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プリズム




 その僥倖に恵まれたのは、十五の頃だった。
「宿題をする事がイヤでイヤで仕方なくてね、こっそり部屋を抜け出して、庭園へ行ったんだ」
 それで、と、息子が袖を頻りに引くのに、頭を撫でて返す。
「その晩は、お月様がまん丸で、お花や葉っぱがキラキラしていた。そこに、その人は高い垣根をぽぉんと飛び越えて、まるで羽のように軽やかに降りてきたんだ。そして、後から追いかけてきた黒い影をね、まるで魔法のようにばったばったと倒していったんだよ」
「すごいね! せいぎの味方かな?」
 興奮したような面もちで、五つになった息子は腕を振り回す。どうやら、敵をなぎ倒す真似をしているらしい。お世辞にもそれは、あの時の風景とは言えない。あの時の、あの人の神々しさは、息子の愛らしい姿でさえ敵わない。
 あの、白い光の花冷えの夜。
 はらはらと桜が振り散る中に現れたその姿は、少女とも少年ともつかず、しなやかな線の細さは幻のようだった。影を捉えた瞬間の、まるでネコ科の猛獣のようなキバと跳躍が今でも網膜に焼き付いているようだ。
「それは、とてもきれいな人だった」
 返り血を浴びて、尚、白い肌は、月の白さばかりではなかったはずだ。まるで玉のような玲瓏な瞳は、血の穢れなどではけして濁りはしないだろう。
 二人の子供は目をキラキラと輝かせながら、自分を見上げている。きっと、あの時の自分もこんな顔をしていたのだろう。
 あの時の出会いが、まさに志学の時…。




   ***




「どう? 似合うかな」
 初めて手にした額宛は、思いの外、ずっしりと重かった。木の葉のシンボルが彫り込まれたそれに、ずっと憧れていて、今日やっと、手に入れた。
 早速額に巻いて、初香を振り返ると、彼女も支給されたばかりの額宛を装着していたが、四苦八苦しているようだった。
 ふたりで、もの慣れない様子に笑いながら、夕日の射し込むアカデミーのトイレで鏡の前を占領したまま、納得するまで何度も真新しい鉢鉄を結んだり解いたりを繰り返した。
「明日から、忍者だね」
 初香が改まって手を差し出すのに応じて、初めて握手をした。
「こーら、まだ、こんな所にいたのか」
 背後から声をかけられて、思わずびくっとしてしまう。
「イルカ先生!」
 振り返ると、其処には今日までこのアカデミーでの担任だったイルカ先生が困った顔をして立っていた。
「先生、女子トイレまで見回りすることないでしょー」
「仕事だからなー。そろそろ行かないと、初香もユウヒも、親御さん心配してるぞ?」
 困ったような、いつもの笑い顔のまま、イルカ先生にトイレから追い出される。
「大丈夫よ、ちゃんと帰るんだもん、父さんや母さんには今日の夜に見せればいいし…」
 初香はそう言うと下を向いてしまった。
「くノ一は少ないから、同じ班にはなれない…。ユウヒと一緒に居られる時間が減るんだもん」
「初香…」
 初香のその言葉にビックリしてしまった。そんなに自分のことを大切に思ってくれているだなんて知りもしなかった。ただ、自分は忍になりたくて、精一杯の中で初香と知り合っただけだと思っていたから。
「大丈夫だよ。任務のない日は一緒にまた遊ぶことも出来るんだから」
 イルカ先生は優しい。
 ユウヒたちが初受け持ちだった新任の先生は、顔に派手な傷跡があって勿論厳しかったけど、優しくて、ちょっと格好いいところもある。ユウヒは無条件にイルカ先生が好きだった。
「イルカ先生は、判ってない…」
 茜色に染まった校舎を出る頃になって、初香がぽつりと呟いた。とぼとぼと歩く足取りにいつもの軽やかさはなかった。
「初香…?」
「イルカ先生は、酷いよ…。優しいから、酷い…」
 ユウヒには初香のいわんとしているところが全く理解できなかった。あの、優しい先生に対して何て事を言うんだろう。でも、初香は肩を震わせながらしゃくり上げていて、今にも泣き出しそうな声音だったから何も言えなかった。
「だって、ユウヒ。私たち、本当に忍者になったら、いつジュンショクするか判らないんだよ、いつ死ぬか判らないってことだよ…。勿論、最初からそんな危険な任務になんて就かなくていいけど、いつかは…」
 風が、通り抜けた。
 家路までの木々の暗がりに、風が走り抜けて、初香の声を掻き消した。
「……」
 ユウヒは、そんなことを考えもしなかった。
 木の葉の里に生まれたからには、片親が忍であるからには、ユウヒは忍になるべきだと、もっと小さな頃から考えていた。
 父のような、医療班の中忍でもいい、里の役に立つことをしたいと、ずっと考えていたし、両親も反対しなかった。初香のような考えを、抱くこともなかった…。
 道が暗い所為にして、ユウヒは俯きながら、とぼとぼと歩き続ける。
「ねえ、初香…、イルカ先生はそしたら、私たちが遅かれ早かれ死ぬと判っていて、いろいろ教えてくれていたのかな…」
 あの、穏やかな笑顔の向こうにそんな打算なんて欲しくはない。純粋にユウヒたちのことを好いてくれていたからだと思いたい。
「私は、イルカ先生がそんなつもりで忍の心を教えてくれていたんじゃないと思う…。きっと、争うことだけが忍の領分じゃないよ…、ねえ、初香」
 生き残る可能性があるから、この額宛を託されたんだと思うよ。
 しかし、初香からの返答はない。
「初香…?」
 思わず振り返ったが、其処には初香の影も形も見あたらなかった。
「初香?」
 風が。
 ザザザザザ。
 闇に。
 其処は、木々が覆い茂る、町中の、闇。
「初香ッ」
 ふと、背後の空気の流れが変わったのが判った。判った瞬間、振り向く暇も声を上げる間もなく、口元に布があてられる。刺激臭を感じた途端、逃げなければと、ユウヒは藻掻いたが、自分を拘束する腕は太く堅く、到底敵わない。
 そのまま、引力に引きずられるように、ユウヒの意識は闇の中に溶けていった。



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