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MEDUSA




 その領地は火の国の中でも水の国側、つまり海に面した所にあった。交易が盛んなところで、小金持ちである分、兼ねにものを言わせて譲葉は思い通りにさせてきたのだろうなとカカシは思った。
 カカシは譲葉の領地に入った途端、早速彼の一番の寵臣である秘書課の長、フゲンの足下に潜り込んだ。いつもならば仕事でも楽しくやりたくて、時間を掛けて侍女を籠絡しスパイに仕立てあげるのだが、今回はそんな時間も気力もなかった。イルカのことが気になって、他の女に手を出す気にはなれないと、侍女を籠絡するという段階を想像しただけでその方法は断念した。
 だから、カカシは直接女に変化して潜り込んだ。自分をベースに変化したら、余りにも母親に似ていて、少し気味が悪かったが――――母親を嫌っていたと言うわけではなく、自分がやはり親に似ていると自覚すると妙な気分になる――――フゲンは一目見てカカシのことを気に入ったようで、あっさりと侍女に召し抱えられた。
 勿論そこまで行くまでにはフゲンの行動範囲を調べ上げて、彼の行く料亭に潜り込むという段階からスタートしているから、手間はかかっている。しかし、実際に接触して、気に入られてしまえば、あとはカカシが監督をしてカカシが演出をするカカシ劇場のスタートだ。  カカシはフゲンに召し抱えられた晩早速閨へと所望された。彼の周辺警護の男達に幻術を掛けて身体検査と称した味見を難なく通過して、下着の透けるように薄い主の趣味丸出しの夜着一つでフゲンの部屋へと通された。
 カカシが並み居る譲葉の奸臣の内、フゲンを選んだ理由は二つ。彼が殆ど譲葉の行動を把握しているという点が一つ。そして、もう一つは、閨に人を寄せ付けないある種の潔癖さを持っていたからだった。それはひどくカカシに都合のいいことで、悪党にしては不用心な事だ。
 良く来た、とハムのような指を差し出された瞬間にカカシは写輪眼の力を解放した。途端にフゲンは、メデューサに一睨みされたかのように体を硬直させた。
「明日譲葉と朝の予定確認をする際に、二人きりになれ。そして刃物で譲葉の腹を五回刺し、最後は喉元に刺せ」
 流石にそこまですれば譲葉の命はないだろう。そして、フゲンも言い逃れが出来ないほどに返り血を浴びるに違いない。
 写輪眼の強力な催眠術にかかったフゲンは、こくりと力無くカカシに頷いてみせる。
「そして、今晩は明け方まで新しく召し抱えた侍女と楽しく過ごしました」
 ふうっと耳に吹き込むように語りかければ、普段周囲に命令し慣れている男は犬のように従順にカカシに頷いた。
 カカシは最早用済みとばかりにフゲンの額を人差し指で小突いた。すると急に男は操り人形の糸が切れたように床に崩れ落ちた。カカシは適当に布団を乱して、その布団の中にフゲンを横たえる。カカシはそのままそこで明け方まで過ごした。写輪眼の強い力を放出しすぎて、今ここから出て何か起きても百パーセント満足な対応が出来るとは思えなかったため、その部屋のソファで体を休めてチャクラの回復を図ったのだ。
 空が白むと同時にカカシはその部屋を抜け出して、変化を解くと、そのまま譲葉の城へ向かった。港町だけあって一部は朝が異常に早い。働いている彼らに姿を見られないように注意してカカシは海沿いの譲葉の邸宅に侵入した。
 火影の資料に邸宅の見取り図が添付してあり、それは完璧に頭に入っている。それは譲葉が手痛くを建てるときに国に申請したもので議会が準備したものだから、今ではどこまで改造が進んでいるか分からない。申請以上に隠し部屋や隠し通路は多いだろうとあたりをつけて、カカシは侵入した邸内の廊下を堂々と進む。
 人の気配がそこら中にしていたが、起き出すような気配はないし、カカシも音を立てるようなへまはしない。この邸内で起きている人間がいるのは恐らく厨房と門の警備、巡回だけでそれさえ避けることが出来れば簡単に譲葉の喉笛を掻き切ることが出来る。
 それをカカシがしないのは、忍が介在したと言うことを周囲に証拠付けないためだ。忍は恐ろしいものと民衆に思わせてしまえば、それだけで自分たちの市民権はなくなる。特に今回は同胞を殺さなければならないため、木の葉の隠里が動いたと言うことは知られることは絶対に避けなければいけない。
 カカシは適当な部屋に入り、そこから屋根裏に忍び込む。そこから譲葉の部屋は近い。執務室で見た図面を思いだしながら、カカシは物音を立てないように細心の注意を払って譲葉の私室の上に辿り着いた。
 そこでじっと朝が来るのを待ち、譲葉が起き出すのを待った。やがて為政者らしく朝早めの七時頃起床し、その部屋でテレビを点け、新聞を開いたまま朝食を摂った。次の部屋で身なりを整えると、邸内にある執務室へと移動する。それに伴いカカシも急いで移動する。そこで譲葉は寵臣フゲンに殺されるはずだ。
 彼の側には常に二人の男が付き従っていた。二人ともそれなりに剛の者だと言うことは分かるが、それでも特殊な訓練を積んでいる忍に敵う者ではなく、きっと半人前のナルト達でも勝てるだろうと思われ、カカシにとっては物の数ではない。天井に潜んでいるカカシに気が付かない程度だから、護衛にもなってないんじゃないかとカカシは苦笑した。それでも彼らの厳つい容貌は一般人に対しては驚異となるのだろうか。
 八時半になってフゲンが現れた。強力な写輪眼での催眠に酔っているのかふらふらしている状態を側近に付き添われて、譲葉の邸内に入ってきた。
「フゲン、おはよう。今日は嫌に顔色が悪いな…」
「お、おはようございます…譲葉様…。今日はスケジュールの確認の前に、お耳に入れておきたいことが…」
 顔色と相まってフゲンの言は深刻さを増している。寵臣からの切り出しに、譲葉もすっと目を細めて、興味があることを示した。
 いい具合じゃないか、とカカシはそれを天井から鑑賞する。
「…お人払いを…」
 すぐに譲葉はフゲンに従い、その二人の側近を下がらせた。彼らもフゲンなら大丈夫だと心得ているのか、素直にそれを受諾して、部屋から出ていってしまった。まるで心得違いだと言うことを知らずに。
「さあ、話してみよ…」
「…実は…」
 すっとフゲンが顔を近づける仕草をすると、自然に心得た譲葉が身を乗り出して耳を差し出そうとする。
 そして。
「…う…っ」
 譲葉の体が硬直してうめき声が上がった。一拍遅れてびちゃ、という粘着質の液体が零れるような音がする。そして、勢い良くフゲンの腕が動いて、カカシの命令したとおり何回も腹を突き刺しているのが上からでも分かった。
 フゲンの一突き目はどうやら肺か横隔膜を傷つけたらしく、刺された譲葉はまともに声を上げることも出来ずに血塗れにされていく。そして、息も絶え絶えになっているところにフゲンはカカシの指示通りに喉元に刃物を突き立てた。あの出血量では間違いなく助からない。もう死んでいる可能性の方が高く、生きていたとしても時期に絶命するだろう。
 それを見届けてカカシはその譲葉の屋敷を後にした。あの様子では、きっと護衛の彼らが気付くのは一時間以上後のことだろう。フゲンも写輪眼の影響が強く出て暫くは自分から動くなんて事は出来ないはずだ。その隙にカカシはその領地を脱出する。カカシの脚では一時間もあればそれも簡単なことだった。
 ――――任務完了。
 カカシは振り返ることなく木の葉に向けて走った。
 期日は今日で六日目。まあまあの出来だっただろう。
 そして、何より今回は女のつなぎを一切使わなかったことが時間短縮に一役買っていた。自分の母親が美人だという認識は無かったが、これでも通用するのならこれからはそうしても良いかもしれない。
 イルカに遠慮した結果がこれだ。イルカのお陰で、ターゲットとごく小さな周辺にしか影響が出なかったと言っていいだろう。今後のことは議会が良いように運ぶはずだから、どうなるか分からない。けれど、不用意に人を傷つけることはなかったと思う。
 ――――イルカと恋愛をしてから人間が丸くなったのかも…。
 そんなことを思って、カカシははたと急いでいた脚を止めた。
 そこはすでに譲葉の領地から出ているところで、深い森の中だから、行き会うのは野生の獣くらいだ。カカシはその樹木の枝で立ち止まった。
 任務の時は勝手にスイッチが入ったかのように集中していたけれど、今はそれが切れて気持ちは勝手に任務外の日常に切り替わりつつある。
 薄情なようだけれど、そうしてようやくカカシはイルカのことを思い出した。そして、胸に沸き上がってきたのは、あのもやもやと熱を保った感情だった。
 任務中に忘れていたのは、忍としての自分のプロ意識がそうさせたのだろう。しかし、思い出してしまえば、どうして隅に追いやることが出来たのか分からないほど濃厚で激しい。
 ――――忘れるんじゃなかったのか。
 この気持ちが消えるか、イルカの存在が自分の中で消えるか。摩雷妃の効果はそのどちらかだと思っていた。
 しかし、これは明らかに自分の中にイルカへの気持ちが残っている。任務に出立したあの時はまだイルカが眠りの中だったから気にしなかったし、その後の任務は――――。
 急にその熱い気持ちを覆うような黒く冷たい感情が沸き上がってきた。
 カカシにその気持ちが残っているというのなら、他の万古蘭影響者にも残っている可能性がある。そもそも摩雷妃を投与されたのはイルカだけなのだから、もしかして、影響下に置かれた人間はそのまま効果を持ち続ける可能性だってあるのだ。
「…くそ…っ」
 カカシはひとこと毒づいて走り出した。
 その可能性を考えずに、のこのこと遠隔地にまで任務に出た自分に対する毒だったし、送り出した火影に対するものでもあった。カカシが出たお陰で人を殺させるほどの強い暗示をかけて、依頼主の指示通り犠牲者は最小限に抑えられたが、里に残してきたイルカに何か起こる可能性が出た。そして、万古蘭の効果が薄まっていないとなれば、また再びイルカを巡って争いが起きているかもしれない。
 それを考えただけでカカシは気が気でない。イルカが好いてくれているのはカカシ一人だけなのであって、その他は淋しかったイルカが自分の意のままに操れる人形が欲しくて影響下に入れただけに過ぎない人間なのだ。つまり、イルカを傷つけても可愛がってもいい権利をもっているのはカカシただ一人だけ。カカシは無意識にイルカに対して貞操を守ったのだから、イルカにもそうして貰わなければ困る。
 カカシはひた走りに走った。一日中走り続ければ、なんとか木の葉の里には夜頃到着することが出来るだろう。
 カカシは走りながら里での算段を考えた。まずイルカに会って無事を確認しなければならない。そして、カカシがまだイルカを好きなことを告げればきっとイルカは喜んでくれるだろうし、カカシもそれを想像しただけで何だか嬉しい気分になる。
 ――――いや。
 そこで、一瞬カカシは冷静さを取り戻した。
 本当にイルカをまだ好きでいるか、分からない。
 この気持ちは本当にそうなのか。まずイルカに会って確認するのはこの感情に付けられている名前だ。そう考えを改めて、カカシは次に、イルカへの気持ちを告げることにした。
 そして、周囲の状況の確認。万古蘭影響者たちはカカシ不在のこの一週間どうしていたかをつぶさに尋ね、何かイルカに不届きなことをしていたら、上忍の権限でとっちめなければいけない。もしも、イルカも悪戯を容認していることがあれば、それも違う意味でお仕置きが必要だろう。カカシはそれをすこし想像してやに下がった。残念ながら原初の森の中には注意する者も奇異の目で見つめる者もいない。
 そして、もしも万古蘭影響下の人間達が完治していないようだったら、もし火影が対策に乗り出していないとしたなら、カカシが独自に研究して影響下の人間を一人一人なおるような薬を作ろうと心に決めた。イルカを狙う人間の全てを容認することが出来ない。
 自分の好きな人間が持てていることは嬉しいような気もするが、その全員が自分と同じような考えを持っていると想像すると、どうしても許せない。妄想の中だけとはいえイルカにいかがわしいことをして良いのはカカシだけなのだ。
 自分じゃない誰かにイルカが裸に剥かれていることを想像するだけで、カーっと頭に血が上りそうになる。比喩的表現ではなく世界が血に染まってしまうかもしれない。
 カカシは嫉妬の炎を燃やし、それをまるで燃料にして走る車のように、一心不乱に生まれ故郷を目指した。カカシは生まれて初めて自分の体が重いと思ったのだった。
 目算よりも早く、カカシは夕方には木の葉に辿り着くことが出来た。
 六日間の任務で受けた心労はその体に容赦なく鞭をくれ、思った以上に疲労困憊だったが、せめてイルカには一目会いたいと倒れ込みたい体を押してアカデミーへ向かった。その時間ならば、まだ残業をしているならアカデミーに残っているはずだ。
 任務を終えて久しぶりに帰ってきたはずだったのに、町並みなどちっとも目に入らない。真っ直ぐにカカシはアカデミーへと向かい、通い慣れた感じのする職員室の中を覗いた。
 しかし、そこにはイルカの姿はなかった。出勤を示す名札を見てみると、そこは青に変わっていて、イルカが今日休みかもしくは帰宅していることを示していた。
 その落胆が重くカカシにのし掛かり、もう一歩も動きたくないと思った。ただ、ここで倒れ込めば、何事かとカカシを眺めているイルカの同僚に迷惑を掛けることになるだろう。カカシは最後の力を振り絞って、自宅である上忍寮まで這うようにして進み、久しぶりで埃っぽい自分のベッドに横たわると、鍵を閉めることも失念して眠った。
 イルカに会うのは明日でも良い、そんな風に考える余裕さえ無く、カカシは昏倒するように意識を失った。




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