MEDUSA
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カカシは一睡もせずにイルカの隣に裸で寝転がり、その寝顔を飽くことなく見つめていた。このあからさまな視線で起きないほどイルカは疲弊していると言うことで、疲弊させたのは当のカカシだった。
イルカは失神した後そのまま陥落するように眠り込んでしまった。カカシはそのあと軽く頬を張っても揺すっても起きないイルカを諦めて、彼の体を濡れたタオルで綺麗に清めた。行為の最中にいつの間にか潜り込んでいたカカシの布団からイルカの布団へと移り、カカシも簡単にシャワーを浴びると一緒の布団に潜り込んだ。熟睡中なのにも関わらず擦り寄ってきたイルカは、両手離しでカカシの事を信頼してくれていることの証のようで、くすぐったい気持ちと同時に、イルカを愛しい気持ちを味わう。
今までカカシは誰かを好きになったことがないと思っていた。そして覚悟を決めてイルカの眼を見てみれば、その考えが正しかったことを自分自身に証明した。恋愛かもしれないと思っていた物はきっと憧れとか羨望、ともすれば嫌悪がそうさせていたのだと突然理解し、それまで歯牙にもかけていなかった存在であるイルカを認めることは容易かった。
明日で、この気持ちとはお別れなのだと、カカシは腕の中のイルカを見下ろしたまま考える。
明日、イルカは万古蘭特効薬である摩雷妃を使うことになる。そうすれば見えない力の影響力は失われ、万古蘭によってイルカに傾倒していた人々は、すっかりそのことを忘れてしまうのだ。
勿論カカシだって例外ではない。自ら恋愛体験をしてみたくてイルカの眼を覗き込んだのだから、火影には秘密にしているが、立派な影響下の人間なのだ。
正直イルカとの同居を満喫出来たかというとそうでもない。イルカが自分の気持ちを自覚したのがどうやら最近のことらしく、それまでちっとも甘い雰囲気にならなかったからだ。その間にはハナダやユイの横槍に、同僚達による残業トラップ、イルカ本人にも多大な放置を食らい、楽しいと思うよりも辛くていらいらしていることの方が多かったように思える。
正真正銘の恋愛は楽しいことばかりじゃなくて、辛いことの方もかなり多い。それがカカシにはよく分かった。
そして、いずれ捨てられるから拒むというイルカの気持ちに戸惑った。
カカシは確かに自己中心的な考え方をしていたと思う。イルカも自分のことが好きなんだから、多少強引なことをしても許されると考えていたし、実際にそうだった節もある。しかし、そこにはイルカの意志など考えていなかったし、許されたのだって、イルカの性格が大分大らかな為だ。
まさかイルカがあんなコトを考えていたなんて、カカシには不意打ちのようなものだった。
カカシの思いに応えて、万古蘭の能力を失った後のイルカはどうなるのか。万古蘭を使う前のイルカへと彼が戻り、自分もそうなるのだとしたら、好きになれる可能性は少ないと思う。
カカシは捨ててしまうのかもしれないし、惰性で付き合うのかもしれない。その時の気持ちがどうなるのか分からなくて、明確な約束を交わすことは出来なかった。だからこそカカシはイルカを最後まで抱かなかった。
事の終盤ではイルカは正気を失っていたようだから、そこを誑かせば入れてしまえるような気はしたし、実際にそうしようと思って指まで入れた。最初は驚き異物感に顔を歪めていたイルカだったが、根気よく弄ってやると後ろだけでも快感を得られていたようで、それを見せつけられカカシはイルカと最後まで行ってしまいたかった。それほどまでにイルカとの接触は気持ちが良かったし、相手を感じさせて自分が興奮できるなんて体験は初めてで、本番でも無いというのに覚えたての猿のように何度も放っていた。
好きになってしまえば、セックスの真似事さえも倍以上に気持ちよくなってしまう。入れてしまえばどれだけ快楽が深いか、それを想像するだけでもカカシは興奮し、期待にわくわくしてしまうけれども、それをイルカの考えが静かに水を差していた。
カカシだってどうなるか分からない、摩雷妃の効果。恐ろしくもあったが、それが当初からの予定だったのだとカカシは自分に言い聞かせ、ある程度納得している。しかし、この気持ちを惜しむ自分も居た。
辛いことも多かったけど、イルカだけがあれば良いという生活は、これまでの何不自由ない生活より満ち足りていた気がするのだ。いくらか人間が丸くなったような気さえする。
そんな自分がイルカを失えばどんなことになるのか。今更この気持ちを失って生きていけるのか、ひどく不安だった。
例えば今まだ万古蘭の影響下にある状態だけれども、このままイルカが死んでしまったのなら、きっとカカシは狂うだろう。イルカの死の原因如何によっては破壊活動に走ってしまうかもしれない。
もし、摩雷妃の影響がそう言う効果なのだとしたら。この思いを消し去るのではなく、対象を消し去るのだとしたら。イルカを好きだったことなど綺麗さっぱり忘れてしまって、それでも、誰を好きだったのか思い出せず、空っぽの餓えた気持ちだけを持ち続ける羽目になるとしたら、自分はどうなるのだろう。
やはり狂いそうだと思う。
それほどまでイルカのことを今は大事に思っている。たとえ、眼力に作られた感情なのだとしても。
任務にかこつけて、イルカの気持ちを強請った形になったけれど、半分ははったりだったが、残り半分は本当だ。
摩雷妃の効果が出た後、自分がどうなるのか分からない。実験的な感覚があったことは否定できなかったが、もしも本当に好きな人間と抱き合えたらどれだけ気持ちがいいか、それだけは確認しておきたかった。この気持ちが奪われてしまう前に。
青ざめているけれども、穏やかな寝顔を見せるイルカの黒髪を梳いて後ろに流す。
「外道でごめんね」
でもそれは一世一代の恋だと思うからこそ。
きっとカカシはこれ以上人を好きになることは今後無いだろう。
人工的な物の力を借りてでもこういった経験が出来たことは、心の歪んだカカシにとっては僥倖と言えるかもしれない。
また一つ人間っぽくなれたかな――――と自虐的な事を思いながらカカシはイルカを抱き寄せた。それが今一番安心できるスタイルで、幸せを感じることが出来たから。
カカシはそうやってイルカを抱きかかえて夜を明かした。一晩二晩くらいの徹夜などものの内に入らない。飽くことなく見つめたのは、この気持ちに何らかのピリオドが打たれる気配に寂しさを感じていた所為かもしれないが、カカシはその事に気が付かず、ただ心の命じるままにイルカの傍に居た。
イルカが目を覚ましたのはいつもよりも三時間遅い九時の少し手前だった。
「おはようございます」
カカシはじっとイルカを見つめたままそう声を掛けると、暫く何も反応を返さず夢と現を彷徨い、それから焦点が合って、彼はぽっと頬を染めた。なんて初々しい反応だろうと内心悶えたが、イルカを怯えさせそうだから外面は必至に我慢する。
「オハヨウ…ございま、す…」
イルカはカカシと視線が合わせられないようで、おどおどと彷徨わせながらか細い声でようやく挨拶をしてくれた。昨日のことは蒸し返さない方がイルカにとってやり易いんだろうなと思い、「昨日は素敵だったよ」的なコメントは差し控えて、ちゅっと唇を啄む事で、夢ではない事を教える。そもそも二人裸で同衾している事態から察せられそうだが、だめ押しに唇を押しつければ、イルカは更に顔を赤くして布団に潜り込んでしまった。
そんなことをすれば次に顔を出しにくかろうにとは思うけれども、イルカの墓穴でも良いから穴があったら取り敢えず入っておきたい気持ちも分かるので、カカシが身を引いてあげることにした。
「朝ご飯作りますね。出来上がるまでには顔を洗っておいて下さいよ」
出来るだけ普段と変わらない調子で布団の中のイルカへ呼びかける。離れてしまって淋しいと訴える自分の心に驚きながらも激しく同意し、そんな内心を押し隠してカカシは手早く服を身につけ台所に立った。
昨晩の鍋のだし汁を沸かし、塩、しょうゆ、みりんで味を調えて昨日の残りのレタスと餅を投入する。雑炊にしようと考えていたのだが、思った以上にご飯が多く残っていて、それは昼に使うことにした。
餅が軟らかくなるまでの間にカカシは昨日の晩酌に使ったとっくりやお猪口などの洗い物を片づけた。徳利の中身は案外減っていて、もしかして昨日は二人とも出来上がっていたのかもしれない。
そうしている間に、ようやくイルカが起きだしてきて、カカシと視線が合うだけで顔を赤らめて洗面所に逃げ込んだ。
今までも恋人の一人や二人イルカにだって居ただろうとは思うけれど、いつも事の後はこういう反応をしていたのだろうか。何だかこっちもむず痒い気分になって、カカシはがりがりと後頭部を掻いた。
「イルカ先生、出来ましたよ」
照れていても、声を掛ければ素直に洗面所から顔を出し、イルカは、珍しく髪も括らないまま食卓の椅子に座って、配膳されるのを待つ。
「あれ」
正面に置かれたお椀の中身を見てイルカは、声を上げた。
「何ですか?」
「…いや、雑炊だと思っていたので」
「ああ、ご飯が沢山残ってて雑炊で使ってしまえないから、昼ご飯に回そうかと思って」
その言葉に納得したのか、イルカは手を合わせてから食事を開始した。
結局イルカは餅を四つ食らいつくし、旺盛な食欲に感心したが、昨晩のヘルシーな料理と運動で消耗したのだろう。そんな自覚のないイルカは黙々と餅を食べ続けた。もう少し精のつくものを食べさせてあげれば良かったかもしれない。
イルカは今日アカデミーを休んでいる。イルカは自分の受け持ちのクラスのことをしきりに心配していたが、彼の同僚らがどうにかフォローしてくれると信じるしかない。
ハナダの一件で割れてしまった眼鏡のレンズもすぐに作り替えたのだが、イルカがそれを使ったのは一日だけになった。
昨日のシーツを洗濯し、私物の整理などをして午前中は過ごしていたが、カカシも特効薬の投薬に緊張していた。しかし、それをイルカに悟られるわけには行かない。イルカはカカシよりも余程緊張しているのだから。
カカシとの昨晩の行為による恥ずかしさが収まった後は、ぴりぴりとした空気を漂わせていて、うつむき加減で過ごしているイルカが、カカシには辛い。
忘れないと言ってあげられればいいのだが、それを約束できるような根拠がカカシにはなく、そんな不誠実なことを出来るほど、イルカのことをいい加減な意味で好いているのではなかった。だから、カカシに出来ることは不用意な恋の結末に苦しむイルカを黙ってみていることだけだった。
正午を過ぎたあたりで、残り物の野菜や肉を全て混ぜた炒飯で昼ご飯を済ませた二人は、午後になってその家を出た。イルカは何度も名残惜しそうに後ろを振り返っていた。そこに自分との思い出を見ているのだと思うと胸が塞ぐ。しかし二人が二人感傷に浸っているわけにもいかなくて、カカシは立ち竦むイルカの手を引いて、無理矢理その二人の家から引き剥がした。
とぼとぼと火影の家へ向かう足取りは重い。二人とも、一言も口を聞くことなく、普段は走る道を踏みしめるように歩くのは、今を噛みしめているからに他ならなかった。
感傷以外の何ものでもない。
自分にこんな何かを惜しむ気持ちが残っていたとは。
後できっとこんな自分をむず痒く思ったりもするのだろうとは考えたが、どうしても今はそうするのが正しいような気がして、イルカと歩調を合わせて、ゆっくりと屋敷へと向かった。
屋敷で通されたのは奥まった部屋で、暗部時代に時々内密な話をするときに使っていた場所だ。イルカは初めて通された場所のようでしきりに周囲を気にしている。一つきりの応接セットに何故かベッドが設えてある。
天井が高く、壁が厚い。年中熱を通さないからここだけ異界のように感じたこともあった。イルカはそれを感じているのだろう。カカシの手を握ったまま離そうとせず、周囲を見渡したり、俯いたり、完全に落ち着きを失っていた。カカシにはどうしてやることもできない。万古蘭の治療は里の決定だし、そうした方がいいと言うことはカカシもイルカも分かっている。力が支配して人権など二の次になるこの世界で、特殊な能力を持つことは、不幸を呼び寄せる要因になる。特にイルカはそうした競争を勝ち残ってきた人間ではなく、もしもイルカを狙う人物が居たとき、半分は撃退することが出来ても、半分には屈する事となるだろう。今のうちにそうした芽を摘んでおくことがイルカのためになる。
カカシはどうしてあげることも出来ずに、少しだけ握る手に力を込めた。
がちゃりと音を立てて扉が外から開けられたのは約束の時間から五分ほど遅れた頃だった。全く足音がしなかったため、イルカはその音にびくりと震えて、咄嗟にカカシの手を放り出した。イルカにとっては当然の仕草でも、少しばかりカカシは残念に思う。最早、イルカの警護任務は終了するのだから、カカシの思いを火影に知られても自来也に知られても痛む腹は無い。
入ってきたのは想像したとおり、自来也を伴った火影だった。
「おう、無沙汰にしておるのう」
相変わらず空気の読めない豪快な様子で、自来也が片手をあげる。そのもう片方の手に持っていた盆の上にあるものは注射のようで、肩が触れ合っていたイルカが、もう一度びくりとするのにカカシは気が付いた。
あれが摩雷妃。万古蘭の特効薬。
「ご苦労。遅くなってすまんな」
火影は軽快な様子で二人の前に進み出て、出迎えるために立ち上がった二人を椅子に座るように勧めた。カカシはイルカだけをそこに座らせて、自分はイルカの後ろに控える。
「お主には前々から話してはおらなんだが、ずっと特効薬の精製を進めておってな。ようやく完成したのだ」
その火影の言葉に自来也が火影とイルカの間にある机にその盆を置いた。イルカがじっとそれに見入るのが背後に立つカカシにも分かった。
「動物実験も繰り返し終了して、問題は無いという判断がコハルから出た。諸悪の根源とは言え自来也が全面的に協力してくれたお陰で、完成も早かった。礼を言うのも変じゃろうが…、ま、礼でも言っておいてくれ」
その火影の言葉にイルカは素直に頭を下げたが、気持ちは複雑だろうな、とカカシは思った。イルカは治したくないと思っているのだから。
自来也は素直に頭を下げたイルカに戸惑っているようで、珍しく困った顔をしている。
「さて、早速じゃが摩雷妃の出番といこうかの。治療を先延ばしにしても何も良いことなんか有りゃせん」
それに頷いたのは自来也だけで、イルカは――――どんな顔をしたのか背後に立つカカシには分からなかったが、頷いたわけではないことだけは分かった。
「摩雷妃の説明を簡単にしておくとだの、これには強力な睡眠薬の成分が入っておるため、投与のあと暫く眠ってしまう事になるだろう。量は…そうじゃな、イルカの場合一日…位じゃな。長くても一日半。強烈な眠気に襲われるだろうから、投与はあっちで…」
火影が視線を逸らした先には、何に使うのか分からなかったベッドがあった。以前来たときには無かったものだから、わざわざイルカのために運び込んだ物に違いない。この老人にこそ万古蘭の効果が絶大に出ているのじゃないかと、一瞬カカシは嫉妬の炎を燃やした。
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