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MEDUSA




 目が覚めたのは不思議な時間だった。
 カカシは目が覚めて、あたりを見渡したのだが、寝る前より明るい気がするのだ。
「…アレ?」
 頭を掻きながら一人ごち、日付つきのデジタル時計を確認すれば、その不思議のからくりは納得できた。日付がカカシの帰ってきたはずの日の翌日になっていた。どうやらカカシは二十三時間もたっぷり眠っていたらしい。お陰で心身ともにすっきりしている気がする。
 任務が一日早めに終わっていたから良かったものの、これが七日目ぎりぎりに終了していたならきっとカカシは火影の執務室で倒れ込む羽目になっていたに違いない。
 カカシは早速火影に報告に行くべく、シャワーを浴びて着替えをした。
 すでに譲葉が死んだのは昨日の事だから、火影には既にその話は届いている事だろう。だからといって、報告に行かない訳にもいかない。カカシが無事であることをまだ一切伝えていないのだから。
 火影への報告が済んだら、イルカの許に会いに行こうと考えながらカカシは玄関を開け、その時ようやく自分が施錠もせずに二十三時間眠り続けたことを知って、苦笑した。
 お腹がすいているのを自覚したのは、火影屋敷への道の途中で、民家から漂ってくる夕食の臭いを嗅ぎつけたからだ。
 以前イルカと一緒に居酒屋へ行こうと約束していたからその約束を果たしても良いな、とカカシは考えた。単純にイルカと一緒に食事をしたいという思いが沸き上がり、そのことには何の違和感も抱かなかった。
 火影の屋敷に着くと、待っていましたとばかりにすぐに執務室に通された。運良く火影は中で事務処理をしていたらしく、待たずにすぐに会うことが出来た。
「ただ今戻りました」
 本当は昨日の内に戻っていたのだが、形ばかりにそんな言葉が出た。
「おう、待っておったぞ。無事任務を果たしたようじゃな」
 火影はわざわざ椅子から立ち上がってカカシを出迎えてくれた。やはり、任務の結果は耳に入っているものらしい。
「ご存知でしたか…」
「知っておるも何も、今日の新聞に載っておるぞ」
 そう言いながら火影が差し出した今日付けの新聞の一面に、確かに譲葉死亡の見出しがでかでかと記されていた。仲間割れか、と書かれてフゲンの名前も出ていることから、カカシの思惑通りに事が運んだようだった。
「見事な手際じゃ。依頼主の方からもボーナスが出るじゃろう。前の任務の際には休日返上で働いて貰ったからのう、里からはお主の都合のいい日に何日か有給休暇を支給しよう」
 前の任務の際――――という言葉を聞いて、カカシはふとイルカのことを思い出した。火影ならば自分以外の万古蘭の影響者のことを何か知っているかもしれない。
 そんなカカシの気持ちなど気付くことはなく、火影は言葉を続けている。
「葛城兄妹の動機も判明した。やはり目的はうみのイルカの略取。お主に振られての腹いせらしい…」
 さも呆れたという様子の火影にカカシは心外な気持ちになる。そうさせたのはカカシかもしれないが、その道を選んだのは彼らの勝手だ。そして、葛城ユイとカカシは接点など殆どなく、彼女の激しい勘違いの果てにイルカを狙ったのだ。カカシやイルカに非はない。
「それに兄も協力するとは…まあ、ちょっと思いこみの激しい一家なのかもしれないな…」
 火影は一人で納得して何度か頷いている。彼らのことはカカシにとっても苦い経験だから、出来れば話題にあげないで欲しい。それでも詳しい報告内容が暗部の後輩の手でカカシには伝えられるのだろう。
「…その他に何か質問はあるか?」
「あの、結局イルカ先生は元に戻ったんですか?」
「ああ、お主は目覚めたときに側におらんかったから知らんのか。無事に万古蘭は抜けたぞ」
 それを聞いてカカシはほっと胸をなで下ろした。ともすれば摩雷妃の影響でまだ眠り続け、その所為でカカシから薬が抜けないのかとも考えたからだ。
「目が覚めた翌日からアカデミーに勤務し、そろそろ受付にも復帰するようになるじゃろう」
 つまり、体に異常はなく元気だと言うことだ。そうでなければ、このイルカを好きすぎる里長が彼を仕事に出したりなどしない。
「…それで、万古蘭影響下に置かれていた人々はどうなりましたか…?」
 イルカの無事と同じくらいカカシの気になっていたことだ。しかし、どうしてカカシがそんな話をするのか火影には理解できないらしく、首を傾げた。
「…影響下の者はイルカが目覚めたと同時にほぼ皆影響は解けたようだが…」
 その火影の言葉にカカシは衝撃を受けた。
「全て…ですか…?」
「把握している人間は…じゃが…」
 万古蘭影響下の人間は全て元の状態に戻っている。じゃあ、カカシの抱くこの気持ちは何だというのだろうか。暫く硬直してしまったカカシに火影は不安そうな視線を向けた。
「それが何か問題でもあるのか…?」
「い…いいえ…」
 咄嗟にカカシは否定したが、それは普段ならば火影に通用するようなものではなかったと思う。しかし、カカシが余りにも尋常ではない様子を醸し出していた所為か、言及されなかったし、きっとカカシもまともな応えを火影に返したとは思わない。
 カカシ以外の人間は全て治っている。ならば、カカシも例外なく治っているに違いない。 それか、別に治らないような理由が他に何かあるのか。
 他の人間よりも長く側にいて視線を浴び続けた所為なのか、それとも、効果が出るには距離があって、任務で遠く離れていたカカシにはまだ摩雷妃の解毒が効いていないだけなのかもしれない。どちらにしろもしそうなら、カカシが短気な行動を起こせば更にイルカを傷つけるだけで、いい結果を生まないことは分かる。
 カカシはさっきまでの浮かれた気分が急激に萎むのを感じた。もしかして、自分のこの気持ちはまだまやかしなのかもしれない。イルカを好きだという気持ちにもなぜだか自信が無くなってくる。
「まあよい…。子供達もお主の帰りを待っている。明日は一日休養を取り、明後日より通常任務に就くがよい」
 火影にそう締めくくられて、カカシは空っぽに感じる気持ちを抱えて、里長の前を辞したのだった。
 腹は空いていたのだが、抱えた空虚が胃まで侵食したのか、空腹を感じるような余裕さえ無くし、カカシは自分の部屋に引きこもった。相変わらず埃っぽかったのだが、そんなことは些末なことだった。



 子供達の任務は、今まで影分身で行っていたため、ひどくハードに感じられたものだが、久しぶりに本体で行ってみると、思った以上に動けて安心した。思いの外頑丈な彼らを投げ飛ばし、死なない程度に稽古を付けてやると、少しだけすっきりしている自分に気が付き、無意識のうちにストレス発散の対象にしていたようで、青ざめた。子供相手に大人げない。
 もしかして暫く戦場にいた方がましかもしれないなどと思ったが、摩雷妃に効果に有効圏内というものがあるのだとしたら、外れてしまう可能性が高くなり、見極めが難しくなることは必至だ。
 子供達との戯れの後に、こっそりと万古蘭影響者のあとをつけて摩雷妃の効果を調査したのだが、確かに火影の言うとおりすっかり毒気が抜かれていて、既に他の恋人がいる人間までいた。
 取り残されているのは、カカシだけのようだった。
 カカシにはまだ摩雷妃の効果は現れていない。あの晩のことを思い出して自慰もできれば、時折無性に淋しくなって郊外の家へ一人赴くことがある。いつも明かりは点いておらず、落胆して帰ってくる羽目になるのだが、じっとしているよりはましだった。
 イルカに会いたい。
 でも、傷つける可能性が残っている限り、おいそれと顔を合わせるわけにもいかない。それがカカシに唯一出来るイルカへの罪滅ぼしだ。軽い気持ちで万古蘭の瞳を見てしまったことのツケは存外に高い。勿論受付にも行けないから、その点は子供達にまかせッきりだった。
 時折ナルトやサスケ、サクラ達から仕入れるイルカの情報だけが、乾ききった心を癒す栄養となった。
「カカシ先生、イルカ先生と喧嘩したの?」
 それはある日突然サクラからぶつけられた質問だった。カカシは受付から任務を貰ってくる子供達を待って、集合場所で愛読書を広げていた。
「え〜? してないよ」
 喧嘩はしていない。すれ違いはしているけれど。内心の動揺を押し隠してカカシはそう答えた。
「そうなの? そしたらイルカ先生何であんなこと言ったのかしら…」
「? 何を言ってたの?」
 興味深々で尋ねると、サクラは考え込むような仕草をして、それから、上目遣いでカカシを見た。
「カカシ先生に避けられているみたいだって…」
 サクラが躊躇いがちに応えた言葉は意外なもので思わずカカシは固まり、取り繕うことさえ忘れた。サスケとナルトが側でぎゃーぎゃー騒いでいたが、全く耳に入ってこない。
「…そんなこと無いんじゃないって言ったら、イルカ先生、悲しそうに笑うから…」
 何かあったんじゃないかと…と語尾を濁したサクラの頭にカカシは手を置いた。
 そんな風にイルカが感じるとは思いもしなかった。カカシが子供達に受付の仕事を任せているのは何も今に始まったことではなかったし、以前の様子に戻るのなら、一週間に一度どこかですれ違う程度の頻度でしか会っていなかった。
 だから、カカシが苦しいとは思っていてもイルカがそんな風に感じているなどとは想像もしなかったのだ。
 しかし、確かにカカシはあの日、イルカが摩雷妃という特効薬を投薬した日から今日まで、いつの間にか一月が経っていて、その間一度も会っていない。
 まだ、イルカへの思いが身を焼いているため、会わない方がいいのだと自分に言い聞かせていた。いつか、この想いが消えてしまうのなら、会わない方がいいと――――そう。
 イルカとカカシの替わりにいつの間にか泣き出しそうになっている少女の髪を撫でると、少しだけ落ち着いてくる。
「大丈夫だよ。本当に避けているわけじゃないから。近い内にイルカ先生には会いに行くよ」
 必ず何らかの機会が訪れる。
 カカシはそう思ってサクラにそう誓った。彼女は今すぐにでも、という言葉が欲しかったようだが、それは約束してあげることが出来ない。これがカカシの精一杯の譲歩だった。
 男は人の機微に疎くていけない。カカシはナルトとサスケを見てそう思った。二人はまだ大人の世界など知らずに元気に罵り合っていた。





 それは、イルカの護衛の任を受けてから、季節が一つ入れ替わったのを実感するような天気の日だった。
 カカシは日中子供達と戯れて、午後は近場でのちょっとした任務をこなして、帰ったのは七時くらいだった。子供連れでも出来る簡単な仕事だったのだが、そうすることでさらに時間がかかりそうで、彼らは昼食を食べさせてから暫くして後は自習という名の解散にした。
 カカシが最近自炊することはなく、外食ばかりの食生活にそろそろ飽きが来ていたが、家に帰れば食欲を忘れる。それは自分の体を維持して行くには不都合で、面倒だとか、興味がないとか思いながらも、今日は一つの店に向かった。いつもはどこに入ろうかうろうろとしてしまい、適当に捕まったところにしてしまうのだが、今日は意志を持って店を選んだ。
 カカシが暗部時代によく通っていた店だ。料理を覚えた店でもある馴染みの所で、カウンターだけの狭い店内を案外気に入っていた。いつだったかイルカに見せたブリの捌き方もここで見よう見真似で覚えたものだ。
 どうして、今まで思い出せなかったのだろうかと不思議になるほど脳裏には浮かばず、今日の自分はもしかして冴えているのかもしれない、とカカシは久しぶりに心が浮き立つのを感じた。
 途中でカカシは本屋の目を通った。最近は通っていなかった道だけに、こんな所に本屋があったのかと覗き込んだ店先に、不意に目に留まった本があった。
 それはイチャイチャシリーズの最新刊だった。思わず入るつもりもなかった本屋に足が向いて、敷居を跨いでしまっていた。ポップには本日発売とでかでかと書かれているし、見たこともない表紙だった。
 ――――あの人、懲りてない〜…
 師匠の師に思いを馳せたが、一読者であるカカシにはこの本は大歓迎だった。カカシは早速その一冊を購入した。
 本屋の紙袋を持った忍が小料理屋に向かう姿は何だか間が抜けているけど、とても平和だ。
 このタイミングで新刊が出ると言うことは、自来也はあの事件の最中かそのあとすぐに書き上げたのに違いない。よくもまあそんな暇と根性があったものだと感心してしまう。
 ポップには「天啓が降りてきて、怒濤のように書き尽くした一作」とあり、具体的な内容は一つも理解できなかったが、自来也がこの本を出したくて出したのだと言うことだけはよく分かった。
 家に帰ったら読もう、とカカシは意外な戦利品にほくほくしながら小料理屋の暖簾をくぐった。
 久しぶりの来店に、カカシを覚えていた主は喜んでくれた。酒は頼まず、旬のものだけ摘んで、ご飯をかき込む。季節のものを食べると体が強くなると言うのを信じて食べているという感じだ。他の料亭や居酒屋よりも、なぜだかほっと安心する雰囲気がいい。
 飲み客よりも明らかに客単価が低く、居座る時間も短いカカシに店主は「また来て下さいね」と愛想良く送り出してくれた。暫くはこの店に通うのも良いかもしれない、とカカシは考えながら家に帰った。
 一日の汚れをシャワーで落とし、歯も磨いて、後は寝るだけという格好になってようやくカカシは本屋の紙袋を開いた。中には勿論イチャイチャ最新刊。珍しく上とか下とか書いてない所を見るとシリーズではなく、単発ものらしい。
 カカシはお茶を用意してベッドに寝転がり本を開いた。中表紙の見開きには、自来也の本にしては珍しく『親愛なるIとKへ捧ぐ』と意味深に書かれていた。
 本当に自来也が書いたのかな、と思いながら、ページをめくり、早速本文を読み進めた。



 ――――それは淋しい男の話だった。彼はそれまでに両親を失い、天涯孤独に生きてきて、女には持てなかった。(その設定の時点でカカシは読むのを止めようかと思うくらいがっかりした。イチャイチャシリーズはモテる男女のさわやかなエロ娯楽小説だと認識していて、決して自分と相似点のある人物の話など娯楽にはならないと思った所為だ。)
 兼ねてからの思い人に飲み会の席で振られた男は、仙人と出会い、ある薬を手に入れた。仙人は惚れ薬としか言わないが、男は半信半疑ながらもその薬を神にも縋る思いで使ってみると、暫くしてから男は不思議な力を使えるようになっていた。
 視線が合い、男が惚れろと念じた人物が全て彼に靡いて来るという。

 そこまで読んでカカシはようやく気が付いた。これが自分に似た男の話ではなく、イルカ本人の話であることに。
 貪るように、何かに急かされるように、カカシはページをめくる。

 ――――ある日男はその特異さから目を付けられて監視役をつけられることになってしまった。それは美しい女だったが、彼に影響されることのない特殊な力を持った存在だった。

その女はカカシだ。「美しい女」と表現されていることが、非常にむず痒かったけれども、事情を知らない一般読者にはそれは重要な事なのだろう。それはわかっているけれど、自来也は自分をこういう目で見ているのかな、と思うと自然と鳥肌が立った。

 ――――最初はその女と諍いばかりを起こし、男は女を良く思ってはいなかった。しかし、それが好意へと変わる瞬間があった。
 自分が不用意に影響下に入れた人間が襲ってきたときに、女が助けてくれたのだった。
 それから二人は急接近し始める。

 読み進めるたびに、そこには知らなかったイルカの気持ちが克明に記されていて、いつしかカカシは、その本に没頭してしまった。男はイルカ、カカシは女に成り代わって、物語の中でかつての生活をトレースしているような感覚になる。
 尾根の道に連れていったときは反応が薄いなと思っていたのだが、作中では「息が出来ないほどに感動していた」となっていたし、カカシから口付けたときの葛藤も、きちんと辻褄が合っていた。
 ここまで二人の生活をまねて書くのには、カカシかイルカの協力が絶対に必要なはずで、あれ以来カカシは自来也に合っていないことを考えると、イルカが自来也に協力したと考えるのが自然だ。いつの間に取材したんだろうかと思いながら、カカシはすぐにその疑問は同時に愚問だということを悟る。別れて以来イルカとカカシは会っていないのだから、いくらでもカカシの知らない内に自来也とイルカは会うことが出来たのだろう。
 イルカとカカシの現実の物語はまだきちんとした集結を迎えていない。このまま自然消滅のように終わってしまうのなら、それは物語として成立しない。娯楽小説として三流品だとカカシは思う。
 物語の中の二人はどうなるのだろうか、とカカシは期待と不安を込めて読み進めた。
 日付が変わったのも気が付かないで没頭し続ける。
 今のカカシには明日の任務のことを考える余裕など無く、一心不乱にその本を読みすす見た。
 そして、午前一時を回った頃にようやく読み終えたカカシが取った行動は、着替えて、家から飛び出すことだった。
 本は投げ出されて、ぽふという音を立てて、シーツの上に収まった。



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