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MEDUSA




 アカデミーは何もイルカのハーレムであるわけではない。最初の内は万古蘭の力を使うのが楽しくて色々な人を影響下に入れていたのだが――――例えば食堂のおばちゃんなどはこっそりコロッケをおまけしてくれたり、いつもイルカに残業を押しつける先輩に残業を頼んでみたり――――、それでもアカデミー職員の三分の一にも満たない数で、圧倒的に影響下にない人間の方が多い。
 ようやくイルカがアカデミーに復帰したと思ったら、その傍らに手練れと名高い上忍が常に控えているのを見て、影響下にない彼らにはとても奇異なものに映ったに違いなかった。
「はたけ上忍と四六時中一緒なんだろ? 怖くないの?」
 だからそんな同僚の質問が出てくるのは至極当然のことだ。
「怖くないよ。最初は…怖かったけど、案外話しやすい人だし、怒ったりは……あんまりしないし…。見た目の怪しさからは想像できない程度にいい人だよ」
 同僚からの突然の質問に、咄嗟にイルカの口から出てきたのはカカシを擁護するような言葉だった。それに内心イルカは驚きながらも納得する。カカシも大人で理不尽な怒りを見せることはないし、イルカには優しい面も多い。
「…微妙な間が気になるけど…」
 その同僚はそれでもイルカのカカシに対する認識に少し安心したようだった。
「まあ、お前がストレスを感じないようなら良いんだ〜。オレだったらちょっと耐えられないけど…」
「お、心配してくれていたの?」
 茶化してそう尋ねるイルカにその同僚も「当然だろう」、と演技掛かった真剣な顔で切り返す。
「病欠で何日もアカデミーを休んだかと思えば、復帰したときにははたけ上忍がくっついてくるし、こりゃなんかやらかしたのかと思うのが自然だろう? まあ、なんかやらかすってのは置いておいて、それでもあの人の前なら気の休まる時は無いんじゃないか、と思ってさ――――」
「あ〜…」
 普通ならそうかもしれない。仕事場には附いてきて、帰る家も一緒。しかもカカシは木の葉を代表する上忍で、以前ならばその眼力の前でイルカも恐れを抱いていた。
 しかし、今は。
「…それが、そうでもないんだよな」
 それが正直なイルカの気持ちだった。仕事の手を止めたイルカは、ペンをくるくると回しながら訥々と語る。
「怖い人だと思っていた時期もあったけど、何か今は一緒の家に居るのが当たり前みたいになってるな〜…。寮で一緒の部屋になって共同生活している感じに近いかな」
「寮?」
 それこそそんなはたけ上忍想像できないよ〜と、同僚は腕組みをして考え込んでいる。かの上忍にそういう生活感じみたような庶民の生活ぶりが似合わないとでも思っているのだろう。それがそうでもなくて、家の中ではぐうたらだと教えたらどんな顔をするだろうか想像して、イルカは苦笑した。
「まあ、どっちにしたって家から仕事場まではたけ上忍と一緒なんだろう? おれだったら恋人かなんかじゃないと無理だなあ…。それか、無視できるほど気配を薄くして貰うか…」
 その言葉にイルカは妙にどきりとして、考えていたこと全てが吹き飛んでいってしまった。
「…で、でもまあ、プライベートな空間は一応持ててるし…」
「うーん…でもなあ…」
 同僚はまだイルカの心境が納得できない様子でぼやいているが、イルカは胸に小骨が刺さったような感覚があって、そちらの方が気になってしまった。その小骨が何なのか胸に手を当てて考えてみるけれど、すぐには判明しない。
「まあ、時々は気晴らしに飲みにつき合えよ。女の子も誘ってるし。はたけ上忍だってお前の目を盗んで息抜きしてるんだからさ」
 ――――息抜きしている?
 ずっと付かず離れず傍に居てくれているあのカカシがイルカの目を盗んで?
「…ど、どこかでそれを見たのか…っ?」
「え、あ…よく女の子達に声を掛けられてるところは…」
 イルカの剣幕にたじろいだ同僚は、少し仰け反りながらそう答える。つまりイルカの知らないところでカカシはイルカの同僚の女性達と逢瀬を楽しんでいる、ということか。
 イルカの脳裏には貯水池でのユイとカカシの姿が一瞬にして思い浮かんだ。あの時みたいに深刻そうな顔して、様々な女性と逢瀬を重ねているのか。
「…それって、例えば…?」
 そう尋ねれば、その同僚はちらりと教師にあるまじき下卑た笑みを見せて、「お前も好きだなあ」と言う。
「オレが知ってる限りじゃ、乙夜とメイミ、ユナの三人。噂じゃミチル先生やセイホ先生もそうだって」
 イルカがアカデミーへと復帰してからおよそ二週間。その間にカカシはユイを含めて六人の女性から声を掛けられていたということになり、イルカはくらりとした目眩を感じた。万古蘭の補助を得ているイルカよりも余程カカシの方がモテている事実を突きつけられて視界が一瞬くらんだ。
 カカシは以前からモテるということは知っていたが、ここまでとは認識していなくて、イルカは開いた口がふさがらず、それをみた同僚もまた驚いていた。
「…知らなかったの?」
 その質問にイルカは素直に頷くしかない。
「へー、一緒に暮らしているからいくらかそういう話もするんだと思ってた。ユイ先生も含めた六人の誰もがお前と知り合いだから、そん中でリサーチとかするもんだとばかり」
 イルカにはその同僚の言葉に首を横に振った。彼にはそれがそんなことはしていないという否定と受け取ったらしく、「そうか〜じゃあ、自分でリサーチするのかな」と暢気な声を出している。これだけカカシはモテるのだ。それを失念して自分に掛かりきりにさせてしまっていた自分が信じられず、イルカは思わず左右に首を振ったのだったが、訂正する気にもなれない。
 これ以上カカシに不便な思いをさせるわけにはいかない。今度イルカは火影にお目通りしたときに増員もしくは交代が出来ないか聞いてみようと心に決めた。
 その晩はイルカは何だかカカシに後ろめたい思いでどうしてもうち解けられずに、あの件から毎日カカシと居間で寝起きを続けていて、カカシは今日もイルカを待って居間に居てくれていたようだったが、イルカは「仕事が終わらないのだ」と下手な言い訳をして自室で過ごしたのだった。そんなことをすれば翌日再び顔を合わせ辛いのは分かっているけれども、それでもイルカにはそうせざるを得ず、一睡も出来ずに夜を明かした。
 火影と顔を合わせる機会はその日にやってきた。どこか不機嫌なカカシの様子も寝不足で鈍感になった頭にはどこ吹く風とばかりに受け流して出勤してきたアカデミーで、火影が来るから、と職員室では朝から掃除が行われていた。
「朝礼に少し顔を出されるそうですよ」
 と、先に箒とちりとりを持って自分の机の周りを片づけていた同僚が教えてくれた。イルカも慌てて自分の机の上の書類を揃えて、消しゴムのかすを取り去る。そうこうしている内に一緒にアカデミーまで来ていたはずのカカシの姿はいつの間にか消えていたし、イルカも意識して捜そうとはしなかった。
 カカシにはカカシの時間も必要だと思ったから、出来る範囲でカカシには自由にして貰いたい。
 火影は始業時間の十五分前に姿を現した。一人で悠々とやってきたように見えるが、その影には暗部が見えないように常に護衛していることを里のみんなが知っている。
 火影は特に訓辞を垂れるでもなく説教を聞かせに来たのではなく、ただ散歩の延長のようにアカデミーにやってきた。既に登校している子供達と話をしたり、花壇の花を眺めたり、教頭に変わったことはないかと尋ねたりする程度で、何か異変があったというわけでは無さそうなことに周囲の誰もがほっとしている様子だった。
 しかし、そんな中できっと晴れない顔をしていたイルカが里長の目には留まったのだろう。話をしなければと思っていたのに、火影の方から声を掛けてくれた。
「どうじゃイルカ。そろそろ復帰して二週間が経つじゃろう。大分元の調子は取り戻せたかいの」
「え、ええ…」
 まさか火影の方から話しかけてくれるとは思わず、心の準備が出来てなかったイルカはしどろもどろになる。
「あの、火影様にお願いしたいことがあるんですが…」
 火影が自分に甘いという自覚があるだけに、イルカは衆人の前でそれを持ち出すのは憚られたが、里長の忙しい身を考えれば保身などは二の次だと意を決する。
「なんじゃ。出来る範囲で聞いてやるぞい」
「…あのここでは少し話しづらいので、会議室までいいですか?」
「まあ、かまわんじゃろう」
 イルカは小会議室の鍵を借りて、火影を職員室から近い個室に誘導する。そのときに背後に幾つか同僚の視線が突き刺さったがイルカは気付かない振りをした。
 会議室というよりは応接室に近い構えの部屋には応接用のセットが一揃えだけで、火影を先に上座へ据えて、イルカはお茶を準備しようと備え付けの給湯室に入れば「ああ、茶はいらんよ」と声を掛けられる。
「忙しいのであんまりゆっくりしている暇はないのじゃ」
「あ、では…早速本題に…」
 イルカは慌てて茶缶を放り出し、火影に対峙して椅子に座る。
「お願いというのはですね、他でもないカカシ先生のことなんです」
「ほ、カカシの。何かあったかいの?」
 咄嗟にイルカは首を横に振った。カカシの落ち度は全くない。彼も万古蘭による被害者の一人なのだから、たとえ何らかの落ち度があったとしても責められる道理はない。
「今カカシ先生はオレと同居している上に昼間は影分身を使って子供達を監督してくれています。オレのことは二十四時間体制で監視しなくてはいけないので、ご自分の時間が無いも同然の状況なので、交代要員を入れるなりせめて通いにするとか待遇が善処されないでしょうか…」
「ふむ…。そういうことを言い出すと言うことは、お主から見て、何かカカシは苦労しているように見えるか?」
「…いえ、そう言うことではありませんが…」
 辛そうかそうでないかで言えば、カカシは飄々と仕事をこなしているように見える。イルカより先に寝てイルカより後に起きる生活をしているものの、夜中の警護などはしっかりしてくれているようだし、イルカの下手な料理にも腹をこわした様子もなければ、文句すらない。買い物も洗濯も付き合ってくれて、同居人としては申し分なかったし、カカシも苦痛に感じているような様子は無かった。
 それでもこの労働条件は、イルカには不当に感じられるのだ。
 里の状況や上忍の一時間当たりの単価も知っていれば、これ以上の増員は認められるはずがないのは分かるし、自分が招いた状況ならばそれこそ文句の言える立場でないことも分かっている。だからこそ、それならば自分で自分の身を守り、犠牲者を増やさないように自分を抑制していけば何とかなるのではないか。
 ふむ…と火影は一度唸ったっきり考え込んでしまったようだ。
 イルカは黙って彼の意見を待つ。そして、火影から聞かされたことは意外な事実だった。
「以前儂はこの件についてカカシに増援を提案したことがあるんじゃよ」
「え…っ」
 初耳の事実に思わずイルカは己を取り繕うのを忘れて、ぽかんと口を開け放したまま次の言葉を知らされた。
「それをカカシ自身が断りよったのじゃ。…もうそれが自来也を捕まえた頃だから、一月近く前の話じゃが…。何じゃ、知らんかったのか…」
 呆然と頷いたイルカに火影は「知らんかもしれんな…。アイツは自分から喋る方ではないからのう」とひとりごちた。
「まあ、お主の願いは分かった。増援はもともと予定していたことだし、もう一月も前の話だからカカシの気持ちも変わっておるかもしれんしな。それとなく聞いておくわ」
「は、はい…。よろしくお願いします」
 話は以上です、とイルカの方から切り上げると、火影は忙しいと言っていたのに立ち上がろうとはせずに、先に立って火影を見送ろうとしたイルカを眩しそうに見上げていた。
「人をそうやって思いやることが一番人間関係には大事なことなのじゃよ、イルカ」
 火影はそう言葉を残すとイルカのリアクションなど待たずに、大仰な様子で立ち上がって、イルカの横をすり抜けていった。
 いきなりあの方は何を言い出すのだろうかと、ぽかんとその後ろ姿を見送ったイルカは、自分の中で生まれつつあるものに、いち早く火影が気付いた結果などと知る由もなく、首を捻りながらその言葉の真意を考え込むのだった。
 その日の仕事は急な火影の来訪で開始が五分ほど遅れ、時々カカシが定位置の木の枝から姿を消していたが、それ以外の変化は無く、アカデミーでの時間は平穏無事に過ぎていった。
 カカシも彼の自由な時間を満喫したいだろうと思い、昼休みに捜すことも止めて素直に同僚と一緒に昼食を摂り、出来るだけカカシの出番が必要にならないように周囲の人間との衝突は徹底的に避けた。元々社交的なイルカは万古蘭影響下の連中さえ絡んでこなければ平和に過ごせる。そして、この数日間カカシの睨みに震えていた影響下の彼らはその影に怯え、イルカに接触を持とうとしてこないので、なおさら平和だった。
 順調に仕事を完了し、今日は残業もなく家に持って帰った教材で予習もしっかり終えているから、後は帰るだけなのだが、カカシがなかなか迎えにこない。
「はたけ上忍待ちか?」
 事務机にぽつんと所在なさ気に座っていると、そう言う声が同僚から掛けられた。いつもなら仕事がだいたい終わった頃を見計らって声を掛けてくれるカカシなのに、今日はイルカの仕事が終了してから十五分待っても現れない。
 ――――今日はこないのかな。
 昨日の晩からカカシに対するイルカの態度は良いとは言えない。もしかしてそんなイルカに呆れているのかもしれないし、火影からイルカの話が伝わって交代をしている最中なのかもしれない。
 時間が勿体ないから家で夕食の支度をしながら待とう。イルカはそう決めて、まだまだ仕事の終わりそうにない隣の席の同僚にカカシへの伝言を残して、一足先に帰ることにした。特殊コーティングのサングラスもしているし、周囲にはカカシの威を借りている事になっているから問題は起きないだろう。
 イルカは一人で出歩く外に、若干の感動を覚えながら、それでも真っ直ぐ郊外の自宅へと向かった。無駄な諍いを起こしたくなかったし、自分が諍いの原因になりうることを承知していたからだ。
 だから毎日カカシと通る人通りの少ない道を、寄り道せずに進んでいく。途中の小川で足を止めてしまうのはご愛敬。ヒネリバナの小さな花が咲いているのを見つけて、その鮮やかな桃色に少しの間目を奪われる。
 すぐに歩き出して更に人の目の少ない林の横を通り過ぎようとしたその時だった。
 電撃のような強烈な視線を項に感じて、イルカは思わず背後を振り返る。しかしそこには人影は無く、風にざわめく木々があるばかりだ。
 イルカを捕捉しているのは忍だ。影響下にいる人間だろうか。
 自宅まであと一キロ弱。イルカの自意識過剰かもしれないが、何だか嫌な予感がしてなりふり構わずに駆けだした。もしこれが諍いのタネだったら何としてでも避けなければいけない。今イルカの傍にカカシは居ないのだから。
 しかし次の瞬間にはぶわっと殺気のようなものがイルカの肌に絡みつくのが分かった。振り返れば、額宛を巻いた男が一人イルカを追いかけて来るのが視界に入る。足はイルカよりも速いようで、見る見るうちに迫ってくる。
 イルカの脚で家まで二分弱。それまでリードを保たなければならず、イルカは必至に足を動かした。
 万古蘭影響下の人間ならばイルカに危害を加えることは無いだろうとは思うけれども、違うことで手を挙げられそうだし、そうでなくてもこの殺気に似た気配に本能が危険だと訴えている。間違いなくこれはイルカより格上の人間の放つ気配で、迎え討つにしても分が悪い。
 その曲がり角を曲がりきったら家が見えると言うところで、イルカを追う足音が高くなり、イルカは腕を掴まれた。
「あ…っ!」
 急に引かれた腕の痛みに、そのままバランスを崩して後ろに倒れ込む。ぐっと口元を布で覆われて、咄嗟に眠らされると思ったイルカは、その布ごと手に噛みつこうとしたその時だった。
「おわっ!」
 まだイルカは噛みついていないのに、急に男が声を上げて、イルカを束縛する手が緩む。咄嗟にイルカはその拘束から抜け出して、振り返れば、そこには見知らぬ男を襲う犬の姿があった。
 それは首輪がわりに木の葉の額宛を巻いた、カカシの忍犬の内の一頭だ。鋭い歯で男に食らいついたまま踏ん張るスレンダーな脚に思わず魅入ってしまう。男は噛みついたままの犬に殴りかかりその場で昏倒させようとしたが、忍犬は的確にそれを察知して噛みつくのを止め、するりと身をかわして、もう一度果敢に男に刃向かう。
「何ぼさっとしてるの!」
 イルカは忍犬と男の攻防に呆然としていたが、上からかけられたその声にはっと我に返る。余りにもよく知った声だったからだ。
 そして、振り返る前に腕を取られて、力強く引き上げられた。
「今の内に家の中へ…!」
 そうイルカを促すのは、カカシだった。
「カカシせんせ…」
 銀色の髪が視界に入り、まるでカカシの掴んだ所から血流が流れ込んだように、そこが心臓に呼応するようにどくどくと脈打ち、体がいつもの調子を取り戻していく。
 まるで、そこにあることが当然のように。裏を返せば、それが無いと、いつもの自分では居られないかのように――――。
 もう一度、行きなさいと静かに促されてイルカは家に向かって走り出した。すぐに刃の交わる金属音がしたが、イルカは振り返らずに家の中に駆け込んだ。
 敷居を跨いで玄関の扉を閉めると、イルカはそこに蹲ってしまった。
 小さい頃の夢は、両親を守ってあげられるような立派な忍だった。もうすこし長じると守るべき対象が両親から里や里に住むみんなに増えた。
 しかし今は夢叶って忍になってアカデミー教師という立派な役目を与えられているけれども、守られる対象となっている。しかもそれは災いのタネとして。イルカを守る役目を負った人は、自分を殺して今まさにその役目を全うしている。
 自ら招いた事態に、自分が情けなくてイルカは一歩も動く気力が無くて、蹲る。悔しくて、情けなくて、涙を出す気力さえないようだった。
 遠くで争う音が聞こえていたが、その音が収まってもイルカに立ち上がる気力は沸いてこなかった。

 すたすたとはっきりとした足音が近づいて、玄関の扉が外側から開かれてもイルカは小さくなった姿勢から動かない。そこにはうっすらと血の匂いが漂っていた。
 ――――何度目の流血沙汰だろう。
 イルカはぼんやりとそう思い、顔を上げられない。
「イルカ先生」
 静かにイルカに声を掛けてくるのは案の定カカシだった。さっきイルカを襲った忍はカカシの思う形で処分されたのだろう。
「何で先に帰ったの。こうなるかもしれないって分かってたでしょう?」
 カカシも狭い玄関で一緒に蹲り、優しくイルカに声を掛けてくれる。まるで幼子を諭しているような状態だが、イルカにはそんなこと思いつきもせず、ただ俯いたまま頷く。
「オレが来なかったら、あなた殺されていたかもしれないんだよ」
 その言葉にも小さく頷く。それは誇大表現ではなく真実だと分かるから。
「たった二十分くらいで先に帰っちゃうなんてひどいよ。オレは一日中あなたを待ってるのに…」
 その言葉にはぐうの音も出ない。イルカには思いつきもしなかった事だった。
「三代目に話は聞いたよ。オレが居ないと襲われそうになっているのに、どうしてオレから離れようとするの? 死にたいの?」
 嫌々をするようにイルカは首を横に振る。
「じゃあ、どうして?」
 カカシがそっと、強く握りしめられていたイルカの手に触れた。掴まれたりして触られるのはよくあることで、さっき引き起こされた時もそうだったが、こうして優しく慰められるように触れられるのは初めてのことで、イルカは思わずびくりと肩を震わせた。その拍子に俯けていた顔が上がる。その開けた視界に入ったカカシの顔に、イルカは思わず息を飲んだ。
 カカシが口布を下げていたからだ。
 今まで一度も気を抜かずイルカに見せなかったカカシの素顔が晒されている。額宛は斜めに掛けられたままだったが、いつもは隠されている鼻梁や唇が空気にさらされている。その白い頬には血を拭った跡が筋となって残っているのが艶めかしく見えるほど、整った容貌をしていて、イルカは再び俯いてしまった。
 一瞬にして後悔だとか不甲斐なさだとかそういった念が吹き飛ばされてしまうほどの衝撃で、イルカはそっと胸を抑えれば、そこは妙に烈しく脈打っていた。
「イルカ先生」
 そっと名前を呼ばれるだけで体がぎくりと強張る。顔を見ただけだというのに、この自分の緊張ぶりはいったい何なのか、イルカは更に混乱し始める。妙にカカシに触れられている手が熱くて、汗が滲んできた。それを悟られたくなくて手を振りほどきたいが、カカシの指がそれを許さない。
 こんな緊張を強いる事になるのならせめて自室に篭もって蹲っていれば良かったと思うイルカだが、最早後の祭りだ。
「…イルカ先生。どんな理由があったって、オレはあなたから離れませんからね」
 応じようとしないイルカに焦れたカカシの静かな言葉は愛の告白に似ている。どんな顔をして言っているのかすこし考えただけで、さっき見たカカシの端正な顔が思い出されて耳まで熱くなった。
 もう長いことカカシと一緒に居るけれどこんなに低くて響くような真摯な声は聞いたことがない。口布を下げて抵抗なく声が通るだけでこんなに声色が変わるものなのかと、目を白黒させてしまうほどに。
 どんな女性でもカカシにこうして囁かれれば、一瞬で落ちてしまうだろうと妙に納得していると、急に視界が翳った。何だろうとふと顔を上げると、その隙を見計らったというよりごく自然な成り行きで、そのままカカシに顎を捕らえられる。そして、イルカが事態を理解する前に妙に近づいていたカカシの顔が更に近づいて、抗う間もなく口付けられていた。
 その瞬間にイルカの脳味噌は真夏の太陽のように真っ白に焼け付く。
 すぐにカカシの唇は離されたけど、それが妙に艶やかに濡れていたことに目が釘付けになって何も考えられずにぼんやりと見つめていた。
 カカシは何事もなかったかのように立ち上がり、イルカを置いて部屋の奥の方へと入っていってしまった。イルカは蹲るという形さえも維持できないほど力が抜けてしまい、その場で呆然とするしかなかった。



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