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MEDUSA




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 まさかカカシがイルカの思いつきで言ったことを了解してくれるとは思わなくて、そのうれしい誤算に、イルカの気持ちは高揚していた。
 この任務の当初なら「むやみな外出は厳禁です」と言いそうなものだったのに、まさか昨日の今日で実現しそうなくらいに乗り気だと、昨晩は気付かなかった。社交辞令のようなものだとばかり思っていた。
 ただ、外で夕食を摂るというそれだけの約束。そんなささやかなことにカカシのみならずイルカも楽しみに感じていた。
 浮き立つ心のままの授業は何故か子供達もひどく幸せそうで、イルカは今自分はとても幸せな環境にいるのではないだろうか。仕事は充実しているし、仕事が終われば共に帰る人が居て、夕食も一人きりじゃない。その相手は憎からずイルカを思ってくれているようであり、それに悪い気はせず、むしろ深い充足感と安らぎを与えてくれる。
 ――――オレのこと、好きなのかな。
 それはもしかして都合のいい妄想なのかもしれない。カカシはだって、昔からひどくモテる人間で、それこそイルカの一時目指した「選り取りみどり」が実際にできる人だから、何も同性のイルカを選択する理由がない。しかし、鈍感なイルカでさえ行動の端々に見える好意を感じ取れるほどで、昨日は、もしかして勘違いかもしれないが指先に口付けられたような気がする。
 それを思い出してイルカは不意に顔が熱くなるのを感じて、慌てて子供達と窓の外から見ているはずのカカシから隠すように黒板を振り返った。
 そんなことをされて、自分は全く嫌じゃなかったどころか、ドキドキと胸が騒いだくらいだ。すぐにそれを誤魔化してドライヤーを掛けていたカカシの髪を掻き回したけれど、アレは少し痛かったかもしれない。そもそも、自分がドライヤーを掛けると言い出したことの大本にはカカシの銀色の髪に触れてみたいという欲求があったからだ。何だかその心を見透かされたみたいで、イルカは過敏に反応しすぎてしまったように思える。
「先生〜、ここちょっと分かりません」
 問題を解かせていた子供の一人が手を挙げてイルカを呼んでいる。それに我に返ったイルカはいそいそとその子供の元に参じ、分からないポイントを把握してから丁寧に一段階ずつ問題を解きながら、考え方を教えた。
 ふと顔を上げてカカシの木に視線を向けた。
 しかし、そこにはいつも居るはずのカカシの姿が珍しく見あたらない。
 ――――あれ?
 思わずイルカは窓辺に歩み寄り、まじまじとその定位置周辺を見つめるが、どんなに目を凝らしてみてもカカシの姿を見つけることが出来ない。どこに行ってしまったのだろうか。 「イルカ先生? どうしたの?」
 お外に何かあるの? と尋ねた子供に、何でもないよ、と下手に取り繕って、イルカは教室に向き直り、問題に戻るように言って聞かせる。子供達はそれで納得したようで、再び顔をイルカから机の方へ向けていた。
 カカシが定位置に居ない。さっきまで手を振ったら振り返してくれていたのに。用を足しに行っているのかもしれないし、もしかして少し早い昼食の買い出しにでも行ったのかもしれないが、初めてのことにイルカは妙に胸騒ぎを感じた。
 しかし、今日の夜はカカシときちんと約束をしている。夜から弁当を持ってピクニック。だから最悪でもカカシは夜にはイルカの元に帰ってくるはずだ。彼だって楽しみにしていたのだから。
 しかし、ずっと傍に居た人間が居なくなるということは淋しいもので、庇護を失い、裸にされたような不安感を抱きながら、イルカは仕事に集中するのだと己に言い聞かせて、子供達の教壇に立つのだった。
 昼休みに入ってもカカシは帰って来ないようで不安だったイルカだが、午後の授業が始まる頃には、カカシは定位置に戻っていて、イルカを安堵させた。やはり、早めの昼ご飯に出ていたに違いない。いつもカカシが昼食をどうしているのか知らないが、もしかして、今日の夕食が遅いということを予め知っているが故に、きちんと摂取する気になって早めに出掛けたのかもしれない、とイルカは思った。
 そこにカカシが居るというだけで自分の精神の安定感が違う。カカシは授業のことについて何も注文をつけないし、揶揄することもない。授業には居ても居なくても全く関係ない存在だというのに、イルカには最早大きな存在になっているようだった。
 そっと手を振ってみれば、それに気が付いたカカシが苦笑して頷いたようだった。それが嬉しくて胸が温かくなる。
 早く仕事を終えて、一緒に夜のピクニックに行きたいとイルカは強く思った。
 その思いが強く働いたのか、イルカは午後の授業を終えた後の残業時間は怒濤のように仕事をこなした。ユイの開けた穴を塞ぐための作業に、実は昨日はあまりやる気を感じなかったのだが、鼻先に人参をぶら下げられた馬のごとく、テストの採点をして自習用のプリント作成をこなす。一人一教科、一日分。イルカの今日の分の担当は幸運なことに算数で、問題を作りやすい。百問プリントと称してただひたすら計算式を書いていく。最後の二十問は文章題にして難易度を上げてやれば、子供達も授業をつぶせるだろう。出来上がった問題を一部コピーして、赤ペンで答えを書いて終了だ。
「出来た…!」
 時計を見てみれば、昨日は八時半過ぎまでかかった残業だったが、今日は集中力が持続したために一時間も早く終了していた。
「お疲れさま」
 すっかりと暮れてしまった窓の外から中を窺っていた筈のカカシが、不意にイルカの横に立っていた。イルカの残業が終わったと感じて職員室にやってきたに違いない。
「お疲れさまです、終わりましたよ」
 晴れがましい気持ちでイルカはカカシに四枚に渡る算数プリントを見せた。カカシはそれを受け取り、目元を緩ませたまま一枚一枚眺める。その間にイルカは帰りの支度を進めた。
「こんな簡単でも量があるとプリントを作るだけでも大変ですね〜」
 見終わったカカシが差し出したプリントをイルカは一番下の抽斗に入れて、鍵を掛けた。鍵は家の鍵と纏めてあるから、いつでも身につけていることになる。
「そうですね、これが毎日だと腱鞘炎になりそうです」
 準備の整った鞄を肩から掛けると、それが合図のように二人連れだって職員室を後にした。これから弁当屋に寄ってピクニックに行くと思うとイルカの足は軽い。
 外はすっかり暗くなっていて、アカデミーの構内から出るとカカシの雰囲気が急に刺々しいものに変わったのを感じた。
「…あの、カカシ先生?」
 その変化が理解できずにイルカは隣を歩くカカシを振り仰げば、街灯で辛うじて判別できるカカシは険しい顔をしているのが分かった。
「イルカ先生、申し訳ないんですが、今日のピクニックは延期にしましょう」
「え――――」
 その申し出にイルカは一瞬固まり、その場に立ち止まってしまった。あんなに楽しみにしていたし、プリント作成も頑張ったのに。
「オレが言い出しておいてなんですが、今日はよくありません。弁当を買って家で食べましょう」
 そんな味気ない。よくないって何がどう良くないんだ。
 文句が閃くように脳裏に浮かんだが、カカシはイルカの方を振り向こうともせずにただひたすら家への最短ルートを黙々と先導していく。その横顔は真剣そのもので、何かあったのだと判断するには十分すぎる固い雰囲気を醸し出していたため、イルカは大きな期待を抱いてしまったためにそれと同等の落胆を抱えて、カカシに付き従った。
「…また、別の日に延期ですよね」
 しつこいかもしれないが、カカシが警護についてからは散歩さえまともに出来ず、この出勤の道のりだけが唯一の外出で、今晩はささやかながら久しぶりのレジャーだったのだ。諦められない。
 イルカの切実な思いが伝わったのか、カカシがふと足を止めてイルカを振り返る。困ったように、眉を寄せてカカシは笑ったようだった。
「そうですね。延期にしましょう」
 なぜ、そんな微妙な悲しい顔をするのかイルカには分からなかったが、それでも中止になった訳ではないことに喜びを隠せずに、二度三度大きく頷いた。
「どこにしましょうか。イルカ先生の好きなところで良いですよ」
 そう言えば今日出掛けると決めていたものの、場所を決めていなかった事にようやく気付かされる。
「そうですね、決めていませんでしたね…」
 自分たちの舞い上がり具合が目の当たりになったようで、少し照れくさい気がしたが、イルカは歩きながら真剣に候補地を思い浮かべる。
 恐らく行けるのは平日の夜、イルカの仕事が終わってからで、翌日の仕事に差し障りの無い程度の距離。夜なら山は怖いから公園になるか。
「…休日でも、人が少ないような所なら朝から行ってもいいですよ」
 まるでイルカの心を読んだかのようなカカシのタイミングと、その内容にイルカは目を剥いた。
「え、あ、あの。良いんですか?」
 火影の了承も何も得ていないのに独断でイルカを連れ出しても文句を言われないのだろうか。面倒くさい手続きとかは無いんだろうか。
「良いですよ。問題を起こさなきゃ良いんですし、そのためにオレが付いて居るんですから。何ならナルトやサスケも連れていきますか」
 そう言えば子供達にも随分会っていない。カカシのその提案は凄く魅力的に思えた。しかし、イルカには人を惑わす眼力が備わっていて、思春期に差し掛かる彼らは影響に入るか入らないかの微妙な所。
「会いたいですけど…会って大丈夫でしょうか…」
 だからイルカはもう一月近く卒業したばかりの子供達とは逢っていない。思い出してしまえば、会っていない淋しさがむくむくとわき上がる。
「大丈夫ですよ、その眼鏡をしていれば問題ないでしょう。今はもう万古蘭の影響者は増えていないようですから」
 そのカカシの言葉にイルカはどきりとしてしまった。
 何にそう感じたのかは分からないが、喉に刺さった小骨のような違和感を覚えて、首を傾げる。確かに眼鏡をしてから万古蘭の影響は薄まっているし、広がっていないことは当のイルカが一番よく分かっていたが、それでも何か見落としているような気分になる。
「…イルカ先生?」
 突然黙ってしまったイルカを不思議に思ったのかカカシが顔を覗き込んできて、ようやくイルカは自分が考え込んでいたことに気が付いた。
「そんなに子供達が同行するのに悩むようなら、別に二人でも良いですよ」
 子供達の同行に違和感を感じたのだろうか。
 それも違うような気がしたが、不安の種となるような気がしてイルカは「そうですね」と答えた。
「…やっぱり影響を与えちゃうかもしれないのは怖いので、ここは二人だけで行きましょう。休日を使えるのなら、結構遠くまで行けますし」
 自分の気持ちも切り替えるようにそうつとめて明るい声を絞り出せば、僅かばかり気持ちが持ち直す。『明日の百より今日の十』という言葉をどこかで耳にしたことがあるけれど、この場合は『今日の十より明日の千』を選択したのだと思えば、正しいことをしたような気持ちになる。
「どこまで行く気ですか」
「そうですね、出来たら景色の良いところに行きたいですね」
「例えば火影岩とか?」
 そう茶化したようなカカシの言葉に、ぱっとイルカは火影岩の頂上を思い出す。確かに断崖に作られているため見晴らしは素晴らしい。しかし、アカデミーから一時間程度で一番上の展望台まで上れて、アカデミー生の遠足コースにもなっている。
「…景色は良いですけど…せっかくの休日に行くような所じゃないですよ。もっと、弓張展望台とか、勝田浜とか」
 イルカの思い浮かぶ景勝地はどれも日帰りで赴くには無理のある距離の所ばかりだ。カカシも距離を感じたのか、少し悩むような仕草をした。
「…ちょっと、無理が…あるような…」
「だから、例えですよ、例え。そう言うところに行きたいです。オレは温泉が好きなんで、温泉に入れたら良いなあ」
「まあ、研究しておきましょう」
 そんなことを言いながら二人は途中の弁当屋で、各々好みの弁当を購入した。カカシは幕の内に野菜炒めを付けて、イルカは牛丼の大盛りにサラダ。
「明日の朝ご飯、白飯と卵焼きしか出来ませんけど良いですか?」
 冷蔵庫にはもう何も入っていない。冷凍庫に残っていた薄揚げも茹でキャベツももう使い切ってしまってみそ汁の具になるものはワカメしかない。今からスーパーに寄れば閉店ぎりぎりに駆け込むことが出来るだろうが、寄り道は良くないと言ったカカシが寄るとは思えず――――。
「良いですよ。海苔も野菜ジュースもあるでしょう」
 イルカの想像通り、カカシは真っ直ぐ家に帰ることを選択した。
 イルカの分の弁当もカカシの分も同じビニールに詰められて、今はカカシの左手に揺れてがさがさと音を立てている。
 連休を獲得して、カカシと二人で温泉に一泊というのもいいなあと歩きながら考えれば、どんどん楽しい気持ちがわき上がってくる。カカシとならきっと楽しいこと間違いない。
「何にやにやしてるんですか」
「えへへ、秘密です」
 カカシが不満そうにエーと声を上げ、何か反論をしようとした。
 その時だった。
 かつっと足元に何か硬いものと硬いものがぶつかるような音がしたと思ったその寸後、カメラのフラッシュ以上に眩い光が下から突き上げるように放射した。
 ――――光り玉…!
 咄嗟に悟り、腕で目を庇うが、目の裏が真っ白な光りで焼き付いたようになっている。近くでどさっというビニール袋の落ちる音が聞こえた。
「カカシ先生…っ!」
 今カカシとイルカは何者かに襲われている状況だと考えてまず間違いない。光り玉を使っている点から相手は忍。まさかカカシが同業者相手に不覚をとるはずがないとは思いながらも、ビニール袋が落ちたような音には不安になる。まだ目が見えないから視覚で確認することもできないし、返事もない。
「カカシせん…っうぐ」
 もう一度名前を呼ぼうとしたところで、口を塞がれた。一瞬カカシの手かとも思ったが、口にあたる布の感覚はカカシの手っ甲の素材とは思えない柔らかいもので、薬品の匂いがした。こいつは襲撃者だと判断したイルカはその腕を引き剥がそうとし、両脚をばた付かせて抗った。
「じっとしろ…っ」
 その声は聞き覚えがある。その声が呼び水となって、この状況にも覚えがあることをイルカは思いだした。
 二日前イルカは一人でアカデミーから帰った折りに、こうして何者かに襲われた。あの時はカカシが助けてくれて、恐らくその人物はカカシの手によって暗部に引き渡されたはずだ。それでもこうやって襲ってくると言うことは、襲撃者は一人ではなく、こいつはその残党なのか。
 何が目的か分からないが決して捕まるわけにはいかないと足を踏ん張ったその時、布に染み込ませてある薬の効果か、くらりとした眩暈を感じ、イルカの膝が抜けるように落ちた。
 ――――え…!
 気が付いてみるとまるで体に力が入らない。まだ眩んだ目には見えないが、イルカの指も痙攣しているのではないか。
 カキンと、至近距離で金属と同士ぶつかる音がした。恐らくクナイとクナイが斬りつけ合う聞き慣れた音だ。薄らぎそうな意識を総動員させて耳で音を拾おうとすれば、時々ざっと地面を踏みしめる音が聞こえる。それは複数で恐らく、カカシと、もう一人。
 カカシが何者かと争っている?
 見えないことにも、頭がくらくらとして意識が定まらないことにも歯がゆい。
「う…っ!」
 突然のうめき声は、明らかにカカシのものではなかった。もっと高くて、まるで女性のような――――。
「イルカ先生! 無事ですか」
 それはカカシの声だった。争う様子を見せていたはずなのに、全く声色に疲れを見せない。
「――――…っ!」
 返事をしたかったが口は塞がれていたし、脳内に酸素が足りず声を張り上げることも出来そうにない。イルカの耳のすぐ傍で、男のちっという小さな舌打ちが聞こえたような気がした。
 そのまま男はイルカを抱え上げようと膝裏に手を掛けてくる。薬を嗅がされている今、力では絶対に叶わない。
「イルカ先生…っ、返事を…!」
 カカシもやはりイルカの姿が見えていないようで、声はすぐ傍でするのにイルカからの反応を窺っている。
 絶対に使わない、と決めたはずだった。これを使うことは罪を犯すことと同義だからと己を戒めていた。しかし、今自分に残された方法はこれぐらいしかない。そして、期を逸すれば、効果もない。
 そう腹を括ったイルカは外出するときは必ず着けていた眼鏡を震える指で外し、自分の口を押さえるその手に遠慮なく噛みついた。
「ってェっ!」
 半分イルカの膝裏を掬いかけだった腕が外されて、イルカの力の入らない体を支えていた男の体が揺れる。その瞬間に眼鏡が握力のない手から落ちたがイルカは頓着しなかった。
 そのまま見えない目で虚空を睨み付けて目頭に意識を集中させる。じわりと目蓋が熱くなるのを感じると、イルカはそのまま一心不乱に念じた。
 ――――影響下に入れ! そのまま動くな…!
 イルカが手酷く噛みついたことで視線がこちらに向かっているはず、というあたりをつけてイルカは目を見開く。
 もしかして、見えていない目には効果が出せないのかもしれないが、体に力が入らない今、これしか自分に対抗する術はなかった。
 しかし、意識が朦朧としてくる。
 効果のほどは結果を見てのお楽しみかな。
 そう思いながらイルカは目を閉じ、最早保っていられない意識を手放した。



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