MEDUSA
いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったのか、次に気が付いたのはいつも通りの時間だった。目覚まし時計よりも五分ほど早く目を覚まし、目覚まし時計の設定を解除してから起きあがる。昨日ハナダから嗅がされた薬による痺れは、夜の内に既に抜けてしまっていたようで、違和感を覚えることなく自分の分の布団を畳み、洗面台まで歩く。覗き込んだ鏡の中の自分は、思ったよりまともな顔をしていた。目蓋が腫れ上がって涎でも着けているかと思いきや、すぐ眠ってしまったのか目を擦るようなことはしなかったようだ。
一安心して顔を洗い、朝食の準備をした。とは言っても大したものなどできない。常備菜のタマネギとワカメでどうにかみそ汁を作り、最後の卵で目玉焼きを焼いた。目玉焼きにしたのは、ゆで卵や卵焼きなんかよりご飯が進むと思ったからだ。もうお新香の買い置きさえない。
合間に髪を結い上げて、パジャマからいつもの支給服に着替える。片手間のとろ火で焼いた卵の黄身が少し固まってしまったけど、白身は具合良く焼けていた。
冷凍庫に個別保存していた白飯をレンジに突っ込んで解凍した後、カカシを叩き起こして一緒に朝食を摂るというのが毎朝の恒例行事なのだが、昨日の出来事を思って、イルカは躊躇っていた。
どんな顔をして起こせば良いのか分からない。意識するなという方が無理な話で、このまま一人寝かせておいて、イルカだけさっさとアカデミーに出勤してしまおうかと本気で考えるが、ハナダのことだってイルカが一人で出歩くようなことをしなければ起こらなかった事態だと思うと、そうすることも抵抗を感じる。
起こして一緒に朝ご飯を食べるしか道は残されていない。だって、カカシとは一緒に出勤して一緒に帰ってこなければいけないのだから。
泣く泣くイルカはカカシの肩を揺すった。
「カカシ先生、朝です。起きて下さい」
昨日の出来事の引け目から、イルカの目覚ましは自然と控えめなものになった。カカシは呻き声一つあげず、すうすうと穏やかな寝息を立てている。もしかして、本当は起きていて、イルカをからかうために寝た振りを決め込んでいるのではないだろうか。
「カカシ先生…っ」
幾分手荒に肩を揺さぶると、カカシは煩わしそうにイルカの腕を退けて、頭まで掛け布団を被ってしまった。
時計を見てみると、あと出発まで二十分。食事はすっかり食卓に並んで冷めてしまうのを待つばかり。そして、カカシの朝の準備はこれが上忍なのかと疑うくらいに長閑なもので――――。
「起きろ――――!」
イルカの最初の遠慮はどこに行ったのか。
今後の突き詰まった朝の予定を考えると、敷き布団を引き抜く荒技を敢行するに十分な条件が整っていた。
「…!」
布団から無理矢理剥がされて、畳の上に転んだカカシは何事が起きたのかと周囲を見回し、敷き布団を掴んで仁王立ちになっているイルカを見上げ、もう一度掛け布団を抱いて丸まろうとした。
「いい加減にして下さい! もう家を出ても良い時間なんですよ! 朝ご飯も冷えてしまいます…!」
「…朝ご飯、要りません〜…」
「きちんと食べる! 朝食を食べるのは活力の素ですよ!」
唯一残った掛け布団さえ剥がしに掛かると、ようやくカカシは観念して、畳に横たわるのを止めて、取り敢えず座った。その隙にイルカは自分の布団とカカシの布団を畳んで、押入の中に突っ込む。今度の休日、晴れたら布団を干そう。
朝ご飯要らないと呟くカカシをどうにか食卓に就かせて、箸を握らせる。イルカも対峙した席に座って慌ただしく食事を開始した。
起こすか起こさないか迷っていたときの躊躇いや居心地の悪さは一切無い。無いと言うよりは構っていられるような余裕がない。しかし、カカシはイルカが三口食べるのにようやく一口を含み、二度噛む時間でようやく一回噛むという鈍さで食事を進めていて、イルカは苛立ちを隠せなかった。
「早く起きられないようならあんなことを夜中に仕掛けてくるな!」
昼間のカカシのしっかりした思考ならば、そのイルカの言葉は墓穴だったに違いない。しかし今のカカシは暖簾に腕押しで、「はあ」と力無く曖昧に声を出しただけだった。
しかし、それも恒例のことに変わりなく、まるでカカシはイルカに追い立てられるようにしてやっと出発準備を整えるのだった。
その頃には勿論覚醒しきっていて、「早く起きるって約束するならして良いんですか?」と非常に困惑するようなことをイルカに聞いてくるカカシだった。内容にどうと言うわけではなく、反応を楽しみたいがための質問だったらしく、いつもの完全防備の顔でもにやにやしているのがイルカには分かった。
思ったよりも昨晩の出来事に関して、カカシは特に気にしているような様子を見せず、イルカはほっと胸をなで下ろす。もしお互いに意識しまくっていれば、それ以上に気まずいものはなく、最悪の場合カカシのイルカ護衛という任務に障りが出る事態になったかもしれない。
飄々としたカカシの態度にイルカは少し拍子抜けした気分を味わいながらも、感謝して、その日も一日彼の庇護の許、この上のない安堵を感じながらアカデミーの仕事に従事したのだった。
「イルカ先生。お昼食べに行きましょう」
カカシがそう誘いに来たのは、イルカが教室から一歩足を踏み出した時だった。周囲にあふれ出そうとしていた子供達も唖然としてカカシを見上げているのが分かったが、それ以上にイルカの方が固まっていた。
硬直してしまったイルカをこれ幸いとばかりに担ぎ上げたカカシは教室を後にして、あっという間に校門まで出てきてしまっていた。
「…あ、あの! ちょっと、カカシ先生…!」
アカデミーの構外に出てようやく我に返ったイルカはカカシを制止しようとするが、カカシは「はい」とのんびりとした返事を寄越すばかりで足を止めようとはしてくれない。イルカはアカデミーの教材であるクナイと千本を抱えたままだ。刃先は鋭くないとはいえ一応暗具だから管理が厳しいのだが、カカシにはそんなこと関係ないのだろう。
「下ろして下さいよ、自分で歩けます!」
逃げませんから、と重ねて言えばようやくカカシはしぶしぶイルカを下ろしてくれた。イルカより細そうに見えて、カカシは思った以上に力持ちだ。
「アカデミー教師は一応就業場所であるアカデミーから仕事時間に抜け出ちゃいけない事になって居るんですけど」
後で主任に何を言われるか分からない。
「大丈夫。あなたはオレ預かりになってるんだから」
そんなこと主任には関係ない。政治よりも子供の未来が大切な、ある種立派な信念を持った人物であるから、権力を振りかざしたって効果は無い。火影からの一言があったイルカの休職でさえお小言を食らったのだ。
お役所つとめなんかしたこと無いカカシには分からないだろうな、とイルカは溜息を吐かざるを得なかった。
「…で、どこに行こうって言うんですか…?」
かなり強引な手に出られたものだが、カカシとこうして昼食を摂るのも久しぶりだ。以前カカシを捜して一緒に昼を摂ろうとして叶わず、手作りの弁当を捨てる羽目になった苦い経験があるから、それ以来同僚とばかり同席していた。この時間ばかりはカカシの時間だと思って遠慮していたところはあるし、自分の気持ちを自覚した今は少し嬉しいのも本音だ。
「一楽です。暫く行ってなかったでしょ」
「一楽!」
意外な名前を聞いて急に気分が浮き立つのを感じた。カカシもそんなイルカに気が付いたのか、機嫌良く目を細める。
「ナルトから聞いてますよ。あなたは一楽のラーメンが好物なんでしょ?」
「はい」
一楽と聞いて、歩き出したカカシに逆らうことなくイルカも附いていく。カカシが監視に就く前までは週に一度は行っていたのだが、あまりの監視の厳しさにその欲求は薄れ――――食以上に強い欲求がそれを凌駕していた――――、それ以降に得られた生活の妙な満足感にすっかり忘れてしまっていた。案外自分は薄情なのかもしれない。しかし今の満ち足りた生活に一楽のラーメンというスパイスが加われば、それはとても素晴らしいことのように思える。
ナルトと通い慣れた道をカカシと辿ることは不思議だったが、違和感はない。
「カカシ先生はラーメン好きなんですか?」
「嫌いじゃないですよ。カップも袋も、お店で食べるのも」
そのカカシの言葉になぜだか嬉しくなって、イルカは頬が緩むのを感じた。
「オレも、ラーメンは一楽が一番だと思いますけど、カップも袋も好きです」
「じゃあ、今日早く仕事が終われたら、ラーメン買って帰りましょうね」
わくわくと楽しみな道のりは、長いとも短いとも感じられた。丁度昼食時の店では混み合っていて、外で五分ほど待たされて通された店内に、イルカは懐かしさを覚えるほどだった。
そこでイルカはカカシを差し置いて久しぶりの店主と話し込んでしまったが、カカシがそんなイルカを始終にこにこと見守ってくれていたことが何だか気恥ずかしい。
久しぶりのラーメンは臓腑に染み渡り、妙に体への馴染みがよく、もしかして自分の体はラーメンで構成されているのじゃないかと妄想するほどだ。
午後の授業で、残業中の職員室でラーメン臭を振りまく近い未来を想定できずに、イルカは久しぶりの好物を心ゆくまで堪能したのだった。
その日の残業は昨日作ったプリントの答え合わせだけで、新しくユイの穴埋めをする必要はなくなっていた。
ユイは即座に断罪され、アカデミーを懲戒免職になって、すぐに替わりの人材が選出されたからだ。今はその新任教師の松葉がユイの残務整理に憤怒の形相をして取り組んでいる。
ユイの断罪はイルカもカカシから聞いたことで、他の同僚の誰も知らないことのようで、「急に辞めちゃうなんて」「また花が一輪無くなったな…」という惜しむ声ばかりがイルカの耳に届いた。ただ主任一人は事の次第を知っていたようで、視線できっちり釘を刺してきた。それにイルカは視線のみで応える。何も知らない同僚達の中では、イルカは何者か分からない男に一度襲われ掛けて、その男はカカシの手で暗部に引き渡されたと言うところで終了している事件なのだから。
松葉の奮闘を横目で見ながら、イルカは自分の仕事をきっちりと終え、仄かなラーメン臭を残して、カカシと共にアカデミーを後にした。昼間の約束通り、スーパーでラーメンを幾つかと肉のパック、その倍の量の野菜、それから少量の酒を買った。
「明日はアカデミー休みなんでしょう?」
そう言われて、ようやく明日が土曜日でアカデミーは休みなのだと言うことを思い出す。受付の仕事はまだ再開していないから、カレンダー通りの休みが貰えていることを失念しがちだ。
「たまには良いでしょ」
とカカシが乗り気で、焼酎の小瓶を一本購入して、家へ帰った。
その晩は未だかつて無い適当な夕食をあたりに、その焼酎でささやかな酒盛りをして、気分良く寝入ったイルカだった。
甲斐甲斐しくカカシが布団まで運んでくれたのはこの上ない幸福のように思えた。
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