つ。一段高くなった席に火影が就いた途端に元の通りに横に四人、三列の編隊を一瞬にして組み直した。
このメンツで集まったのが初めてとは思えないほどの、無駄のない動きだ。訓練された習性が染みついての、そして、火影を尊崇する気持ちでの行動だ。
「各人仕事もあるだろうが急務につき集まって貰った。今回は、潜入任務。任期は一ヶ月間じゃ」
一ヶ月も。声には出さなかったが、誰しもその言葉を飲み込んだのが判った。従者が持ち運んできた巻物を取り上げると、火影はそれに目を通しながら語り出す。
「先日から、草と滝の国境近くで失踪者が多発していることを皆も知っていると思う。これについて親族と国から調査依頼があった。一ヶ月間で失踪者を見付けられれば良し、調査範囲が他国にも及ぶので事の次第では、戦になりかねん…。したがって、草に一組、滝に一組、火に二組の少数精鋭で調査を行う。本来は四人一組が望ましいのじゃが、教員たちを呼んでる時点でそうもいかん…」
火影は嘲笑するように口角を歪めた。まるで、自分を責めるような物言いに、イルカたち、召集された忍も側近の上忍も全く笑えなかった。
「火の国国境は四人一組で伝令も行って貰う。これで八名。草と滝にはその国の「草」と組んで貰い、二人一組、これで二名。計十名が今回の任務の募集人員じゃ」
そう、火影が言葉を区切った瞬間だった。
背後の扉がノックされて、慌てて男が一人駆け込んでくる。まるで、条件反射のように、イルカの隣の上忍が跳躍し、その、闖入者を拘束した。それは受付で一緒に仕事をする、事務の一般人だった。
「大変です、火影様!」
その闖入者は取り押さえられたまま、呻くように声を振り絞った。
「忍が…! 昨日、忍になった下忍が二名、失踪しています…!」
「何…っ?」
イルカもその言葉にびくっと、身を震わせる。
昨日、忍になった…? それは、昨日卒業試験を受けた者、つまり、イルカの生徒ということか。
「誰ですか…っ、その、失踪した新米下忍は…!」
おもわず、受付の男に駆け寄り、その名をただすと、男は見知ったイルカの顔に幾分安堵してか、体の硬直を解いて、吐き出すように言葉を紡いだ。
「星野ユウヒと梅木初香です…」
軽く目の前が暗くなったような気がした。その瞬間、昨日の燃えるような茜色の空気と少女たちの無邪気な表情がまるで泡沫のように、次々に浮かび上がっては弾けた。
「ランクがCからBに格上げじゃな…。本任務の志願者は本日中に申し出よ。人数調整は一両日中に行い、出立は明後日予定」
解散、と張りのある声で散会を告げた火影の声に、まるでイルカは奈落に突き落とされたような感覚を覚えたのだった。
その日、自分のアパートに戻って、縦になっても横になっても、イルカの思考を支配していたのは、二人の生徒のことだった。
子供のように振る舞えなかった、賢い初香と、その拠り所であるユウヒ。彼女たちはいつも一緒だった。
ただただ、忍になりたくて酸いも甘いも知らない無邪気なユウヒと、子供ながらにして事象を客観的に捉えられる老成した初香。正反対の二人は、お互いにないものを持っていたからこそ、一緒に居たようだった。まるで本当の姉妹のようだった。
初香が、忍になることを躊躇っていたことを、イルカは知っている。それを、子供相手のように誤魔化して、結局卒業させたのは、彼女の両親の意志だった。高名な上忍の娘だった初香の母親は自分が一般人であるのに、初香を忍にしたいと強く願っているのである。父親も、初香の祖父の功名を聞き知っているようで、初香にかける期待を大きくしているのはイルカも知っていることだ。
若くして人生の道を定められてしまう忍とは、万能な様で、実は全くつぶしが利かない。需要があるのだから将来について心配することはないのだが、忍は固く里に縛り付けられるのだ。その国の忍として正式登録されてしまえば、里外での婚姻は愚か、不用意に里から出ることさえ禁じられるのである。
初香は、それに倦んでいたのだった。
外に出たい、自分の可能性を他で試してみたい。その気持ちはイルカにもよく分かる。それを抑えるためにも、初香はきっと、ユウヒと一緒に居たのだろう。
どんなに忍の仕事が誇らしいかを、ユウヒはまるで、夢物語を聞かせるかのように話す子供だった。それを聞いていて初香は、少しでも親に定められた道に希望を見いだそうとしていたに違いない。
彼女たちは、里と決着をつけることも出来ずに抜けていくような臆病者でもないし、ましてや、ユウヒには何の動機もない。
何者かの力が働いている…。
夢を見ていた、初香とユウヒ。彼女たちに本当の忍を示してやれるのは今を置いて他になく。
「夢を潰させたら、絶対に後悔する…」
イルカは声に出して、自分の意志を確かめるように、二度三度手を握り締める。イルカはベッドから起き上がり、日付がまだ今日であることを確認すると、急いで書をしたため、火影へと式を飛ばして送った。
それは、下賜された任務への応答だった。
湿った空気が冷たい森を駆け抜ける。
月はなく、星が静かに瞬く。東の空はもう明るい。
風の音のように、獣のように迷いなく、イルカは走る。
一つに引っ詰めた夜色の髪が撥ねる。
この闇が時を支配している間に、目的地にまでたどり着かなければならない。
守護や鎮守という名の付いたその森は、まだ、火の統治圏内にある。国境を越えてしまうと、其処は、「魔の森」と呼ばれる森になる。つまり、火や擁護下の木の葉にとってその森は細かな敵からまもってくれるものであるが、滝や草にとっては、列強の一つに隣接する恐怖の対象でしかあり得ない現実を示唆する。
イルカの目の前に現れつつある、強固な城壁がそれを物語っているようだった。
その町は、滝。
期限内にたどり着けたことに安堵し、イルカは若干速度を落とした。
その町で、イルカは暗部との二人一組での行動を命じられたのだった。最初は気乗りしなかった特別任務も、就いてしまうとなると、イルカは任地を選ばなかった。何も、危険なことが嫌いで特別任務を避けたわけではない。火影が身を案じてくれるのを振り切って、その他の忍の嫌がる草と滝の潜入を選択したのだった。結局、火影も何か思うところがあってか、イルカに草の仕事を任せてくれた。
確かに、暗部と二人一組での行動というのが、先に不安を抱かずには居られない。これが人見知りな人間だと、たまったものじゃないだろう。幸いにしてイルカにはそんな心配はない。相手が敵意を抱かない限り、一ヶ月程度の共同生活は、上辺を取り繕ってもやり遂げられる自信がある。ただ、不安があるとすれば、実際に暗部との二人一組の任務を受けるのが初めてである事ぐらいだ。
薄明るくなった東の空を確認すると、肌冷えのする湿気た空気を掻き分け、目的地へと足を向けた。
それは、草の町ではない。
魔の森に、木の葉の見張り小屋が建てられているのだ。草を長時間監視するために作られた、山小屋に似せた、その実、砦にもなるような装備を蓄えたものであるらしい。勿論、イルカが赴くのは初めてのことである。実際に草を監視する任務に就いたことのある人間と暗部の一部、火影しかその場所を知らない。草や、その他諸国にこうした木の葉の見張り小屋が必ず存在するらしいが、全てを把握するのは火影と、ご意見番、暗部上忍の一握のものだけだ。勿論、火の国にも他国の、同じ様な施設があるに違いないし、むしろ、国が大きいために、その数は多くてもおかしくない。
イルカは、歩きながら一本の巻物を取りだした。
作成者は火影だ。その、見張り小屋の場所が記された地図である。火影の術によって作成されたそれは、開封より一時間後に発火してしまう。
絶対に覚えるな、と言われたその目的地までの目印の羅列は、とてもじゃないが覚えられない。
脱力したためにか、急に重さを感じるようになった背中の荷物を背負い直して、イルカはざっと、それに目を通し、脚を早めたのだった。
最後の目印から、真西にずっと行ったところに、イルカはやっと見張り小屋を見付けることが出来たのは東の空に太陽が現れた時分だった。その途中で巻物が火を噴いたときには、心底ビビった。これで目的地を見付けられなかったら、迷子もいいところだ。
朝日を受けて建つその小屋は、術をある程度かじった忍でないと気付かないものであった。遠くから見ただけでは、建物が、何かがあるようには見えない。そして、その小屋をぴったりと張り巡らされた結界に足を踏み込むと、初めて目に見えるように擬態されているのだ。
微量のチャクラをかぎ分けることが出来なければ、この小屋はきっと見付けることが出来ない。しかも、燃えてしまった巻物には、途中から木の上の移動を義務づけている。木の上では時折、イルカと同じ様な目的で通った人間が居るのだろう、木の幹にちょっとした傷が付いていたりしたが、植物にも自己修復能力があるのだ、いずれその跡も消えてしまう。土を踏み固めて、道を造らないためだと判るが、その念の入れように、忍の業の深さを思い知らされるようだった。
イルカは委細構わずに小屋の中に侵入した。
その瞬間だった。
小屋の中からドアと連動するように仕掛けられたトラップが発動し、クナイがイルカに向かって飛んでくる。イルカは咄嗟に腰の短刀を引き抜き、小屋の中に転がり込んだ。
獲物を失ったクナイは深々と地面に突き刺さった。その数はおよそ十ほど。体中が弛緩していなかったら、こんな柔軟で反射のような反応は出来なかっただろう。
直ぐさま意識を集中させて次の攻撃がないか、短刀を構えた。
「…へえー、面白い」
そんな声は真上から降りかかってきた。姿を確認する前にイルカは跳躍して部屋の隅を背中に、臨戦態勢に入る。
「合格です」
同じ声色で、ふっと、天井から影がふわりと降りてきた。まるで重さを感じさせないその所作に、布だけが降ってきたのだと思った。
そして、床にしっかりと立つその人物を確認して、イルカはやっと一息吐いたのだった。
振り返った鼻梁までまでの覆面の顔に、木の葉の刻印を確認したからだった。額宛は彼の左目を覆うように斜めにかけられている。
「…脅かさないで下さい…」
へたり込む思いで、辛うじて吐き出せた言葉は、そんな強がりだった。
「まさか小屋の中に飛び込んでくるなんて思いませんでしたよ。後ろの方に跳んでたら、もっと素敵なトラップが待っていたんですが」
と、木の葉の額宛をした男は、唯一晒されている右目を綻ばせて、恐ろしいことをこともなげに呟いた。
「オレが死んだり負傷したりしたらどうするおつもりだったんですか?」
「三代目に突き返すところですよ。そんな無能は、今回の任務に要りません」
男の言は手厳しい。その上にやり口が陰険だ。
一瞬にして不信感の募った瞬間だった。
まあ、合格したのだからいいけれども、これからも、こんな風に自分の行動を逐一、合否判定されてしまうのではないだろうか、この男の型にはまらねばいけないのだろうか。
そんな感情が顔に出ていたのだろうか、男は細めたすっと引き締めて、呟いた。
「一ヶ月間、よろしく御願いしますよ」
不思議な色をした男の髪が、風に揺れた。
「さあ、移動しましょう」
男は律儀に、地面に刺さったクナイを引き抜き、土を払いホルダーに一本一本を納めていく。
「はいっ?」
里を出て二日、やっと小屋に着いて人心地つけると思っていた矢先だっただけに、暗部の男の発言に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「この小屋をどれだけの人間が知ってると思ってるんですか。こんな所じゃオレは安心して任務に集中できませんよ」
男はイルカを振り返りもせずに地道にトラップを解除している。解かれているトラップを見て、イルカは肝が冷える思いだった。クナイの刺さった地点は確かにイルカが居た場所で、今、男が修復している落とし穴は、クナイの地点からイルカの後方への跳躍、おおよそ一回分の所だ。
「ではどこに…」
複雑な気分で言葉を重ねるイルカに男は、其処のトラップも片づけて、と明後日な回答を寄越してくれた。それは、左足で跳んだ所に仕掛けてある物取り網だった。
本気で殺す気があったのではないかという思いを、理性でどうにか押しやりながら、イルカは、素直にそのトラップを回収した。
「火影様とオレしか知らない小屋へ行きます」
最早質問に答える気はないのだろうと、イルカが一人で納得してる頃になって、男はそう告げた。
男は素早く印を切って、影分身を作ると、その一体をイルカに変化させた。
「逗留先の変更は三代目も承知です」
二体の影分身はそのまま小屋に入っていく。
「附いてきて下さい」
目の前の男はおそらく上忍、こんな計算ずくの高度なトラップを作るのである。そうなるとイルカの上官にあたるわけだから、取りあえず、何の反駁もせずに附いていくことにした。
なぜ、ここまでこの男が用心しているのか、イルカにはさっぱり分からなかった。
「涅と呼んで下さい」
朝露の零れる道すがら、偽名であることを隠そうとした様子もなく、男は言った。
「涅…さん」
里支給の黒装束に身を包んだ体に肌の露出部分は少なく、それでも、顔の露出した部分だとか、時折外套から垣間見える素肌は、白さを通り越した透明さに、その呼び名に不和を覚えるが、ふと、視界に入る不思議な髪の色にその違和感が消えた。
光を吸い取るような、まるで煤けたような、黒。イルカの髪も真っ黒で、白髪も、色の抜けたものも全くないと言っていいが、それなりに、光を跳ね返すだけの艶やかさはある。
この、暗部の男は、まるで、光を受け付けないような透度の高い肌に、それを吸い取るような闇色の髪。まさに水底の死を彷彿とさせる。
言い得て妙の域だ。
「敬称は要りません。ただ、涅と」
木々の間を、地を駆る獣よりも早く移動しながらの言葉とは思えないほど、玲瓏な声だ。葉摺れの音など、ものともしない。
「あなたも、名乗る必要はない。何と呼べばいいでしょう」
名を騙ったことなど、未だかつて、イルカには経験がない。男、涅のように顔を覆っているわけでもなく、ましてや自分には顔を横切る、殊更目立つ傷があるのだ。名を偽ってもすぐに正体がばれてしまうのは必至だ。
必要性をイルカは感じられなかったが、上官が言うからには必要なのだろうと、何か気を利いたことを言おうと頭をひねった。
そうこうしている内に、目的地に近いのだろう、涅が速度を緩める。あの小屋から、ずっと直線に走って、半時。およそ五里は離れている。それでも、この広大な森の一部分を移動したに過ぎない。滝の町はずっと右手方向にある。
涅が足を止めて、地面に降り立ったところは、さっきの小屋と全く同じ結界が張られているようだった。しかし、あれだけ用心深い涅が選んだ場所だ、実際にはもっと強いフィルタをもった結界かもしれない。
「場所を覚えて下さい。もし迷子になっても、この森じゃ探してあげられない」
とはいうものの、目印なんて、何もない。
森の中に忽然と現れる小屋。しかも二メートルも離れると、その小屋は結界によって姿を隠す。
眉を顰めて思案するイルカに涅は一瞥をくれてから、小屋の中に入っていった。イルカは小屋の屋根に立ち、そこから、上方を覆う枝から枝へ飛び移って、樹冠に身を隠しながら周囲を見渡した。其処からは滝の町が一望できる。存外この森は起伏があるらしい。
任意に作られたかのように見えて、町を確認するとそうでもないらしい。白を中心に町をぐるりと円状に囲む郭壁は全部で八もある見張り台が高く聳え、その内一番近いものに「坤(南西)」と描いてあるのが見える。その坤の見張り台から城の方に真っ直ぐ視線を伸ばすと町の向こうにまた、見張り台が見える。つまり、この涅の樵小屋は、坤と城、そしておそらく艮(北東)の見張り台の直線上に位置するのだ。
町に向かって、めぼしいものを目印に風景を覚え込むと、イルカは其処から降りようと首を下に巡らせた。ふと、其処には小屋が見えている。屋根からは五メートル以上も離れているはずである。
なるほど、上空からは見付けられるようになっているのだ。こけむした屋根は、その距離からなら、建物だと把握できるが、空を飛ぶほどの速度ならば、擬態出来るので問題ない。一つ覚えると、イルカは先に涅が入った小屋に入った。
古びた外見に似つかず、内側はそこそこキレイだった。引き戸からはすぐに土間があり、水瓶が三つ、竈の傍には木炭の入ったビニールが大きな木箱一杯に入っている。
そこに脱ぎ散らかされた草履はきっと涅のもの。そっと、イルカはそれを並べて、障子を開いた。すると、其処にはまたご丁寧に障子がある。おそらく、夜になると冷えるのだろう。障子と障子の間は板張りで廊下の様になっている。
おそらく一間しかない部屋のその障子を開けると、中には涅の姿が見えなかった。
何処かに隠し部屋なり、隠し通路なりが存在すると言うことだろう。
八畳ほどのその部屋は真ん中に囲炉裏があって、奥にはまた、障子。その薄紙に光が透けていないのを見ると雨戸がしまっているのだろう。左手には小さな引き出しが沢山並んだ棚と箪笥が設えてあり、右手には襖。襖の中には布団が4組と座布団が同じだけ。長い間収納していたような特有の黴の臭いは全くなく、新品のようにふかふかのそれは、無理矢理狭い収納に押し込められている。ご丁寧にシーツまで用意されている始末だ。
奥の障子と、現れた雨戸を開けると其処は、縁側とちょっとした庭になっていた。誰が世話しているのか判らないが、野菜や薬草が植わっている。ここは森だった筈なのに、どうしてこんなに地面に日当たりがいいのかさっぱり分からない。
任務ではなくて、まるで田舎に引っ越してきたような感覚を覚えたイルカだった。庭の明るさにか、自分の想像との差異にか、イルカは軽い目眩を覚えるのだった。
とりあえず、ここに長く逗留するのなら当面の問題は水だ。降雨量は少なくない滝だが、名前の通り、集中豪雨的な降水が多いことでも有名だ。どのように確保しようか、イルカは土間に戻った。
水瓶を覗き込み、貯水量を確認する。三つの瓶に今は満ち満ちているが、もし、体を清めるためにも使うのならば、一週間持つか持たないかといったところだろう。これは飲料水として蓄えておいて、体を清めるためには、雨水を使うしかない。
イルカは盥を探し出して、大きさを検分した。
その瞬間に、その不思議な音が聞こえた。
がちゃ、ぱたんと、まるで扉が閉まるような音が。
この小屋に扉なんてものがあっただろうか。と、ふと、その音の方向に首を巡らせると、其処には見知らぬ女が立っていた。
廊下に立ち、きょとんとした顔で、しゃがんだまま盥を抱え込むイルカを見下ろしている。
草の衣装を纏ったその長身の女は、火の城下町でも、高級傾城でも見かけないよな美女だ。元がいいのは言うまでもなく、嫌みのない化粧がそのかんばせに華を添えている。
しかし、そう、思ったのはその一瞬だけだった。
「なにやってんですか」
と、その女性は男の声ではっきりとのたまった。その低い声に思わずイルカは硬直する。
「何か、盥の中に面白いもんでも入ってますか?」
女は手にしていた下駄を放り出すと、委細構わずに裸足で土間に降り、イルカの横に並び、盥の中を覗き込む。勿論、イルカは大きさを確認していただけだから、何も楽しい事なんて有りはしない。女は、「つまらん」と、子供のような仕草で、放り出した下駄を揃えて部屋に戻った。
「…もしかして…、涅さん…?」
そのイルカの言葉に、女の紅唇が薄く真横に伸びる。にいと笑ったのだった。
涅なのだろう。その変化に、イルカは戸惑ったが、その位の変装は暗部にとってはお手のものなのだろう。幻術なのか変化の術なのか、はたまたただの変装なのか、イルカにはさっぱり見分けがつかなかった。
「一休みしてから、オレは町に下ります。木の葉組はもう昨日から調査を開始しているようですから、あなたはここにいて火影様や他の組からの連絡を待って下さい」
「…はあ」
思わず出てしまった気のない返事に、涅は不満もなさそうで、咎めるでもなくその、まったく女のナリをした長身を畳の上に横たえたのだった。
しかし、これから、どうしていいのか分からずに、イルカは途方に暮れ、とりあえず、収納から掛け布団を引っぱり出し、涅の体にかけた。涅は美しいかんばせでイルカを一瞥すると、何も言わずに掛け布団に縋るようにして、その目を伏せてしまった。
イルカは、庭に下りて、植わっているものを調べ、雑草を抜いた。
どのくらいその作業に没頭していたのか、雨戸が開けられる音で、イルカは我に返った。太陽は既に中天に達している。
小屋を振り返ると、其処には寝ぼけ眼を擦った涅が立っていた。相変わらずの美貌にどきりとする。まさか、本気で寝ているなんて思いもしなかった。
「おなか、空きませんか」
そう、涅がまだ、寝ぼけた声で問うたのに初めてイルカは、自分の空腹を悟る。考えてみれば昨日の晩以来食事を摂っていないのだ。
「何か、用意しましょう」
涅が子供の仕草で頷くのを見て、イルカは土で汚れた手を軽くたたき擦り合わせるように払って、部屋に戻る。
「竈や囲炉裏に火を焚いても大丈夫ですか?」
「…はい…」
「ちょっと時間がかかりますので、もう少し休んでいて下さい」
それにも涅は同じ様な仕草をみせると、再び掛け布団の中に潜り込み、膝を抱えるように小さくなった。
手を洗ってから、米を三合ほど洗って、竈で米を炊き始める。水に浸しておきたいのだが、時間がない。米や味噌、梅干しなどは廊下の床下にあたる冷暗所に保存してあった。
囲炉裏にも火を熾し、其処では鍋に湯を沸かした。イルカが任務に出るとき大抵持ち歩く干し肉を削いで、その湯の中に入れる。獣肉だが、そこそこの出汁は出るだろう。
火を調節するために何度も土間と部屋を行き来するイルカに、男はいつまでも眠っている。風による木々のざわめきや、火の爆ぜる音に混じって、幽かに穏やかな呼吸の音がイルカの耳にも届く。
結いもしない真っ直ぐな黒髪を畳の上に散らして、子供のように小さくなって眠る男は、暗部に配属されるような腕利きにはけして見えなかった。
ともすれば、それこそが暗殺特殊部隊配属に必要な事なのかもしれない。それと一目で分かるような人物では、標的に隙を見付ける事なんておそらく難しいことだろう。目の前の男は、これだけの美貌だ。例え相手が男だろうが女だろうが、心を掴むことは容易いに違いない。
容姿も肉体も最早才能の内であるこの世界にイルカには、最早頂点など獲る気も起きないが、この男なら出来るのではないだろうかと、ふと考えた。
庭に再び戻って、まだ大きくなりそうだがしかし一番大きな大根を、一本引き抜いて、葉から根までみそ汁にすべく、煮立った湯の中に投げ込んだ。一時に食べる分には多いから、料理の間に軒下に干す。
器を薬箪笥の引き戸から探し当てる頃になって、男は目を覚ました。緩慢な所作で起き上がって、周囲を窺うように首を巡らせている。
「いい匂いがする…」
起き抜けの言葉が、それだった。
「もう、すぐ用意できますよ」
ちょっとだけ笑って、イルカは壺の中から梅干しを鉢に取り、鍋に味噌を溶いて、椀に装った。刻んでいた分葱を散らすと、男は不思議そうな面もちで椀を覗き込む。炊き立ての白米を出すと、質素な昼食の出来上がりだ。
「粗末ですが…」
「いえ…」
妙に恐縮したような声で涅は箸を取り上げて食事を始める。それを見てから、イルカも手をつけた。ちょっとだけみそ汁に塩気が強い。干し肉に若干の塩気がある事を忘れていた所為だが、涅は全く構わずにがつがつとこの粗食を喰らっている。
「おかわりは…」
「お願いします」
ずいっと差し出された米茶碗を受け取る。
取りあえず、お櫃に移し替えた飯を装ってやると、男はまた、がっついた。余程、腹が減っていたのだろうか。空になっていた汁碗にもみそ汁を注いでやる。
これだけ喰われれば作った甲斐もあるというものだ。
結構な量を肚に納めると、男はやっと人心地着いたかのように、息を吐き出し、イルカの淹れた茶を啜りながら呟いた。
「まさか、任地で味のついた暖かいものを食べられるとは思っていませんでした…」
暗部とはそう言うものなのか、と妙に納得した。
「料理が上手な人が相方で、まあ、よかった。これで女で床上手だったらもっと文句なしだったんですが」
「女の格好で言われてもなんだか変な感じがしますよ」
そう切り返すと、涅は、紅の薄くなった唇の端を吊り上げて、着物の裾を割り開いて見せた。
「何だったらやりますか? おれは床上手で文句なしですよ」
其処まで化粧してる筈はないのに、いやに白い、まるで血管の透けているような太股がきわどい辺りまで晒され、思わず、イルカは顔を背ける。耳にまで血が上るのを感じると、それが見た目にも判るのだろう、涅は笑った。
「冗談ですよ」
涅はさも可笑しそうにくつくつと笑いながら、裾と髪を簡単に整えて、土間に下りると、どこからか持ち出した、白に蘇芳の蛇の目傘を手にして、イルカを振り返る。
「それでは、町に下りてきます。留守をよろしく」
「はい」
居住まいを直して、イルカは膝を揃えた。
「今晩は遅くなると思いますので、適当に休んでいて下さい。結界はオレ以外の誰かが触れると即座にオレに帰還命令を出すようになっています。勿論あなたでも反応します。なので、誤作動を防ぐために、あなたは今日は結界から外に出ないようにして下さい。明日作り替えますので」
「判りました」
息の詰まる事だが、仕方ない。幸い庭もあるし、薬を作っていてもいいだろう。
「それでは行って来ます、タライさん」
涅は、そのまま振り返りもせずに結界から出ていってしまう。
タライさん?
タライ…?
イルカは硬直したまま動けずに、まるで誰かの名前を呼んだような涅の言葉の意味を考える。後ろを振り返ってみても誰も居ない。
自分の事か?
「オレのことかー!」
土間の隅に置かれた盥を見つめる。きっと、これを覗き込みながら、自分は滑稽に見えたのだろう。早々とまともな偽名を名乗っていればこんな事にもならなかっただろうに、イルカは、自分の判断ミスと涅のセンスを呪い、その場に打ちひしがれたのだった。まるで、祖国で見たテレビのコントのようだった。
まあ、偽名は偽名。それがイルカの本名になるわけでもないので、潔く名前を頂くことにする。
あらかた庭いじりをし、陽が西の大地に沈む頃に小屋へと入って、昼食の残りで雑炊を作って晩飯代わりとし、火影の連絡を三更まで待ってみたが、音沙汰もないので、自分の分の布団を敷いて横になった。
布団の中で脳裏を横切ったのは底抜けに明るいユウヒと、思慮深い初香の笑顔だった。
温かくて柔らかい、まるで新品の布団に身を包まれて、旨味も塩気もない忍者食などではなく温かい料理で腹を満たすことが出来、のんびりと庭いじりをして。
こんなことで、彼女たちを救うことが出来るのだろうか。
こんな調子でいいのか。
自分だけ、こんな温かいところで大事にされているようで、二人に忍びない想いが沸々とわき上がる。
彼女を救いたくて、この任務に志願したはずだ。明日は、涅に同行しよう。
そう心に決めると、イルカはそれ以上の思考を理性で追い払い、眠気を迎え入れることにした。
もともと、疲労はだいぶたまっている。それが訪れるのは、あっという間だった。
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