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MEDUSA




「起きろ――――!」
 その声にイルカは思わず飛び起きた。何かとても良い夢を見ていたような気がするがあっという間にそれは霧散してしまった。一楽のラーメンだったような気がして、周囲を見渡してみるが、そこはカカシとイルカが共同生活している郊外の一軒家の居間だった。窓の外は朝と言うには些か暗いような気がする。
 カカシが仁王立ちで、イルカの掛け布団を掴んでいる。
 カカシのものとは思えないような大声で起こされたため、まだ心臓がドキドキしている。急な雷で起こされた場合だったらこんな風になるだろうか。しかし、カカシはイルカを怒鳴り起こした事なんてどうでも良いことのように、持っていた掛け布団を放り出し、イルカに喜々として乗りかかってきて躊躇うことなく口付けた。
「うム――――っ、んっ」
 寝起きの体では力が入らず、そのままイルカはカカシに敷き布団へと押しつけられてしまう。
 ――――ヤバイ!
 そんな素振りを見せないように努めているとはいえ、イルカもカカシを好きな健全な男子。カカシは巧みで、しかもイルカは起き抜け。こんなに条件が整えば、反応を来しかねねず、カカシを引き剥がそうと服を引っ張るようにしてイルカは抗った。
「んっ、――――や」
 横を向いて逃れようとすればカカシの手が顎を固定してきて、今まで経験したことの無いような深い口づけを求めてくる。舌の根が痺れそうで、頬を伝う唾液が生々しく感じられる。
 カカシは止めるような様子を見せず、イルカも限界が近い。
 ――――ダメだ…!
 イルカは覚悟を決めて、カカシの横っ面に張り手を決めた。うっとりとイルカの唇に酔っていたようなカカシはひとたまりもなく、「うぐっ」と情けない声を上げて横に転がった。 「こ、こんのケダモノ!」
 イルカは急いで起きあがり、這いずったままカカシと距離を取った。カカシはそれそこイルカのビンタなど本気になれば避けられたはずだ。態とそれを受けたのだと、沸騰しかかった頭のイルカだって分かることで、カカシはぶたれた頬を撫でさすりながら体を起こした。 「痛〜…」
「自業自得です!」
 イルカは警戒を解かずにカカシから一定距離を取ったまま喚いた。今再び触れられたら危ない。もう一度強く迫られれば、今度こそ拒める自信はなかった。だって、殆ど腰が抜けたようになっているから。
「朝きちんと目が覚めているでしょ。だから、約束のちゅうですよ〜…」
 ふてくされた子供のように頬を膨らませて、カカシはひどく不服そうだ。そう言えばイルカが昨日の朝、夜中に性的な悪戯を仕掛けてきたカカシを窘めると、カカシは「早く起きるって約束するならして良いんですか?」とかそういうことを言っていたことを思い出した。 「だ、誰もしていいなんて言っていません…!」
 あの時はそんなこと答えるような気にもならず、イルカは無視を決め込んだ。性的な話題を持ち出されてもどう応えて良いか分からないからだ。
 しかし、カカシはそれを非常に友好的に受け取ったらしく――――。
「沈黙は了承の証拠でしょ〜」
 と極論を吐いたカカシに、思わずイルカは傍にあった枕を投げつけていた。
 そこで、ふと違和感を覚える。イルカがへたり込んでいる場所は布団が本来あるべき場所ではなくて、イルカもカカシも起きたばかりだというのなら、二人分の布団が床延べしてあって当然だった。しかし、傍にあった布団は、普段カカシが使っている布団で、きちんと畳まれている。
 イルカとカカシが共同生活を始め、当初は自室のベッドで寝ていたから例外とは言え、カカシとイルカが揃って居間で寝起きするようになってから一度もカカシが布団を畳んだことはない。床延べしたことは何度もあるが、朝の弱いカカシは朝からそんな家事を一切やらない。
 つまり、その事実から察するこの状況は――――。
 思わずイルカは周囲を見渡してしまった。
「…もしかして、カカシ先生…。昨日から寝てないんですか…?」
 さっきのカカシの言葉も考えてみれば非常に微妙だった。「朝にきちんと目が覚めている」それは起きたとも寝たとも一言も言っていない。そして、カカシの性格からして、徹夜を苦としそうにもなく。
「あー、見破られてしまいましたか」
 隠そうともして無いじゃないか! と木の葉の誇る上忍に対して突っ込みたかったが、イルカは虚脱感にはあ、と溜息を吐いた。ただイルカに口づけたいが故に徹夜を敢行する男。ある種その意志の強さは尊敬するが、どうにもその意志の向かう方向がイルカには歓迎できなかった。
 時計を見上げてみれば、まだ朝五時半。そんな時間にカカシが自発的に起きられるはずがない。任務でもない限り、カカシにとって五時半は夜中と同意義なのだとイルカは思っている。
 こんなに早く起きる羽目になるとは思っていなかったが、すっかり目は覚めてしまったし、都合良くカカシの布団も空いている。イルカはかねてより予定していた布団を干そうと二人分の布団からシーツを剥がそうと立ち上がった。
「さあ、イルカ先生。出掛ける用意して」
 そんなイルカの事など全く意に介さず、カカシは機嫌良くイルカの腕を取るとそのまま台所へと引っ張っていく。
 出掛ける準備? と目を白黒させていると、連れて行かれた台所の食卓におかれた重箱の前に据えられた。
 こんなものこの家にあったのか。まずそんなことを思った。繊細な螺鈿の施された蓋に、縦横七寸深さ二寸ほどが三段重ねられた、そこそこ値の張るものだと分かる。
「…この重箱が何ですか…?」
 傍に放置されているようなコンビニで貰える割り箸が二袋。とても重箱に似つかわしくなくて、イルカは見ない振りをした。そもそもいつも収納されているその割り箸が今どうしてここに出ているのか。
 答えはすぐ目の前にあった。
「見て下さい!」
 と、カカシが誇らしげに開いた重箱には、ぎっしりと中身が詰まっていた。一番上の段には唐揚げやミートボールとウズラの卵を一つ一つ串で刺したもの、たこさんウィンナー、ミニトマトにポテトサラダ。キュウリは花の形に飾り切りにされている。二段目には昆布巻きが切り口を上にして整然と並び、煮物、なすのグラタンが納められて、一番下には卵焼きとおにぎりが詰められていた。
「………」
 食品サンプルじゃないかと見紛うほどに出来の良い料理に、イルカは唖然として開いた口がふさがらない。
「…よく、こんな時間から仕出ししてもらえましたね…」
「何言ってるんですか、イルカ先生…。そんな奇特なところあるわけないでしょ」
 それじゃあこんなぴかぴかな料理はどこから沸いて出たというのだ。その疑問は色んなイルカの葛藤を一蹴する形カカシがで解決した。
「オレが作ったんですよ」
 誉めて、と言わんばかりのカカシの台詞に、イルカはぶちんとこめかみの血管が切れる音を聞いた。

「もう、機嫌治して下さいよ」
 先を歩くカカシが時折イルカを振り返って、お願いですからと頼み込むのはもう何度目か分からない。正直もうイルカは怒ってなどいないし、複雑なだけだが、それでも素直になれなかった。
 これまでイルカはカカシのためにと思って得意でない料理も自分の仕事と思ってやってきた。一人暮らしで作るものなどたかが知れていて、イルカの料理のレパートリーなどカレーかハンバーグかラーメンか塩かけ飯かのどれだったのに、努力してみそ汁から始まり、揚げ出し豆腐、煮物、焼き魚、色んなものに挑戦してきた。自分でも微妙だと思う料理にカカシが文句を付けないのは偏にカカシが更に料理が出来ないものだと思っていたからだ。
 今、カカシの右手にぶら下がっている風呂敷包みはそんなイルカの努力をあざ笑うような代物に見えて、プライドはいたく傷ついたし、もう二度と台所に立つものかと思ったが、それは意地を張ってしまったに過ぎず、こうして結局布団干しも洗濯も諦めてピクニックに附いてきたことが仲直りの意思表示だと思って貰いたかったのだが、カカシは意志を汲んでくれなかったらしい。
「もう良いですって…」
 そう何度も謝られたって辟易するばかりだ。
 それに道が険しくてそれどころじゃ無いというのがイルカの今の本音だった。
 最初のうちはイルカも手に飲物を携えていた。しかしその飲物は三十分前からカカシの左手にぶら下がっている。今イルカは身一つで道無き道をカカシの先導で歩いているのだ。カカシは息一つ切れてない様子で、イルカを振り返る。
 きっとさっきから頻繁に振り返ってカカシが同じ台詞を吐くのは、イルカを気遣っているためなのかもしれない。
 カカシはイルカに毎日付き添ってぼんやりと過ごしているように見えるが、彼の影分身は毎日担当している子供達と会い、日々修行に励んでいる。かたやイルカは外出すら許されず、アカデミー復帰もようやく最近果たしたばかりで完全に鈍った身。体力の差は歴然だった。
 ――――体力作りしなくちゃ…。
 体重は変わっていないつもりだけど、いつの間にか筋肉が脂肪にすり替わっているとしか思えない。このピクニックと言うよりもっとハードな登山は、イルカにそう決心させるに十分な難所続きだった。
 郊外の家から更に郊外へ向かって既に腹時計で四時間は経過しているはずだ。木漏れ日さえ差さない原始の森では、太陽の位置さえ判然としないから確実なことが言えないが、昼近いと腹の虫が訴えていた。
「もう少し歩くと、楽な場所に出ますよ」
 カカシがそう励ます言葉を信じてイルカは必至に足を動かす。帰りはどうしようと思う気力さえなくて、カカシの後を辿った。
 そして、カカシの言うように突然森が開けた。深かった森なのに拍子抜けするほど見事に舗装された道に出た。今森から出てきたのは夢かと思うくらい突然だったが、残念なことに道路の向こうも似たような森で、夢ではないことを物語っている。
「ここまで来るとあと少しですよ」
 カカシは迷い無く舗装された道を歩き始める。それは緩やかな上り坂で、まだ上るのかと落胆したイルカだが、それでも柔らかな腐葉土に足を取られない分楽だと感じながら、カカシに続く。
 坂の上には何も見えない。空が広がっているだけだ。つまりこの坂を上りきってしまえば山頂に着くのだろうか。そして、そこが目的地なのだろうか。
 そうではない、と言われることが怖くて、イルカは訪ねることをせず、足下を見つめて歩いた。
「見て。イルカ先生」
 舗装された道を十五分ほど歩いたところで、その坂を上りきり、イルカはカカシが促すままに回りを見渡した。
 そこはただの山頂ではなく、尾根が続く道だった。
 道の左右に広がっていた森はいつの間にか低くなっていて、ガードレールの向こうには葛や茅が群れる急峻な山肌が広がっている。
「わあ…っ」
 こんな風景を今までイルカは見たことがなかった。標高の高い場所ならここより高いところは経験しているだろうし、景色ももっと素晴らしい所を知っている。
 しかし、両側が切り立ったがけのような山の尾根に作られたこの道は、まるで空に作られた歩道のようで、足が竦むようだった。その尾根の道はアップダウンを繰り返しながら一つ向こうの山まで続いている。
「スゴイでしょう。おれも初めて来たときは吃驚しました」
 となりで景色を眺めていたカカシがぽつりと呟く。そこに何某かの思いでの存在を感じたが、イルカは追求せずに一つ頷くだけに留まった。
 イルカにも、この景色は一生の思い出になるだろう。きっとカカシとの記憶に縛り付けられて今後を生きなければいけないイルカには宝物となるはずだ。
「ありがとうございます、カカシ先生…。凄く良いところです」
 感動の収まらないままの声色でそう告げれば、カカシは満足そうに首を縦に振る。
「うん。気に入ってくれたようで良かった。もう少し歩いたところにちょっとした広場見たいな所があるんです。そこに行ってお昼と休憩にしましょう」
 その意見にイルカが反対するはずもなく、待っていました、とばかりに頷いて、さっきまでの重い足取りとはうって変わった歩調で歩き出すことが出来た。
 カカシの言う広場は更に歩いて五分ほどの所にあり、二人は弁当を包んできた風呂敷を敷物にして座って、二人の間にカカシの手製の弁当を広げた。かつてイルカがカカシのために作ったものとは比べるべくもない見目の好さで、味は美味しくて――――どこかで食べたことがあるような気がした。これだけ上手に作れるというのに何故イルカの不細工な料理を甘んじて食べていたのか、カカシの思考を謎に思いながらイルカは次々と胃に収めていく。カカシはあまり食べずに時々摘んでいるという体で口にしていた。まるでイルカに優先的に与えようとしているようだ。
 素晴らしい景色に、美味しい料理。とても幸せな時間だ。それを作ってくれているのが隣に居る男なのだと思うと、イルカの胸が痛む。カカシの事が好きだ。好かれているという事は分かっていても応じられない葛藤に、泣き出しそうなほどのストレスを感じる。今がこんなに幸せなのに、もっと先の未来を見据えてこれを捨てなければならない気持ちは、理解していたって踏ん切りがつくものじゃない。
 イルカだってガラスの理性で人間をやっているにすぎない獣の一種で、いつだって気持ちは弱く、進むべき道を誘惑と本筋の間で迷っているのだ。
 ――――でも、たった一度でも思い出があれば、生きていける――――?
 遠くを見通すようなカカシの横顔をイルカは見つめる。もうそこには顔を隠すための額宛も口布もなく、イルカに素顔を見られることを何とも思っていない様子で、端正な顔を晒していた。
 万古蘭の事など無ければ、イルカだってこの思いに素直に舞い上がる事が出来たのだろうが、万古蘭がなければ、イルカがカカシの本質を知り、好きになる機会など無かったし、カカシもこんな風にうち解けてくれることもなかっただろう。
 点眼薬があったにしろ無かったにしろ、カカシは遠い存在なのだ。
「…なあに、さっきから」
 遠くを見つめた瞳のままカカシが、少しくすぐったそうに笑う。イルカの視線に気が付いていたのだろう。
「…なんでもない…です」
 思った以上に沈んだ声が出て、カカシも少し驚いたようにイルカを振り返る。カカシには自分の顔がどんな風に見えたのか分からないが、イルカを見て困ったように表情を歪めた。それでも彼の顔の端正さはちっとも損なわれない。それともそれはカカを好きなイルカの欲目だろうか。
「なんて顔をしてるんですか。何を怯えてるのよ」
 カカシは正確にイルカの心境を捉えている。そして、イルカが怯えないようにそっとその手を取って、ゆるく握った。
 何を怯えているか。それはとても簡単な答え。
 未来が来ることが、怖い。今がずっと続けば良いと思っているのに、それは絶対に叶わないから。
 そして、そんな事はカカシには言えない。彼は万古蘭でイルカに惹かれたことを自覚しているようだから、もしかしてこの期限付きの恋愛を楽しんでいるのかも知れないのだ。
何でもないのだという意志を込めてイルカは首を振ることしかできなかった。
 でも、近づいてくるカカシの顔を避けようとは露ほどにも思わず、イルカは目を閉じた。



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