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MEDUSA




「済みません…。イルカ先生がなかなか今日は食堂へ行ってくれなかったもので…」
 イルカが昼食を摂るときにカカシが席を外すのは、その時ばかりは他の連中もイルカよりも食事の方に気を取られているから、比較的諍いになりにくい時間帯だと想定してのことだった。カカシの昼食はこの執務室に簡単なものを用意してくれるようになった。今日はサンドイッチが準備されていた。カカシは火影に遠慮することなく食事の前に座り、サンドイッチと一緒に準備されていたお茶をカップに注ぐ。
「…遅れた訳については時間があれば聞こう。自来也から連絡があった」
 火影はカカシと対峙した席に座り、ポットに残った茶を自分の湯飲みに注ぐ。
「摩雷妃が完成間近のようじゃ。この二三日の内に動物実験に移れるとのことらしい」
「…そうですか。それをイルカ先生に伝えますか?」
 カカシは食事を手早く頬張りながら、器用に火影に尋ねる。勿論口の中を見せるような失礼な事はしない。
「お主から見てどうじゃ。最近のイルカは落ち着いているように見えるか。もし、まだ万古蘭にこだわりを持っているようなら控えた方がいいが、そうではなく反省していて早く治したいと思っているようなら伝えても良いかもしれん」
 カカシはその火影の言葉に頷きながら考える。
 最近のイルカは素直に特殊コーティングの眼鏡を掛けているし、カカシの言いつけを守って誰かと二人きりになるのを避けている様子も窺える。影響下にある人間の数が増えていないことから、隠れて力を発揮しているようなこともない。万古蘭に対する執着は無いように見えたが、それでも影響力を軽視している面が垣間見えるときがある。
「が、…もし気が緩んで万古蘭を使ったり、影響下の者に意の沿わぬ行為を強いられる隙を見せてしまう可能性も無いではないな…」
 火影がまるでカカシの思考をさらったかのように呟き、カカシもそれに頷いて同意を示した。イルカは隙だらけだ。
「うむ…ならば、摩雷妃のことはもう暫く伏せておくこととしよう。そのようにコハルにも伝えておくぞ」
「よろしくお願いします」
 タイミング良く一切れ食べ終わったカカシは、小さく里長に頭を下げた。
「それともう一点。昨日のハナダの件じゃが、アレはどうやら万古蘭とは関係無いようだ。暗部の報告によれば誰かに唆されたような可能性があるということじゃ」
「……木の葉の上忍が誰に唆されると言うんですか…」
 まさか上忍が口先だけで誑かされて犯罪まがいのことに手を染めるとはカカシには考えにくかった。しかし、実際にハナダと捕らえたのはカカシで、それはイルカを襲っていたからだ。イルカを襲うのには何らかの理由が必ずあるはず。
「イルカを狙っている者じゃろう」
意味深な火影のその言葉にカカシははっとした。
 イルカを狙う人間――――。それは万古蘭の影響下にある人間もそうだし、それと同様にイルカを恨みその命を求める人間も差す言葉だ。万古蘭の可能性がないという言葉の裏を返せば、後者でしかあり得ないと言うことになる。
「そんな恨まれるような事をしているとは思えんがのう…。引き続き尋問は続ける。お主はイルカの周囲を注意していてくれ」
「はい…」
 イルカの命を狙う人間に、心当たりは全くない。イルカは曲がりなりにも中忍だから人を手に掛けたことの一度や二度はあるだろうし、相手はその線なのかもしれないが、上忍を操れる者だろうかという疑問が浮かび上がる。
 なんにしろ、カカシはイルカから目を離せない状況になってきていると言うことで、残りのサンドイッチは添えられていたナプキンに包んで、アカデミーに持ち帰り食べることにした。
「それで、どうして今日はこんなに遅れたのじゃ」
 世間話とばかりにそう切り出した火影は、温い茶の湯飲みを大事に抱え込んで背もたれにゆるりと背を預ける。まるで、カカシが急いてサンドイッチを包んでいる所など見ていないかのような素振りで、カカシは少し苛立った。先ほど見せた先読みの力はこの一瞬で一体どこへやってしまったのか。
 しかし、そうして促されたことで思い出した事実があった。
「ハナダがイルカ先生を襲ったことで暗部が動いたことが噂になっていますよ。ただ、噂では襲ったのはハナダではなくヤシロになっていましたが」
 暗部の連行は秘密裏に行われるはずだが、それを見られていたか、暗部の誰かが洩らしたかという話になる。話の回りの早さからおそらくは前者ではないかとカカシは思っている。 「それで、ことの真相をイルカ先生本人に訊こうとした連中が足止めをしていまして」
「なんと…」
 火影は呆れたように眉を寄せ、溜息を深々と吐いていた。
「暗部もアカデミーも温くなったものじゃな…」
 温い茶を啜って火影はもう一度大仰な溜息を吐き出した。
「暗部もお主が居た頃と大分変わってしまって、高齢化と実力低下が問題でのう…。それは平和の証拠でもあるのじゃが…」
 しかし、拉致という基本作業で失敗を犯している辺りで、そんなことを言っている段ではないとカカシは思う。暗部になりたがる人間が少ないのも分かるが、いざというときに火影の手足となる人間が強くなくては木の葉を守れないだろう。火影もそれを憂慮しているようだった。
「まあ、その話は関わった者達に報せておこう。しかし、それでお主が遅れたというのは解せんな。そんなイルカの回りに人垣が出来る状態でも、いくらか放っておいても問題は無かろう」
 その火影の意見には流石にカカシは反発した。
「何をおっしゃってるんですか! 万古蘭影響下にある人間は老若男女時と場合を問わずイルカ先生にセクハラをしてるんですよ! さっきの人垣もイルカ先生が鈍いことを良いことに尻や背中に触っていたのは何も男だけじゃなかったし、一度や二度じゃないんですよ。オレはこれ以上万古蘭影響下の人間とイルカ先生を同じ職場に置いておくのはどうかと思うんですが」
 できればアカデミーから影響下にある人間を隔離するのが良いとは思うが、それよりもイルカ一人を隔離する方が早いことも分かるから、最悪、元の書庫整理のような仕事の方がましだと思う。イルカはアカデミーの仕事にやりがいを感じているようだが、これ以上セクハラが続くのをカカシは黙ってみていられそうにもない。
「………お主…」
 いつもよりも高ぶった感情を見せるカカシに、火影は呆然としている。冷静にカカシの様子を観察していたような目で見上げていたが、カカシはそれに気が付かない。
 そして、火影はじいっとカカシを見つめたままぽつりと呟いた。
「…お主、もしや万古蘭に影響されては居るまいな」
 その火影の言葉にカカシは一瞬思考が真っ白になった。
 まさか、火影までもそういう発想に至るというと言うことは、第三者から見て自分はかなりイルカに傾倒しているのかもしれない、とようやくカカシは焼け付いた残りの僅かな思考力で考える。
「…まさか…。そんなことはありませんよ」
 動揺した表面に付け焼き刃でそう火影に切り返したものの、高い洞察力を誇る里長の前でどれだけ通用するか。訝しげにカカシを見つめる里長の視線をせめて正面から受け止めた。  そもそも、カカシには影響下に無いと否定するだけの根拠がない。唯一抵抗力をもつと考えられているが、今ではイルカの視線に圧力を感じることも少ないし、何より、昨日の衝動は万古蘭影響下にあるためという説明が一番しっくりくると自分でも思う。
 実際にカカシは自ら進んでイルカの眼を真正面から見た。
 ならば、そう認めるべきか。
 ――――つまり、自分はイルカを好きになったと言うことか。
その事実を認めることは非道く抵抗があるものだと思っていたが、そう悟ってしまえば拍子抜けするほどあっさりとイルカの胸に落ち着いた。からだが脳の決定にいとも容易く納得していて、腑に落ちるとはこのことかと思うほどだった。
 思えばイルカに触れる影響下の者達に自分は嫉妬していたのかもしれない。イルカに思いを寄せ傍で仕事が出来る彼らが羨ましかったのだ。
 しかし、カカシは瞬時にこのことを火影に知られてはならないと判断して、表面を更に強固に取り繕った。なぜなら、万古蘭影響下にある人間がイルカの護衛兼監視に就くことは求められていないことをカカシは知っているからだ。イルカの傍にあるためには己の気持ちを隠し通さなければならない。
 自分で万古蘭の影響を納得してしまえばそれは難しいことではなく、迷いを断ち切ってむしろ完璧に鎧う事が可能で、イルカほどとはいかないまでも、自分も強固な眼力を持っている自覚のあるカカシは、それでもって火影を見据えれば、相対した里長がひゅっと息を飲むのを感じた。
「…イルカのことは任せて良いのじゃな…」
 明らかにカカシに気圧されての言葉だと分かるが、カカシは神妙な顔で頷く。
「本当に、増援はいらんのか」
「要りません」
 まだそれを言うのかと、少しだけ気分が苛立ったが、即答したカカシを見て火影は納得したように頷き、今後も頼むと付け加えた。里の経営視点から見れば一銭にもならない仕事にカカシを付けていることさえ異例で、更に人員を割く余裕など本当はあるはずもない。カカシが一人で良いと主張していることに、労働基準からは心配していても経理面では安堵することになるのだろう。
 自分の気持ちを理解した今では報酬などどうでも良かったが、それを言う義務はないし、言ってしまえば不自然きわまりなく、カカシは口をつぐんだ。
「…そろそろ昼休みも終わるじゃろう…。休み無しできついかと思うが、頑張ってくれ。この騒動が収束すれば纏まった休みを考えておくでの」
 言外に下がって良しと告げた火影の言葉に従い、カカシはサンドイッチを持って立ち上がり、小さく頭を下げた。
「それでは明日もこの時間に」
 踵を返したその瞬間からカカシの脳裏を占めるものが全てイルカに切り替わる。これが好きでなくて何というのだと今なら思う。全面的にイルカへの恋情を認めたカカシは、晴れ晴れとした気持ちで午後のアカデミーへと向かったのだった。
 万古蘭の特効薬である摩雷妃もおそらくはこの一週間から十日ほどで完成するだろう。それまでこの滅多にない機会を楽しんで経験値を高めることも、餓えを知りそれを満たそうとする努力が自分のためになるはずだ。
 それにカカシは知っている。イルカも自分に対して満更でもないと思っていることを。
 そうでなければイルカの昨晩の態度は説明できない。いきなりキスをしてきた相手に怒るでもなく、いつものように晩ご飯を作ったり会話を仕掛けてきたりなど、豊富な女性経験から鑑みて、脈があるものと十分に判断できる材料となる。しかも任務上とは言え、今は一つ屋根の下に住んでいる。
 カカシは他の影響者よりも一歩も二歩も先んじていることに優越感を抱いていた。
 アカデミーでの定位置に陣取り、午後の授業の始まった教室を眺めながら食べるサンドイッチが格別に感じられるのは予想外のことで、恋愛をするのも悪くはないなと、長所を満喫するのだった。



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