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MEDUSA




「カカシ、お主は明日の任務に就いて話しておくことがあるので、今この限りでイルカ警護の任務を解く」
「はい」
 いきなりこちらに話を向けられて、少し驚いたがそれを表に出さず、カカシは取り繕った態度で返事をした。
「執務室の机の上に資料を出しておる。イルカの投薬が終了したらすぐに行くから、先に行って資料に目を通しておくように」
 言外に退出を促されて、カカシは思わず躊躇った。最後までイルカの傍に居られるものだと思っていたからだ。何かカカシが居ては都合の悪いことでもあるのだろうか。思わずイルカの方に視線を落とせば、イルカは振り返ってカカシのことを見上げていた。
「あ、あの…っ 少し、カカシ先生と話をしたいんですけど…」
 出来れば二人きりで、と続けられた言葉に火影と自来也は顔を合わせていた。それから少し考える素振りをして、火影は立ち上がった。
「外に出ておるので話が終わったら呼ぶのじゃぞ」
「はい」
 里長はそこに摩雷妃を置いたまま「火影を退出させるなんてあやつら位じゃ」と自来也に愚痴りながらも素直に出てしまっていた。
 イルカはじっとテーブルの上の摩雷妃を見ていた。まさか、ここに置きっぱなしにされるとは考えていなかったのだろう。破棄できる好機とでも考えているのかもしれない。
「…多分アンプルはまだ残っています。あの二人が保険を掛けないわけがないでしょ?」
 そのカカシの言葉にイルカはびくりと肩を震わせて、それからカカシを見上げた。
「…そうですね…」
 今後再びこんな事が起きないとは限らない。点眼薬「万古蘭」の原材料となる蘭は死滅して今は精製不能と言われているけど、乾燥した薬草としての蘭は幾ばくか残っていて、だからこそ、イルカの前に点眼薬として現れた。ならば、精製の難しい摩雷妃をこの際出来るだけ作っておいて、有事の際に備えておくことは火影の役目となる。ここでイルカが目の前のアンプルを破棄したところで、イルカの信用が失われるだけで、結果は何も替わりはしない。むしろ悪い方に転がることは目に見えていた。
「…カカシ先生、今までどうもありがとうございました」
 イルカは座っていたソファから立ち上がって、深々と頭を下げた。その様子に今朝までの甘い雰囲気など欠片も残っていなくて、カカシは少し淋しい思いをする。
「…いいえ。それが仕事でしたから…。それにオレも楽しかったです…」
 これが今生の別れではないのだからしんみりする必要はない、とそう言ってあげられれば良かったのだが、カカシにはこれから任務が控えていて、そして、イルカへの思いとは本当に別れることになるのかもしれなくて、ごく当たり前の返事しか出来なかった。
 だから。
「この任務を受けて良かったと思っていることは、本当ですよ。イルカ先生」
 できるだけ素直にカカシはイルカにそう伝える。顔を上げたイルカの目には涙が貯まっていたが、彼は懸命に堪えて、そして笑おうとしているのが分かった。
「…やっぱり、優しい人ですね。カカシ先生」
 それが辛いのだ、と言わんばかりでそうイルカは呟いた。
「そんなことを言われたのは初めてです…」
「そうですか…。なら周りの人達はもしかしたらカカシ先生のそういう所に気が付いていないのかな…。あなたは自分が思っている以上に博愛主義者なんですよ」
 それが悪いことのようにも聞こえたが、それが忌憚無く言える最後の機会なのだと思ってイルカが言っているのに違いない。
「八方美人はオレも負けませんが、その場しのぎで、誰も好きじゃなくてみんなに冷たいかわりに平等に優しい…」
 イルカはそこまで言って俯いてしまった。
「…でもそれが、オレだけに向けられたときは、とても嬉しかったんです…。ユイ先生の時もハナダさんって言う人の時も、万古蘭の影響を受けた人達から守ってくれた…? …その時も…」
「イルカ先生…」
「オレの方こそ、楽しい時間でした…。もし、カカシ先生が万古蘭の影響下に無ければ、ただ辛いだけの日々だったかもしれない。少しでも楽しかったのは、本当です」
 そうして、イルカはそっとカカシの頬に手を触れる。そのまま口布を下げて、そっとカカシの唇に口付けた。
「ありがとうございました…」
 忘れないでとは言わないイルカが少し辛い。でも、それを約束できるカカシでもなかったから、その辛さを堪えるくらいで丁度良いのだ。
 ぎゅうっとカカシはイルカの逞しい体を抱き寄せて、脳裏に刻みつけるように空気を吸い込めばイルカの臭いがした。
 確かにイルカと恋愛をしたことだけは忘れたくなかった。
 離れがたい思いを抱きながらも二人は離れ、自来也と火影を中に招き入れた。それと交代するようにしてカカシが外に出る。
 扉が閉まるその時には、すでにイルカはベッドへと向かっている所で、背中しか見えなかった。自来也と何か話しているようだったが、扉は閉ざされ、声は聞こえなくなった。

 気持ちを切り替えなければ、と訪れた火影の執務室で、言われたとおりにカカシは宛われた任務の資料に目を通す。しかし別れ際に見た今にも泣き出しそうなイルカの顔をたびたび思い出して集中できない。仕方ないことと分かっていても、心がそれを認めるまでは暫く時間がかかるということだろう。カカシの理性にもどうすることも出来ず、ただ今は里から与えられていることを必至にこなそうと、集中する努力をした。
 ターゲットは火の国の大名の一人、譲葉。依頼主は火の国の議会。それでもランクがAなのは、Sだと国主に仰ぐ必要が出てくるから、議会は火影と話し合い、ランクAで受け付けたのだろう。ただし、報酬は流石にSランクの規定通り支払われる予定らしく、前金は既に入金済み。
 国主は大名譲葉を政治に加えさせはしないが、それでも大学の同期だとかで懇意にしているらしい。それを利用した譲葉が謀反の画策をしていることが内部告発されたのだ。議会はさっそく動いたが、確固とした証拠は何も見つからず、のらりくらりと譲葉は言及をかわしている。その上国主からも見苦しいと判断された上、内部告発者は何者かの手によって始末されてしまう事態となり、ついには忍の出番となったわけである。
 自治権を得ているとはいえ木の葉は火の国の一部であることは変わりなく、大切な母国である。その根幹たる国主が無くなれば火の国が揺らぐことは必至で、同時に木の葉も争いに巻き込まれることになるだろう。火影と議会の損得の一致はすぐに見られたことだろうとカカシは思った。
 もしも、この事態をイルカが知ればどう思うだろうか。
 ふとカカシはイルカに意見を仰ぎたい気分になって、それからはっとしてその考えを振り払うべく、首を左右に振った。
 イルカのことは、置いておく。そう自分に言い聞かせて、もう一度手の中の書類に視線を落とす。
 カカシの役目は、謀反に見せかけた譲葉の暗殺。期限が一週間と短いのは、国主暗殺の予定日が近いから。
 しんどい作業になりそうだと思い、カカシが溜息を吐いたその時だった。
 執務室の扉が外側から開けられて、ようやく火影がその部屋に戻ってきた。カカシがここに詰めてからゆうに二十分は経っている。注射一本を打つにしてはだいぶ時間がかかっているような気がする。
「失礼しています」
 しかし、カカシは里長への礼は忘れず、座っていた椅子から立ち上がり、彼を出迎えた。火影はうむと大仰な様子で頷き、カカシの前に座った。すぐにそこへ側付きの忍が二人分のお茶を注いでやってくる。カカシ一人の時は見向きもされなかったのに、教育の徹底していることである。
「イルカに摩雷妃を投与したぞ」
「…はい」
 ということはつまり、摩雷妃はじわりじわりと効いてくるものだろう。なぜならば、まだカカシはイルカへの気持ちを失ったような感じを覚えないし、イルカのことを忘れたというような感じもない。報告書を読み進めながらもたびたび思い出していたことがその証拠だ。摩雷妃の成分によってイルカは一日から一日半眠ってしまうそうだから、それまで効果は実感できないのかもしれない。
「自来也様は…」
「摩雷妃と万古蘭を作った者として、イルカが目を覚まして二日ほど側についている事となった。イルカのことは安心してあやつに任せると良い」
 そんな仕事があるなら、それが自分でも良かったんじゃないかと思ったカカシだったが、それは口にせず、小さく会釈をするに留まった。この任務をカカシに宛った火影には何らかの意図があるのだろうから。それか、単純に写輪眼の出番なのか――――。
「それではこちらの仕事の話をしようとするかの」
 火影はがばっとテーブルに地図を広げた。
「そもそも大名譲葉はそんなに慕われた人間でもない。自領でさえ把握しきれていない小物だ。そんな人間が謀反を起こそうとするのも周囲の甘言と血じゃ。譲葉は今、火の国の国主の血を引く姫を嫁に迎えておる。姫とその子供には罪はないし、その野望を砕くためには譲葉自体を消してしまうのが一番犠牲が少ない方法だと判断した」
 カカシはその火影の言葉に一つ頷く。姫のことは報告書にも書かれてあった。夫婦仲はそれほど良くないが子供は二人いる。
「…周囲の奸臣達はどうしますか…?」
「…その奸臣たちのうちの誰かの仕業にして譲葉を始末すれば、あとは議会が手を加える権利を得るから処分してくれるそうだ」
「…まるで、汚いところだけ木の葉に押しつけた形ですね…」
「そう言うな…。それが我々の仕事でもあるし、彼らだって国を憂う気持ちは一緒だ…」
 火影もカカシと同じような気持ちを抱いていてもおかしくないし、ともすればその感情は火影の方が強いだろう。それでも口にしたカカシを窘めるくらいの余裕があるのは、彼がやはり偉大だからだとカカシは思う。腹に一物を抱えながらも表ではそれを取り繕うことが出来るのは、大人だからだ。
「三代目が納得しているのならオレは構いません…。行って来ます」
「うむ…」
 里長がくっと笠をあげて、頼むぞと言う言葉を、まともにカカシの顔を見て告げてくれたことが心強かった。
 出立は明朝三時。この任務が終わる頃にはカカシにもイルカにもそれぞれの決着がついている頃だ。せめて任務中だけでも集中しないと、とカカシは心に念じた。



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