MEDUSA
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あの女が言っていたことは当を得ていたのかもしれないと今更になって思う。あの時は何を言っているのだと内心バカにしていたのだが、蓋を開けてみればこのざまだ。
目の前には呆然と蹲ってカカシのことを見上げるイルカ。
そのイルカにカカシは口付けていた。
イルカはまだ何が起こったのか分からない顔で呆然とカカシを見上げている。動揺を悟られる前にカカシはイルカから離れて、自室に向かった。何の弁解もしなかったのはそこまで気が回らなかったからなのだが、功を奏していることに気付くことはない。イルカもカカシも動揺しているのだから。
火影が話があるというので呼び出されていた。本当はもうすぐアカデミーの授業が終わるのでイルカの傍に居たかったのだが、里長も忙しいのでその時間しか空いていなかったのだ。わざわざ危険な時間を割いて会いに行ったというのに、火影からの話は以前断ったはずの増援の話だった。
まさか一度断ったものをわざわざ持ち出してくるとは思わず、その時のカカシの精神状態はひどくセンシティブになっていたのに違いない。イルカが増援のことを言い出したと聞いて何故か怒りがこみ上げてきた。
これだけ身を粉にしてイルカのために働いているのに、不満だとでも言うのか。何故他の人間との共同となる任務が嫌なのかは考えずに、カカシは再びその申し出を断りアカデミーに戻った。
急いで戻って、ぎりぎり間に合ったと思っていたのに、今日に限ってイルカの残業は無く、よりによって先に帰っておくからと隣の席の同僚にカカシへの伝言を残して一人アカデミーを後にしたのだという。
一人で帰ると公言して帰ったのか、あの中忍は――――と思わず絶叫しそうになったのを堪えられたのは、ひとえに上忍の生活が長かったからだろう。どんな状況であっても表面上を取り繕うことは忘れないプロ意識がそうさせたのだった。
カカシはしかしその後の行動は取り繕うことなく、その場で忍犬を口寄せし、すぐにイルカを追わせ、自らも窓から街へと飛び出した。その場を振り返ることはなかったけれども、きっとイルカの同僚達はその勢いに呆然としていたに違いない。
案の定忍犬がいち早く見つけたイルカは、忍に追いかけられているようだった。アカデミーの職員室で自ら『カカシの護衛はない、一人で帰る』と公言したも同然のイルカには当然の状況だったし、自業自得だと思わないでもなかったが、それ以上にイルカを追いつめている忍に対してその鬱憤の矛先が向いた。その忍さえイルカを襲う気にならなければイルカを少し注意するくらいで済んだかもしれないのに。
イルカを先に家へと帰して、それからその同僚の上忍を簡単に伸した。何度か一緒に任務を請け負ったことがあるだけに残念な結果だったが、カカシは容赦なくその忍のアキレス腱を断ち、暗部に引き渡した。きっと暗部は詳しい動機を聞き出してくれることだろう。
返り血を浴びたため口布越しでの呼吸が苦しく、カカシはそれを下ろして、玄関先でのイルカと話したのがついさっきのことだ。
精神状態は良くなかった。
イルカの正面に座り込んでも彼の考えていることの少しもくみ取れなかったし、イルカも何も話してはくれなかった。自分の気持ちだけがふつふつと沸いてきて、いつになく感情的になっていた。
そして、気が付いたら――――。
「わ――――!」
思い出すだけでも気恥ずかしい。
カカシは一人になった自室で悶絶する思いだった。
こんな事は初めてだった。物心ついていままで数知れない女性との関係でも、こんな風に突き動かされて訳も分からず口づけた事なんて無くて、初めての時も感動も羞恥もなかった。それがこんな風に衝動的に、ましてや動揺するなんて。しかも相手は正真正銘の同性。
あの女の言葉がカカシの脳裏に蘇った。
『うみのイルカ信奉者と何も変わりはしないわ!』
つまり万古蘭の影響を受けている人間とカカシは変わらないように見えるという。自分にも効果が出ているというのか。
まさかそんなはずはない、とカカシは己の考えを即座にうち払う。イルカの瞳を見たあの時何も感じなかったし、何も変化はなかった。どう考えても効果があったとは思えない。
しかし、カカシは自分の行動に万古蘭介在以外の説明をどうやってつけていいのか分からず首を捻り、今後のイルカとの付き合い方もどうしようかと思い悩むのだった。
しかし、人間はそんな風に思い悩んで気まずいと思っていても空腹には耐えかねる生き物のようで、カカシは煮炊きの匂いに誘われて、ふらふらと自室の扉を開ける。天照大神よりも単純だと思いながら台所に行くと、イルカがそこにいた。彼はいつものように夕食の準備をしてくれていたようで、カカシに気が付くとぽっと顔を赤らめたように見えた。もしかして食堂の赤みがかった照明のせいかもしれないが、その顔はすぐに反らされたため、確かめることは出来なかった。
イルカはカカシを見た途端に嫌な顔をするか怒り出すかと思っていたため――――自分が同性からキスされたなら多分そういう反応を取る――――、余りにも意外で呆気にとられてしまう。
「も、もう準備できますから…」
という控えめなイルカの言葉が何を意味するのか一瞬理解できなかったほどだ。見れば食卓にはカカシの分の食事まで準備されている。これのことかと納得するまでに数秒の時間を要したカカシは、間抜けて「はい」と返事をしたのだった。
今日の献立は塩鯖とカボチャの煮物、みそ汁ごはんといったシンプルな食事だ。カボチャは大きさがまちまちで芯の残っているものがあったり、みそ汁が薄かったが、食べられないほどではなく、折角この気まずい雰囲気の中でも作ってくれたのだから有り難く頂く。
いつものようにテレビが付けっぱなしの食卓はそう寂しさを感じなかったが、二人とも画面を見ずに黙々と夕食を取るため、多少の気まずさが残る。テレビの中のバカ騒ぎが空々しい。
この場の内に何か話しておかないと、とは思うものの、一向にイルカは顔を上げてはくれず、話題にするようなことも思い付かない。話さなければならないことはあるのだが、それは今日の護衛なしでの帰宅のことで、それを蒸し返せば良いことがないということくらいカカシにも分かり、どうしても切り出せない。
それに、イルカの態度もどうも気になる。怒り出すか距離を取るのが普通の反応だと思うが、単に照れているだけのようにも見える。第三者から見れば甘酸っぱいような雰囲気にも見えるかもしれない。いくらか困惑はしているようだが、それでも嫌がっているようには見えない辺りに、イルカの自分への好意をうかがわせた。
そして、そう分かっているのに、それがちっとも嫌だと感じてない自分にカカシが困惑している。それどころか料理が箸で運ばれていくイルカの唇を見て、さっきの柔らかい感触が唇に蘇ってくるのを必至で抑え込む。
いつもはいまいちと分かるはずのイルカの料理も味がさっぱり分からなかった。
この微妙な雰囲気をどうしようと、窮地に立たされていることがばれない程度に溜息を吐いたその時だった。
「あ…あの…、カカシ先生」
それは静かな声だったのだが、心構えの出来ていなかったカカシには大きく聞こえて、みっともないほどにびくっと体が揺れた。イルカはそれに気が付かずに俯いたままで言葉を続ける。
「おれ、さっき、カカシ先生の素顔を見ちゃったんですけど…」
それはそうだろう。生でキスしたんだから。カカシの場合は口布を下ろさないと直接唇に触れるなんて事は出来ない。
そうですね、とカカシはしどろもどろになりそうな自分をどうにか抑え込んで適当な答えを返す。
「あの、良かったんでしょうか…オレなんかが見て…。普段隠されているから、見ていいものなのか分からなくて…」
そういえばカカシは口布が返り血で濡れたため、口布を下ろしてイルカと対峙したことを失念していた。イルカはそのことを言っているのだろう。カカシは一度素顔を見せたことをすっかり忘れていて、今も顔を見せないようにして食事をしていたのだが、急にそれがばからしくなってしまった。
「別に構いませんよ。機密というわけでもありませんし、家のしきたりでそうだと決まっているわけでもありませんし」
食事を口に運ぶため今まで頻繁に上げ下げしていた口布をカカシはぐいと下げて、空気にさらした。正直そっちの方が呼吸は楽だし、面倒もない。
吃驚したように顔を上げたイルカはそのまま、ぼんやりカカシのことを見ている。まるでさっきまでの遠慮して視線を合わせなかったのがウソのように不躾な視線だ。
「…い、良いんですか…?」
良いも何も、見てしまったものは仕方ない。たかがそんなことで始末という短絡的な方法を採るわけもなく、記憶操作も出来ないことはないがそんな七面倒くさいことをやるほどのことでもないと思う。それにイルカならば不特定多数にカカシの顔を教えることはないだろうという確信がカカシにはあった。
まじまじと見つめるイルカの視線にむず痒い気持ちになりながら、カカシは食事を口に運ぶ振りをして俯き、頷く。
「…それにしてもカカシ先生の貌って本当に良い出来ですね〜…」
「良い出来…」
もう少し良い誉め言葉があるだろうと思ったが、イルカはそれを最上級の誉め言葉だと信じて疑っていないようで、熱の篭もった目でカカシのことを眺めている。まるで鑑賞されている珍獣か何かのようで、気分は複雑だ。
しかし、イルカが気に入ってくれたというのは事実のようで、飽きることなくちらちらとカカシの方を窺うことが多くなった。今まで容貌など重荷と感じることばかりだったのに、少しばかり利点のように思えて初めて顔のことに関して両親に感謝するカカシは、何故イルカに気に入られて嬉しいかなど、その時は考えもしなかった。
思っていた以上に何事もなく、カカシはイルカと翌朝もいつも通りに家を出た。アカデミーに入るといつも座っている木の枝にカカシは陣取り、イルカの授業の様子を観察する。イルカは生き生きと子供達相手に仕事をしていて、実に楽しそうだったし、子供達もよく授業に参加している。大量にいる子供の相手など自分には無理だと思っているが、教師が天職だという人種も居るのだとイルカを見て思う。
そして、自分にないものを持っている人間は自分の中で尊敬の対象になりうるのだとイルカを見て知った。中忍に見るべきものなどないと高をくくっている上忍連中にイルカの有り様を見せてやりたい。あそこまで子供達から慕われている存在は今後発言権を強めて、軽視できない存在になるかもしれないなとカカシは本気で考えていた。
時折カカシと視線の合ったイルカが、今日は仄かにはにかむような仕草を見せる。いつもならば小さく会釈して健康的なイメージなのに、今日はなぜだか色を感じる。
まさか、あの野暮ったい先生に色気などと――――とは思うけれども、視線を逸らした後の少し赤い彼の耳に吸い付きたいような気分になり、その存在を認めないわけにはいかなかった。
万古蘭影響下の連中は皆等しくこういう感情を抱えているのだろうか――――。
午前中の授業は滞り無く終わり、アカデミーは昼休みに入る。イルカは空腹の命じるままカカシのことなど忘れて同僚と共に食堂に繰り出すのが常だが、その日は少し趣が違った。
イルカは食堂へ向かうことなく職員室で捕まっているようなのだ。もし、ここで諍いが起こるようならばカカシが出しゃばる必要が出てくる。カカシは窓枠に張り付いて中の様子を観察した。職員室の誰もがカカシに気付かず、イルカの周りには十人近くの同僚が人垣を作っていた。
「昨日襲われたって本当かよ!」
「しかも上忍のヤシロさんだって本当か?」
「昨日暗部が…」
などと矢継ぎ早に質問されて真ん中に逃げられないように据えられているイルカは、困ったように視線を彷徨わせている。カカシの姿を捜しているようにも見えるが、ただ四方から声を掛けられてその声の方向を向いているだけのようにも見えた。
しかし、昨日のイルカ襲撃事件がもうアカデミーにまで伝わってきているとは思わなかった。イルカを襲った上忍はヤシロではなく、正しくはハナダなのだが、そこら辺は尾鰭背鰭の類なのか。
「や、ヤシロさんじゃ無かったような…、暗部は…、暗部? 見てないけど…。うん、カカシ先生が…」
などと、イルカは答えなくてもいいことにいちいち答えを返して、反応が返ってくることに気をよくした人垣がますます強固にイルカを捕らえている。
「最近妙にイルカ人気高いもんな。普段から受付でも長蛇の列を作ってたし。その関係かな?」
昨日イルカが伝言した同僚もその中に入ってそんなことを言っている。
受付でも長蛇の列を作っていた――――。カカシには初耳だ。何故かむっとして思わず殺気を洩らしてしまえば、流石に忍者集団である彼らも窓の方にばっと顔を向ける。間一髪チャクラで壁に張り付いて姿を見られることは避けられたようだ。
しかし、次に覗いた職員室の中の光景を見てカカシは理性を試されているのかと思った。数人の万古蘭影響下の人間が人垣を良いことにイルカに触れたり声を掛けたり、気を引こうとしている姿が目に映ったからだ。イルカを襲った人間が暗部に連れ去られたという噂を聞いているのに、よくもまあカカシの前でそんなことが出来るものだとカカシは歯がみするような思いで状況を見守る。
イルカもイルカだ。昨日あんなことがあったばかりだというのに警戒が薄いと言わざるを得ない。流血沙汰になるようならカカシも手を出せるのだが、今のこの状態では仲良く会話しているだけという風にも取れる。イルカはちょくちょくセクハラを受けているようだが、それに本人が気付いていない――――誰かの手が自分の尻にぶつかった…位の認識しか持っていないようだ――――ため、影響下の人間を排除することもカカシの権限を逸しているように思えた。
結局彼らはイルカが上忍に襲われ掛けたという話題で、十五分以上も消費し、ようやく職員室を離れて食堂へと向かった。
それを見届けてからカカシは定例報告のため火影の執務室へと急ぐ。いつもはイルカが昼休みに入り昼食を取り始めた時点で赴くのだが、今日はそれが十五分も割り込んだ計算になる。
「遅い…!」
案の定、火影はいらいらと机を爪でたたきながらカカシを出迎えた。
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