MEDUSA
ふっと体が重くなり、急に意識が浮上した。真っ先に視界に入ったのは、ひびの入った眼鏡のグラス越し、暗部のおどろおどろしいお面だった。
「――――っ」
目が覚めた途端だというのに、ひどく驚いて体がびくりと震えたが、動いたのはそれだけで、体を起こすこともできなかった。体が痺れているらしい。体の感覚は全て戻ってきているようで、寝かされているそこが、地面に布を敷いただけのところだと背中が判断した。
「起きましたね」
暗部は静かにそう自らに確認するように呟くと、すぐに視線を巡らせる。イルカもそれに倣い、辛うじて動く首で周囲を窺った。そこは記憶違いでなければイルカとカカシが襲われた場所のままのようだ。すぐ傍には弁当屋のビニール袋が落ちていて、弁当はひしゃげて中身を地面に吐き出している。
その弁当の向こうで暗部と思しき黒外套の人間が三人と一人の忍に囲まれて、一組の男女が捕らえられているのが見えた。
「先輩! 目を覚まされましたよ!」
イルカの傍らに控えていた暗部がそうその集団に向かって声を掛ける。すると、その内の一人が振り返り、イルカの傍に駆け寄ってきた。
カカシだった。
地面に横たわったまま、カカシが暗部出身だというのは本当だったんだ、暗部面の下も口布していたのかなあ、と埒もあかないことを考えた。
「イルカ先生、大丈夫?」
カカシは枕元にしゃがみ込んで、そっとイルカの額に手を触れた。額宛は外されているらしい。
「…ええ…、体が動きませんけど…」
「揮発した気体を吸引させるタイプの痺れ薬ですね。一日ぐっすり眠れば抜けますよ」
とは暗部の談だ。もしかして医療忍術に長けたタイプなのかもしれない。
「…済みません、オレがもう少ししっかりしていれば…」
カカシはひどく沈んだ声で俯いている。
「…いいえ、怪我は無いようですし、大丈夫です。カカシ先生が居なければオレはどこかに連れ去られていたんでしょう?」
連れ去る目的でないのなら、痺れ薬などと言う中途半端なものは使わない。イルカを始末するだけならあの男ならすぐに出来たはずだ。現にイルカは口を押さえつけられていたのだから、首の骨を折ることだって可能だったはずだ。
「恐らく拉致するのが目的だったと思います…。でも、イルカ先生が眼力を使ってくれたお陰で取り逃がさずに済みました」
「ああ、じゃあ、効果はあったんですね…」
「はい…。暴れることもなく逃げることもなかったので、とても簡単に捕らえられましたよ」
結局襲撃者は二人だったのだろうか。イルカはもう一度首を巡らせて、今は暗部四人で取り囲んでいる男女の顔を見定めようと目を凝らす。途端に男の方がびくりと体を震わせてイルカの方を見たようだった。その顔は二日前にイルカを襲った男と同じだ。
「男は葛城ハナダ。二日前にあなたを襲った男と同じですよ」
どこかで聞いたことのある苗字だと思いながら、その考えを封じ込めてカカシに尋ねる。
「…カカシ先生が暗部に引き渡したんじゃなかったんですか…?」
「ええ。その時は腱を切って逃げられないようにしたんですが、協力者が居て。…協力者と言うより、首謀者なんですが、あの女が治療して逃がしたんです」
では、葛城ハナダという男の隣に捕らえられているのはその首謀者の女なのか。彼女はイルカに背中を向けているため顔が見えない。しかし、その後ろ姿を知っているような気がした。
「…まさか…」
イルカはその人のために今の今まで残業に精を出していた。一時では好きだったこともあったが、彼女に好きな人が居るというので諦めた苦い過去もある。
「…そうです。葛城ユイが、首謀者です」
目の前が一瞬暗くなったような気がした。瞬きをしたわけでもないのに、あまりのショックで横になっているのにも関わらず、それに似た眩暈を感じたのだった。
しかし、どうして葛城ユイがイルカを狙うというのか。彼女が好きだったのはカカシで、手酷くふったのもカカシだったはずだ。イルカを浚うという行動に説明が付かない。
けれどすぐそこに捕らわれているのは確かにかつての同僚だ。
「まだ調べている途中なので、詳しい動機は分かりません。ハナダがどうして協力したのかも分かりませんし、あなたを拉致してどうしたかったのかも」
「…二人の関係って…」
同じ葛城という苗字で、ユイは未婚女性の筈だから、ハナダが夫であるわけではないとしたら理由は一つか。
「兄妹でしょうね」
カカシは溜息を吐きつつそう洩らした。
兄のハナダがイルカの視線を感じて、藻掻いている。猿ぐつわを噛まされているのか、声は言葉になっていなかったが、ハナダが必至に自分を求めているという事実にイルカは気が付いた。
カカシもそれに気が付いたらしく、視線をハナダに向けて苦く笑った。
「もうひとり影響者を増やしてしまいましたね」
何でもない一言だった筈だった。
しかし、イルカはその言葉に秘められた事実を嗅ぎ取ってしまった。さっきも違和感を感じたのはこの所為だったのだと理解できるほどの、明瞭な事実。
もう一人影響者が増えた。
増えた人間がまだ他にいる――――ということ。
イルカはカカシを見上げた。カカシはその視線に気が付かず、じっと葛城兄妹を見つめている。そこには冷徹な怒りが込められているのをイルカは察知した。
カカシも、そうなのだろう。
万古蘭の影響を受けないと信じられていたはずなのに、今では行動の端々からイルカへの好意が溢れているのをイルカも感じる。何一つ誇るようなものを持たず、魅力の乏しいイルカを、万古蘭の影響無しで見初めるなどとは思えない。特にカカシはイルカの手の届かないような高みにいる人で、イルカはそんな人に迷惑しか掛けていないのだから。万古蘭に抵抗力を持っていたのだとしても、長いこと一緒に居た所為でじわりと犯されてきている可能性だってあり得るのだ。人工的な眼力は天然の瞳術には叶わないと思っていたが、まさかカカシまで。
嬉しいと思っていたのに、途端に気持ちは萎んでしまった。万古蘭によって得た好意なら、もうじきそれは失ってしまうものだと分かっていたからだ。
万古蘭の特効薬を今、自来也とコハルで精製していることはイルカも知っている。もしかしてカカシならもう少し詳しいことを知っているかもしれないが、イルカにはその程度の話しか伝わってこない。しかし、期限付きであることくらいは容易に想像が付いた。
つまり、いくら今嬉しいと感じていても、カカシの好意はいずれ離れていくもの。
胸郭を覆う骨の間隔がきゅうと狭まったような痛みを覚えて、イルカは目蓋を閉じる。その感覚には覚えがあった。ついこの前これに似た痛みを感じていたのだが、今の今までそれを味わった事を忘れていた。
それは恋を失うときに伴う痛みだ。
好きな人を思う心と体の軋轢から生まれる摩擦。
イルカだって、カカシをいつの間にか好きになっていたのに、カカシが自分を好いてくれていることは分かっているのに、終わりが見えている。
残るのは自分の気持ちだけだ。しかも同性愛という茨の道。カカシは万古蘭の特効薬が出来ればイルカの事など忘れて無かったことになってしまうのに違いなく、自分が傷つくのは火を見るより明らかで。
「…イルカ先生?」
自覚してしまえばこんなにも苦しい。名前を呼ばれるだけで泣きそうになるようなことは今まで無かった。
諦めなければいけない。イルカはカカシの目を見ないように、目蓋を閉じたまま、はいと返事をした。
動けないイルカはカカシに背負われて自宅に戻った。暗部の一人が気を利かせて弁当を片づけて、替わりの弁当を買ってきてくれていたので、夕食を食いっぱぐれる心配はないようだ。
暗部達は詳しいことが分かれば報せるとカカシに言い残して二人を連行して行ってしまった。
家に戻ってからは羞恥と遠慮、後悔の連続だった。
体が痺れて風呂に入れないイルカのためにカカシが髪を洗ってくれた。それはまだ良かった。洗面台は狭かったから台所のシンクで、まるで理髪店のように椅子に座らされ仰向けで洗って貰った。カカシの指は器用で気持ちよかったし、なによりイルカは髪を梳かれるのが好きで、思わずうっとりと眠りそうになったが、それは空腹に邪魔された。
そして、裸に剥かれて体中を洗われそうになったのには流石に抵抗した。
「えーイルカ先生、お風呂好きでしょ?」
「す、好きですけどっ、人に洗って貰うのは嫌です…!」
握力の戻らない手で必至にバスタオルを掴んでカカシに抵抗する。今の今好きだと認識したばかりの人に、体を洗われる以前に裸を見られるのは流石に抵抗がある。もったいぶるような結構なものではないが、見せつけるようなものでもなくて、イルカは必至になった。
本気で嫌がっていると理解したカカシは渋々とイルカを風呂に入れるのを諦めて、濡れたタオルで背中や首筋を拭いてくれた。
「前は自分でできるでしょう」
と固く絞ったタオルを渡される。ごしごし擦りたいところだが、タオルを掴むので精一杯の手はぷるぷると震えて体を拭くのも困難だった。
どうにか気になる部分を拭き終えるとカカシが寝間着に着せ替えてくれて、食卓へと連れていってくれた。
そこでカカシの手ずから食事を与えられた。
あの暗部はカカシとイルカの弁当を間違いなく買ってきてくれたようで、イルカは大盛り牛丼にありつくことが出来たわけだが、背もたれにぐったりと体を預けたまま、食事を口に運んで貰うのは食事の至福感を押しのけて、申し訳ない気持ちを増大させる。イルカを食べさせる傍らでカカシも器用に自分の弁当を口に運んでいる様子が苦でなそうな所が救いだ。
「口布の煩わしさから解放されていた後で良かったですよ〜」
と暢気なことを言いながらカカシは楽しそうにイルカの食事の介添えをこなしていた。
歯磨きは痺れの取れるという翌朝にすることにして、うがいだけで済ませ、すぐに布団へと運んで貰った。
くのいちが忍んできたあれ以来カカシとイルカは揃って居間で寝起きしている。その狭い空間い布団を並べて敷いているという事実を、イルカは意識してしまった。今まで何とも思わなかったのに、急に気恥ずかしく感じられて、カカシに軽々と抱きかかえられて下ろされるときには真っ赤になってしまっていた。
「アレ? 顔赤いよ。熱でも出てきた?」
軽めの掛け布団をかぶせたカカシがイルカの顔を覗き込んできて、そっと額に手を触れる。
――――や、やめてくれー!
顔を覗き込まれるのは勘弁して貰いたい。カカシの破壊力すら感じる美貌をアップで見せつけられるのは心臓に良くない。折角濡れタオルで拭いた体にじわりと汗が滲むようだ。
「だ、大丈夫ですよ〜」
早く退いて欲しくてイルカが身じろげば、カカシはそう?と腑に落ちない様子を見せながらも、手を引いた。
「そ、そう言えば額宛はどこに…」
気が付いたときには剥がされていたようだから、イルカには行方が分からない。
「ああ、ちゃんと持って帰って来てますよ。心配しなくても、ほら」
一度カカシは玄関の方へと戻り、そこから額宛を持って戻ってきた。目の前に示されたそれは確かに傷の具合に見覚えがあるイルカのもののようだ。
「ああ、ありがとうございます…」
ほっと安堵すると体から力が抜けた。その頃には感じた顔の赤みも引いたようで、頬は熱くなくなっている。
「それじゃあ、オレは風呂に入ってきますね。先に寝てて下さい」
カカシはイルカの額宛をそっと枕元に置くと、明かりを豆電球のみにして居間を出ていった。
さっきまで薬の影響で眠っていたし、寝る時間にしたって少しいつもより早い。体が動かせないから仕方ないとは言え、眠くないのに寝かしつけられるのはひどく退屈だった。自分でもどうすることが出来ない眠気をせめて呼び寄せるためにイルカは目を閉じた。
強い視線を感じて、イルカは覚醒した。それは忍としての習性で、目が覚めていない振りを続けながら周囲を窺った。いつの間にか眠ってしまっていたようだが時間は分からない。周囲はまだ暗いようだ。
イルカの目を覚まさせた視線の主は、カカシだった。カカシがこの建物内に居る限り他の誰も侵入できるはずがないのだから。
「イルカ先生…」
そっと柔らかい声で呼ばれて、イルカはドキドキと胸を高ぶらせる。カカシのこんな優しい声を聞いたことがない。どんな顔をして呼んでくれているのか見たかったが、何故かその時我慢した。起きていることを知られてはいけないような気がして、任務の時と同じように呼吸を深く保ち、動揺を抑え込む。
そっと解かれた髪が持ち上がる感じがした。カカシがイルカの髪の毛に触れている。丁寧に洗われ頭皮まで揉み込まれていつもより軽く感じる髪。それをカカシが指先で遊んでいる。
そんなことをされても万年中忍なら起きないと思っているのだろうか。とてもむず痒いような気分になりながら、それでもイルカは寝た振りを続けたのは、初めに寝た振りを決め込んでしまったからだ。今更目を開けるのも白々しい。
髪を弄んでいた手が止まり、ぎしっと音を立ててイルカの体の横に手を突かれたようだ。
何をするつもりなんだろうと空気を窺っていれば、ふっと唇に柔らかいものが押しつけられた。
――――!
その行動には驚き、イルカもばっちりと目を開けてしまった。
しかし、すぐに離れてイルカの顔を覗き込んだままのカカシは驚いた様子はない。イルカの目が覚めていることなど予め知っていて口付けてきたようだと知った途端に、かあっと耳まで熱くなった。
「ねえ、イルカ先生。もう分かって居るんでしょ?」
この場には二人きりしか居ないのに、カカシは誰かに憚るようにこっそり耳打ちをするような静かな声を吹きかける。イルカの体は意志を持たずに勝手にびくりと震えた。
「あなたのことが好きになっちゃった…」
カカシはそうは言わないけれども、それはきっと万古蘭の影響力で。イルカは瞑目し、カカシを避けるように背を向けた。
「…そんなことを言われても困ります…」
そんなことはない。正面からこうして告白してくれたことは泣きたくなるほどに嬉しいし、一生忘れられない思い出になるだろう。庇うようにして丸め込んだ胸は歓びに烈しく脈打っている。同時に悲しくて喉元に何かが迫り上がってくるような感覚があり、イルカは必至でそれを抑え込もうとした。
「…オレは女性が好きなので、カカシ先生は無理です」
自分が傷つかないように出来る限りの防衛策を採っておかなければいけない。カカシを本能のまま受け入れれば、もっと痛い目に会うのが分かっていた。
それでも泣き叫ぶ本能を抑え込んでイルカは更に体を縮め、胸元に掛け布団を抱き込む。意志の力で強く瞑った目尻に皺が寄るのを感じた。
「…イルカ先生」
急に色気を無くして、普段の調子に戻ってしまったカカシの声に、イルカは自分が傷つかないようにするために、相手を傷つけたのだと知った。
暫く沈黙が続き、カカシはそっと溜息を吐いたようだった。それからイルカの元を離れたカカシは隣に床延べされた布団の中に入っていった。これ以上イルカと話していても無駄だと思ったのだろう。その衣擦れの音が淋しくて、イルカは自分で判断したことなのに心がちぎられたように傷んだ。
カカシの呼吸が深くなると最早耐えられずに、枕に顔を伏せて声を殺して泣いた。
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