MEDUSA
しかし、カカシの晴れやかな気分はそう長くは保たなかった。
「え、残業ですか」
万古蘭の影響とは言え、カカシがめでたくイルカを好きになって自覚した日だから、終業後急いでイルカの元に訪れれば、申し訳なさそうに告げられた事実がイルカの残業だった。
「はい…。何でも急にユイ先生がお休みになるそうで、その間みんなで手分けしてクラスを保たないといけないんですよ」
「…何もそれはイルカ先生でなくても」
そして、何も今でなくても!――――とカカシは心の中で絶叫する。かつてカカシに思いをぶつけてきた女性を思いだし、歯がみする。何かの恨みをカカシかイルカに持っているに違いないあの女は絶妙なタイミングで迷惑を掛けてきてくれるものだ。
「…オレが率先してやらなきゃいけないんですよ。オレもこの前まで休んでて同僚に沢山迷惑掛けてるんですから」
そう言うイルカは責任感に燃えた目でカカシのことを見上げてくる。特殊フィルムコーティングの眼鏡越しでもその眼力を感じるような気がするのは、偏にカカシが自分の気持ちを認めた所為だろう。
――――少し可愛いなんて思っちゃった…。
ひどく騒ぐような胸を抑えて、カカシは渋々納得したという態度を装いイルカを待つことにした。
勿論待つのはいつもの木の上。じっと犬のようにイルカの仕事が終了するの見ている。イルカ以外の誰もカカシには気付かない。仕事の邪魔になってはいけないからイルカにも気付かれないように結界を張り気配を消しているのだが、何故かイルカには見えてしまっているようで、万古蘭にはそうした結界を無視出来る白眼のような力も備わっているのかもしれない。
イルカ以外の誰にも見えていないはずだから、時折イルカの元を訪れて牽制してやれば周囲はカカシを恐れてイルカと必要以上に接触することはなく、その場を少し離れても心配はないのだが、カカシはその場から離れる気にはなれなかった。
そうしたまま一時間待っても二時間待っても、イルカは帰る支度を始める様子を見せず、黙々と仕事をこなしていった。回りの同僚がぽろぽろと剥がれ落ちるように一人また一人と帰路に就いてゆく中、イルカの要領が悪いのじゃないのかとやきもきとしながら見守る。
イルカはそんなカカシの様子に気付いていないようで、残った同僚と世間話をしながら楽しそうに仕事を続けていた。もっと集中してやりなさいよと注文を付けたくなる。ここで待っている人間が居るのだと。しかし火影に以前釘を刺された「仕事について口出しするな」という言葉がカカシの行動に制限をかけていた。
切なくなった胃袋を抱え、イルカの仕事を眺めるのが辛いと感じたのはこれが初めてだ。午後の最初の内は良かった。自分も浮かれていたし、腹も満ちていた。殊勝にもイルカを見ているだけで幸せだなあと感じもしたのだが、いざ二人きりになれる機会が間近に迫れば気が逸り、万古蘭の影響はカカシから堪え性というものを悉く奪っていった。
しかも窓の向こう、職員室の中でイルカはとても満ち足りているように見える。カカシの知らない子供達に関する仕事、カカシをよく思っていない同僚達。カカシが居なくても幸せそうな顔で仕事をしているように見せつけられては、ぎりぎりと歯がみしたくなった。
そして、小さい頃になったことがある胃の痛みによく似た衝撃が胸に走り、カカシはそっとそこを押さえる。
「いてぇ…」
樹木の上に一人、そのつぶやきは存外大きく響いてカカシを打ちのめした。
結局、家に帰り着けた時間は九時を回っていて、夕食は途中の弁当屋で購入して帰った。
「明日も今日みたいな残業になりますか?」
出来れば今日一日でそれは勘弁して欲しい、と思い期待を込めてそう尋ねたのだが、イルカの応えは芳しいものではなく。
「そうですね。今日ほど遅いことは無いとは思いますが、それでも残業は確実でしょうね」
旨そうにのり弁当のちくわ天を銜えながらイルカはカカシにそう答えた。カカシの食べられないものを旨そうに口にしている時点で妙な尊敬の念がわき上がる。
「いつまでそれ、続くんですか?」
出来れば摩雷妃が完成する前までには終わって欲しい。そうして、カカシはイルカともっとめくるめく時間を過ごしたいのだ。
「そうですね〜。ユイ先生の復帰がいつになるか分かりませんし…恐らく代理教師が立つと思うのでそれまででしょうね。だいたい一週間から十日…」
それは摩雷妃完成投薬までカカシが目算した日数と見事に重なり、思わず項垂れた。
「ああ、カカシ先生もお疲れですよね…。早く帰りたいのも分かりますが…、こればかりは…」
カカシが落胆した様子を見てイルカが勘違いした言い訳を始めたが、カカシは敢えてそれを訂正した。
「疲れているわけじゃないですよ、それは大丈夫」
もしも疲れていると誤解されたままだと、イルカは再度火影に増援要請を告げるかもしれない。今となってはこんな美味しい立場を誰に譲られるものか。
ならば、何がそんなに落胆させるのか、とイルカの目が雄弁に語っていたが、カカシはそれに気付かない振りをして、自分の野菜炒め弁当に集中しようとした。
「まあ、また遅くなるようだったら、こんな風に弁当を買って、公園で食べても良いですね。ちょっと不気味かもしれないですけど」
カカシには思いも寄らない提案に、イルカはひどく楽しそうな顔をして咀嚼している。呆然とその言葉を噛み砕いている間に、カカシの視線に気が付いたイルカが再び誤解したのか慌てて取り繕う。
「あ、やっぱり護衛上良くないですよね」
「あ、いえ…」
夜中とは言え弁当を持ってピクニックに行こうという、そういう案のような気がする。それは悪く無いどころか良い案のように思えて、実行することを考えると、急に体中の血流が活発になるようだった。
「良いですね、機会があったら行きましょう」
絶対約束ですからねと、取り決めておきたい気持ちを何とか抑え込んで、カカシはにっこりと笑って見せた。
もはやカカシはイルカと二人きりのときに口布は外してしまっている。一度素顔を見られたため無意味だと割り切っているからでもあり、それがイルカへの武器になると悟ったからでもある。自分がどんな顔をしているのか恐ろしくて確認できないが、イルカはカカシの笑顔を見て舞い上がったかのような、ぽうっとした表情を見せて、まるで催眠に掛かったように一度頷いた。
それから、どこの弁当が美味しいとか、あそこなら遅くまで屋台が開いているだとかそういう話で盛り上がり、弁当のつましい夕食だというのに、妙な充実感を伴う食卓となった。夜中のピクニックどころか、近い内に居酒屋にでも行こうという話も出て、柄にもなくカカシは胸をときめかせたりもしたのだった。
カカシが食事で使った箸を洗っている間に、イルカは風呂に入った。まめまめしくカカシは居間に二人分の布団を敷いて、冷たい茶を用意してイルカが上がるのを待つ。カカシは烏の行水だがイルカは長風呂だ。だから効率を考えていつもイルカが先に風呂を使う。自然とカカシが夜の家事をすることが多くなるが、イルカはカカシの弱い朝に頑張ってくれているから不公平感はない。
イルカが上がってくるまでもう少し時間があるだろう、とカカシが点いたままのテレビの前に座ったその時だった。
いつもなら物音がしてから暫くして上がってくる筈のイルカが、いきなり脱衣場の扉を開けた。
「パンツパンツ」
と呟きながら脱衣場を出てきたイルカは髪から滴を落としたまま、腰にバスタオルを巻いただけの姿でカカシの凝視する居間を扉の前で横切り、自室へと歩いていった。
う
――――うーわー!!
カカシはテレビの前で固まってしまった。脳味噌の中は混乱を極めて、指の一本もまともに動かせないくらい動揺している。
今まで見たことがなかったのが不思議なくらいだが、初めてカカシはイルカの裸を見た。裸といっても上半身だけで、これと言った色気も感じられないはずなのに、破壊力は抜群でカカシの脳味噌は機能停止寸前に陥っている。その証拠にイルカが去ってしまった今も、居間の出入り口の方へ首が向いたままぴくりとも動かせない。
これまで考えたこともなかったけれど、イルカと性的な展開もあり得るのだと、突然悟りを開くように閃いた。
カカシはこれまで同性など相手にしたことはないし、イルカだって十中八九そうだろうと思う。だからこそ、好きだと認識しても、即座に性的な方向へと欲望が向くことはなかったけれども、このイルカの無防備さに突然光を当てられてしまった。嫌悪感を抱くどころか、もう一度見せつけられればカカシは反応を来してしまうかもしれない。
もっとあからさまな女性からのアプローチでも、写真や映像を見てもぴくりともしなかったのに、いつの間にこんな堪え性が無くなったのか。それとも好きな相手だから、敏感に性の匂いを嗅ぎ取った結果なのか。
ばたばたとイルカの部屋の方から忍らしからぬ物音が聞こえて、カカシの脳はようやく我を取り戻し、神妙なニュースを放映しているテレビに顔を向けさせた。
「あ、カカシ先生。あと十分くらいで上がりますから〜」
イルカはカカシの様子に全く気付かずにパンツを振り回しながら、居間にそう声を掛ける。辛うじてカカシは「はい」と応じたがイルカの方には顔を向けることが出来なかった。意識してしまえばイルカのセミヌードは眩しすぎる。しかし、イルカはそれを真面目にニュースを見ている所為だと思ったらしく、カカシの横まで歩いてきて、一緒にテレビを覗き込んだ。
――――!
思わぬ至近距離にカカシは息を飲む。筋肉で僅かに隆起した胸に飾りのような乳暈とそこを伝う滴が視界に入ったからだ。手に持ったパンツから察するに当然バスタオルの下に下着はないのだろう。
「ああ、このニュース、昼間もやっていましたね」
何を納得したのか知らないが、イルカは二三度頷いて脱衣場の方へと戻っていった。勿論カカシには事件についてのキャスターの考察など一言も耳に入って居らず、余りにも無防備なイルカに、全身全霊でその動向を窺い、己を抑圧するのに必至になっていた。
無意識に止めていた息を吐き出せば、どっと体に疲労を感じる。
「…変態になってしまった〜…」
裸の人間を目の当たりにしただけで火がついてしまうような性欲魔人のようになってしまったことはない。全ては万古蘭の所為で、カカシはようやくその威力の凄まじさを知る。催眠のようにも媚薬のようにも使えて、そのどれもが本気にさせる力を授ける薬。
もしかして自分は早まったのかもしれない、と悔いるにはあまりにも遅く、そう考えた頭で摩雷妃が完成するまでだと己を納得させた。
それにしてもイルカの無防備さには、少し絶望を感じたカカシだ。もしかして自分が考えていたよりイルカはカカシのことを意識していないかもしれない。もしも、カカシのことを恋愛対象としているなら、まさかパンツを振り回してバスタオル一枚で部屋を練り歩いたりはしないだろう。少なくともカカシは、しない。
もしかしてイルカが気持ちを自覚していないだけかもしれないと淡い期待を抱いてみるが、それはとても脆そうに思えて、カカシは言いようのない不安を感じたのだった。
もしもカカシの考えが思いこみで、この気持ちが片恋のままで終われば、それこそカカシはただの万古蘭影響者のうちの一人でしかなく、今の今まで感じていた性欲を発散する事は出来なくなる。夜のピクニックも居酒屋での酒盛りもただ空しいだけになるだろう。
どうにかイルカの気持ちを確かめたい。
昼間に抱いた自信は今は露ほどにも感じられず、カカシはニュースの流れる部屋で黙り込んでしまった。
その後着替えを終えてすっかりいつもの就寝の準備が出来た姿でイルカが脱衣場から出てきて、カカシは交代で風呂を使った。おざなりに湯船に浸かっていると、ゴオっという音がカカシの耳に届いた。イルカが居間でドライヤーを使っているのに違いない。
手早く全身を洗い、イルカの三分の一程の時間で入浴を済ませれば、イルカはカカシが準備した茶を傍らにドライヤーを終えたところだった。
「お帰りなさい。カカシ先生もドライヤーをかけてあげましょうか?」
イルカはにこにこと黒髪を肩に流したままの姿でカカシの分のお茶を注いでくれる。願ってもない申し出にカカシは折角風呂から上がったばかりだというのに汗をかきそうになる。
「良いんですか?」
「良いですよ。ここに座って下さい」
イルカはカカシを今まで座っていたところに据えて、カカシの肩に掛かっていたタオルで手早く髪を掻き回す。それから手で梳きながらドライヤーの熱風を髪に当て始めた。丁寧に髪を解かれて、思った以上に気持ちよくてカカシは目を閉じる。
途中でイルカが何か呟いたようだったが、ドライヤーから漏れる轟音に掻き消されてカカシの耳には聞き取れなかった。
イルカはカカシのことを何とも思ってないのかもしれないと考えもしたが、髪を触ってくれるくらいには好意を持たれている。そのことが物質的な気持ちよさ以上に安堵感を生み、カカシはほうっと溜息を吐いたのだった。
時間はあまり無いが、焦っても仕方ない。驚くべき事にカカシはイルカの心も体も欲しいのだから、事を急いては仕損じる。
「気持ちイイです、イルカ先生」
その言葉にイルカが満足げに笑ってくれるだけでも、収穫に感じられるこの気持ちさえあれば、いつかはイルカと恋愛が出来る日が来るのかもしれない。勿論タイムリミットの方が早い可能性もある。
いつだって、その時はその時――――なのだから、今を楽しむべきだ。カカシはそっとイルカの手を取って、その指先に口付け、途端に動揺したイルカが震わせた空気を感じ取って気分が良かった。
「アカデミーを出る時間が八時を過ぎないようだったらお弁当持ってピクニックに行くことにしましょう」
そう提案したカカシにイルカは朝からご機嫌で、授業でも気前よく子供達に接していた。今日も窓から授業を窺うカカシにこっそり手を振ってくれる始末で、カカシは少し困りながらも満更ではなかった。
子供達もイルカの機嫌がいいことを感じ取っているのかテンションが高く、にこにことしている。一人の人間の機嫌がいいだけでこんなに伝染するものなのだなあ、とカカシはその教室を眺めてぼんやりと思った。カカシもイルカにご機嫌にされている内の一人だ。
弁当を持ってどこに行こうかと考えるだけでも気持ちが浮上する。明日も仕事だし、そう遠くへは行けない。弁当が冷め切っても美味しくないだろうから、余り離れていないところが良いだろう。そして、真っ暗闇でもきっと弁当は美味しくないだろうから、いくらか明かりのある場所、もしくは火の焚ける場所。
――――川上公園…いや、いっそ火影岩でもいいな。あそこは四阿があったはず…。
思った以上に少ないデートスポットへの知識をかき集めて、カカシは一人木の上でうんうんと唸り続けた。
昼少し前の事だった。あと十数分で午前の授業が終了するというときに、カカシの視界に黒いものが翻るのが見えた。そちらに注意を向けたのは見られている感覚がしたからだ。つまり結界を無視できる力を持つ人間がそこに居るということだ。そして、闇を織り込んだような黒い布。
――――暗部だ。
カカシはそれをすぐに悟って平和そのものの教室を見、それから定位置から動いて、その暗部の元へと跳ぶ。十中八九自分に会いに来たものだろうと判断したからだ。その瞬間にピクニックに浮かれていた気持ちが真っ黒に塗りつぶされて、忍である自分が喚起される。
「お疲れさまです、カカシ先輩」
仮面を外さなかったが、静かな声で暗部からカカシに話しかけてきた。その声に聞き覚えがある。すぐにカカシは誰か理解したが、名を呼ぶような愚行は犯さず、一つ頷く。すぐに第三者に姿を見られないように物陰に入った。
「何があったの。お前がここに来るって事は緊急事態?」
暗部はじっとカカシの事を見つめて、数拍置き、頷いた。
「先日先輩が捕らえたハナダが脱走しました」
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